友人のライブへでかける

 

友人と言ってもボクよりずっと年下で、

まだまだ若い。

彼は、ブランド服の販売のプロなのだが、

なんだか性格が自由過ぎて、いままでに3度くらいかな、

職場をクビになっている。

 

忙しい職場が嫌いで、いつも妄想に耽り、

詩をつくったり絵を描いたり、

ギターの練習をしたりしている、らしい。

 

ライブハウスは小田急線の百合ヶ丘駅近く。

古いビルの地下だった。

ボクは閉所恐怖症なので、3時間近くいたけれど、

正直、少し息苦しかったような気がする。

 

この日、彼の歌とギターをはじめて聴いた。

詩が繊細でいい。

メロディーもギターテクニックもなかなか。

うぬぼれるからあまり言いたくはないけれど、

ちょっとボブ・ディランを思い出してしまった。

 

歌う格好も、1960年代に流行ったような、

ヒッピースタイル。

なんか笑ってしまった。

 

が、歌もファッションも

彼の手にかかると決して古くない。

感覚は鋭く、むしろ最先端なのではないか。

 

こんなひとときを体験すると、

こちらも不思議な感覚を得られる。

 

最近、レコーディグも済ませ、

オンラインで有料配信をすると聞いた。

 

最初、彼の絵を見せられ、

惚れ込んで個展をひらいた。

なかなか好評だった。

 

作品のタッチは、

やはりアメリカの60年代のにおいがぷんぷんしていて、

パワフルかつショッキングカラーで仕上がっている。

 

彼と待ち合わせると、必ず遅刻する。

何度目かに、遅れてきた彼に説教をしたら、

緊張すればするほど遅れてしまうという、

意味がよく分からない言い訳を涙目でしていたので、

ボクはあぁと理解した。

 

ボクも幼い頃は多動性っぽかったし

閉所恐怖症だし、

まあ人はいろいろなのだと

いつも思っている。

 

とにかくアートって楽しい。

くだらないこころの壁を

なんなく乗り越えてくれるからね!

 

↓彼の作品

 

 

AIで絵本をつくってみた

 

せんじつAIツールのチャットGPTの話をしたが、

こいつがなかなか役に立つので、

こんどは絵本づくりに挑戦してみた。

 

過去に、手書きで絵本に挑戦したことがあるが、

あれはとんでもなく大変だった。

 

だって、まず話を考えるでしょ。

もちろん子ども向けなので、

ストーリーもそれにあわせたアイデアを

練らなくてはならない。

文章はわかりやすく、

かつ、なにかの気づきがあったり

感動があったりしたほうがなおいい。

 

ボクは、イモムシを主人公にした話でいこうと考えた。

 

イモムシって地中で眠っていて、地上に這い出してきて

さなぎになって木にぶら下がって、

やがて蝶に変身して大空を羽ばたくでしょ。

初心者のボクとしてはなかなかいい素材だなと。

 

で、文章にあわせて絵を考える。

そのとき、どの場面でひとかたまりにするか?

そのかたまりで象徴的な絵がほしくなる。

それらをあれこれと膨らましたり削ったりして、

文章と絵を確定する。

 

ボクは絵がかなり下手なので、

思案したあげく、

「はらぺこあおむし」という名作のあおむしをパクることにした。

 

パクるとはどうもひとぎきが悪いが、

描きはじめるとあおむしの絵が魅力的すぎて、

全くパクれない。

それどころか、少しモスラに似た

ぜんぜん違うイモムシができあがってしまった 笑

 

が、落ち込んでいる暇はない。

できあがった一枚いちまいの画用紙をカッターで切断して、

さてどう閉じようかと思案する。

 

ホチキスは論外なので、画用紙にていねいに穴をあけ、

100均で買ってきたリボンで閉じてみた。

 

まあ、そのできあがりの雑なことといったら、

しろうとまるだし。

自らの不器用さを笑いました。

 

これをボクのかわいい孫にプレゼントしたのだが、

反応はイマイチ。

あまりうれしそうではなかったような…気がしていた。

(このときはテキストをかなり省いたので、

下手な絵と雑な製本だけが強調された)

 

こうした失敗をバネに、

今度はチャットGPTという、

強力なツールに応援いただいた訳だ。

 

ボクのだいたいの原案テキストをチャットGPTに流し込み、

「絵本をつくるからあとはよろしく頼む」的指令を出すと、

あっという間にちょっと感動的な物語りを出してきた。

(なんかコイツ、すげぇなぁと感動した。

がそれもつかの間で怖いなぁとさえ

感じた次第)

 

が、コイツへの違和感はさておき、

ボクは先を急いだ。

 

チャットGPTがつくったテキストを

さらにこねくり回して分量を減らし、

すべてのテキストをひらがなに変換、

で、それをコマ割りしてページ数を決め、

今度はページごとの絵のイメージを決めて、

それをチャットGPTに投げてみた。

 

と、ひとこまの絵をつくるのに、

おおよそ15秒くらいかかっただろうか。

と突然、プロのイラストレーターなみの絵を、

パパッと出してきたではないか。(驚)

 

 

うーんとボクは意味不明のため息をついた。

(果たしてコイツはなにものなのか?)

 

で、しばらく作業を続けるうちに、

チャットGPTとのコミュニケーションに、

徐々にズレのようなものが生じはじめた。

 

指令(プロンプト)を間違うと、

いやニュアンスの捉え方が違っているのか。

とつぜん、以前と乖離した全く違うタッチの、

とんでもない絵を平気で出しはじめたのだ。

 

そのズレ具合がなかなか笑えるレベルなので、

このAIってすごいのか、かなりバカなのか?

そこがわからなくなってきた。

 

要するにAIに絵を描かせる場合は、

雰囲気とかニュアンスをどう伝えるか、

それがとにかく難しいということがわかった。

 

なので気に入った絵が出てくるまで

何度もやり直すこととなる。

そのたびにボクはテキストを駆使して

指令を出す訳なのだが、

双方の溝はなかなか埋まらず、

果てしなく疲れてしまった。

 

けっきょくこちらのイメージとピタリとくる絵は、

最後まで出てこなかった。

 

原因はテキストによるコミュニケーションだろう。

ボクの語彙力にも問題があるのだろうが、

テキストによる指令は

双方の感受性が違っていることが前提なので、

それ相応のズレが生じるのは当然。

 

希望の70パーセントあたりの出来が

限界なのだろうと推測する。

 

要は、落とし所を決めること。

 

(↑イケメンだってサッと描いてしまう)

 

が、それにしてもこうした作業は、

いつにない妙な疲労感が増す。

これはボクが感じたことのない、

新たな正体不明の焦燥だ。

 

こうした新しいツールは今後どんどん普及するだろう。

よってそこに新たなストレスが誕生するので、

多くのひとが苛まれるのではないかと危惧してしまう。

 

よくいわれることだが、

テクノロジーの進化が起こるごとに、

ある職業は消滅する。

そして、そこに携わるひとたちは仕事を失う。

だが革新は新たな職業を生み出すと。

 

今回は、たかがAIによる絵本づくりなのだけれど、

こうしたボクの体験が、

なんだかそんなことを示唆しているように思えてならない。

 

考え過ぎか?

 

(↑写真を放りこむとかっこいいイラストに大変身させてくれたりもします)

 

(追記)

できあがった絵本を、昨日やっと孫に渡すことができました!

なんだか興味津々に眺めてくれました。

で、間違い字をみつけてくれました 怖

つくり直しかなぁ 笑

 

 

森のなかのニューヨーク・アート

 

 

キース・ヘリングは早死にだ。

ペンシルベニアの田舎から

大都会のニューヨークに出てきて、

瞬く間に時代の寵児となったのはいいが、

その余韻を味わう間もなく、

あっという間にエイズで死んでしまったのだから。

 

 

レジェンドの名にふさわしいアーティストだ。

いまでもその人気は衰えない。

生きていたら、現在64才くらいかな。

 

この変革が続く現在の世界を、

彼ならどんな表現を提案してくれるのだろう。

 

それはいくら想像したところで全く分からない。

さほどキースが残こした作品には、

すでにあの時点で、

鮮烈なインパクトとオーラを放っていた。

 

 

いわば完成していたとも言える。

 

キース・ヘリングがつくり出すものは、

地下鉄アートとかストリートアートとか言われるように、

高尚とはほど遠く、

街角の壁だとか塀だとかに、

いわば落書きのようにして描かれた。

 

線はシンプルで単純極まりない。

カラーリングもそれほど複雑な気がしない。

 

 

上手か否かと自問するとよく分からない。

 

けれど惹かれてしまうのだ。

なにか強烈な吸引力のようなもので、

こちらの平常心をかき乱す何かをもっている。

 

 

×××

ここ、中村キース・ヘリング美術館は、

中央高速の小淵沢インターを下りて約15分。

八ヶ岳南麓のとても静かな森のなかにある。

 

 

 

 

鳥の声とそよ風に反応する木々の揺れる音、

日射しの降り注ぐ建物が印象的だ。

なのに結果的に、

外観からは想像もつかないエネルギーが、

この建物のなかに充満していた。

ニューヨークの熱気を、

この静かな森で味わうとは、

とても不思議な気分だった。

 

 

以前でかけたニューヨークアート展は、

神奈川県の横須賀美術館だった。

 

美術館の中庭から東京湾が見渡せた。

それはそれで青く穏やかな景色だった。

 

で、今回は森のなかの美術館。

いずれ双璧をなすシチュエーション。

 

どちらも甲乙付けがたい理想の美術館だが、

今回の中村キース・ヘリング美術館の、

展示と演出が画期的かつ尖っていて、

その工夫に軍配が上がる。

 

 

本人が生きていたら、

きっと「そうだよ、これだよ!

ボクのイメージとズレが全くない。Cool!!」

って満足するに違いない。

 

キース・ヘリングはボクと同世代。

 

 

国だけでなく事情もかなり違うけれど、

その頃その時代に何が流行っていて、

どんな事件があって、

若い人たちが何に飢えていたのか?

 

僭越(せんえつ)ながらボクも少しは共有していた、

そんな気がするのだ。

 

 

そして彼自身の風貌は、

ハッキリ言ってぜんぜんかっこよくない。

(もちろんこのボクもだけれど)

 

だけど、彼のハートは、

間違いなくCoolでかっこいい。

 

それは、彼が生み出したおのおのの作品に、

バッチリと出ているから、

キース、大丈夫さ!

 

 

 

風のみち

 

いつものように

ボクは通勤で通る

東京都目黒区中根の

目黒通り沿いを歩いていた

 

寝不足が続いていたので、

少し頭が痛む

とりあえす目頭をぎゅっと押さえ

早足で駅へ急ごうと

ピッチを上げたときだった

 

とつぜん身体がグラッとしたかと思うと

目の前が真っ白になり

次の瞬間あたりを見ると

その見慣れない道が現れたのだ

 

それは

空から舞い降りたように

かげろうのようにゆらゆらと

目前に伸びていた

 

一旦は後ずさりしたのだが

その道が海に続いているとボクは直感した

そしてためらうことなく

足を踏み入れたのだ

 

後に続くひとは誰もいない

前を歩く姿も見うけられない

 

 

その道は雨後で舗装はされておらず

かなりぬかるんでいたが

ボクはためらうことなく歩いていくことにした

 

というより

そのときの事を思い返すと

誰かに呼ばれるように

おおきな何かに導かれるように

その道に進んだように思えてならない

 

ざわめく木々

揺れる草花

 

風のつよい日だった

風のつよい道だった

 

疲れていたボクは

どういう訳か

その道を歩きながら

生きてゆく意味を問うていた

幾度も幾度もその問いについて

こたえを探していたように思う

 

風とぬかるみで

ボクの思考は何度も混乱したが

その道は確かに

穏やかな海へと続いていたのだ

 

 

すでに風は止み

足で踏みしめた浜から

潮をのぞくと

夕闇を帯びはじめた空のした

わずかな赤みを残したまま

波は静かに寄せては返している

 

浜の向こうには

小さな漁村が点在していて

夕凪(なぎ)のなかを人々が集って

盆に開かれる踊り稽古や

飾り付けの支度をしていた

 

「どこから来たのけ?」

 

白髪頭の浅黒いおとこに問われ

 

「いや、あの道を歩いていたら…」

 

ボクが振り返ってその来た道を

指さそうとするが

そこはなぜだか高い山に覆われていた

 

「まあいいやな、あんたもここへ来たのは

なんかの縁じゃろうて。

せっかくだから踊っていきんさい」

 

「はい、そうします

ありがとうございます」

 

こうしてボクは

それはいま思えば不自然極まりないのだが

この漁村のひとたちといっしょに

老若男女に混じって

朝まで踊り、唄い、酒に酔い

盆の祭りに参加していた

 

明けの明星が光るころ

ボクは疲れ果てて

そのまま浜に横になって

眠り込んでしまい

はっと気がつくと

東京都目黒区中根の

目黒通り沿いを歩いていたのだった

 

 

私は毎日この道を歩いて

会社へ通っている

今日もそこを歩いてきたのだが

いくら客観的にみても

何の変哲も無い

都会によくある沿道なのだ

 

が、あの日以来「その道」が

私の前に現れることもなければ

その兆候すら皆無なのだ

 

ただ、よくよく思い返すに

あの道は以前どこかで

歩いたような気がする

あの海辺の村は

幼い頃にでかけたような気もするのだが

それが全く思い出せないのだ

 

 

ただ、ボクがその道を歩いて

あの祭りに参加したことは

確かなことなのだ

 

なぜなら

いまボクのかばんには

その道で拾った赤松の枝の切れ端と

祭りで村のひとからいただいた

盆に村のひとに配られる

紙の御札が一枚入っているからだ

 

そしてあの事件(?)からちょうど3ヶ月後

ボクは生活のためだけに通っていた

あの鬱屈した会社を退職し

新しい仕事にチャレンジすることにした

 

忙しい毎日で相変わらず寝不足な毎日だけど

あれ以来あの嫌な気分はなくなり

頭痛がおきることもない

 

 

 

幸福な時間とは

 

最近、絵を描くことに挑戦しているが、

ぜんぜん上手くならない。

 

雑誌「一枚の繪」もかなり買い込んだ。

ぺらぺらと眺めていても、どれも上手い絵ばかり。

 

Pinterest(ピンタレスト)という画像アプリで、

仕事の空いた時間に世界の名画とか印象派の絵、

ニューヨークアートなどもけっこう丹念にみているが、

やはりため息しか出ない。

 

そのうち、何のプラスにもならないような気がしてきた。

 

そもそも小さいときから絵は下手だったし、

図画工作の時間も苦痛だった。

なのに、中学一年のときの美術の時間に

クリスマスカードを描くことになり、

そのときアタマにパッと絵が浮かんだのだ。

 

雪のなかをトナカイが、

サンタを乗せたソリを引いて疾走している。

背景には北欧の針葉樹が雪をかぶっている。

遠くに赤い家がポツンと建っている。

 

誰でも思いつきそうな絵柄ではあるけれど、

そのときは我ながら「すごい」と思ったのだ。

そして思いついたからには、それを必死で描いた。

こればかりはかっこよく描かなくちゃ…

 

必死で描く理由が他にもあった。

同じクラスの好きな女の子に、

その絵をプレゼントしようと考えていたからだ。

 

結果、先生にも誰にも褒められなかったし、

ひいき目にみても上手いとは言えない出来だった。

 

結局そのクリスマスカードは好きな子に渡すこともなく、

机の引き出しのなかにしまい込んでしまった。

 

けれど、この創作の時間というものには、

思いがけない収穫があった。

夢中で描いていたあの時間が、

あとでとても幸福だったと気づいたからだ。

 

あの濃密な時間は不思議なひとときだった。

 

それはギターの練習でも味わったし、

高校の吹奏楽部でのトランペットの練習でも、

拳法の鍛錬でも味わった。

受験勉強も仕事でも、たびたび感じることができた。

 

それがいわば集中力というものと同じなのか、

僕には分からない。

 

けれど、その基準はきっと、

「時の過ぎるのも忘れてしまう至福のとき」

だったような気がする。

 

 

そしてもうひとつ気づいたことがある。

 

絵が上手いとはどういうことなのか?

その疑問が今日まで続いている。

 

絵画教室というのもあるけれど、

どうも気が進まない。

そういうところで習ったひとの絵を

幾度となくみたことがある。

皆ホントにみるみる絵が上達するし、

上手いとは思うのだけれど、

どれも一様に惹かれるものがないのだ。

 

そこが分からないのだ。

そのあたりが僕の絵に対する謎であり、

いつまで経っても解くことができない

知恵の輪のようなものになっている。

 

幸福な時間の過ごし方の一端は

掴んだような気がするけれど。

 

 

 

「谷内六郎展」を観に横須賀美術館へ

 

谷内六郎展ということで、

ドライブがてら、

横須賀美術館へでかけた。

 

 

ここを訪れるのはおおよそ5年ぶり。

前回はニューヨークアート展だった。

海辺が至近の美術館で、

まわりの景色も

とてものったりとしている。

 

前回、リキテンスタインの作品とか、

ウォーホルのキャンベルスープなど、

興味深い作品をじっくりと鑑賞できたので、

印象がよかった。

 

もう一度訪れたいと思っていたので、

今回はそのよい口実がみつかった。

 

 

 

 

谷内六郎といえばやはり週刊新潮だろう。

彼の絵が、毎週この雑誌の表紙を飾っていた。

創刊から25年書き続けたというから偉業である。

 

 

 

僕はこの表紙の絵を、

通勤途中の駅のキオスクや本屋でみかけたが、

当時はたいして気にならなかった。

週刊新潮の中身そのものにも興味がなかったので、

目を引くこともなかったのかも知れない。

 

彼の描くものに俄然注目したのは、つい最近のことだ。

それは或るテレビ番組で谷内六郎特集を観てからだ。

このときは暇だったので一点一点じっくりと鑑賞。

解説をききながら絵を読み解くうち、

この画家のイマジネーションの壮大さに、

改めて驚いた。

 

むかし、キオスクでちらっとみたときは、

素朴なタッチの懐古的な絵で、

なおかつ奥行きのない平坦な絵との印象だった。

まあそもそも駅のキオスクで

ちらっとしか観ていない絵の印象を語るなんて、

そんなものは失礼極まりない。

 

 

僕は、絵というもの、

そのものを詳しく知らなかったし。

 

で今回の再認識だが、

この谷内六郎という画家の描くものには、

どの一枚にも必ず物質とはいえない、

我々の目には見えないものが描かれている。

 

曰く、それが爽やかな夏の風の色であったり、

囲炉裏のあったかい空気であったり、

木枯らしに乗ってきたかわいい妖精の姿であったり、

春のふるさとの桜のかおりであったり…

 

 

そしてこの画家の描くものには、

思い、想いというものが、

ぎゅっと詰まっている。

そのやさしさやおもいやりのようなものが、

夢と空想の世界をかたちづくり、

観る人を不思議な世界へと誘う。

 

 

横須賀は、彼が晩年を過ごした地でもある。

よってこの美術館には、

別館として谷内六郎館が併設されている。

現在は工事中だが、今回は生誕100年ということで、

本館で展示されている。

 

5年前に訪れたときは、

ニューヨークアート展に集中してしまい、

前述したように谷内六郎作品に対する印象も薄いものだったので、

この別館を素通りした。

いまになって深く反省をしている。

 

 

遅きに失したけれど、

アーティストだけでなくクリエーターも含め、

ものをつくるひとたちの作業というのは、

当然いろいろなことを考え、想像し、

それをカタチにしている。

そうした一連の行為に対して、

僕たちは軽々しく論じてはいけない、のではないか。

 

 

これが今回の僕なりの教訓。

 

作家や作品が好きか嫌いか、

私たちにとってはその程度のことで、

あるにしてもだ。

夏の夕ぐれ

 

 

 

夏の夕ぐれ

今日の終わり

 

光る雲

遠い空

 

窓辺の椅子に身体を委ねたら

ハニー&ケーキで昼のほてりをしずめましょう

 

窓辺の花が物憂い

けだるい

 

過ぎてゆく時間

陰影のドラマ

 

だから夏の夕ぐれは

誰だって遠いくにの夢をみる

 

 

新月

 

新月の夜に

願いごとをすると叶う

そんな習わし

昔からの言い伝え

 

それはなぜ…

意味など導き出せない

 

とりあえずは願いごとを紙に書いて

すっと夜の窓辺へと差し出してみる

 

もっと楽な仕事がみつかりますように

別れてしまった妻が戻りますように

 

つまらない望みごと

だけどなにかいい予感がするなぁ

ちょっと嬉しい気になっている

 

願いごとをするとはそういうことなのか

 

見上げると夜空は漆黒かつ寒々しく

今夜は星さえでていない

 

月は明らかにそっぽを向いている

いや 宇宙の果てなどへでかけて

留守にしているに決まっている

 

この闇夜に乗じたのか

家のまわりを狐がうろつく

異様に光る複数の目

よそ者はかえれと警告している

しまいに雨さえ降ってきて

 

ああ そろそろ町へ下ろうか

 

 

メリークリスマス!!

 

 

 

仏教徒だけど、とりあえずメリークリスマス!!

コロナ、クソクラエ!!

あしなが育英会をサポートしよう!!

フリーランサー、頑張れよ!!

弊社を来年もヨロシク!!

 

 

 

宮ケ瀬スケッチ

 

 

 

下手な絵。

なのにやめない止まらない。

なんといってもおもしろい。

夢中になれる。

絵の基礎を習うひともその気もないので、

ほぼ上達しない。

写真もどうよう。

露出のベンキョーをしたことがあるが、

ぜんぜん面白くない。

デッサンの本も数冊読んでみたが、

ほほうと思うだけで身に付かないんだなぁ。

習うと途端におもしろくなくなる。

みんなおんなじような絵になる。

 

楽しいことってなにか?

勝手気ままにやることである。

夢中になれることってなにか?

好きなことを続けること。

 

焚き火もキャンプも面白い。

何でだ?

予定どおりいかない。

メンドー。

だけどなんだか生きているんだって、

とてもリアルに迫ってくるんだよね。

それは、絵も写真にもいえるなぁ。