平山みき71歳

 

ユーチューブでナツメロを聴いていたら、

関連曲つながりで、

「真夏の出来事」が出てきた。

我、高校生のときのヒット曲である。

いい歌だなぁ。

 

歌詞のなかでこういう一節がある。

♪悲しい出来事が起こらないように♪

当時はテキトーに聴いていたので、

理解していなかったが、

この歌って、わかれの歌なんですね。

いまさら、いい加減な自分に驚きました。

雰囲気だけで聴いていました。

 

歌詞を理解すると、さらに好感度アップ。

これを歌っている平山みきさんは、とても人気がありました。

当時ガキだった私からすると、年上のお姉さん。

ガキにはとても手におえそうにありません。

はすっぱという言葉にビタッとおさまる雰囲気が

またよかった。

 

ところで、はすっぱという言葉の意味を

コトバンクで調べたらこう書いてある。

「女性の態度や動作が下品で慎みのないこと、

また浮気で色めいてみだらな女性をいう。

「はすっぱ女」ともいう。」

 

ヒドイことが書いてあります。

私のなかで元祖はすっぱは、

加賀まりこさんなのだが、

なんだか私の思っていたのと、

どうも意味合いが違う。

これは私の間違いなのか。

 

私のなかで、はすっぱというのは、

とてもいい響きであり、褒め言葉なのだ。

なんだか垢抜けていて、ミステリアスで、

全然こちらの言うことを聞いてくれない、

わがままなかっこいい女性。

それがはすっぱなのだ。

 

本来はコトバンクにあるように、

女性を卑下する言葉なのだろうけれど、

当時の私たちはそういう意味合いでは

使っていなかった。

それはひょっとして方言と同じで、

地方により意味合いも変化するとか?

 

まあ、どうでもいいや。

で、はすっぱな女性にはいまでもかなわない。

振り回されそうな気がします。

なにしろはすっぱは、小悪魔ですからね。

そのはすっぱな平山みきさん、

現在71歳だそうです。

 

ンー、あれから半世紀が経ちましたか。

平山みきさん、どうか現在でも

はすっぱなかっこいいおばあちゃんで

いてくださいね!

 

 

 

 

 

なかなかのグループ、みつけました!

 

寝起きに就寝前に欠かさず、

毎日まいにちイーグルスばかり聴いていたら

さすがに飽きた。

 

たとえば幾ら寿司が好きでも、

毎日そればかり食ってたら、

やはりゲンナリするに決まっている。

 

ずっと以前は、T・REXのGet・it・onにはまって、

やはりそればかり聴いていて、

結局嫌いになってしまったことがある。

 

繰り返すも学ばない。

ほどほどという塩梅がはかれない。

我ながら、バカだなぁと思う。

好きなものを自らなくしてしまう行為なんて、

愚かだなぁ。

 

で、ふと思ったのだが、

こうした法則のようなものって、

異性にも当てはまるのだろうかと。

 

想像するに、幾ら愛し合ったふたりでも、

いつかはやはりそうなるような気がする。

飽きるとか、嫌いになるとかね。

 

しかし、お互いに空気のような存在と言わしめる、

そんな域に達すると、

ちょっと違うニュアンスとなる。

 

空気?

そう、空気がないと死んでしまうので、

そのような関係ともなると、

きっともうすでに好きも嫌いも超越した、

その先にある、

ある種、無意識必然の存在ということになると、

ここは美しく解釈しなくてはならない。

 

ええっと何の話だったっけ?

ああっ、そう音楽の話。

最近ではことある毎に、

HSCCというグループの音楽ばかりを

聴いている。

また始まった、悪い性癖が…

 

選曲が良いというか、

ずっと流していて飽きることがない、

とてもハイになれる、

カバーを専門にして活動しているグループ。

 

アンディ・シーモアというボーカルが、

とりわけ良い声でカッコイイ。

詞の内容がグッと伝わってくる、

包容力のある魅力的なボーカリスト。

 

いま良く聴いているのは、

君は僕のすべてさ!

とリズミカルに口説いている

まあ何とも青くさい歌なんだけど、

そこがこちらには返って新鮮でもある。

 

原曲は、70年代に流行ったブリティッシュ・ソウル。

かなり古いけれど、

聴いていて全く古さを感じさせない。

いや、新しいでしょ、となる。

 

例えて言うと、古いポルシェ356を、

いまこの時代のセンスとテクを使って、

ハイカラにレストアしたような…

よく分からない?

 

なんたって40年以上も前の曲ですから。

じゃあ、まず聴きましょう!

 

飽きない程度にね!

 

※削除されたら、ゴメンね!

↓オリジナル

ならず者のうた

デスペラード

ならず者という意味らしい

 

19才も終わろうとする頃

カーラジオで初めて聴いた

この歌の虜になった

 

当時は意味なんて分からなかったけれど

デスペラードだけ聞き取れた

とてもやさしいメロディー

悲しげな歌

運転しながら

寂しさだけが押し寄せてきた

ある事情でみんなとはぐれていたから

話す相手もいなかったし

ガールフレンドとも遠ざかっていったし

この歌も、そんな歌なのだろうと

勝手に解釈することにした

 

ひとり国道246を西へ

どこかへ辿り着こうとか

そういうものはなかった

雑音だらけのラジオの音にすがるように

宛てもなく走った

 

ひとりが寂しいんじゃなくて

回りに壁をつくってしまった自分が

とても辛かった

 

デスペラードの歌詞は

だいたいこうだ

 

「…おい、そろそろまともに戻ったらどうだい?

…お前の、その気難しさやプライドが
お前自身を傷つけているんだよ

(中略)

…時の流れに誰もが逆らえない
なのにお前はたったひとりで
深い闇のなかをただ歩いているじゃないか
それも、もがきながら

(中略)

…ならず者よ、さあ目を開けて
怖がらないで

…雨降りだって
いつか虹がかかることもあるから

…まだ間に合う

この手を掴めよ
まだ間に合うから」

 

10代の終わりのあの遠い日々が

その後の推進力になったことに

いまは感謝しているけれど…

 

 

 

 

夕陽のうた

 

イラストレーターの鈴木英人さんは、

影というものを主役に据え、

大胆な影の描写で夏の日差しの強さを強調し、

そのコントラストの美しさをあらわした。

 

オールドカーが木陰に停車しているイラストなど、

ぐっときます。

 

 

この人の作品は、どれも真夏の昼下がり、

といったものが多い。

 

実は朝なのかも知れないが、

その陰影を観るにつけ、真夏の昼下がり、

と私が勝手に思い込んでいるのかも。

 

まだ世の中がカセットテープ全盛だったころ、

よく英人さんのイラストを切り抜いて

カセットケースに貼り付けていた。

 

中身は、主に山下達郎だったような。

 

 

さらに時代を遡って、

私がちいさい頃に好きだった影絵は、

どれも藤代清治さんの作品だった。

 

 

だいたい夕暮れから夜の世界が多い。

 

笛を吹いている少年のシルエットが心に残った。

作品はどれも上質のステンドグラスにも負けない、

神秘性と物語を内包している。

 

昨年、藤代さんの画集を買って、

時間ができるとぺらぺらと開いている。

もう90歳をとうに過ぎておられると思うが、

この方の作品は常にファンタジー性に溢れていて、

その世界が衰えることはない。

 

 

好きなことに没頭する美学がそこにある。

 

ここは、学びが多いと、自分に言い聞かせている。

 

 

近頃は夜景の写真が人気を集めている。

湾岸に立ち並ぶ工場群も、

ライトに照らされた夜の姿は、

妙な魅力を放っている。

 

 

私は京浜工業地帯で生まれ育ったので、

工場の立ち並ぶ姿にうんざりしていて、

一時は、こうした写真を引き気味にみていたが、

最近はそうした幼い頃のトラウマ?もなくなり、

しっかり鑑賞できるようになった。

 

 

さて、自然の織り成す陰影といえば、

夕暮れ時のマジックアワーである。

 

 

 

夕陽は、ときに緊張した人の心を緩ませる力を

秘めているようだ。

 

私が夕陽の魅力を初めて知ったのは、

小学校の入りたての頃だった。

近所の子と砂場で夢中になって遊んでいて、

さあ帰ろうと思って立ち上がり、

空を見上げたときだった。

 

いままさに沈もうとする太陽がオレンジ色に光って、

手前の丘は大きな黒い影となり、

その丘のふちだけが燃えるように輝いていた。

 

いずれ、光と影の織り成す風景って、

人の琴線のようなものを刺激するのだろう。

 

映画「夕陽のガンマン」、「三丁目の夕日」

 

拓郎の「歌ってよ、夕陽の歌を」

石原裕次郎のヒット曲「夕陽の丘」

 

夕陽は歌になる。

絵になる。ドラマになる。

 

どこか影のある女性…

夕暮れの冬の木立

そんなものばかり追いかけても、

深みにはまるだけ。

ただただ、陽が暮れるだけなのになぁ。

 

 

 

 

 

 

 

明けましておめでとうございます

 

 

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

元旦の昼はケンタ食ってました。

では早速ですが、こちらゲス芸能デスク2です!

 

◆レコード大賞

年末のレコード大賞観てましたが、
大賞は乃木坂46じゃない。違う。
どう考えてもDA PUMPでしょ。
U.S.Aって、歌詞は意味不明だし、
ISSAのヘアはかなりあやしいけれど、
あれだけ人気出たんだからね。
酷い歌詞だけど…

そして番組の大半は、
過去の受賞シーンばかりだった。
それはそれで懐かしいけれど、
過ぎ去った栄光ばかりではね、
現在の音楽シーンの躍動が感じられない。

如何にヒット曲が少なく、
マーケットが萎んでいるのが、
素人の私でも分かる。

最優秀新人賞の辰巳ゆうと
という歌い手さんも、
皆あまり知らないんじゃないか?

受賞、不思議。

唯一、ピンク・レディーが良かった、
というありさま。

ミーちゃんもケイちゃんも還暦を過ぎていて、
あの歌と踊りは凄い。
化粧も凄いけど。
ちょっとハラハラしてしまったよ。

 

◆紅白歌合戦

総体的になかなか面白かったですね。
過去に縛られず、若返りを図ったのが、
功を奏したと思います。
縁故関係で出ているような歌手を退場させたのも勝因。
客席と舞台を一体化させるような演出も冴えました。

さて、永遠のアイドル郷ひろみさんを観ていて
なんというか、プロ意識を感じましたが、
正直イタい。
凄い努力をしているんじゃないかとは思いますが、
このままでは、行く先が辛い。

それにしても、郷さんって何食ってんだろう?

天童よしみの「ソーラン祭り節2018~どさんこver.~」
って、北島三郎の「祭り」とほぼ同じなんじゃないか。

Suchmosっていいですね。

「臭くて汚ねェライブハウスから来ました、よろしく」って

挨拶が気に入った。

ちょっといきがっているのか、照れなのか、負けねえぞっていう

思いがあるのか、いいなぁ。

クラプトンとかが好きらしく、60年代~70年代の空気が伝わる。

内田裕也じゃなく矢沢でもなく、彼らの音楽はなんか伝わる。

 

北島三郎って、紅白引退したんじゃなかったっけ。出てるじゃん。

平成最後だからとかいろいろ理由を述べていたね。

「男」サブちゃんで売っているけれど、二言はある訳だ。

 

サザンとユーミンはね、同世代なので、ホント安心して聴ける。いまじゃ大物になっちゃったけど、やはりハタチの頃の勝手にシンドバットとかあの日に帰りたいのデビュー当時を思うと、自分も若い頃に戻れる。

 

 

◆番外編

秋元康という人は、一応いまは日本の音楽シーンに欠かせない人とは思うが、(ホントはどうでもいいと思っている)彼が生み出すAKBとか欅坂他いろいろいますが、あれって何だろうと思う訳です。ジャニーズの双璧といえばそのようにも思えますが、まあ、学園祭のノリでよくここまで来ました。思えば、80年代の「おニャン子クラブ」から彼の活躍が始まるのですが、女子学生の放課後の仲良しクラブが、どうも彼の思い描いた空気と思えます。そこに脈々といろいろなグループが繋がっていて、彼のコンセプトはいまも不変。○〇46とか〇〇48とかって一クラスの人数に思えなくもない。いろいろなクラスの女の子がいる。それが、彼の生み出すグループなのでしょう。彼はセブンイレブンとかファミマみたいに、フランチャイズ化にも勢力を注いでいて、アジアだけでなく欧米もターゲットに入れているのではないか。なんたって向こうは日本のアニメも浸透しているので、それほど違和感はない。ライバルはKポップグループ。負けるなよ、と言いたいところですが、私的にとても違和感があるので、もうこれ以上はやめておきます。

 

 

南佳孝さんのライブへ行ってきた!

     

 

大磯在住の南佳孝さんは、

いつもラフな格好をしていて、

そのまま海辺を散歩していても

何の違和感もないおっさんである。

そんな服装でそんな雰囲気を引きずって、

「よう!」と言ったノリでライブに現れるから、

ファンもみんなよく知っていて、

知り合いと出会ったように「久しぶり!」

とでも返すような拍手を惜しみなく送る。

 

会場は小さい。

100人くらいでいっぱいの地下空間。

そこに折りたたみの椅子をびっしりと並べて、

彼のアコースティックライブを、

2時間めいっぱい聴かせてくれる。

往年のファンは、いつでも何処にでも

彼を追っていくらしいのだ。

私はこのライブは2回目なので、

まあ、にわかファンの部類。

彼とディープなファンとの距離の近さを知るにつけ、

あの会場のリラックスした雰囲気に、

なるほどと合点がいくのだ。

 

南佳孝が初めてヒットを飛ばしたのは、

1979年の「モンローウォーク」あたり。

郷ひろみが大ヒットさせた「セクシー・ユー」が、

そのカバーといえばわかりやすいか。

アップテンポの曲で、当初は彼も少しステップを踏みながら歌っていた。

アイドル歌手になるつもりだったのだろうか?

そんなことを諦めてくれて良かった。

駄目で良かった。

彼は生粋のミュージシャンだから、

妙な逸れ方をして成功でもされたら、

いまの彼はいなかったし……

 

私が彼の曲を深く好きになったのは、

「日付変更線」を聴いてから。

ちょうど、南の島へ行った頃で、

椰子の木の下で、この曲をウォークマンで聴いた。

前日、日付変更線を超えてきたので、

珊瑚礁のリーフに打ちつける白い波を眺めながら

この曲を聴いていたら、

「心底しあわせじゃん」と本気で思えた。

 

そろそろこの人も70歳くらいと思うが、

最近では斉藤和義とか杉山清貴とか薬師丸ひろ子とか、

いろいろな人とコラボって、新しい試みをしている。

 

相変わらず、前を見ている。

 

最新のシングル「ニュアンス」と

「冒険王」を歌ってくれたが、

どちらもかなりGOOD!

「ニュアンス」はメローで年を重ねた大人の歌。

作曲は来生えつこ。

年相応だからか、親近感を感ずる楽曲だ。

「冒険王」はスローだーかつ迫力のあるメロディライン。

さらに詩がすごく熱い。

胸にぐっとくる。

作曲はもちろん南佳孝だが、作詞は松本隆。

やはりね、深く納得しました。

 

「憧れのラジオ・ガール」って、聴いていてなつかしい。

私たちはある時期、ラジオで育ったようなものだから。

 

「スタンダード・ナンバー」は都会的かつ感傷に浸れる。

♪愛ってよく分からないけど、傷つく感じがいいね♪

 

「スコッチ・アンド・レイン」はやはり渋い。

♪スコッチ雨で割れば言葉がいらなくなる♪

♪頬が濡れて、まなざしが濡れて、心まで濡らした♪

ため息の出るほど、その空気が伝わるフレーズ。

 

ひと通り歌い終わっても、拍手が鳴り止まず。

で、アンコールの彼はなんと坂本九の

「上を向いて歩こう」。

皆で歌おうと。

これが盛り上がりまして、その熱をさらに加熱するように、

最後は、彼の最大のヒット曲「スローなブギにしてくれ (I want you)」

で締めくくってくれた。

 

帰って、熱いコーヒーを飲みながら、もう一度YouTubeを聴いた。

思うに彼は全く偉ぶらない。

出たがりでもない。

やり方次第で、

いまも相当の大物感を漂わすこともできただろうに、

そうした事はダサいと信じているフシがある。

 

彼の言いそうな台詞を考えてみた。

「こういう歌って好きだし、

もっともっといいの、まだまだつくりたいね。

まあ、死ぬまで歌っているよ、

…だって好きだからね」

 

そういう人。

 

歌に声に、色気がある。

奏でるものに生気を吹き込む。

物語を歌う人。

 

ビジュアル的にイケてる人という訳じゃない。

しかし歌っている彼を見ていると、

ほんとにかっこいい。

 

きっと彼の生き方がかっこいいんだろう。

 

 

 

 

 

 

雨に泣いている

柳ジョージを聴いていたら、なんだか悲しくなってしまった。

この人、死んでしまったし。

古い友達とか街並みとか、そんなもんばかりが浮かぶ。

そんなね、前向き、前向きって。

無理ですわ…

あのひとあのときなぁって、ひとつひとつ丁寧に

ストーリーが蘇るから、

アレコレ忘れられないことばかり。

最近では読むものも昔のものばかりで、

たとえば松本清張、初期作品に惹かれて読んでいる。

「理外の理」とか「削除の復元」とか。

どちらかというと大作の陰に隠れた名作で、

これらの中に大作家の性根がくっきりと表れる。

雲の上のひとでも、人並みに物欲があって、

見栄やジェラシーがあって結構せこいとこも持ち合わせて

なんだかふっと力が抜ける。

いまって時代は抜き差しならない。

清潔、正義、多数決。

そして偽物の制裁、圧力、胡散臭い正義の毎日。

そんなもんに背を向け、引き寄せられるのは、

色にたとえると、ブルー。

限りなく透明に近いブルー…でなく、

ラピスラズリの、あのブルー。

深みと雄大さと悲しみを、

その小さな塊のなかにいっぱいたたえていて、

スッとして清楚。

夢も希望もね、それこそあるけれど、

もうそこには華やかさもバラ色もありはしないし。

そんなに賢くない。

そんなに美しくない。

久しぶりの雨だよ。

いまさらクラシック音楽にめざめる。

私が割ときれいだと思う女優の藤真利子さん。

この人が先日「サワコの朝」に出ていて、

彼女の好きな曲として、

辻井伸行さんの「ラ・カンパネラ」を紹介していた。

朝飯をくいながらぼおーっと観ていたのだが、

辻井さんの弾く姿とピアノの音に、

なんだか目が覚めるような感動が起きてしまい、

それからというもの、彼の演奏を毎日聴いている。

我ながら、意外な反応だったのだ。

「月の光」「英雄ポロネーズ」チャイコフスキー「ピアノ協奏曲」

ショパン「12のエチュード」…うん、いろいろ聴いていくうちに、

どの曲の演奏も、とても魅力的でパワフル。

生命力に溢れていて、彼がとても格好いいのだ。

クラシックってなかなか素敵じゃんと、

彼のおかげで、いまさら気づくこととなった。

そこで後日、フジ子・ヘミングさんの

「ラ・カンパネラ」「トルコ行進曲」とも聴き比べてみた。

辻井さんのに対して、フジ子さんのピアノは包み込むようにやさしく、

ちょっとスローで熟練しているなぁと感じた。

個人的には、辻井さんのが好みと分かった。

以前は、こうした高尚とも思えるものを何十年と避けてきた。

理由は幾つかあって、その1は

小学生のときに音楽鑑賞の時間があって、

バッハとかベートーベンをじっと聴かなくちゃいけないのだが、

全く落ち着きのない私にはとても辛い時間だった。

一刻も早く、外に飛び出したかった。

それでも我慢をしてじっと座って聴いていると、

今度はひどい眠気に襲われ、

気がつくとよく先生に怒られていた。

以来、こうした音楽が苦手になってしまった。

その2は、クラシック音楽は権威の象徴であると、

勝手に思っていたフシがある。

または、暇な金持ちの聴くものと決め込んでいた。

何にでも逆らっていた若い頃の私は、

クラシックを聴くとなぜか生理的にいらいらしていたので、

全くと言っていいほど遮断していた時期がある。

その3は2と連動しているが、

社会人になってから、ある金持ちのドラ息子と

ビジネスで組むこととなり、結果こいつに振り回されたのだが、

このバカがいつもベンツで聴いていたのがクラシックだった。

ちなみに、このドラ息子は根っからの無気力で、

そのくせ、功名心のみ強い人間であったので、

以後、私的にクラシックに対する印象は最悪となった。

それでも高校時代は吹奏楽部だったので、

少しはクラシックに触れる機会もあった。

が、せいぜいショスタコーヴィチをやるくらいで、

なんら違和感がなかった。

ショスタコーヴィチはどちらかというとマーチが多いので、

そんなに辛いものではなかったと記憶している。

(ショスタコーヴィチの音楽がクラシックか否かは不明だが)

という訳で、以前の私はクラシックと出会ったときから、

そうとう相性が悪かったと、最近になって気がついた。

クラシック音楽に対する私の偏った先入観が、

単に事態を悪くしていただけかも知れない。

さらに言えば、過去の自分のクラシック音楽への

理解のなさだろうし、理解力のなさでもあるし。

それを辻井伸行さんが再び引き寄せてくれた。

私的に感じた事をひとつ。

クラシックって、人の根っこの部分、

人間の根源的な想いのツボのようなものを、

鋭角で追求してできたもののような気がするのだ。

音楽ってどれも皆そうなのだろうが、

実はクラシック音楽が、その源流に位置している。

いや、土着音楽だ、自然の音だと異論はあるだろうが、

人を揺さぶる何かを秘めているように思うのである。

昨日、辻井さんが自ら作曲した曲を聴いて、

なんというか、感情的にワーッときた訳だ。

タイトルは「コルトナの朝」。

全身で表現しているような、若い生命力に溢れるとても美しい曲だ。

きっと火星に移住する時代がきても、

人はクラシックを聴いているだろう。

夢でみる情景

初めてその夢をみたのは、

確か20代の頃だったように思う。

その後、幾度となく同じ夢をみる。

その風景に何の意味、教え、警告とかがあるのだろうかと

その都度、考え込んでしまうのだ。

30代のあるとき、友人と箱根に出かけ、

あちこちをGTカーで走り回っていた。

心地のいい陽ざしの降り注ぐ日。

季節は春だった。

ワインディングロードを走り抜ける。

とても爽快だった。

が、カーブに差し掛かったとき、

私はこころのなかで「あっ」と叫んだ。

そのカーブの先にみえる風景が、

私が夢でみるものと酷似していたからだ。

夢で、

私はアスファルトの道をてくてくと歩いている。

どこかの山の中腹あたりの道路らしい。

それがどこの山なのか、そんなことは考えてもいない。

行く先に何があるのかも分からない。

陽ざしがとても強くて、暑い。

しかし不思議なことに、全く汗をかいていない。

疲れているという風にも感じない。

カーブの先の道の両脇には、

或る一定間隔で木が植えてある。

その木はどれも幹が白く乾いている。

背はどれも低い。

太い枝を付けているのだが、

葉はいずれ一枚もない。

そのアスファルトの道が、

どこまでも延々と続いていることを、

どうやら私は知っているようなのだ。

夢でみた風景が箱根の道ではないことは、

その暑さやとても乾いた空気からも判断できた。

現に箱根のその風景は、

あっという間に旺盛な緑の風景に変わっていた。

夢のなかのその風景は、

メキシコの高地の道路のような気もするし、

南米大陸のどこかの道なのかも知れないと、

あれやこれやと想像をめぐらすのだが、

私が知った風景ではないことは確かだった。

つい最近も、仕事の合間のうたた寝の際、

夢の中にその風景が現れた。

立ち枯れた木がずっと続くその道の先は、

きっとその山の頂上に続いているのだろうと、

ようやくこのとき私は想像したのだった。

なんの怖さも辛さも感じない。

ただ、暑さと乾燥した空気が心地いい。

相変わらず強い日差し。

それが身体にエネルギーを与えるようにも感じられた。

あたりに風は一切吹いていない。

とても穏やかで静かだった。

覚醒した私は思うのだ。

頂上にたどり着いた私は、

やがて、空へと続く一本の階段を発見する。

そして、誘われるように、

その階段をてくてくと昇ってゆくのだろうと。

もちろん、その階段は天まで続いている。

マグロ少年

イルカにのった少年、

オオカミ少年ケンときて、

マグロ少年という流れで書こうかと思っている。

鳥になった少年というのもあった。

この歌はファンタジックなとてもいい歌だった。

いつでも少年は お祈りしたのです

大空自由に 飛べる羽根

ぼくにも下さいと

父も母も どちらもいない

とてもさびしい 身の上だから

いつでも少年は 夢見ていたのです

地上の悲しみない空へ 自由に行きたいと

1960年代にヒットした歌。

とても素敵な歌詞です。

で、少年つながりで、

まずイルカにのった少年ですが、

これは昔よく聴いていました。

歌うは、城みちる。

そこそこのヒット曲だった。

城みちるも人気があったなぁ。

最近、どこかの番組で観たが、

童顔が裏目に出て妙な爺さんになってしまった。

で、この歌はいつもあちこちで流れていたので

かなり聴いているハズだが、

いま思い出しても、なんで少年がイルカにのっていたのか、

それが分からない。

いまも分からないが、調べようとは思わない。

ただ頭に浮かぶのは、

イルカっていつも濡れてツルツルしているじゃないですか?

イルカにのった少年って、

座ってしがみついていてもキツイ。

立っては絶対に乗れないと思いますがね。

狼少年ケンは日本の初期のアニメで

狼に育てられて大きくなった少年の物語。

勇敢で困った人を助け、正義の味方を貫く。

そのキャラに心酔したね。

日に焼けた顔に長い髪がトレードマーク。

腰みの一丁の半裸姿で沢山の狼を引き連れているヒーローである。

テーマ曲は、ボバンババンボンボンバボンバボン…

この曲は、最近では佐々木希、佐藤健、渡辺直美が出ているロッテのCM

フィッツという商品に盛んに使われていたので、やはり名曲なのだろうか?

きっとCMプランナーだかクライアントに私と同世代のおっさんがいたのだろう。

じゃなきゃ、こんな古い曲を知る訳もない。

きっとその人も狼少年ケンが永遠のヒーローなのだろう。

幼い日に刻まれた記憶は生涯色褪せない。

という訳で、ちょっと話の似たジャングルブックと話を被せたかったが、

そんな知識もないのでやめようと思った。

しかし気になったのは、狼に育てられた少年だか少女だかが、

海外にいた、というテレビを過去に数回観たこと。

うーん、嘘だと思う。

ただ、ジャングルブックの冒頭だったかに、

 ―ジャングルの掟は青空のように古い真実―

というフレーズがある。

この一節はとても素敵だ。

さてこの話、前の話と前振りが長かったが、

ようやくマグロ少年の話である。

マグロ少年は、いまからざっと20年前に見た、

当時小学生のガキである。

元気なら、現在は30才くらいの若いおっさんに育っているハズだが、

とんと見かけない。

というか、見かけたところでいまさら判別もつかないが。

彼は当時、ぷくっとした肥満したお腹を抱え、

父親に連れられてウチの近所のこじんまりとした回転寿司屋に現れた。

かんぴょうだかセコい寿司をコネコネしながら食っていた私の横に

彼はどすんと座ると、突然せっつくような力のない声で、

「おじさんマグロ!」とカウンター越しの板さんに、

お願い事のように声を絞り上げたのだった。

うーん、こいつ相当腹が減ってバテているなぁと、

私はこの少年を本気で心配した。

それは他の客も同様で、

一瞬寿司屋店内がしーんと静まりかえったのを覚えている。

そうだ、この少年の腹を満たしてあげることを優先しよう、

我々は少しオーダーを控えて静かにしていよう、

どうしても食いたいのなら

ベルトで流れてくるカッパ巻きとか玉子でも食っていようっと…

ガキは、それから「おじさんマグロ、おじさんマグロ、おじさんマグロ

………これをずっと繰り返して、

ざっと10皿くらい食った後だったか、

突然「おじさんイクラ!」とオーダーしたのだ。

この頃にはその少年も正気を取り戻したようで、

さらに悠然となりつつ、どんと座っている。

目も座っている。

おお元気が出たのかと、

ずっと押し黙っていた私や他の皆さんも、

血色が戻った余裕の少年が、

「イクラね」と偉そうにオーダーをしたのを機に

だんだんとイライラとしてきたのだった。

一方、その少年の父親はというと、

華奢な細い体で肥満した少年の横にちょこんと座って、

なんだか薄ら笑いを浮かべているだけ。

でこの二人、なんだか全然似ていないのである。

が、少年は彼のことをパパと呼んでいたので、

それに従って親子として話を進めるがね。

エヘン!

で、この父親は終始何のオーダーもしないで、

我が子の食いまくっている姿をみては目を細めている。

なんだか店内に妙な空気が漂ってきた。

そろそろウニの軍艦巻きを食いたいなぁと思っていた私も、

連続で板さんを拘束しているその少年にムカつき始める。

思えば、そもそもの話になるが、

私の小学生時代なんぞ、寿司は年に一回のみの摂取だった。

正月しか食えなかったんだぞ!

あとは、誰かが死んだときに寿司が振る舞われる。

いわゆる精進落としのときだけしか食えなかったのになあ、

と考えると、さらに頭にきた訳だ。

これは他の客も同様らしく、

皆さんもみるみる不機嫌そうな顔になっていくのが分かった。

ああ、寿司食って不機嫌はよくないなぁと私は思ったね。

なのに少年がイクラを頼んだあたりから雰囲気最悪。

父親はというと相変わらずなんも食わないでニコニコしている。

これには輪をかけて頭にきたね。

しびれを切らしたか、客の一人である職人風の兄さんが、

「中トロ3皿握ってよ」と捨て鉢に言うが早いか、

その少年が後追いでデカくてパワフルな声で

「おじさんマグロ3皿ね!」と発した途端、

店内には凶悪な風がビュービューと吹きましたね。

さて彼は今頃どこでどうしているのだろう?

地元のジュース工場で働いているのだろうか?

いや、良い大学を出て、東京の商社にでも勤めているのだろうか?

あれから恋なんかして、少しはスマートになったのだろうか?

あの華奢で痩せたお父さんはいまもご健在なのであろうか?

気になるなぁ、

いろいろと下らない事を思い出しては想いを巡らせる、

今日この頃ではある。

ひょっとして私は年を取ると発症するという、

あの過去完全再現型妄想心配症候群なのであろうかね。