闘鶏は、鳥と鳥を戦わせるゲームのようなものだ。
主にシャモという鳥の短気な性格を利用した。
だから、シャモは軍鶏とも呼ばれている。
闘鶏用の鳥は、大事に育てられる。
環境、食事など、それこそ最高のものが与えられる。
トレーニングは、もっぱら鏡に映った自分の姿。
自らの姿に闘志を燃やし、戦意を高める。
そして、戦いに勝てば、生きながらえ、
次の戦いが待っている。
が、一端負ければ、総てが終わり、
人さまの食用に変わる。
ブロイラーは、生まれながらに食用として育てられる。
環境は良くない。
狭いスペースで一生を過ごし、
ほぼ餌を食すだけの毎日を過ごす。
例えば仮に、
私は生まれてどの位経ったのか、という問いがあるとする。
が、彼らにそんな感覚は分からない。
きっと一定の明かりの下で飼われているので、
昼と夜の違いさえ知らないのだろう。
鳥に、そもそもそんな感覚はないという考え方もある。
この場合は、そうした話以前のことを言いたかった。
鳥にそうした時間感覚があるのかと問われれば、
それはないとは言い切れない。
自然に過ごす鳥のなかには、夕暮れに山に帰るものもいれば、
或る決まった日数に帰巣するものもいる。
季節ごとの渡り鳥も、
きっと時間感覚のようなものを備えているのだろう。
先日、或るドキュメント番組の再放送を観た。
舞台は中国の山中。
秘境と呼ばれているこの地での撮影は希少らしく、
カメラの存在に慣れてない、村人のはにかみ様が印象に残った。
生活はとても貧しいらしく、土地は痩せ、
村全体が丘陵地帯に傾いて建っているようにみえる。
家は土を練ったもので固められ、当然、電気もガスもない。
食べるものは粗末にみえ、イモばかりの毎日だという。
カメラを構えると、村人全員が正装で現れた。
正装といっても、それはどこか見窄らしいが、
そこはかとない威厳に溢れている。
それは、彼らの表情だった。
特に男の人の顔は眼光が鋭く、一様に口元が引き締まっている。
これは年寄りに顕著で、そのなかの一人に通訳が尋ねる。
年寄りは、自分の過去を語る。
それによると、彼はこれまで5回奴隷に売り飛ばされ、
動物のように扱われた様を語った。
話のなかで、彼の奴隷仲間の一人は目のまぶたを縫われ、
一生その目が不自由になった者もいると話した。
以上の3点の話。
どれも憂鬱だ。
鳥も人もやっと生きている。
幸せなんていうものは、別の世界の生き物が感じる
とびきり不思議で高度なものらしいことが分かる。
それをほんの少しでも感じられる私たちは幸せだ、
なんてことは、この場合言いたくもないし、
比較してなにになるのかとも思う。
ただ、
神という存在が、
生けとし生きるもの総てに平等を与えたか、
という空虚な問いだけが、
私の「逃げの思考」として、
時々頭を駈け巡る。
それが余計に自らを苛々させる、
そんな具合だ。