明日は晴れるかな?

 

 

考え過ぎか分からないが、最近、変な天気が続いている。

気温も異常に高い日が続いた。

また、天気予報で晴れと言っても土砂降りだったり、
またその逆もあったりで、
まぁ予報自体が当たらない。

ボクもこの夏、台風とか線状降水帯とかの予報で、
信州行きを1度キャンセルしたが、
結局のところ、現地は通り雨が降っただけだったらしい。

翻って、能登の雨はホントに酷い。
家もクルマも流され、どうしたらいいんだろうって、
他人事ながら考え込んでしまう。

まだ復興半ばだというのに…

 

とにかく、最近の天気は異常だ。

 

 

YouTubeで知ったが、土の時代から風の時代へ変わったとか、
地球の地軸がズレ始めたとか、けっこうみんな妙なことを言っている。

ボクは個人的にだけど、最近の月や太陽が
以前より明るいのではないかと感じている 汗

こんな言い方をするとコイツ変じゃないかと言われそうだけど、
むかし行ったことのある赤道直下の島々で浴びた陽射しと、
最近の日本の陽射しが、ほぼ同じ感じなんだよね!

うーんこの感覚、伝わるかな?

湘南の真夏とも違う、与論島の強い太陽光線とも違う、
南太平洋でしか感じられないあの刺激なんです。

白い太陽光線とでも言おうか…

で、山の別荘も例年になく売れているそうで、
いつもなら敬遠される標高が高すぎる物件もどんどん売れ、
超品薄状態との情報。

このままだと関東地方の夏も熱帯化しそう。
だけでなく、列島の平地がすべて高温化するのだろうか?

という訳で、いまボクが目をつけているのが、
八ヶ岳南麓の標高1000~1300メートルあたりの物件か、
佐久平あたりの山の中の古い小屋。

その話を、先日友人に熱く語ったら、
「その年でお前は少しイカれている」と言われてしまった。(年不相応)

むかしからまわりとズレているのを、自分でも感じてはいた。 笑

よって、その友人のことばに別に驚きもしなったが…

 

友人のライブへでかける

 

友人と言ってもボクよりずっと年下で、

まだまだ若い。

彼は、ブランド服の販売のプロなのだが、

なんだか性格が自由過ぎて、いままでに3度くらいかな、

職場をクビになっている。

 

忙しい職場が嫌いで、いつも妄想に耽り、

詩をつくったり絵を描いたり、

ギターの練習をしたりしている、らしい。

 

ライブハウスは小田急線の百合ヶ丘駅近く。

古いビルの地下だった。

ボクは閉所恐怖症なので、3時間近くいたけれど、

正直、少し息苦しかったような気がする。

 

この日、彼の歌とギターをはじめて聴いた。

詩が繊細でいい。

メロディーもギターテクニックもなかなか。

うぬぼれるからあまり言いたくはないけれど、

ちょっとボブ・ディランを思い出してしまった。

 

歌う格好も、1960年代に流行ったような、

ヒッピースタイル。

なんか笑ってしまった。

 

が、歌もファッションも

彼の手にかかると決して古くない。

感覚は鋭く、むしろ最先端なのではないか。

 

こんなひとときを体験すると、

こちらも不思議な感覚を得られる。

 

最近、レコーディグも済ませ、

オンラインで有料配信をすると聞いた。

 

最初、彼の絵を見せられ、

惚れ込んで個展をひらいた。

なかなか好評だった。

 

作品のタッチは、

やはりアメリカの60年代のにおいがぷんぷんしていて、

パワフルかつショッキングカラーで仕上がっている。

 

彼と待ち合わせると、必ず遅刻する。

何度目かに、遅れてきた彼に説教をしたら、

緊張すればするほど遅れてしまうという、

意味がよく分からない言い訳を涙目でしていたので、

ボクはあぁと理解した。

 

ボクも幼い頃は多動性っぽかったし

閉所恐怖症だし、

まあ人はいろいろなのだと

いつも思っている。

 

とにかくアートって楽しい。

くだらないこころの壁を

なんなく乗り越えてくれるからね!

 

↓彼の作品

 

 

今月の一枚

 

 

最近、発展がめざましい海老名だけど、

この駅をよく使う身としては、

人が異常に増えたことで、疲労度も増した。

 

都内、横浜方面で働く人が増えたと聞く。

みんなの歩く速度も以前より断然早い。

 

もう東京や横浜の街となんら変わりない。

都会的なカフェも次々にオープンし、

マンションが林立し、

クルマの渋滞も以前にも増して激しい。

ナビにない道も次々に生まれている。

 

ああ、このあたりも遂に大都会になってしまった!

 

がしかし、

駅前のららぽーとの屋上も夜になると閑散とし、

そこから眺める丹沢の山並みは雄大で、

昔となんら変わることなくどんと鎮座している。

仰ぐ空は、相変わらず広くてデカい。

 

近くをゆったりと流れる一級河川、

相模川の向こうは厚木の街。

川面は街と橋の灯りをゆらゆらと映しているが、

東京の多摩川や横浜の大岡川と比べると、

いまひとつ明るさに乏しい。

 

ボクの記憶によると、

都会といなかが混在したこの不思議な景色は、

半世紀前の横浜とおおいに重なる。

 

この日、ららぽーとの屋上でカメラを構えるも、

丹沢の山並みに日没はなかなか訪れず、

赤みがかった空がしばらく不気味に光っていた。

 

UFOが飛び出してきても何の違和感のない空。

 

そういえば最近、

この日本という国はなんかあやしい。

いや、中国だって朝鮮半島だって中東だって、

ロシアもヨーロッパもアメリカ大陸も、

地球全体がかなりあやしい…

 

ボクの脳裏に「フキツ」という文字が浮かんだ。

 

 

夏のうた

いくつもの夏が過ぎて。

 

若かったボクは年をとって、
思い出だけが積もり積もって心身がおもくなり、
だけどキミはしわの美しいおばあちゃんになり、
そして今年もあいかわらずに、
なんら変わることなく暑い夏がきた。

夏の早朝はそのすべてがうつくしい。
そう思うようになった。

(そういえば母は夏の似合う女性だった。
夏の早朝から丈の高い竿いっぱいに、
白い洗濯物を吊るしていた)

暑い夏でも、
朝は熱いコーヒーなんだ。

(アイスコーヒーなんて…)

なんだかきょうもやれそうな気がしてくる。

早朝は昨夕のメモから。

それを見返し、調べものをしたりする。

そうしているうちに窓の外の明るさに気づく。

「きょうも暑くなりそうね」

「そうなる前に歩きたいけれど、きょうも間に合いそうもない」

パソコンを閉じると、だいたい陽はもう高くなっていて
外は気温30℃に届きそうなようす。

いつも早朝に歩く算段を考えるけれど、
やることは相変わらずで、
まいど同じ後悔をくり返している。

夏はなんといっても
朝がうつくしいのに…

 

 

 

いくつもの夏が過ぎて。(その2)

 

今朝はとくべつに早起きをして、
さっさと戸外へとでかけた。

木々の間を抜けるとき
夜明けを告げる鳥が「生きている印なんだ」と

いっせいに鳴いている。

それはやがてオーケストラの森となった。

田園地帯に出てそこからながめる山なみは、
まだ黒い影を落としていて、
山体をまとわりつくように、
淡くて蒼い気流が流れている。

足元では、
朝つゆをころがす小さなむらさきの花がほうぼうに開いて、
それが途方もなくうつくしい。

夏の陽射しは早朝から
万物をめざめさせるに足る、
それはあふれるほどに、
生命の息吹に満ちている。

ボクは遠い青春のときを想った。

 

追悼「フジコ・ヘミング」

 

ピアニストのフジコ・ヘミングさんが、
去る4月に亡くなりました。
心よりご冥福をお祈りいたします。

数年前にようやくコンサートチケットが手に入り、
直にお聴きできる機会を得ました。
足が悪く辛そうで、歩行器につかまっての登場でした。

が、彼女がピアノに向かうと、会場の空気が一変しました。
それは不思議な体験でした。
一瞬で別の空間に連れていかれたかのような、
疑似トリップとでもいうべきものです。

聴衆が最も期待している「ラ・カンパネラ」。

右手が奏でるそのピアノの音は、
題名にふさわしく、まさにヨーロッパの古い教会の鐘の音
そのものでした。

この音は彼女にしか出せない…
それは技術やテクニックでは届かない、
他の何かなのだろうと。

きっと彼女には神様がついているに違いない━
そんな気すらさせるのですから。

そしてピアニストになるためにこの人は生れてきたんだと
思うに至りました。

フジコヘミングはスウェーデン人の父と日本人の母の間に生まれ、
幼少期からピアノに親しんで育ちました。
彼女はまた生涯をつうじて多くの困難に遭遇しましたが、
それでも音楽に対する情熱を失わずに歩んできました。

彼女はまず若くして片側の聴力を失うという
大きなハンディキャップを抱えました。

が人生の中ほどで、
人生最大のチャンスを掴むのです。
あの世界的指揮者であるバーンスタインに認められ、
将来を約束されたのです。

しかしヨーロッパデビュー本番の数日前から
彼女は原因不明の高熱におかされ、
反対の耳の聴力も失ってしまいます。
(その後60%くらい聞こえるようになるのですが)

こうして二度とない大きなチャンスを逃してしまいます。

のち彼女の不遇は長く続き、
ようやく世界に認められたのは、
60代の半ばからです。

そして怒涛のオファーが舞い込むのです。

その多忙は、90才前半のつい最近まで
途切れることがありませんでした。

彼女の演奏するものはどれも人々の心を揺さぶり、
深い感動を与えました。

彼女の奏でる音色には、
苦難を乗り越えた自身の強さと繊細さが感じられ、
聴く人々に勇気と希望を与えてくれます。

このように彼女の生涯は、
音楽を通じて人々に感動を届けるという使命を
全うしたものでした。

ボクがとりわけこの人に好感を抱き、
身近に感じるのは訳がありまして、
彼女が稀代のピアニストである以前に、
なにしろボクの伯母にそっくりだからなのです。

外見、顔の表情、そしてことばや服装のセンスまで、
ことごとくふたりは似ています。

伯母は服飾デザイナーだったので、
ボクにいろいろな服を縫ってくれました。
横浜の高島屋の特別食堂で、
よくチョコレートパフェをごちそうしてくれました。

その伯母のやさしさが彼女に重なってしまうのです。

伯母もまたフジコ・ヘミングと同様、生涯独身でした。

そして彼女(フジコ・ヘミング)がタバコを吸う姿はまた、
まったく嫌味がないばかりか、カッコよささえ漂うのです。
時代の風を超越した彼女自身の強い生き方を、
その姿で示しているような気がするのです。
(伯母はタバコを吸いませんでしたが)

「私だってよく間違えるわよ。だって機械じゃないんだから」
彼女がよく口走るせりふです。

演奏のできばえの良かった後のインタビューで、
彼女はこうこたえていました。

「神様も今日の私の演奏をきっとほめてくれているわよ」

━神に愛されたピアニスト━

フジコ・ヘミングは、これからも多くの人々の心に
響き続けることでしょう。
そして彼女の残した音楽の遺産は、
ボクたちの心に生き続ける━

そう思いませんか?

 

 

 

初夏の山は生命力にあふれている!!

 

山で暮らしていると、季節の移り変わりに敏感になる。

といっても標高100㍍そこそこの住宅地なので、

丘とか台地と呼ぶのがふさわしいような気もする。

 

早朝、あくびなんかしながら窓をあけると、

鋭角な陽射しが目の前にスッとのびる。

戸外の空気はひんやりしている。

気温は街中より3度以上は低いと思う。

 

遠くにそびえる連山を望むと、

中腹から上のほうが朝日で光っているのが見える。

 

いまでは見慣れた景色なんだけれど、

ぜんぜん飽きることがない。

 

最近になって気づいたのだけれど、

人って暮らす環境、とりわけロケーションによって、

心の有りようやライフスタイルに

かなりの影響を与えるのではないか?

ということ。

(当然ことなのだけれど)

 

先日でかけた茅ヶ崎のライブでも、

地元のおっさんおばさんたちがみんなおおらかで若い。

陽に焼けた笑顔が印象的でした。

 

横浜の街中で生まれ育って、

社会に出てからずっと東京のマンション暮らしだった身としては、

自然や四季の移り変わりを身近に感じられるところで暮らすことは、

贅沢としか言いようがない訳で、

もう都会に戻ろうなんてぜんぜん思わない。

 

毎朝、出勤する必要もないので、

駅チカであるとかタワマンとか、

どこか遠い価値観のように感じてしまう。

 

東京から引っ越してきた当初は、

毎日のように「不便だなぁ」を連発していた。

(当時は酒呑みだったので、繁華街と盛り場が至近にないと

生きてゆくことができなかったのだろう)

 

いなかはクルマの運転が必須なので、

酒を飲む機会もめっきり減り、

終いにはやめてしまったが…

 

おかげでそれまで医者に指摘されていた肝臓の数値の他、

いろいろな数値が少しづつ正常化してきたし、

時間の使い方も変化し、戸外に出る時間も増えた。

 

山を歩いたり、河原で焚き火をしたり、

近所の農家の畑を見に行ったり、

クルマをいじったり、

そして空いた時間に仕事をしたり…

夜は夜で、映画を観たり本を読んだりと、

実は毎日がけっこう忙しい。

 

話がかなり逸れてしまった。

 

そんな訳で、初夏の緑が目に痛いほどに、

山は生命力に満ちているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 茅ヶ崎ライブ(南佳孝・ブレッド&バターetc)へ行ってきた!

連休の5月5日、快晴。

久しぶりに海へでかける。

途中、車窓より富士山がかすんでみえた。

うん まだ雪をかぶっている?

平地はご覧のとおり、もう夏なのになぁ…

 

そして茅ヶ崎の浜の日差しも強烈だった。

さらに強風。

砂が、目に口に入ってひどい状態に。

サングラスは絶対必須でした。

あとマスクも…

 

 

会場に近づくとかなりの人混みとなる。

ステージから風に乗ってゆるい感じで、演奏が聞こえる。

みんなもゴロンとリラックスしてビールなんか飲んでいる。

パラソルやテントがあちこちにひらいて、

海にきたなぁと実感できる。

 

 

砂浜を久しぶりに歩くと、かなり足が重い。

歩きづらいけれど、

ロケーションの良いところを探すために、

あちこちをウロウロする。

 

にしても風がうるさくてすべてが聞きづらい。

マイクに風の音が混じっている。

まだ知らないバンドが演奏しているので、

寝転がって久しぶりの海をずっとながめる。

 

このイベントは、情報通の知人が教えてくれた。

あまり大々的に宣伝もしていないので、

ボクも以前は知らなかった。

 

今日のトリは、ブレッド&バター、

そして大トリが南佳孝さん。

全国区だけど、とりわけ湘南の人気ミュージシャンとあって、

年齢は高めの根強いファンが目立つ。

 

タトゥーを入れた70過ぎと思われるおばさんが、

ビール缶を片手にステージに上がって踊っているし、

不思議なレゲェのような服に身を包んだサングラスのおっさんが、

ムームーをひらひらさせたおばさんと抱き合っていたり、

なんだかよく分からない空気の中で、

ボクは「自由」というキーワードがアタマに浮かんだ。

 

あいかわらず富士山がかすんでみえる。

遠く伊豆半島のほうまで見渡せるロケーション。

沖に烏帽子岩、トンビが強風をコントロールして、

私たちの頭上でホバリングしながら、

会場を見下ろしている。

 

空も海もとても良い色をしている。

とにかく、いまここでボクは、

少なからず、自由を満喫しているのではないか。

そして、自由についてのつまらない定義みたいなことを

考えるのをやめた。

 

待ち合わせた知人とは、

ステージはそっちのけで話し込み、

時間は刻々と過ぎて、

そろそろという時間になる。

昼にきたというのに、あっという間にもう夕方。

日が傾いている。

そろそろトリがあらわれる頃だ。

 

ボクたちは場所を移動し、

ステージが垣間見える場所を確保するため、

ステージ裏の垣根の隙間をゲットする。

 

会場から異様な熱気が伝わる。

 

 

ブレッド&バターのふたりが登場した。

地元茅ヶ崎の仲間たちとおぼしき、

個性的な面々が最前列に集まる。

(とても不思議な雰囲気の湘南の方々…)

 

ボルテージは最高となり、

やがてはみんな総立ちとなり、

踊り出す人も。

 

彼らの人気は絶大で、

いつまでもアンコールが鳴り止まず。

(会場の気温が急上昇 笑)

 

そのうち、

楽屋裏に南佳孝さんの姿がちらちらと見え始めた。

で、ブレッド&バターがステージを去ると、

場の空気を一新するためだろうねぇ、

会場のスタッフが興奮した観客たちを座らせ、

最前線にコーンを置いたりしている。

 

南佳孝さんがステージにあらわれる。

全く違う空気感が会場に漂うんだよなぁ。

 

彼がギターのチューニングを神経質にはじめた。

 

で、ステージの雰囲気も一新したところで、

ボサノバ風の「日付変更線」からスタート。

 

このうたを聴いているうちに、

この会場が海岸にあることに、なんだか感激する。

 

 

そして、ウォークマンが発売された当時、

ボクはグアム島からパラオに飛ぶ飛行機のなかで、

まさにこの曲を聴いていたことを思い出した。

 

南佳孝さん自身も、街中のハコのライブより、

こうした海のロケーションが大好きなのだろう。

いつものクールで抑揚を効かせた、

そしてシャイな一面もみせながも、

最後はみんなにスタンドアップOKと、

かなりのってくれた。

「モンロー・ウォーク」「スローなブギにしてくれ」まで

披露してくれたのだから…

 

秀逸な曲、心をさらわれるうた、

海に溶けていくようなメロディー、

風に乗って消えてゆくボーカルの響き。

そして五月晴れの茅ヶ崎の砂浜。

 

舞台装置は完璧だった!

 

「いまこの瞬間、ボクは間違いなく自由だ!」

そう感じたボクの感覚は、間違っていない。

 

いまもそう確信している。

 

 

AIで絵本をつくってみた

 

せんじつAIツールのチャットGPTの話をしたが、

こいつがなかなか役に立つので、

こんどは絵本づくりに挑戦してみた。

 

過去に、手書きで絵本に挑戦したことがあるが、

あれはとんでもなく大変だった。

 

だって、まず話を考えるでしょ。

もちろん子ども向けなので、

ストーリーもそれにあわせたアイデアを

練らなくてはならない。

文章はわかりやすく、

かつ、なにかの気づきがあったり

感動があったりしたほうがなおいい。

 

ボクは、イモムシを主人公にした話でいこうと考えた。

 

イモムシって地中で眠っていて、地上に這い出してきて

さなぎになって木にぶら下がって、

やがて蝶に変身して大空を羽ばたくでしょ。

初心者のボクとしてはなかなかいい素材だなと。

 

で、文章にあわせて絵を考える。

そのとき、どの場面でひとかたまりにするか?

そのかたまりで象徴的な絵がほしくなる。

それらをあれこれと膨らましたり削ったりして、

文章と絵を確定する。

 

ボクは絵がかなり下手なので、

思案したあげく、

「はらぺこあおむし」という名作のあおむしをパクることにした。

 

パクるとはどうもひとぎきが悪いが、

描きはじめるとあおむしの絵が魅力的すぎて、

全くパクれない。

それどころか、少しモスラに似た

ぜんぜん違うイモムシができあがってしまった 笑

 

が、落ち込んでいる暇はない。

できあがった一枚いちまいの画用紙をカッターで切断して、

さてどう閉じようかと思案する。

 

ホチキスは論外なので、画用紙にていねいに穴をあけ、

100均で買ってきたリボンで閉じてみた。

 

まあ、そのできあがりの雑なことといったら、

しろうとまるだし。

自らの不器用さを笑いました。

 

これをボクのかわいい孫にプレゼントしたのだが、

反応はイマイチ。

あまりうれしそうではなかったような…気がしていた。

(このときはテキストをかなり省いたので、

下手な絵と雑な製本だけが強調された)

 

こうした失敗をバネに、

今度はチャットGPTという、

強力なツールに応援いただいた訳だ。

 

ボクのだいたいの原案テキストをチャットGPTに流し込み、

「絵本をつくるからあとはよろしく頼む」的指令を出すと、

あっという間にちょっと感動的な物語りを出してきた。

(なんかコイツ、すげぇなぁと感動した。

がそれもつかの間で怖いなぁとさえ

感じた次第)

 

が、コイツへの違和感はさておき、

ボクは先を急いだ。

 

チャットGPTがつくったテキストを

さらにこねくり回して分量を減らし、

すべてのテキストをひらがなに変換、

で、それをコマ割りしてページ数を決め、

今度はページごとの絵のイメージを決めて、

それをチャットGPTに投げてみた。

 

と、ひとこまの絵をつくるのに、

おおよそ15秒くらいかかっただろうか。

と突然、プロのイラストレーターなみの絵を、

パパッと出してきたではないか。(驚)

 

 

うーんとボクは意味不明のため息をついた。

(果たしてコイツはなにものなのか?)

 

で、しばらく作業を続けるうちに、

チャットGPTとのコミュニケーションに、

徐々にズレのようなものが生じはじめた。

 

指令(プロンプト)を間違うと、

いやニュアンスの捉え方が違っているのか。

とつぜん、以前と乖離した全く違うタッチの、

とんでもない絵を平気で出しはじめたのだ。

 

そのズレ具合がなかなか笑えるレベルなので、

このAIってすごいのか、かなりバカなのか?

そこがわからなくなってきた。

 

要するにAIに絵を描かせる場合は、

雰囲気とかニュアンスをどう伝えるか、

それがとにかく難しいということがわかった。

 

なので気に入った絵が出てくるまで

何度もやり直すこととなる。

そのたびにボクはテキストを駆使して

指令を出す訳なのだが、

双方の溝はなかなか埋まらず、

果てしなく疲れてしまった。

 

けっきょくこちらのイメージとピタリとくる絵は、

最後まで出てこなかった。

 

原因はテキストによるコミュニケーションだろう。

ボクの語彙力にも問題があるのだろうが、

テキストによる指令は

双方の感受性が違っていることが前提なので、

それ相応のズレが生じるのは当然。

 

希望の70パーセントあたりの出来が

限界なのだろうと推測する。

 

要は、落とし所を決めること。

 

(↑イケメンだってサッと描いてしまう)

 

が、それにしてもこうした作業は、

いつにない妙な疲労感が増す。

これはボクが感じたことのない、

新たな正体不明の焦燥だ。

 

こうした新しいツールは今後どんどん普及するだろう。

よってそこに新たなストレスが誕生するので、

多くのひとが苛まれるのではないかと危惧してしまう。

 

よくいわれることだが、

テクノロジーの進化が起こるごとに、

ある職業は消滅する。

そして、そこに携わるひとたちは仕事を失う。

だが革新は新たな職業を生み出すと。

 

今回は、たかがAIによる絵本づくりなのだけれど、

こうしたボクの体験が、

なんだかそんなことを示唆しているように思えてならない。

 

考え過ぎか?

 

(↑写真を放りこむとかっこいいイラストに大変身させてくれたりもします)

 

(追記)

できあがった絵本を、昨日やっと孫に渡すことができました!

なんだか興味津々に眺めてくれました。

で、間違い字をみつけてくれました 怖

つくり直しかなぁ 笑

 

 

空ばかり見ていた(2)

 

 

東京や横浜に較べると空が広く見えるのが厚木だ。

まあ端的に言うと厚木郊外はかなりのいなかなので、

遠方まで見渡せるところが多いだけなのだけれど。

 

横浜~東京~厚木と動いてみて、

いまは雄大な空が見渡せる、

この厚木郊外の景色が気に入っている。

 

なので、気がつくとボクは空ばかり見ている。

仕事に嫌気がさすとぷらぷら歩きながら気を紛らわす。

最近は晴天の日が多いので空は薄いブルー一色だ。

まるで絵の具で空を塗りつぶしたように。

 

そこに雲のひとつでもぽかんと浮いていると、

それだけで空はなかなか良い絵になるのだけれど

などと思いながら歩く。

 

 

先日は近くにある運動公園から夜空を眺めてみた。

下弦の月が暗くぼんやりと、まるで行灯のあかりのように見えた。

さらに目を凝らすと次々に星がまたたきだして、

空全体がかなり賑やかなのが分かってくる。

(空って饒舌なんだと思う)

 

ときに視界にスッと流れ星が見えることがある。

こんなとき、こんど流れ星を見たら願いごとでもしようと、

健康でいられますようにとか仕事がうまくいきますようにとか、

急いで台詞を用意するのだけれど、

以後まったく流れ星には遭遇しないことのほうが多い。

 

思い返せば、ちいさい頃はよく空を見上げていた。

そこは高度成長時代の横浜の港近くで、

空はいつもねずみ色でスモッグだらけの空だったけれど。

 

そんな癖だか習慣のようなものは中学生になっても続いていて、

テストの前は深夜放送を聴きながら、

合間によく真夜中の空を眺めていた。

 

大学を出て会社に入って東京に引っ越し

マンション暮らしをしていたときは

全く空を見上げた覚えがない。

ビルばかりなので空を見上げることを諦めていたのか、

そもそもそんな余裕すらなかったのか、

そのあたりは全く覚えていない。

 

で、厚木に来てから再び空を見上げるようになった。

今日も歩きながら空を眺めていた。

 

 

で、これはボクがふと思い浮かんだ屁理屈なんだけれど、

ボクが見ている空はボクだけがみていたオリジナルな景色な訳で、

それは他に較べようもないボクの世界であり、

同時刻に他で空を眺めている人がいたとしても、

それはその人の空でありボクの空では決してない、

と言うこと。

 

そんなの屁理屈だよって言われそうだけれど、

空ってそれほどに多様性に富んだ存在であり、

おのおの個性が反応すると、

それこそ天文学的な数の空の世界が存在していることとなる。

 

空は刻々と姿を変え色を変え表情を変える。

それはどう考えても不思議としか言いようがない。

だから、あいかわらずボクは空ばかり見上げている。

 

 

 

懐かしの海辺のホテルへ

 

正月から大事件ばかり起こっていて、

情報を追いかけるだけで精一杯。

テレビ、X、YouTubeのほか、

情報は多角的にとっているけれど、

なかなか真実にたどり着かないこともある。

 

或る疑問が生じると徹底的に調べることにしているが、

デマやフェイクが多く、

分かれ道で呆然と立ち尽くしてしまう。

 

これでもひとむかし前に比べればマシである。

新聞とテレビの凋落は何を示しているのか?

まあ、この話はいつかまとめて書きたいと考えている。

 

それにしても、やはり現実は悲惨である。

火事や家屋の倒壊で亡くなられた人が増えるたびに、

悲痛な気持ちになる。

怪我や体調の悪い方も、

この季節と北陸地方であることを鑑みると想像に難くない。

たとえ生き延びたとしても、

こんどは持久戦で戦わねばならない。

 

これは辛い。

 

ボクもかなり老いてきたので、

自分だったらどこまで耐えられるのか、

と考えるも、自信がない。

 

北陸地方には親類縁者もいないが、

さきの震災や豪雨災害のときに友人や知人が巻き込まれ、

その恐ろしさや苦労を幾度となく聞いていたので、

今回の災害の悲惨さも、すぐに想像がついた。

 

 

話は変わるが、

ボクの会社は3.11のときに、経済的に大きな負債を抱えた。

直接被災された方々とは比べものにならないくらい

ケチな話ではあるけれど、

経済的な立て直しに5年はかかった。

 

その舞台のひとつが、今回でかけた海辺に建つホテルである。

忘れがたい場所であり、いまではようやく懐かしいと

思えるようになった。

 

ここのホテルの仕事は、或る人物を通しての持ち込み企画だっ

たので、まあプレゼンで通ったら真剣にやりましょうと、

当初はたいして期待もしていなかった。

よって金銭やその他のことは、

あまり深く考えてはいなかった。

 

が、斯くしてプレゼンは通り、

本格的な準備に入いることとなった。

 

2010年のことである。

 

そんないきさつだから、当初から契約内容がかなり緩かった。

成果報酬型というスタイル、すべて後払いでOKです、

というのんきな内容の契約でスタートした。

 

言い換えれば、こちらにはこの企画にかなりの自信があったの

で、先行投資も苦にならなかった。

 

準備期間に10ヶ月を要した。

他の仕事を入れるキャパもないほど作業は多岐に渡り、

その期間はいわばタダ働き状態。

会社の経理はかなりまずい状態に陥った。

 

オープンは2011年4月1日。

で、あの3.11である。

世の中の空気はガラッと変わった。

恐ろしい暗転である。

 

世間に自粛ムードが広がり、

海だのホテルで優雅に過ごすだの、

そんなムードは完全に消失した。

 

準備期間中は、ホテルのスタッフさんたちには

かなりの迷惑をかけていた。

皆忙しいのにとても協力的で、

幾度も会議やオペレーションにもご参加いただいた。

とりわけ、料理に携わる方々には

新たなレシピも開発していただいたし。

 

震災は、ボクたちの企画を根本から打ち砕いた。

当然のことながら、結果は惨敗である。

 

5月の連休にさしかかる頃、ホテルの責任者から、

「この状況は当分続きますね!? 取りやめましょう」

と通告を受けた。

このときのショックは後々まで響いた。

 

こうしたときにモノをいうのが契約書なのだが、

前述したような内容なので、

こちらとしては何も言うことがない、言えない。

大きな負債だけが残ったという訳だ。

 

ボクは幼い頃からこのホテルが大好きだった。

とても憧れていたところだった。

よって、すべてにおいて、見積もりがあまかった。

 

あれから13年が経ち、ホテルは改装され、

ボクの大好きだったホテルの中庭にあったガラスの教会も

取り壊されてしまった。

 

あるとき撮影のために教会のなかに入ると、

使い込んで古びた長椅子に冬の日差しがさんさんと降り注ぎ、

エンヤの荘厳な歌が響き渡っていた。

 

 

思い出をたぐるように敷地を歩く。

そして新しいカフェに入って、

大きなガラス窓から海を眺めてくつろいだ。

 

椰子の木が風になびいている。

水平線の上を黒い雲が足早に流れてゆく。

光る海の向こうに伊豆大島が見える。

 

やはりボクはここが好きなのだと改めて思った。

ボクの企画は失敗したけれど

いまでは良い経験をしたと、

ようやく晴れ晴れとした気持ちになれた。

 

あれから13年も経ってしまったけれど…