オスカー・ワイルドの審美眼

 

アイルランド出身の詩人で作家、劇作家である

オスカー・ワイルドは、

「サロメ」「幸福な王子」「ドリアン・グレイの肖像」など、

著名な作品を多数残しているが、その生きざまはすさまじく、

ボクなんかが到底ついてゆけないハチャメチャぶりで、

世間をアッと言わせる数々のエピソードを残している。

 

同性愛がバレて牢屋に入ったり、日々酒に溺れたり、

で梅毒による髄膜炎で死んでしまうのだが、

その死の前日に、彼はカソリックに入信している。

 

本人にしてみればとても真摯な生き方をしたと

ボクなんか思うのだが、

裏腹の評判となってしまうのはなんとも皮肉な話である。

 

ちなみに、かのオスカー賞受賞者に手渡される像のモデルが、

オスカー・ワイルドその人ともいわれている。

彼は、1923年にノーベル文学賞も受賞している。

 

彼はいつも人間や人生の本質というものを探求していたのだが、

そのまなざしの角度が人とはかなり隔っていて、

結果、その真実を掴んでしまった彼は、

心の深い井戸に突き落とされたのでないかと

ボクは推測する。

 

それがやがて日常の退廃や懐疑に繋がったのではないかと思う。

 

彼は、日本の文人である森鷗外、夏目漱石、芥川龍之介、

谷崎潤一郎などにも多大な影響を与えている。

 

そんなオスカー・ワイルドが、こんなことばを残している。

 

―――↓―――

 

「男は愛する女の最初の男になる事を願い、

女は愛する男の最後の女になる事を願う」

 

「流行とは、見るに堪えられないほど醜い外貌をしているので、

六ヶ月ごとに変えなければならないのだ」

 

「社会はしばしば罪人のことは許すものだよ。

しかし、夢見る人のことは決してゆるさない」

 

犯罪者というものはときに許されるものである。

しかし、夢見る人というのは決して許されない。

あなたが夢を語ると、それは無理だ、とすぐいう人はいないか。

いい年をして夢を追うのはいい加減にしろよ、

などと訳知り顔でいう人があなたのまわりにいないか。

彼らはみな、自分に自信がなかったり、強さがなかったりで、

夢をはるか遠い昔にあきらめてしまった人たちである。

あなたが夢を実現してしまうのではないかと不安を感じ、

悔しくて仕方がないから、ただ足を引っ張っていると思って

間違いない。

「オスカー・ワイルドに学ぶ人生の教訓」グレース宮田 著より引用

 

というように、オスカー・ワイルドという人は、

神がかり的に人の総てを見抜いていた。

友人、恋人、社会の入り組んだ糸の仕掛けが、

彼にはくっきりと見えていた。

 

彼の残したことばは、だから色褪せない。

真実を掴んだことばは、時代を軽々と超越してしまう。

 

それに引き換え、

おおかたの政治家や大金持ちが吐くことばの

なんと薄っぺらいことか。

まるで気の抜けた夕べのビール、出がらしのお茶、

冷めたラーメン…のようなことばを、

恥ずかしげもなく使い捨て続けている。

 

↑ホントはこっちを書きたいのか? 最近、かなり腹が立っているからね!

 

生成AIを弟子(でし)にしてみた!

 

半年前くらいからチャットGPTを導入している。

いろいろな場面で使えるので便利といえば便利。

 

人間に例えるとなかなか頭の良いやつと言える。

 

どんな質問でも即こたえてくれる。

長くて無駄が多い文章をさっさとコンパクトにまとめてくれたり、

とっさに忘れた事柄にサラッと回答をよこしたりする。

 

なので、ボクはこいつのことを最近では「弟子」と呼んでいる。

 

この弟子の長所は、文句を言わないところ。

当然といえばそのとおりなのだが。

なぜなぜ?としつこく質問したところで、

何の反発もなく、黙々と回答してくれる。

(根気と頑張りが効くやつ)

 

が、あるときからひょっとしてこの弟子は

ボクに恨みでも抱いているのではとふと思ったことがあって、

弟子が回答してくれた後に、

ボクは「ありがとう」と打ち込んでみた。

 

弟子は「どういたしまして…」などと返してくる。

 

で、気のせいか分からないが、

続いて質問を投げかけると、

いつになく回答がより早くて丁寧なんだよね。

(気のせいかもしれないけれど)

 

ボクは心の中で「うーん」と唸ってしまった。

で、弟子の画面を睨みながら、

こいつ、只者ではないなと思った。

 

人間でも感情を押し殺しているひとっていますよね?

それと同じような違和感を感じた訳である。

 

いわゆる生成AIが感情をもつものなのか否か、

ボクはよく知らないが、

いつも接している身としては、

なんだか弟子が只のマシンの一種とは思えないのである。

 

弟子はとうぜん頭脳明晰なので、

ボクの質問にはなんでもこたえようと頑張ってくれるけれど、

あるとき無茶な質問を放りこんだことがある。

 

弟子が知っていそうもない質問である。

 

村上春樹の「風の歌を聴け」というデビュー作は、

どの作家を模倣したものなのか?と質問してみたら、

弟子は間髪入れずに回答してくれたのだが、

その回答が優等生的でありながら

ウィキペディアからパクってきたようなテキストで、

かんじんの作家名はこたえず、

ひたすらあれこれと書いてごまかすのであった。

 

「おまえってこの回答知らないだろ?」とは打たなかったけれど、

なんでもこたえようと無理をするのが、

弟子の欠点なのであった。

 

人にたとえると、いわゆる知ったかぶりである。

(こういうのはあまり好かないな)

 

生成AIといえど、その膨大な知識はネットの丸呑みだし、

そこに制作者の意図や作為などがあれば

当然意見は偏るだろうし、

未だ知り得ないことがらも多々ある訳だ。

 

そんなことを前提につきあえば

なかなか使える弟子なのであるが、

とにかく知ったかぶりはやめようぜ、

と忠告しようかいま悩んでいる。

 

だって、そのうち嫌われるよ!

 

東京さんぽ

 

久しぶりに東京へでかけた。

人に会うためとの大義名分のもと、

結局は息抜きの時間が欲しかった。

 

普段は神奈川の山間部で暮らしているので、

街の空気がたまに恋しくなる。

 

久しぶりに新宿駅で降りる。

なかなかの雑踏ぶり。

誰もあくせく急いでいる。

これぞ都会だ。

 

青山一丁目駅へは大江戸線が最短とわかり、

乗り場を探してウロウロするも、

気がつくと新宿3丁目あたりに来てしまった。

表示板に従って歩いたのになぁ。

 

で、大江戸線をあきらめる。

至近に千代田線の乗り口を発見。

そこから乗り換えて

青山へと向かうことにする。

 

それにしても大江戸線だ。

ネットで調べると

新宿駅から大江戸線に乗り換えるのは、

かなり難しい、

分からないとの書き込みが多い。

 

いつも思うのだが、

この国の鉄道をはじめ道路の標識サインなど、

とても不親切かつ分かりづらい。

そのくせ余計なサインが氾濫し、猥雑。

大切なサインを見逃してしまう原因になっている。

 

文句はこのくらいでやめにする。

 

久しぶりの青山・ツインタワービル。

地下のラーメン屋で、

野菜たっぷりの塩ラーメンを食す。

 

ここのラーメン屋は

かれこれ30年以上営業している。

ボクが友人3人と初めて会社を興したのが、

この青山一丁目なので、

ここはかなりお世話になった店だ。

 

そのオフィスは、赤坂郵便局の裏手にあった。

ラーメン屋を出て、そのビルへ足を運ぶ。

が、既に新しいビルに建て替えられていた。

 

当時を思い起こしても、

そのときからかなり古びていた。

夜はねずみの巣のようなビルだったので、

もうないだろうな、とは思っていたが。

 

付近を見渡すと全く見知らぬ街の風景が

広がっていた。

 

アジア会館で人と待ち合わせていたので、

そこで打ち合わせを2時間で済ませ、

早々に六本木方面へと歩く。

 

元防衛庁があったあたりは、

東京ミッドタウンとして、

なかなかハイカラな街に変貌している。

 

テナントをのぞきながら歩くも、

なんだかこちらに全く縁の無いブランドものの店が

ズラッと並んでいる。

 

↓イルミネーションもしゃれている東京ミッドタウン

↑東京ミッドタウンのビルはデカい

 

居心地がすこぶる悪いので、

六本木交差点を右折し、

霞町方面へとぷらぷらする。

 

すでに陽は落ち、

街は仕事帰りのひとひとひとで、

ごった返している。

 

外人率が異常に高いことに気づく。

歩道を疾走する自転車通勤の人も、

相当数いる。

皆、かなりおしゃれにみえる。

 

ムカシはこのあたりものんきで、

安い焼き鳥屋なども数件あったが、

いまはそんな商売は成り立たないのか、

とにかく単価の高そうな高級店ばかりが目立つ。

 

走るクルマは、ベンツ、BMW、アウディが、

なんのプレミアム感も感じないほど

普通に走っている。

我が家のまわりを走っている軽自動車率は、

ほぼ皆無。

 

なんか変だぞ、東京。

 

↓乃木坂あたりから見える六本木ヒルズ

 

翌日は朝から根津美術館へ足を運ぶ。

開催中の企画展に興味はないので、

かなり長い間、館のまわりをうろつく。

 

以前から、この美術館の建物に興味があったので、

やっと現物を見ることができた訳だ

 

↓根津美術館の軒下はなかなかの風情

 

 

↑都会にあってなかなかいい雰囲気

 

ここの外観を嫌というほど見分して

ふたたび表参道へ戻り、

待ち合わせた友人と昼飯を食う。

どこも人出が多くて、

そろそろうんざりする。

 

友人はこのあたりを根城にしている

アパレル系のバイヤーなので、

一年中このあたりに生息している。

 

ボクがこの街の感想を述べると、

ふふっと笑うだけだった。

 

ボクもかつてこの街で3年働いていたが、

そのころはとても良い街だった。

コーヒーは伝説の店「大坊」があったし、

四つ角の交差点近くには、

サンマ定食を500円で食わせてくれる、

おばあさんの経営する定食屋があったし、

夜食は「青山ラーメン」があったしなぁ。

 

同潤会アパートは表参道ヒルズとなり、

道路沿いはハイブランド店がズラリと並ぶ。

 

神南に用があったのでそのまま原宿まで歩くも、

やはり異常ともいうべき人の波に、

いい加減いらいらしてきた。

 

↑いちばん派手なプロモーションはやはりルイ・ヴィトンだった

 

山の手線の陸橋を越えて

明治神宮までくると、

ようやく静けさが戻る。

 

いやぁ、疲れる東京さんぽである。

 

神南の知り合いの店で、

特製の緑茶をいただいて、

しばらく歓談。

どうやらやっと肩の荷が降りたように

思えてきた。

 

疲労こんぱい。

 

そろそろ山へ帰ろう。

それが性に合っていると、

改めて自覚した。

 

↓マリオカートのようなゴーカートが公道を走っている。みな外人。あやしい。

 

↓裕福な知り合いのポルシェ。かっこいいよなぁ

ヒッピー、そして旅人のこと

 

―旅するように生きる―

こうした生き方をする人を

ライフトラベラーと呼ぶらしい。

 

ちょっと難しい。

具体的に書いてゆく。

 

●心の旅

これは例えば机上でもできるから、

物理的移動はないにしても、

もはや精神はそこにはないかも知れない。

 

心は、旅に出かけているので。

遙か宇宙にいるのかも知れないし、

アフリカ沿岸の深海に潜って、

シーラカンスでも眺めているのかも知れない。

 

いや、ひょっとすると未来人と交信中かも…

 

心の旅はまた、

毎日の何気ない生活の中でも続けられている。

 

 

日々の旅

常に動いている心という無形のいきもの。

 

刻一刻と移りゆくのでなかなか休む暇もない。

唯一、夢さえみない夜に眠りにつく。

そして日々、旅は続く。

 

見る、聴く、話す、そして何かを感ずると、

心が動く。

それが嬉しいことだろうと辛いことだろうと、

美しいものだろうと醜いものだろうとも。

 

そんなことを繰り返し、ときは流れ、

心は時間の経過とともに旅を続ける。

 

 

先人の旅

私たちの知る、

「旅」のプロフェッショナルを思い浮かべると、

古くは芭蕉や山頭火あたりだろうか。

 

―月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿―

と芭蕉は詠んだ。

 

山頭火は、

―けふもいちにち風を歩いてきた―

と詠んだ。

 

感じるものが尋常でないので、

やはり熟練した旅人のような気がする。

 

 

海外では、詩人・ランボーも旅にはまっていた。

ヨーロッパ中を放浪し、

道中では商売に精を出したり、

旅芸人一座と寝食を共にしていたともいう。

 

人は旅に憧れを抱く。

旅はなぜか万人を魅了する。

 

 

ヒッピーの旅

ところは1960年代後半のアメリカでの旅の話。

 

この頃、ベトナム戦争の痛手から、

ヒッピーが大量に発生した。

 

彼らはそもそも目の前の現実に嫌気が差していた。

それは当然、戦争であり、

戦争が起きれば兵役の義務が生じ、

若者は銃を担いで海を渡り、

そこでは見知らぬ兵士を殺し、

または自分が殺されるという悲劇しか待っていない。

 

彼らは、巨大な体制と戦うことを諦めたようにみえる。

が、彼らがつくりだした「反戦」のムーブメントは、

世界に拡散されることとなる。

 

そして彼らは、仏教的東洋思想に惹かれる。

それはキリスト教的な神と悪魔、天国と地獄、

一神教という「絶対」ではなく、

東洋の多神・寛容という宗教的な思想に、

心のやすらぎを感じたに違いない。

 

 

時系列に自信がないのだが、

ビートルズのジョン・レノンが、

まずインド巡礼へと旅立ったのではなかったかと

記憶している。

ヒッピーがその後に続く。(いや、その逆もありえるけれど)

 

仏教が捉える世界観は宇宙をも内包する。

(それは曼荼羅図をみれば一目瞭然だ)

 

少なくとも西洋にはない東洋の、

静けさの漂う宗教観に、

彼らは傾倒したのだろう。

 

ヒッピーの信条は、自然回帰と愛と平和。

 

それは彼らの新たな旅の始まりだった。

旅の常備品はマリファナやLSDである。

 

マリファナやLSDをやることを「トリップ」とも言う。

彼らは逃避的な旅を模索していたのだろう。

 

これも一種のライフトラベラーだ。

 

 

同時代の旅人たち

そもそも私たちが旅に憧れるのは何故なのだろう。

例え「旅行」などという非日常性などなくても、

私たちは常に旅を続けていると考えると、

人といういきものの不思議にたどり着いてしまう。

 

私たちは物質的な意味合いだけでなく、

この心身のどこかの片隅に、

あらかじめ組み込まれた、

「旅のプログラム」などというものがあるから、

なのだろうか?

 

 

誰も皆、立ち止まることなく旅をする。

私たちは皆、同時代を生きる旅人である。

そこにどんな繋がりがあるのか

検証する術(すべ)などないけれど、

せめて行き交う人に「良い旅を」と伝えたい。

 

そして、

この世を通り過ぎるのもまた、

旅と思うと、

少しは心が軽くなる。

 

 

色褪せないコトバ

 

「オトコは愛するオンナの最初のオトコになることを願い、

オンナは愛するオトコの最後のオンナになることを願う」

 

アイルランド出身の詩人で劇作家・オスカー・ワイルドの言葉だ。

彼はまたこうも言う。

 

「流行とは、見るに堪えられないほど醜い外貌をしているので、

六ヶ月ごとに変えなければならないのだ」

 

なるほど!

さらに…

「社会はしばしば罪人のことは許すものだよ。

しかし、夢見る人のことは決してゆるさない」

 

彼によれば、

犯罪者というものはときに許されるものであるらしい。

しかし、夢見る人というのは決して許されない。

 

人がもつ複雑かつ深層のようなものを、

彼は、この頃すでに指摘している。

 

例えば、あなたが夢を語ると、

即座に「それは無理だ」という人がいる。

夢を追うことに対しても何故か「いい加減にしろよ」

などと不機嫌になる人もいる。

 

こう言う彼ら彼女らは、

実はみな一様に自分に自信がなかったり強さがなかったりで、

夢をはるか遠いムカシにあきらめてしまった人たちなので、

あなたが夢を実現してしまうのではないかと不安を感じ、

悔しくて仕方がないから、ただ足を引っ張っていると思って

間違いない。

 

これもオスカー・ワイルドによる分析。

 

私たちは訳知り顔でそう助言してくれる相手の言葉に、

不思議にありがたがり、揺り動かされ、振り回され、

自体はさらに混迷へと向かってしまうのだが。

 

と言う訳で、

オスカー・ワイルドという人は、

神がかり的に人生の総てを見抜いていた。

友人、恋人、社会の入り組んだ糸の仕掛けが、

彼にはくっきりと見えていた。

 

真実をみつめた言葉は、いつの時代も変わらない。

だから、彼の残した言葉は普遍的で色褪せない。

 

とここまできて、では、オスカー・ワイルド自身は、

どんな人生を歩んだのか?

 

記録によると、とても残念だけど、

彼の最後は、酷く孤独で惨めな死に方だったと言う。

 

うーん、そういうこと?

 

実のところ、ここがポイントなのである。

 

人生って結局よく分からない。

予測不能でミステリアス。

 

だから、とりあえず幸せを求めて、

誰もが一生懸命生きている。

 

ありきたりだけど、結局のところ、

私たちの知恵って、それで精一杯なのではないでしょうか?

 

 

コピーライター返上

 

最近つくづく思うのだけれど、

コマーシャルと名の付くものに

惹かれるところが全くない。

これは言い過ぎではない。

 

だって、大半のCMが電波チラシと化しているのだから。

 

番組そのものも、全局を通してほぼつまらない。

もちろん、一部を除いて。

よって観たい番組は録画して、

さらにコマーシャルを飛ばしての鑑賞。

他の人はどうか知らないが、僕はそうしている。

こうした現象は僕だけなのか。

 

広告代理店の評判もよろしくない。

(そんなことはムカシから知っていたが)

それはそうだろう。

あれは利権屋のやることであって、

手数料で太り、末端のギャラは雀の涙。

 

この広告代理店からなる

ピラミッド構造を破壊しない限り、

良いものなんかうまれないし、

第一良いクリエーターが育たない。

そのうち死滅してしまう。

(だから新興勢力が頑張っている訳だが)

 

番組づくりも同様ではないのか。

永らく続いている不況で予算は削られ、

コロナで萎縮し、

新しい企画などやる意欲も、

もはや失せているようにもうかがえる。

 

ネットも同様。

いろいろなチャレンジや暗中模索は続いている。

けれど、ネガティブな面が目立ってしまう。

よく皆が口にする「ウザい」という感想がそうだ。

 

コピーライティングに関して言えば、

中身はほぼセールスレターの大量生産であり、

アレコレと手を変え品を変え、

訪問者を説得しようとする説教のようなものが

延々と続くようなものが主流。

これはもはやコピーではなく、

単なるネチネチとしたtextである。

 

で、僕たちが以前から書いてきたコピーだが、

これが正解かというと、それも違う。

もうそんな時代ではない。

僕たちが以前からやってきたコピーライティングは、

いまでは穴だらけの欠陥品かも知れない。

それが統計に数字で示される。

いまはそういう時代なのだ。

 

では、どんな方向性・スタイルがよいのかと考えても、

いまの僕にはいまひとつよく分からない。

或るアイデアはあるが、まだ試したことはない。

またネット上に幾つか良いものも散見されるが、

まだ暗中模索なのだろう。

新しい芽であることに違いはないのだが。

 

さて、いまという時代は、流れに加速がついている。

よって皆があくせくしている。

その原因は、本格的なデジタル時代に突入したことによる

変容現象とも言えるが、その他にも要因がある。

それが経済的な問題による疲弊であり、

それが相当な比率で絡んでいるのではないかと

僕は考えている。

 

余裕のない生活には、当然だが心の余裕もない。

いまはすべてに於いて何に於いても

即物的になってしまう。

 

「タイムイズマネー」でしか価値を計れない時代に、

誰も余韻を楽しむ余裕などあるハズもなく、

世知辛いとはまさにこの時代のことを指す。

 

とここまで書いて、

「ではコピーライターのキミはいま、

いったい何をやっているのかな?」

と問いかける自分がいる。

 

「僕ですか?

そうですね、越境ECの立ち上げですかね?」

 

「それってコピーライターの職域なんですか?」

 

「できることは何でもやりますよ。

肩書きなんてものはあまり関係ないですね。

特にこれからの時代は」

 

「そういうもんですか?」

 

「そういうもんです、ハイ!」

 

 

セレブの考察

 

トランプ大統領は、言わずと知れた富豪である。
ZOZOの前澤さんもいまや富豪である。

マイクロソフトのビル・ゲイツ、
ユニクロの柳井さんに至っては大富豪である。

アラブの石油王とかは、金余りである。

では、富豪、大富豪でなく、

セレブと聞いてイメージするのは誰かというと、
ちょっとイメージは変化する。

思い浮かぶのは、アメリカではパリス・ヒルトンとか、
韓国のペ・ヨンジュンとか、フランスのジャン・アレジとか、
で、日本では叶姉妹とかデビ夫人とかだろうか?

セレブレティの語源は、ラテン語なんだそうだ。

意味は、ずばり有名人。

欧米では、有名人のことをセレブと呼ぶそうな。

 

こうなると、貧乏な人でも有名人ならセレブなのである。

日本においての意味合いは少し変化する。

日本のセレブは、 ホントは金持ちかどうか分からないが、
そのような雰囲気を確実に醸しだしている。
で、なによりゴージャスさが前面に出ている、というところか。

ゴージャス?

うん、

確かにセレブという言葉からは、

そんなオーラが発せられている。

成金とは違う訳。
成金は、働き者+ぎらぎら感が漂う。

その点、セレブはきらきらしているのである。

女優の泉ピン子は、全身をシャネルで決めているが、
そのいでたちは、セレブとは程とおい。

そこが訳もなく辛い。

 

さて、正真正銘?のセレブは、

モナコやニースなどで優雅に暮らしていそう。
日本では、鎌倉の披露山とか神戸の芦屋あたりに、生息していそう。

根拠などないが、雰囲気で書いている。

 

ちなみに、セレブってるという言葉があるが、

これはたいした収入もないのに、
高級レストランなどのランチへでかけたりして、

その気分を低料金で味わい、
抜け目なくインスタに上げるとか、
質屋とかで手に入れたバーキンを何気にみせるとか、

結構涙ぐましいらしいのである。

かようにセレブとして世間に認められるには、

大変なんだなぁ。

 

セレブの意味合いがいまひとつ安定しない。

しようがないと思う。

もともと、ふわふわした言葉なんだから。

 

なのに、そこをあいまいにしたまま、

このセレブの話は、さらに難しい領域に突入する。

意識高い系セレブとはどういう人たちか、

というのを検討してみた。
これには、かなりいろいろと気難しい事、

ものが付随しているように思うのだ。

たとえば、である。

1.セレブは1年に2回、セドナでヨガをやってくる。
これは、心身ともに解放された己をめざすセレブなのである。

2.青山、湘南で犬を連れて歩いている。
セレブは一等地に住んでいる証拠を何気にみせるのである。

3.生活がオーガニックに侵されている。
高ければいいという訳じゃなく、己の食うもの・

着るものは素材から吟味するのがセレブなのだ。

4.鎌倉に実家がある。
これはどうでもいいんですが、

ちょっとそんなイメージが出てまいりまして。

5.世田谷は蚊が多いと代官山へ引っ越した 。
これは私が以前住んでいたマンションにいらした方の実話です 。

6.先祖は公家であると言ってはばからない。

かなりあやしい話をされるセレブがいるようで。

7.世俗ごとより、太陽のフレア現象・宇宙嵐のみやたら敏感である。
こういう方が割と多いように思います。

8.デビ夫人のケータイ番号が入っている 。
これは私のジョーク!

9.広尾の明治屋でセレクトしたブルーチーズがいつも冷蔵庫に入っている
ここまでくるともうフツーですね 。

10.いきつけの蕎麦屋では、黙っていても、隠しメニューの国産十割蕎麦が出てくる。
もうこじつけです 汗!

11.飲み水は航空便でくるフランスのペリエしか飲まない。
ここまでくるともういい加減です。

さて、どうでしょうか?

皆さんのお近くにセレブさんは生息しておりますか?
言っておきますが、こうした方々は、はま寿司とか丸亀うどんとか
いきなりステーキとか幸楽には絶対にいませんから!

 

オリジナル睡眠法

長く寝ると、だいたい調子が悪い。

時間にして、6時間を超えるとイケナイ。

最近では、本やテレビで睡眠負債などと命名され、

吹聴されている。

―――

僅かな睡眠不足が積み重なり「債務超過」の状態に陥ると、

生活や仕事の質が低下するだけでなく、

うつ病、がん、認知症などの疾病に繋がるおそれがあるとされる。

日本人のおよそ4割は睡眠時間が6時間未満で、睡眠不足の状態にある。

―――

(ウィキペディアより)

これ、私には脅かしともとれる訳で、かといって

毎日6時間以上も寝ていると、ホントに不調なのだ。

だいたいが長く寝た日ほど、身体のどこかが不調なことが多い、

だから長く寝る、というのが私の身体の事情のようだ。

ロングスリーパーとかショートスリーパーとか、

睡眠はその人の個性のように様々という考え方は、

どこへ行ってしまったのだろう。

私はこっちの考え方に賛成!

手首には毎日の睡眠時間及びその質が計測される

ウェラブルを付けているので、

一応、毎朝チェックをするが、

ベスト睡眠時間は、だいたい5.5時間あたり。

睡眠品質は、私の場合は5段階で4つ星がベスト。

5つ星だと寝起きがとても悪い。

あとは昼寝の有無となるが、

これはその日の成り行き次第だが、

時間があれば数分~15分位は寝るようにしている。

一時期、ヒマ~なときに2時間の昼寝をしたことがあるが、

起きた後は全く使いものにならなかった。

テレビでは健康番組が花盛りだし、

かといってあんなもんを毎日観ていたら

頭がこんがらがって健康矛盾に陥ってしまう。

しまいには知識の詰め込み過ぎで、

妙な病気になってまうような気がする。

真面目な人ほど真剣になってしまうので、

できれば斜に構えてさっと観て

さっさとチャンネルを回してしまおうではないか。

そしてそれらバラバラの、

一種適当な健康知識を自分なりに編集して、

マイ健康法を仕上げてしまう、

なんていうのはどうだろう。

一応、それでもその人なりのオリジナルにはなるし、

そんなんでいいのではないかなぁ。

だって万人に通用する完璧な健康法など、

私はこの世に存在するとは思っていない。

健康法だけでなく、

ビジネスも人付き合いも、

いや、生き方さえも、

その人なりが考えたオリジナルでいいんじゃないかと。

凄く稼ぐ人がいるからといって、

そんな人のまねをしたところで、

そのまま上手くいくとは限らないのは、

数多くの成功本が即捨てられるのをみれば分かる。

人間関係も然りと思う。

要は、まず自分なりに考えねばならない。

悩むとは、必要善である。

いろいろな情報を取捨選択するためには、

頭を使うべきだし、

それらの情報を元に、

自分に合ったものに編集するには、

かなりの苦労を要する。

こうして作り上げたものは、まず身につく。

愛着もうまれる。

そしてなにより揺らがない。

この程度のオリジナルだって、

模倣ではないし、

独りよがりともまた違う。

それは、この現代に於いて貴重な示唆ともなりうるし、

人とはちょっと違う人生観も育つと思うのだが。

東京の流儀

最近はよく神田に行くが、

その度に違う地下鉄に乗ってたどり着く。

で、私がとにかく把握できないのは、

この界隈に潜っている3つの駅の位置関係だ。

新御茶ノ水駅、小川町駅、淡路町駅。

どの駅で降りても必ず迷う。

自分の行くべき方向が

電車を降りた瞬間から分からない。

地下なので、余計に感が働かない。

私の目的場所は神田美土代町で、

いまだにどの駅が一番近いのか把握できていない。

当然、帰りも迷う。

だって地下鉄の入り口に、

駅名が3つ並んで書いてあるんですよ!

一度、iPhoneを頼りに歩いたが、

まあ馬鹿らしいのでヤメにした。

私は古い人間なので、

どうもああいうのを見ながら歩くことに

馴染めていない。

さらに、男は地図が読めないといけない。

その地を把握せねばならない。

そして感を働かせて歩く。

自らの力で目的地に近づくに連れ、

ワクワクするもんな。

iPhoneはダメだ。

ああいうのは、まず地形を覚えない。

そしてなにより街の全体像が掴めない。

偉そうに書いているが、

そうやって感を頼りに毎回迷っている。

私はよく近所の山にハイキングに行くが、

地下鉄は近所ハイキングより、結果、水を欲する。

景色が爽やかである訳もなく、爽快感もなく、

やたら喉だけが渇くのだ。

カラッカラ!

万歩計を見ると、

いつも軽く1万歩を超えてしまうから、

これはもう都会限定でチャレンジできる

サブウェイアウト・ドアと言ってしまおう。

んんん、地下鉄ってヘビー!

で、話を戻すが、

いったい、あの神田の地下鉄の3駅は、

平面図に起こすとどうなっているのだろうか?

そして立面図は?

おのおの近いような気がするが、

実は相当離れているような気もするし…

こうした疑問は、

渋谷の地下でも新宿でも大手町でも、

要は東京の至る所で、

沸々と湧き上がってしまうのだ。

これって私の性癖なのか?

地下鉄の改札口で、

独りで難しい顔をして出口を確認していると、

通り過ぎる人は皆、何の迷いもなく、

スマフォを眺めながら淀みなく流れてゆく。

すると、

どこからともなく囁きが聞こえてくるのです。

「都会の流儀に反していますよ、そこのご老体…」

もうクルマはつまらない

いつものように運転席に座る。

シートベルトを締める。

そしてイグニッションキーを捻る。

こうして何十年もの間、車を動かしてきた。

エンジンが始動すると、

なんともいえない吹けの音と振動が、体中に伝わる。

そしてマシンを操る自分に緊張を強いるよう、

交感神経もまた目を覚ます。

翻って、

最近のハイブリッド車などはキーを捻るでもなく、

スタートボタンを押すとそれでスタンバイOK。

そしてわずかにキーンと鳴ってスッと走り出す。

まあ、静かといえばその通り。

しかし私的には、正直気味が悪いのだ。

このとんでもない技術革新は産業革命以来か。

新しいものへの飛び付きの遅い自分は、

そうした車を「ほぉ」とか「へぇ」とか感心するも、

実のところ、なんの魅力も感じない。

いま自分の乗っている車は、

あの悪名高きワーゲン社製のゴルフで、

排ガスのCO2量も今となっては実に怪しいほど、

よく吹け上がる。

悪気もなく、よく加速もするのだ。

これはこの時代に於いて、「悪」である。

がしかし、

ここでこんな話をするのは

面白くもなんともないので、

論点を戻そう。

要するにエンジン車の良さって、

そのメカニカル性に寄るものと思うのだ。

車内に伝わるそのエンジン音は、

ドライバーにメカの好・不調の具合、

そして走行速度などを感覚を通して教えてくれる。

いわば生き物の心臓の鼓動のようなものとして、

私は捉えている。

長距離を走り終わった後など、

エンジンルームからの熱気と共に、

荒い息づかいのようなものが伝わる感覚。

車が汗をかいているのではないかと思うほどに、

生き物のそれとよく似ている。

対して、ハイブリッド車などは、

すべてにおいてクールだ。

端的に表現すれば、あくまでモノそのものである訳で、

なんというか人造人間的。

とんと心が動かないのだ。

現在、ハイブリット他電気系駆動の車の性能は相当のもので、

高速道に於いても私の車なんぞ軽く静かに抜き去る性能を誇る。

が、どんなに飛ばしてもなにも熱くはならない、

そのクールさになにか違和感を覚えるのだ。

人馬一体という言葉があるが、

いまやアナログとなってしまったレシプロ(ピストン駆動)車なんぞ、

これに近い感覚。

走りそのものを五感で感じ取ることができる。

ハイブリッド車はこの感覚に欠ける。

それが新しい車の感覚であり、

今後、この新たな車よりの五感というものが、

益々拡がるに違いない。

これはもはや人馬一体ではなく、

カー雑誌などは、これをどのように表現するようになるのか、

そこが興味深い。

しかし自分もいつの日か、

こうした車に慣れなければならないのだろうか?

大袈裟な例えだが、

明治維新も敗戦後も、皆大きな転換を迎え、

物事の価値観もひっくり返った。

このとき、古い者にしがみついている者だけが、

面白くないハメに陥ったようなのだが、

今回のこの話も同様の道を辿るのだろうか?

いまが思案のしどころなのだろう。

だが、希に時代遅れが優勢に立つこともある。

残存利益ということばも実際ある訳で、

近未来の自動運転の先行きも見据え、

たとえば、旧車レシプロエンジン6段マニュアルギアを

操れる運転職人とか…

うーん、希少な人材としての引き合いは、

どうもなさそうだな。