青春しごと事情

 

私の仕事の原点は、肉体労働だった。

まず、金になること。金を手に入れ、

クルマを買うこと。

 

若い頃、働く理由と意欲の原動力は

それしかなかった。

 

それまでも、サッシ工場、ライター工場、

大型長距離便トラックの助手、

配送、果ては自らトラックドライバーとなり、

関東一円にコーヒー豆を運んでいた。

 

これらの仕事は、すべて金額で決めていた。

 

後、セールスドライバーもやったが、

これはこれで営業職も兼ねていたので、

割とアタマも使った。

 

当時、何ひとつ取り柄のない私にとって、

肉体労働は唯一稼げる仕事だった。

とりわけ、沖仲仕の仕事は

いまでも印象深い。

 

朝一番に横浜の港近くのドヤ街に行き、

立ちんぼと呼ばれる男たちとの交渉。

何の仕事で日当幾らが決まる。

 

とにかく最高の値の仕事を獲得する。

で、話が決まると、マイクロバスに乗せられ、

広い港のどこかよく分からない場所で降ろされる。

 

溜まっている男たちも、まあその日暮らしばかりで、

目だけが異様に鋭かった。

 

艀のような船に乗せられ、大きな貨物船の横へ付けられる。

貨物船の大きなクレーンから、続々と魚粉の麻袋が下ろされ、

下にいる私たちが、その麻袋をひたすら船に積み上げる。

 

一袋20㌔はあっただろうか。

麻は手で持たず、鎌をかけてひたすら横へ放り投げる。

それを他の奴が、船に隅から積み上げる。

 

たまに、高いクレーンの網に乗せ損ねた麻袋が、

船にドスンと落ちる。

 

「危ないぞ!」と聞こえた瞬間に落ちるので、

だいたい間に合わない。

が、この仕事の間、事故はなかった。

 

麻袋が落ちた真横にいる奴がにやにやしている。

それがどういう笑いなのか、よく分からない。

 

8月にこの仕事に就いたので、一日炎天下にさらされた。

 

躰が悲鳴を上げる。

腰が痛くてたまらない。

 

船の端で、

何が原因か分からない殴り合いの喧嘩が始まった。

よくそんな気力があるなと見ていると、

現場監督がヘルメットで二人を殴り倒し、

なにもなかったように、作業が続く。

 

昼飯に陸へ上がると、躰がゆらゆら揺れている。

船酔いのような気分の悪さが続く。

監督からメシが手渡される。

白飯と二切れのたくあんと真っ赤な梅干しが、

ビニール袋に詰め込まれている。

 

全く食欲が出ず、

コンテナの横のわずかな日陰に横になる。

目のどろんとした痩せた男がこっちを見て笑っている。

逃げようかと考えていた矢先だったので、

見透かされた気がした。

 

いつの間にか寝てしまい、

でかいボサボサ頭の男に尻を蹴られて起きる。

 

午後の作業はピッチが上がる。

この魚粉は、後にフィリピンの船に載せられ、

即刻、港を出なくてはならないらしい。

 

「急げ!」と檄が飛ぶ。

太陽に照らされた背中が赤く腫れ、

悲鳴を上げる。

 

水筒の水が切れてしまった。

体中が魚の粉まみれで臭い。

意識がもうろうとする。

 

もう、誰も口を利こうとしない。

 

やがて、

上に上がったクレーンを見上げると、

船員が終わりの合図を送ってきた。

 

丘に上がり、全員が日陰に臥せ、

しばらくの間、

誰も起き上がろうとはしなかった。

 

躰が揺れている。

 

帰りのマイクロバスはしんとして、

やはり誰も口を利かなかった。

 

クルマを降りると、

この連中の後へ続く。

そして露天でビールを煽ると、

ようやく、みな饒舌になった。

 

結局その後、妖しい店を数軒はしごし、

東神奈川の駅に着く頃、

財布の金は、ほぼ使い果たしてしまった。

 

こんなことを数日続けるうち、

いろいろな事を考えさせられた。

 

自分になにができるのか、とか、

なにか新しい事を始めなくては、とか、

漠然とした不安がよぎっては消えた。

 

クルマより大事なこと…

 

初めて自分の立っている場所を知ったのも、

この頃だった。

 

 

焚き火の魅力について語ろうか

 

なぜ、わざわざ焚き火にいくのか?

よくそんなことをきかれます。

 

薪とかイスとかバーナーとか

いろいろなものをクルマに積んで、

河原まで行ってじっと火を燃やすだけ。

いったいなにが面白いのかなぁ…って、

よく言われます。

そしてみな同じように、

「バーベキューなら分かるけれど」ってね。

 

わたし自身でさえ、そのことばに、

そうかそうなのかと、

同調したりしてしまいますから。

 

確かに、焚き火をしても腹がいっぱいに

なるわけではないし、

みんなでワイワイと騒ぐこともしない。

 

焚き火をしている人を観察していると、

確かにみな静かです。

で、穏やかな顔をしている。

 

自分でも、なぜ焚き火なのかについて

自問してみたけれど、

的確なこたえがみつからない。

シャープにはこたえられない。

 

まぁ、あえて理由づけをすれば、

日頃のメンドーなことを忘れさせてくれる。

いっしょうけんめい火をつけることだけに専念し、

あとは絶えず火の具合をみつつ

薪をくべることに集中する。

あとはまわりの景色を眺めながら、

ぼおっとしたり、

相手がいればぼそっと話したりする。

そんなところでしょうか?

 

 

焚き火に行くのは、

いつも一人か二人。

多くて3人くらいが、

焚き火に適していると思う。

 

大勢だと、なんだか違和感がある。

何かが変わってしまう。

 

きっとそのあたりに、

そのこたえがあるのだろうと思うのです。

 

 

今年になってから厳冬の河原で2回ほど

焚き火をしましたが、

あの陽が沈んだあとの冷え方は、

なかなか耐える価値がありますね。

あまりに寒くて、

雑多なことを考えてる余裕もない。

そこはしびれます。

 

今回はいい季節になったので、

カラダも楽ですが。

 

連休も近づいてきたし、

陽ざしが強烈になりました。

 

水辺の鳥も増えました。

いろいろな虫が飛んでいます。

名も知らない小さな花が

ところどころでいっせいに咲いています。

そして、山々に霞がかかって、

ぼんやりしていて

空気がおだやか。

 

季節は確実に動いているなと

感じる訳です。

 

そんなとき、

あまり難しい話はしませんし、

考えることもできやしない。

 

いま思いついたのですが、

焚き火って日常が入り込まないのが、

とてもいいのかも知れない。

 

 

よく焚き火の炎が人間の本能を

呼び起こすとか、

小むずかしいことを言う方がいますが、

私にはよく分からない。

 

ただ、川を流れる水の音だとか、

揺れる炎の美しさとか、

ひたすらそれだけを感じていると、

なぜだかとても平和な心持になります。

 

今回の焚き火では、イスにまるめておいた

私の愛用のヨットパーカーに火の粉が飛んで、

大きな焦げ穴が!

大失敗です。

 

そしていつものように、

服もカラダも煙臭くなる。

自分自身も含めてすべて洗濯です。

 

またクルマの室内も当然けむり臭い。

荷台には薪の破片が散らかっている。

 

と、後始末もいろいろと大変なのですが、

時間ができると、また懲りもせず

せっせと薪を買い集めたりして、

河原へと出かける。

 

うーん、なんなんでしょうね?

焚き火の魅力って。

 

厚木・七沢でコーヒーブレイク

 

神奈川県の厚木市七沢温泉近くにある、

パイオニアコーヒーにてひと休み。

 

温泉帰りではないですよ。

そんな贅沢は時間が許さないから。

 

 

 

ここは二度目。

ほどよい田舎の風景がいいんです。

コーヒー豆のローストと卸だから、

客の入りはあまり気にしていないようす。

こちらも気兼ねがない。

 

 

 

七沢ブレンドとチョコケーキをいただく。

いつもミルクを入れるけれど、

ストレートでいただいてもスッと飲める。

嫌な渋みもなく、胃にもさわらない。

 

 

外は風が強く店内にも風が抜ける。

スタンダード・ジャズが流れる店内。

 

 

とてもいい時間だなぁと改めて思う。

この風は海岸沿いの風のようだ。

すぐ近くに海が広がっている…

 

そんな錯覚に陥っても、

何の不思議もないようなひとときだった。

 

 

 

ボクの楽園

 

すでにTシャツは汗ばんでいた

 

久しぶりにデイパックを肩に

川辺へ出かけた

 

野辺の草を踏むと

いっせいに虫が跳ねた

飛び立った

 

手をついて土手にカラダを伏せてみた

目の前に無数のアリが行列をなしている

 

ここに無数の命が

さりげなくうごめいている

 

 

川沿いをさらに歩いていると

丹沢のやまなみに

うっすらと白い雲がのっかっている

 

晴れの空は当分続きそうだ

 

 

頭上の空は

深く澄んだコバルトブルー

 

光のコントラストが強い

 

目の前では

モンシロチョウが踊るように

黄色の花に近づいてはまた舞い上がる

 

 

 

川面をのぞくと

思いのほか澄んだ水

黒と赤のブチもようのコイが

ゆうゆうと泳いでいる

 

そんな景色を眺めながら

ひざしのなかを歩いていると

水面をなでたひやりとした風が

全身を通り過ぎる

 

雑そうが意気揚々と

背丈ほどまで伸びている

 

ここかしこで

きょうのこの日を祝福しているように

いきものたちは生命力に溢れていた

 

それは少し胸の高鳴るような発見だった

 

 

田園の向こうでは

日陰った森が黒々と鎮座する

その中に見える石の鳥居が

どこか異世界への入り口のようにも

思えてくるから

真昼の暗部はなぜかミステリアスだ

 

 

川沿いの桜の花はすでに終わりを迎え

風に舞う花びらが雪のように吹雪いて

まるで舞台劇のエンディングを思わせる

 

 

とても身近で

つい通り過ぎてしまうような川沿いの道

 

ボクは日常のわずかな時間の中で

極上の体験をしたように思う

 

それは楽園と呼ぶにふさわしい

 

 

年をとると、みえてくるもの

 

だいぶ以前の話。

夕飯を食いながらテレビを観ていた。

たまたまつけたチャンネルが、歌番組だった。

 

テレビは、実はどうでも良かった。

気晴らしに観ただけだった。

 

はじめは聴き流していたが、

ふとその歌詞が気になりだした。

そしてじっと聴き入ってしまい、

しまいに、涙が溢れた。

 

ああ、

年をとったなと思った。

 

懐メロは幾度となく聴いてはいたが、

あまり古いものは知らないし、

そうした歌は、私の親の世代の歌のように思われた。

 

二葉百合子の「岸壁の母」も、

私の親の世代がよく唄った歌だろう。

 

敗戦後、ソ連からの引揚船が着くたびに、

岸壁に立って息子の帰りを待ちわびる

母親の姿と心情を歌っている。

(この歌は実話を元につくられた)

 

私は若い頃から、

この歌がテレビから流れると、

陰気な気分にさせられた。

そして、すぐチャンネルを回していた。

大嫌いな歌だった。

 

私は、戦争を知らない子供たち、のひとりだ。

しかし、こうして中年になり、

両親もいなくなり、

また人の親となって永く生きていると、

なにか他の景色がみえてくる。

 

それは流行りものでなく、

浮き沈みするようなものでもなく、

情というか、

人生に対する愛おしさとでもいおうか。

 

人ってつくづく不思議な存在だと思う。

 

いろんなものを背負って

そしていつかは去ってゆく…

 

生きるおかしさも

捨てたい悲哀も、

人は抱えきれないものを

幾つも幾つも背負い、

 

一体、何処へ行くのだろうかと…

 

ライカは面白いか

 

 

最近、カメラを手に入れた。

いぜんから狙っていたカメラなので、

獲物を捕らえた、そんな感覚がある。

 

ずっとiPhoneで撮っていたが、

あるときから一種のつまらなさを感じていた。

 

どうつまらないのか?

 

写真を撮るという行為があまりにも気軽すぎて

日常的すぎること。

写りもそこそこでほぼ失敗しないという緊張感のなさ、

なにかを写すという行為とか出来に、

しまいにはなんのありがたみも感じなくなっていた。

 

それは心底まずい、

とてもいい精神状態ではないと思った。

 

撮ることがつまらなくなると、

なにか自分のなかの大切な感覚を

失ってしまった気分になる。

それを取り返さなくてはならない。

 

そんな訳で、

一歩踏み出してみたのだ。

 

以前から仕事ではニコンの一眼レフを使用していたが、

これがとにかく機能がアレコレと付いていて、

おまけにかなり重く、機動性に欠ける。

扱いづらい。

狂いなど一切ないし交換レンズも豊富なのだけれど。

 

よって的確に設定すれば、そのとおりに映る。

仕上がりもある一定のレベル以上である。

だがそれが面白いかとなると、

そこは全くの別問題であって、

個人的には面白さに欠け、

無味乾燥さだけが残っていた。

 

そこでiPhoneほど気軽じゃなくてもいいから、

ニコンの一眼レフほど

おおげさで的確じゃなくてもいいから、

なにかいいカメラはないものか。

そんな観点からカメラを検討し始めた。

 

マトはまずコンパクトなコンデジに絞られ、

操作と写りを調べるうちにこのカメラが浮上してきた。

が、ライカを狙ったもうひとつの大きな理由は、

あるテレビ番組を観てからだ。

 

「東京漂流」というベストセラーを書いた、

作家で写真家の藤原新也が、

幼年時代に暮らしていたふるさとを半世紀ぶりに訪ねる

という趣旨のドキュメンタリーのなかで、

彼が自分のふるさとの記憶を頼りに

まちじゅうを撮りながらほっつき歩く過程で手にしていたのが、

このカメラだったのだ。

 

 

彼は気が向くと、このカメラでなんでも撮る。

もちろん彼はプロなので簡単そうに撮ってはいるが、

その写したものを見返すと、

そのどれもがある種の物語性を帯びている。

 

美しいとか上手いという印象はないけれど、

いずれもが「ドラマ性」を帯びている。

 

それがプロゆえの出来なのか、

カメラが良いのか、

そこは判然とはしないのだが、

とにかくその番組を観てから

やはりライカだなと確信してしまった。

 

ライカはもともと自分のなかのあこがれのカメラでもあったし、

コンデジならなんとか予算も合う。

という訳で機種も一気に絞った。

もう他の機種は調べさえしなかった。

 

で、どうせ買うなら正規代理店でと決め、

神奈川県に一店しかない、横浜駅至近のそごうへと出かける。

 

そのライカの正規代理店で、

簡単な設定と操作を教えてもらったが、

ニコンなどとは全く違う操作がいくつかあって

それを感覚で覚えるまで戸惑いの連続が続いた。

逆に普通の一眼レフなどにあるべき機能などが

省かれているので、そこはスパッと忘れることができた。

さらには交換レンズも一切ないので、

いちいち考える必要もない。

 

構造はいたってシンプルで、

いわば感覚的に操作するカメラ、

そんな操作に徹している気がした。

 

 

あとは慣れしかない。

 

とにかくレンズがとても明るいので、

開放で撮れば、ボケ足がきれいに出る。

暗がりを狙えば、何気ない暗がりが

やはりというべきか、

少々ドラマチックな場面に映る気がする。

 

とにかく、

つまらないを面白く、

そして日常をドラマチックに!

 

テクニックのなさは十分承知しているので、

このカメラにはかなりの期待をしてしまう自分がいる。

 

 

森の時間

 

早春の山あいを

いっぽいっぽ足を運んで

ボクは頂をめざす

 

まだ冷えた躰は

無骨な木の階段を踏みしめるたび

徐々に上気し

いつか汗も滲むほどになると

おおげさにいえば

生きているという実感

そんな素朴な回答にたどり着く

 

息継ぎもやや荒くなり

早朝の森のなかでひとり

ボクという小さな存在が

無意味とも思えるような

汗を流している

 

こうして

森という大きな存在に溶けてゆくと

この世界はやがてボクを受け入れ

歓迎さえしてくれるのが

分かってくるのだ

 

木々の葉は無作為に

そして不文律に

ひらひらと森の小径に

落ちてゆく

そこにはきっと誰も知らない

森の法則のようなものが働いていて

ある一定の厳格さを伴い

この一帯の調和を保っているのだろう

 

やがて視界がひらけると

突然あちこちから

さまざまな鳥のさえずりが

きこえてくる

 

それは森のうわさ話のようでもあり

話題の主はひょっとすると

このボクなのかも知れない

 

立ち止まって

ペットボトルの水をひとくち

それが格別にうまいので

改めてしみじみとボトルを

眺めてしまう

 

歩くこと45分で頂に到着

 

丹沢山塊の端の展望台から

湘南、横浜、東京を望む

 

そして小さく霞む

きっとあのあたりであろうと

検討をつけた一帯を凝視し

そこで暮らしていた頃のことを

あれこれ思い返す

 

良いことも苦い記憶も

幾年月の時を経て

やがて

この森のなかでは

さらにかすかな苦みさえ消え

無色透明に浄化されてゆく

 

ひと息ついて

さあ引き返そうと

また歩き始めると

あちこちでうっすらと木々が芽吹いている

 

目を落とすと

足元の小さな花が美しい

 

ゆったりとした時間

四季のうつろい

森のリズム

 

若い頃は気にも止めなかった

いや全く分からなかった

そのひとつひとつを

 

この森は

丁寧に教えてくれる

 

 

ジャズライブでスイング!

 

知り合いのジャズボーカリストの方(女性)が、

ライブをやるというので、

付き合いで出かけることにしました。

この方は、首都圏のライブハウスで、

けっこう活躍している。

 

生で聴くのは、今回がほぼ初めて。

 

そもそもジャズって苦手でして、

この手のライブは、過去に数回しか行ったことがありません。

 

ジャズは、なんだか気難しいという先入観がある。

そのムカシ、ちょっとジャズをかじろうと、

本屋で「スイング・ジャーナル」をペラペラと眺めるも、

書いてある事柄が難しくて分からないし、

そもそもアーティストも知らない人ばかりだった。

そのときから、私のジャズに対する印象は、

小難しい能書きの多い音楽。

 

それで固まったまま、今日まで来てしまった。

そんな訳で、ジャズ音楽を聴いても、

馴染みのある知っているもの以外、

受け付けなくなってしまっていた。

例えば、「A列車で行こう」とか「ドライボーン」

「テイク・ファイブ」、「イン・ザ・ムード」とか、

その位しか知らない。

アーティストにしても、

日野照正とか渡辺貞夫は知ってるが、

あとは顔と名前と曲が一致しないので、

ほぼド素人の域を出ない。

 

で、今回はそろそろその殻を破ろうかと、

奮起して出かけた次第。

 

事前にYouTubeでジャズを幾つか聴いたが、

どうゆう訳か不思議とすぐ飽きてしまう。

で、眠くなる。

 

「ジャズはだめだなぁ」と呟きながら、

それも力を振り絞って家を出ましたね。

で、早めに到着してしまったので、

時間つぶしのため、

駅前のドトールでコーヒーを飲んで、

やれやれとめざす店へ。

 

その店は横浜のローカルな場所にあって、

その存在を知らないと店の前を歩いていても、

ほぼ気づかないほどに目立たない。

 

さてとドアを開ける。

店内は薄暗くすでに人が集まっているようす。

クラシックなテーブルが7つ位置かれ、

それぞれ4脚のイスと、

ステージの脇には、

よく使い込まれた音響機器がズラリ。

 

どのテーブルもほぼ客で埋まっている。

皆、くつろいでビールなんかを飲んでいる。

入り口近くの、ステージから一番遠い席が

ひとつ空いていたので、そこに腰をおろす。

 

店内を観察するに、

皆、ご高齢かつ常連と思える。

が、町中でみかける高齢者とはなんか違うのだ。

先入観からなのか、どの顔もイキイキとしていて、

とてもおしゃれにみえる。

ついでにムカシ遊んでいたな、というオーラが

ピシピシと放たれている。

 

ボクはノンアルコールビールを飲みながら、

手持ち無沙汰でiPhoneをいじくったりする。

 

そのうち知り合いのボーカリストの女性が、

声をかけてくれる。

やっと知り合いがひとり。

こういうシチュエーション、

あまり好きではない。

 

このボーカリストの方はこれからステージで唄うので、

いつもとはちょっと印象が違い、

けっこう派手目な衣装をまとっている。

(そもそもプロの方だったので当たり前か)

 

「楽しんでくださいね!」

「ええ、お気遣いありがとうございます」

………

 

にしても居心地が良くないな。

これから約3時間くらい、

ボクはここでじっとしていなくてはならない。

わぁー、成田空港からサイパンまでの飛行時間が、

ちょうどその位のじかんだったなぁと、妙な事を考える。

 

彼女が去り、まわりをウォッチしてみる。

カウンターに腰を据え、

ウィスキーをガンガン飲んでいる人がいる。

傍らにサックスが置かれている。

その横にさらにふたり。

一見、客のようなのだが、いや違うなぁ。

本日のアーティストなのか?

いや、それであればアルコール、控えるでしょ…

とかなんとか眺めていると、

この3人がおもむろに立ち上がり、

ステージへ。

(ほほぅ、そういうことね)

 

お~、皆とてもリラックスしている訳だ。

家庭的!

ではと、こちらも薄ら笑いを浮かべ、

まわりに合わせて彼らに拍手。

 

しかし、こちらはなんの期待もしていない。

ひょっとするとボクは寝てしまうかも知れないのだから。

 

しかし、ライブが始まると、

自分でも驚くべき己の反応があらわれた。

それはとても意外過ぎるほどのものだった。

それはいまでも忘れられない。

 

よくジャズマニアが

真空管のアンプでしか聴かないとか、

どでかいスピーカーの下にブロックを置くと

音が良くなるとか、

レコードで聴かないと分からないから

デジタルは拒否するだとか、

そういうのは、彼らの見栄ないし虚飾だと思っていた。

 

が、いつもYouTubeばかり聴いている身として、

このライブを聴いてから、

確かにそうだよなと納得してしまった。

 

ライブで味わうテナーサックスは

泣いているようでもあり、

語りかけてくるようでもあるし、

ベースはリズミカルに心身にまで食い込んでくるし、

ジャズピアノのあの響き渡る心地よいメロディーと

スーパー・テクニックは、

まさにホンモノだと確信してしまった。

 

それに、そもそもあれだけウィスキーを煽って

精密かつエネルギッシュ演奏を

3時間も続けることができるなんて…

 

まあ、驚きです。

 

4曲目あたりから、彼女がステージに上がり、

「Fly Me To The Moon」を唄うと、

店内のムードはまたガラリと変わり、

それはそれで趣を異にし、とてもムーディーな訳。

 

なんかいいなぁ、ジャズ。

 

そのうちぜんぜん違う、

もうひとりの自分が現れたではないか。

 

結局、3時間はあっという間に過ぎてしまった。

ボクはといえば、ノンアルコールが身上なのに、

いつのまにか数年ぶりにアルコールを口にし、

唐揚げをバクバクと食い、

しまいの果てには立ち上がり、

いわゆる「スイング」という奴を体験してしまったのだ。

 

どうですか、この変容ぶり!

(信用ならないオトコですな)

 

これからひと月に一度はライブへでかけたい、

そう思っている自分があらわれてしまいました。

 

先入観って、良くも悪くも自分を縛ります。

その殻をひとつ破ってみた結果、

また面白いものを見つけてしまいました!

 

 

 

 

 

 

 

空ばかりみていた

 

少年の頃から

空ばかりみていた

そして

海沿いのまちで育ったぼくは

よく丘にのぼって

遠くの海をながめていた

 

空と海がまじり合うそのあたりは

おおきな弧を描いて

その境界線へ船が消えたり

船が現れたりした

 

それはぼくにとって

とても不思議なことだった

 

海のうえを飛んでいる鳥をみると

なんだかとても自由であるように

ぼくには思えた

 

空の高いところに

光る機体がみえる

ぼくはその行く先に

あこがれた

 

その機体に人が乗っている

ぼくには考えられないことだったけれど

 

風のつよい日は

白い雲がかたちを変え

ついには人の姿となって

ぼくに手招きをした

 

「いっしょに行かないか、

遠いところへ!」

 

あの水平線のむこうになにがあるのか

ぼくはよく想像した

それはアメリカとか中国とか

テレビを観て知った国ではなく

アフリカとかフランスとかイタリアでもない

 

それはまったくぼくの知らないところだった

 

ぼくがつくりあげたその世界は

すべてでたらめでできていて

空中に浮かんでいる

 

水平線のはるかかなたの

遠い空の上に

ぽかんと浮かんでいる

 

そこはどこもみどりがいっぱいで

大きな木がたんさん生えていた

くだものもたわわだ

 

そこにはいろいろなひとがいて

肌のいろもばらばらで

みなそまつな原始人のようなかっこうをしている

みんな笑いながらいつもくだものを頬ばっている

 

なんてのんきでおだやかなせかいなんだろうと

ぼくはよく思ったものだ

 

でたらめのおとぎのせかい

 

ぼくはいまでも空ばかりみている

 

 

朝のうた

 

それはいつも

突然のできごとのように

つい思ってしまう

 

ベッドでボクが目を覚ますと

まず読みかけの本が目に入った

 

夕べ開いた

その本の内容を思い浮かべる

けれどそれは

すべて消えてしまって

なんにも覚えていない

 

徐々にだが

置時計のカチカチ音が聞こえてくる

手に触れるシーツの感触

うっすらと見えてくる白い壁紙

耳を澄ますと

外に人の歩く気配までしてきた

 

ああ新しい朝だと

いつもボクはそこで気づく

 

覚醒は進行し

ボクは起き上がって

戸を開ける

 

カーテンに飛び込んでくるあさひ

冬のキンと引き締まった冷気

 

それらがまるで

初めての体験のように

そのたびごとに

ボクは驚いてしまうのだ

 

枕元のペットボトルに気づいて

それを一気に飲み干す

 

朝はやはりというか

確実にボクの元に訪れたのだった

 

夕べ

ベッドで本を読みながら

そのまま消えてしまったボクは

気がつくと

この世界をふかんするように

遠いところから眺めていた

 

そこはなんというか

とても高いところのようであり

どこか別の空間のような気もする

そこは釈然としないのだが…

 

だから

新しい朝に生まれかわり

よみがえり

しかし予想どおりというか

一抹の不安のなか

この小さく些細なボクの朝に

ふたたび舞い降りることができたと

つい思ってしまう

 

毎日毎日くりかえす

なんの変哲もないこの朝に

だからボクは

深く感謝するのだ