イマドキの広告

石川遼のような生命保険について
考えてみた。

初めてこのCMをみたとき、私は狐に摘まれたように
きょとんとしてしまった。

なんにも伝わらない。
アタマのなかに、なんにも浮かばない。

遼君と保険がぜんぜん結びつかない。

で、ムリカラ考えた。

遼君は若いので安定感がない。
安定感のない保険なんだ?
これは良くない。
で、この保険は未熟だ、というイメージ。

いや、若くして成功している。
努力も怠らない。
誠実そうだ。
グリーンでは、抜群の安定感がある?
崩れても、持ち直す強さ。

あんな若いのに、
しっかりしているというイメージ。

インタビューに応える言動
そして物腰も、さわやか!

いまどきにめずらしい優等生、というイメージ。

優等生?
優等生というのは、非の打ち所がない。
優等生はみんなに尊敬される。

そんな保険、なのか?

きっと、
このCMで石川君はとんでもないお金を手に入れただろう。
億万長者の保険か?

石川君にこの先、どんな人生が待っているのだろう?

まかり間違っても、
決してタイガー・ウッズのようなことをしてはいけない。
こんなことは当たり前だし、彼がそのようなことをするとは
考えられないが、時として人は狂気を孕んでいる。

石川君が飲酒運転で捕まった、とか
石川君がクスリをやっいた、とか
石川君が実は人妻と付き合っていた、とか(言い過ぎ?)

あーあ、俺は何て下世話な奴なんだ!

が、彼はこうしたCMに出た以上、あらゆる場面で
好印象かつ良い成績を収めなければいけない、
という責任はついて回る。

なにしろ、このCMにほだされて保険に入った方々に対しての
責任の一端は、彼にもあるのだろうから。

彼も責任重大だな。
それとも、なんにも感じていないのかも?

という訳で、この博打のようなCMの決断を下した
広告主とこれを提案した広告会社のクリエーターに
拍手を送りたい(皮肉かよ)

人に負ぶさった広告の極み。

過去よりあらゆるイメージ広告があったが、
この石川遼のような保険、というCMは、
いわば、
最先端のイメージ広告なのかも知れないんである。

p.s

「猫とアヒルが力を合わせた保険」も売れているようだが、
考えてみれば、意味はよく分からない。
招き猫ダックというのも、かなり強引なネーミングなのだ。

フラッシュマーケティング

世間は不況なので
どんな商売もアレコレ工夫して
頑張っている。

スーパーへ行ってナスなんかぼおっと見ていると
いきなり鮮魚売り場の方から鐘の音が
カランカランと鳴る。

おお何だ?と、顔を上げると
ハチマキを巻いたにいさんが
「サンマがいまから赤字覚悟の50円だよ!」
カランカラン。

みんながゾロゾロと鮮魚売り場へ。
で、サンマが次々にさばけて、
最後は取り合いだ。

あっと言う間に、サンマは完売。

こうした売り方は、ほぼ時間限定。
あなたはとんでもない幸運なときに
でくわしたのです、みたいな。

ネットの世界でも、同じことが
流行ってきた。

時間限定の他、人数や数量も決められていて
その数に達しなければ、
すべては水の泡となる。

なので、売る方も買う方も必死だ。

例えば、ある老舗ホテルが、
高級スイート20部屋を、通常価格
一泊8万円のところを、
時間限定で3万円で売り出したとする。

これをネットで見た人たちが
「こんなチャンスは二度とないぞ!」
という訳で、次々に申し込む。

しかし、15人位で止まってしまうと、
この売り出しは中止となる。

で、今度は申し込んだお客さんも
必死だ。
なんとしてもあの老舗ホテルに泊まりたい。

で、ツイッターなんかでぶつぶつ
つぶやき始める。

で、これを見た誰かが「ホントかよ」
と言うことで、またまた申し込みが増え、
無事20人達成すると、
この商売は成立!

みんな良かったね、ということになる。

この手法は、都内の飲食店なんかで
かなり有効だ。

だって人がいっぱいでしょ。

誰か物好きいるだろう、ですよね?

美容院やエステ、整体院なんかも
この手法は向いている。

こうした売り方が良いか悪いかというのは
意見の分かれるところだ。

お客さんを煽るので、
買う方も冷静に判断しないと
買ってからとか申し込んでから
後悔することになる。

アメリカから上陸したこのマーケティング手法は
現在かなり広がっている。

こうなると、なんでも
定価で買うのが馬鹿らしくなってくる。

世の中みんな値引きなのだ!

建て売り住宅なんかも、
売れ残ると、金利や維持他いろいろかさむので
投げ売りになる。

プライスはすべて、状況で変わるのだ。

例えばだが、
東大卒、身長180センチ、顔まあまあ、
年収1000万円、中肉中背、特技英会話、
趣味ハイキング、性格温厚。年齢30歳、
離婚歴なし。

と、
こうした似たような条件のお兄さんが5人、
お嫁さんを2日間限定で募集すると
どうなるだろう?

例え話に、だいぶ無理があるが、
この花嫁応募は、果たして損か得か?

ここはひとつ、いくら急いでみても
いろいろ予想を張り巡らして
冷静になっても、
結果は全くみえない。

でしょうね?

生身の人間には、どんな最先端の
マーケティング手法も通用しない。

ああ、
当たり前すぎて、つまらない話に
なってしまった(爆)

ノマドで、クラウド

最近、喫茶店などで
よくパソコンをひらいている人を見かける。
iphoneやiPadもしかり。
営業系の方をはじめ、学生さん、
そして自営、起業家たちも多いと推測するが、
どこでも仕事ができるというのは、
嬉しくもあり悲しくもあり。
が、今日はその良いところだけの話。

公衆のアクセスポイントも、かなり増えつつある。
マックがその先陣だ。
まあ、回線契約すれば、
いまは、だいたいどこにいても、ネットへ繋がる。
使い放題の定額制も普及しているので、外に出っぱなしの人でも
、場所を選ばず、かなりの仕事がこなせる。

要するに、どこにいても仕事や勉強ができる
環境が整っているので、
オフィスや自宅にこもることもなく、
自分の気に入ったところで、仕事や勉強ができる。

公園やクルマのなかでもOK。

逆に言えば、オフィスなんかいらないのだ。
海辺なんかもいいな…

連絡は、ケータイとメールで済ます。

大切なファイルや、プレゼンなどの資料は、
例えばグーグル上にアップしておく。

で、必要なときにログインしてファイルを呼び出し、
修正したりコンビニでプリントして、
そのまま先方さんと打合せに望む、
なんてこともできる。

いまはこういう方たちをノマドという。
ノマドとは、遊牧民の意。

で、クラウドとはパソコンのハードディスクに
情報を溜めるのではなく、
ネット上にしまっておくこと。

グーグルがその代表例だが、その収納力は半端ではない。

極端にいえば、マイパソコンなんていうのもいらない。
人のパソコンからでも、ネットカフェのパソコンからでも、
その気になれば、自分のファイルは取り出せる。

そんな時代なのだ。

これから、脱サラをしようなんて考えている人にとっては、
いい時代なんじゃないかと思う。

ケータイひとつで飛び回りながら、ひと休みのついでに
見積もりをつくったり、とか。

郵便物やファックスは、仮想オフィスと契約しておけば、
事は足りる。

後は、何をやるか、何を志すか?

私の時代に較べれば、ハードルはグンと低いぞ。

が、やはりやる気、先見の明、そして根気がなければアウト!

元の木阿弥だ。

時代が変わっても、所詮は人のやること。

相変わらずここだけは変わらないんだな~

夏の印象

蝉が泣きやまない寺に

見慣れた顔が集まる

皆 汗を拭きながら

差し出されたお茶で

ひと息つく

エアコンがうなっても

涼しさもない

待合いの和室

どこも

扇子を忙しげに動かす

やりきれない暑さのなかで

テーブルの上に

見慣れた位牌が

すっと置いてある

こんな夏だった、と思う

いろいろなことを思い出しては

その記憶が薄れてきていることが

せめてもの救いなのか

誰もこれといった話題もなく

本堂にそろそろと移り

じっとりと流れる汗を拭うこともなく

皆が座して神妙な顔になる

線香の煙が立ちのぼる

住職のお経は

首の長い扇風機の風に乗って

境内の日差しの中に

消えてゆく

本堂に飾られた曼荼羅を眺め

来年の夏は親父の七回忌なんだな

と思う

親父も暑い日の朝にいなくなった

なぜみんな暑い日にいなくなるんだ

とうばを担いで墓に移動し

そして

墓石の前にしゃがみ込んで

線香に火を点けようと

下を向いていたら

程なく汗が噴き出して

止まらない

最近、夏は嫌だな

と思うようになった

夢見る人

「男は愛する女の最初の男になる事を願い、

女は愛する男の最後の女になる事を願う」

「流行とは、見るに堪えられないほど醜い外貌をしているので、

六ヶ月ごとに変えなければならないのだ」

アイルランド出身の詩人で劇作家、オスカー・ワイルドの言葉だ。

彼は、こういう言葉も残している。

「社会はしばしば罪人のことは許すものだよ。

しかし、夢見る人のことは決してゆるさない」

犯罪者というものはときに許されるものである。

しかし、夢見る人というのは決して許されない。

あなたが夢を語ると、それは無理だ、とすぐいう人はいないか。

いい年をして夢を追うのはいい加減にしろよ、

などと訳知り顔でいう人があなたのまわりにいないか。

彼らはみな、自分に自信がなかったり、強さがなかったりで、

夢をはるか遠い昔にあきらめてしまった人たちである。

あなたが夢を実現してしまうのではないかと不安を感じ、

悔しくて仕方がないから、ただ足を引っ張っていると思って

間違いない。

「オスカー・ワイルドに学ぶ人生の教訓」グレース宮田 著より

オスカー・ワイルドという人は、神がかり的に、
人生の総てを見抜いていた。
友人、恋人、社会の入り組んだ糸の仕掛けが、
彼にはくっきりと見えていた。

普遍的な言葉は色褪せない。

真実をみつめた言葉は、いつの時代も
変わらない。

天気と気分、
そして政党マニフェストの行方だけは、
いつもコロコロと変わるけどね。

戦争というもの

私の父は、いわゆる戦争の生き残りだった。

南方のように、ほぼ全滅させられたのではないが、

関東軍として、壊滅的な状態で、満州で終戦を迎えた。

そして、捕虜としてシベリアに送られ、

戦後数年経ってから、本土の土を踏む。

村でただ一人の帰還兵。

生きて帰ってやれやれと思ったら、

父を、まわりが白い目で見るという。

羨ましさか、怒りか?

誰も生きて帰ったことを、喜んでくれない。

変だなぁ、

生きて帰ってきてはいけないのか?

ただ素直に、父は思ったと言う。

「何故、死んで帰らなかった?

何故、英霊にならかったのだ?」

と、ある人に言われたらしい。

イキテイテスイマセン。

怖い時代、見苦しい人間達。

いまも、世界のどこかで紛争は起きている。

殺戮は、そう簡単になくなるものではないらしい。

ここのところ、近隣でキナ臭い情勢だ。

朝鮮半島は一色触発状態。

民主党のお陰で、日米安全保障条約とは何か?という

根本的な議論も、炙り出された。

人間の尊厳、命の軽さ。

そもそも、私は人間というものの本質が、

いまでもよく分からない。

ついでに言わせてもらえば、国とか国家とか

領土という線引きについても、疑問がついてまわる。

よく、偉い政治家や軍人が勇ましいことを発言したりするが、

私は、どうもこういう種類の人たちに嫌悪感を覚える。

「あんたがいつ死ぬかも知れない最前線で指揮をするのなら、

私も心を改め、考え直します」

なにはともあれ、放っといてくれ!

ついでに余計なことかも知れないが、

いまの若者のことも放っといてくれ!

私は、国のためという理由と根拠が、

まるで分からない人間だ。

ロックンロールだぜ!

頭でロックンロールが鳴っている。

どういう訳か、最近ロックンロールなのである。

最近のオヤジは、ちょっと騒がしい。

近所を歩いていたら、車庫に黒いワンボックスカーと

幼児用の自転車が置いてあった。

で、そのワンボックスカーのウィンドゥに、

でっかく「YAZAWA」のキラキラのプレートが飾ってある。

「おっ、子育て真っ最中でも、ここのパパは矢沢だな」と私。

と、玄関の扉が開いて、中からジャージ姿の若いお父さん、登場!

年の頃なら30代か?いや、いまはみんな若く見えるので40代かな?

ボサボサの茶髪にピアス。眉毛なんかちょっと剃ってたりしている。

こんな感じのお父さんに、工藤静香さんのようなヤンママの組み合わせって、

最近よく焼肉屋なんかでも見かけますね?

こんなんで子育て大丈夫か?とも思いますが、

まぁ、我が身を振り返れば「なんとかなるよ」だと思います。

なにも、身を固めて子供でもできたら、童謡と演歌ではないんであります。

髪の毛の色なんか、何色でもOKです。

子供に何を教えるか?伝えられるのか?

ちゃんと教えることを教えて、そこに嘘がなければOK!

ヤンキー父さんとヤンママで、お子様にはつまらん根性ではなく、

ちゃんと強さとやさしさを教えてくださいね!

勉強はさておいて、最低限のマナーなんぞも。

それにしても、最近アタマの中で、ロックンロールが鳴っている。

白髪も目立つようになってきたし、目の下にも疲れが溜まっている。

ちょっと無理して動けば、すぐ息が上がるし、思考する根気も、降下気味。

お腹のお肉も、全然格好良くない。

しかし、今頃になってミック・ジャガーが懐かしくなる。

クラプトンも若かったな!

「ハイウェイ・スター」を聴きながら、

第三京浜をかっ飛ばしていた頃の自分を思い出す。

そういえば、あの子、いま何してるんだろ?

元気かな?

気になる。

今年あたり、地元に帰ってクラス会でもやりてぇーなー

アバターは痩せていた

先日、遅ればせながら「アバター」を観てきましたが、
感想は、なんというか、うーんと言わざるを得ないです。

映像なんか、とても頑張ってくれたんですが、
ストーリーがイマイチ納得いかないな。
というか、古典的で、ベタ過ぎ。

良くも悪くもハリウッド・ストーリーは、
テンプレートの使い回しで、この映画も
あっと驚く展開には程遠い。

がしかし、どんなにベタでも、やはりラストの
主人公とアバターの○○のシーンは、
こちらも織り込み済みなんですが、
ちょとカンドーしました(涙)

これ、映画のいいとこなんです。

で、全編、不思議な花や植物やとんでもない生き物の
オンパレードは、こっちも観ていてワクワクもの。
しかし、神聖なところや、
神のような存在のいる不思議な森の設定は、
うーん何かに似ているなと直感しました。

そう、ストーリー的にも、宮崎駿の「もののけ姫」と
被っているところが随所に見られましたが、
ジェームス・キャメロン監督は、
それを知ってか知らずか、
ビジュアル的にも似すぎている。

これは駄目だよー。

しかし、なんてったって、こちらは3D映画だ。
とんでもないメガネを、300円も払って
借りてるんだ!

飛び出す絵本ならぬ、立体映像なので、
違うんだなーと自らを無理に納得させる。

すげぇーって言えば勿論そうではある。
が、とにかく私は、
あのメガネにちょっと文句を言いたい。

あのメガネは、どの辺の人種を想定して
型どりしたのか知らないが、
あれ程、顔面に合わないものもめずらしい。

オレの鼻を潰す気か?

気が散って性がない。
途中、我にかえって回りを見渡したら
みんなのメガネ顔がウスラに見えて
そっちの方がイケテルと思った。

みんなの鼻がアバターに近づく。
そうだ!お前がアバターだ!なんてね。

で、この映画は、要するにどういう話かというと
非常に簡単ではありますが、
悪い土建屋と、のんびり暮らしている村人との戦いなんです。

これ以上語ると、ストーリーが透けて見えるので
言いませんが、文明と自然との対立物なのです。

で、注目のアバターというキャラについてなのですが、
私はいろいろ驚きましたね。

この方たち、実は人間の2倍くらいの背の高さなんですね。
知らなかった。でかい。

運動神経も半端なく、崖なんかずんずん駆け上がっちゃいます。

何を食ってんだろー?
我々人間としては、興味深々ですよね?

で、アバターはみんな痩せています。
太っているアバターは皆無です。
ウラヤマシイ!

何を食ってんだろー?
我々としては、興味深々ですよね?

で、最も特徴的なのは、あの顔。

鼻が平たく、目と目の感覚が離れ
目は、猫のような目をしています。

あれは、人相学的に言うと、
おおらかな性格の持ち主。
眉間があれだけ離れていれば
了見も広いというものです。

猫目は、勘の鋭さと感受性の鋭さをあらわし、
アバターとして、ふさわしい人相だと思います。

で、話しはズンズン逸れますが
映画館って、なんであんなに食い物や飲み物が
高いんだろ。
行く度に思います。

ポップコーンだってジュースだってボリ過ぎだろ?

あんな商売やってたら、そのうち誰も来なくなるぞ(怒)

値段だけじゃなく、メニューもイケテナイ。

お馴染みの洋物ばかりのメニューは、
きっとハイカラな映画館のイメージを崩したくないのは分かるが、
そろそろ、日本独自のうまいもんがあってもいいんじゃないか?

私個人の好みとしては、おにぎりやおでんが食べたいが、
なかには、焼き鳥や冷や酒を飲みながら映画、という方も
いらっしゃるのかも知れません。

はたまた、うどんや蕎麦を食いながら、なんていう方も?

ちょっと言い過ぎました。
しかし、いま映画館というのは
いや、映画そのものも含めて変わらなきゃいけないのかも知れません。

なんてったって、高いお金を払って行くのですから、
最高のコンテンツと空間、美味しいものがなくては、と思うのです。

いまや、各家庭で、好きなものをポリポリゴクゴクやりながら、
ハイビジョンやブルーレイ画質で、好みのコンテンツが観れるのです。

都合の良い時間に都合の良いものが鑑賞できる。

時間差さえ気にしなければ、レンタルで済ますこともできます。

敵はテレビであり、ゲームであり、ネット、アイフォンだったりと、
映画産業にとっては、難しい世の中となりました。

映画のライバルは増えるばかりなんですね。

すぐ観たい魅力あるコンテンツ、また行きたくなる映画館!

こういう、中身と器の同時発展形は、
どういう着地点が理想なのか、私には分かりません。

しかし、映画産業は、何か良い手を早急に
考えなくてはいけません。

風雲急を告げております!

映画ってホントに大変なんですね!

桜の頃

満開の桜が、風に散る。

この頃になると

私は、新しい教室と、

初めての職場の頃を思い出す。

転校してきて、私が見知らぬ仲間の前で

紹介される。

そして、緊張したのも束の間、

授業中の居眠りの癖が出るのもこの頃だった。

思い出したかのように、遅刻も始まる。

何処へ行っても怠惰な習性が抜けなかった私も

さすがに社会人になってからは遅刻が減った。

が、居眠りは続いていた。

これはどうしようもない。

病気だなと思った。

が、会社を辞め、独立してからは

遅刻も、仕事中の居眠りもなくなった。

調子がいいというか、現金な人間だ。

人は、自覚が生まれると頑張るものらしい。

お客様との待ち合わせも

約束の場所へは、遅くとも10分前には行く。

仕事中の居眠りは皆無。

我ながら、当たり前のマナーを身につけた。

自らを振り返って思うに、

自身の自覚がないと、人は流されるものらしい。

目的もなく彷徨っていると、やる気など出る訳もない。

その昔、飛行機で隣あわせたインドの青年と

どちらともなく話すことになり

お互い片言の英語でやりとりする羽目になった。

彼は、これからアメリカに渡って働きながら勉強をし、

絶対にアメリカン・ドリームを掴む、と私に話した。

そういう大きな事を考えもしなかった当時の私は、

軽い衝撃を受けた。

いま思い返しても、彼の鋭い目が印象に残る。

先日、花見の帰りに中国人が経営している店で

夕飯を食べた。

この店には、

中国のモンゴル自治区から来ている女性の従業員がいて、

行く度に、愛想を振りまいてくれる。

店のリーダーとして、彼女の他の従業員への指示も的確だ。

決して安くはないメニューだが、味は良い。

いつも繁盛している。

店が暇なときに、彼女と一度話しをしたことがある。

彼女は、家は貧しいらしいのだが、

親にかなりのお金を工面してもらい、

相当の覚悟で来日したそうだ。

そのはつらつとした笑顔からは想像もできないものを

彼女は背負っている。

絶対に失敗は許されないということらしい。

まして、つまんないとか飽きたなどという甘いものなど

あるはずもない。

彼女の目的は、日本のサービスを学ぶことだと言う。

中国に、つい最近までサービスという概念はなかった。

私も、彼女を見るまで、中国の女性の無駄(?)な笑顔は

見たことがなかった。

曰く、キメ細かい日本のサービスは凄いし、これを中国に

持ち帰ればビジネスになる、ということらしい。

決心の違いは、ここ彼処に現れる。

昨日、両脇が満開の桜の道を、クルマで走り抜けてきた。

風に舞う桜の花びらが、日差しのなかで踊る。

春の色模様だ。

春眠暁を覚えず

つい居眠りをしてしまいそうな陽気だが、

思えば、桜の散るこの時期ほど

身の引き締まる季節もない。

私が会社を興したのも、春だった。

普通である、ということ

今日は天気がいいので

窓の外が明るい。

パソコンを前にして

なんだか、そわそわする。

外が気になる。

「どう、今日は暖かい?」

買い物から帰ってきた奥さんに

さらっと聞く。

「そうね、もう春ね。向こうの山も

ちょっと霞がかかっているみたい。

動いていると汗ばんでくるわよ」

「ふーん」

気のない返事はしてみたものの

内心穏やかではない。

貴重な土曜日だというのに

朝から残務整理だ。

「まだ、かなりかかるの?」

「うーん、いや何とかするよ」

12時を回ったので、奥さんが

トーストとハムと卵のペースト、

そして簡単なサラダと紅茶を用意してくれる。

テレビをつけると、カウントダウン・TV。

まあ、私はどうでもいいんだけど、

東京の新トレンドスポットなんかを紹介している。

奥さんが、「ふうーん、ふうーん」と頻りに

関心している。

「美味しそうだね?」

私が水を向けると

「でもやっぱり高いわね。東京は」

「そうだね」

カーテンの向こうがまぶしい程にきらきらしている。

庭に、鳥の鳴き声が聞こえる。

「散歩、行こうか」

「いいの、仕事?」

「月曜日に早く起きて片付けるよ」

食事を済ませて、

一応、家の中の主な家電のスイッチを切る。

スニーカーを履いて表に出ると

私の頭の仕事のスイッチも切れた。

近所の家の屋根や外壁が

日差しで照り返っている。

「なんだか、牢獄から出てきたような

感じだな」

私がつまらない感想を言うと、奥さんは

ケラケラと笑った。

住宅街の西は、高い丘の上のようになっていて

下の国道が見える。

その向こうに山が連なり、

ゴルフ場の辺りの緑も、

心なしか色づきが濃くなったようだ。

空に、雲がぽかんと数えるほど浮かんでいる。

ふたりで、雲のかたちについて、

山の色づきについてや、

たわいない話をいくつか交わして、

住宅街の家々の前を歩く。

ひとの家の庭先の花を見て、奥さんが

「綺麗ね」と言う。

散歩のときは、なぜか実家の話や

子供のことや、リフォームしようか?

なんていう話題も飛び出したりする。

大方、どうでもいいような大事なような

そんな話ばかりだが、こうした時間が、

最近、私には愛おしいと思える。

普通の家に住み、何のことはない普通の生活。

普通に家のローンが残っていて、

人並みの預金残高なのだろうか?

思えば、何もかも普通なのだが

さて、この普通ということは

一体どういうことなのかと、ふと考える。

この定義は、割と考える程に難しく、

意外と奥が深いことに気がついた。

思えば、結婚して子供が生まれ

独立して、もう駄目だ、ということも

何度かあった。

家族の病気も危機も幾度かあった。

数年前に父がいなくなり、奥さんの母親もまた

いなくなってしまった。

が、いまはふたりの心もだいぶ癒え、

とりあえず普通の状態に戻った。

上をみれば切りがない。

下をみてもきりがない。

私がこの頃ぼんやり思う

「普通」というこの毎日の繰り返しが、

とみに愛おしいのに気がついたのは

つい最近のことだった。