青春レーベル「ファンキー・モンキー・ベイビー」

 

キャロル

 

ご存じ、キャロルのメガヒット曲。
我が青春の一曲でもある。

イントロからリードギターの高音でいきなり盛り上がる。
10代のボクには斬新かつインパクトがありました。
すげぇーと思いましたね。

で、メンバーの革ジャンとリーゼントがカッコよかった。

その頃、ボクたちの先輩はアイビーと呼ばれる格好が多かった。
流行の震源地は、VANジャケット。

紺のブレザーにコットンパンツをはいて、
レジメンタルのネクタイを締めたりしていた。

女性もトラッド・ファッション全盛。
横浜・元町の店フクゾウが爆発的人気となり、
「ハマトラ」と呼ばれる格好が流行った。

いずれきれい系。

が、キャロルはおとな社会への反逆まるだしの歌と格好でデビュー。

10代はみんなそこにハマった。

 

よって当時すでにハタチを超えたお兄さんお姉さんたちからは、
あまり人気がなかったのかもね。

ボクは10代のストライクゾーンだったので、
もろに影響を受けてしまいました。

余談だけれど、フーテンと呼ばれるひともよくみかけた。
この方たちは、いつでもどこでも道に座り込んだりして、
片手に酒の瓶とシンナーとビニール袋をもっていた。

当時、街にははこういうひとがパラパラいました。
ボクの先輩にひとりこの手の方がいましたが、
不慮の事故で亡くなってしまいました。
いま思えば、妙な最後でした(具体的には書きませんが)

で、クルマの免許取りたて、青春真っ只中のボクとしては、
即キャロルのレコードを買い、それをテープに録音して、
走りながらカーステレオで繰り返し繰り返し聴いていた。

演歌やフォーク、歌謡曲全盛の時代に突然あらわれた、
日本初ではないけれど、
メイド・イン・ジャパンのロックンロールバンドだった。

それまで洋楽でロックンロールはよく聴いていたけれど、
日本発というのはかなり珍しいということで、
「ファンキーモンキーベイビー」はいきなりヒットチャートを駆け上がった。

この歌が流行ってから、
なんだか遊んでいる10代の皆さんを取り巻く空気が一変した。
定番のクルマ・バイクに女の子―
そこにサイコーの音が加わったからだ。

海の向こうでは延々とベトナム戦争がつづき、
ある日突然オイルショックなるものが起き、
朝起きると「危機」が叫ばれ、世の中は混乱し、
ボクはトイレットペーパーを買ってこいと母に怒鳴られた。

街ではマツダのロータリークーペが疾走し、
中島みゆきが「時代」を歌い、
ユーミンが「あの日にかえりたい」でメジャーになり、
遊び仲間が事故やシンナーで何人か死んでしまい、
ボクは将来が全く見通せないでいた。

ファンキー・モンキー・ベイビーの歌詞の意味は、
当時からよく分からなかったし、考えもしなかった。

ただ、♪いかれてるよ♪の歌詞に象徴されるように、
なんだか理屈ではないエネルギーのようなものを、
みんなが受け取ったのだろう。

で、なんだかみんなイカれてきた、ような気がしたのだ。
イカれてもいいんじゃない?ともきこえたからだ。

うっくつした時代の空気を蹴散らすエネルギーに
後押しされたボクたちは、
自分の未来を真剣に想像することもやめてしまった。

そんな一瞬でもあった。

そしてイージーに過ごす時間、酔っているような毎日は、
あっという間に過ぎていった。

あの陶酔していたような時間はいったい何だったのか?

それは思い返しても、いまだ、その輪郭が描けない。

 

で、ボクくらいの年代になるとだけど、好きなアーティストや楽曲も、
だいたい100や200はあると思う。

ながい時間にいろいろな歌も聴いてきた。

ジャズやボサノバやポップス、そして民族音楽、
たまにクラシックにも手をだしたこともある。

なのに不思議なことに、いまでもキャロルは特別なのだ。

そこには理屈では語れないなにか、
が相かわらずボクの記憶のなかに横たわっている。

聴いていた自身の幼さと、そのころのこころの有りよう、
そしてそこに流れていた時代の空気…

いろいろなものが凝縮された心象風景が、
人生の道連れとしてあとをついてくるのだろうか。

 

元旦に地震とは!!

 

人類に忖度なし。

新年早々の大きな地震が起きてしまった。

自然は容赦ないなぁと改めて思う。

 

被災地の方々には心よりお見舞い申し上げます。

 

太平洋側は常に地震の警戒が言われていたけれど、

能登半島なのかと、虚を突かれた感じだ。

テレビを観ていて3.11を思い出す。

 

とても嫌な記憶が蘇ってきたので、

いい加減にテレビを消す。

 

ハードディスクにためておいた映画に切り替える。

 

「ネバーエンディングストーリー」。

もう2回観ているけれど、

なぜかこの映画には惹かれてしまう。

要約するとこんな映画だ。

 

本の好きないじめられっ子が、古本屋から拝借した本を

読みふけっているうちに、

ストーリーのなかに入り込んでしまい、

もうひとりの勇者と言われる少年とともに、

旅を続け、ようやく世界を救う…

(映画は夢と現実が同時に進行する)

簡単に書くと、そんなストーリーなのだ。

 

いにしえから男の子は困難な旅に出なくてはならない。

そうして誰かを救うことで一人前になり、

やがておとなになる。

 

こうした話は世界中で散見される。

いわば物語の定番であり王道だ。

が、この映画の設定がなかなか良いのだ。

 

この映画で、少年が戦う相手は「虚無」だ。

そう虚無なのだ。

 

映像はわりと幼稚なのだけれど、

虚無というものを敵に設定するところが秀逸。

 

人は夢や希望を失うと心がむなしくなり、

やがて虚無がその人を支配するようになる。

(これは現実に起こることでもある)

それが世界に広がると、やがて世界は崩壊する。

(そうなのかもしれない)

 

夢のない世界、失われた希望…

ふたりの少年の旅は、ある意味で、

人の心に灯りをともす旅であり、

いろいろな困難に打ち勝つことで、

ようやく世界は復活する…

 

一見単純だれど、テーマには、

人間にとって不変の尊い精神性が込められている。

 

現実は、

ロシア・ウクライナ戦争、イスラエル・パレスチナ戦争、

オイル危機、世界で起こっている災害の数々、

そしてパンデミックから、

いつ起きてもおかしくない金融システムの崩壊などなど、

ボクたちを取り巻く世界だって、

いつ「虚無」が広がるかわからない様相なのだ。

 

容赦ない。

 

という訳で、正月早々なのだけれど、

あまり明るいことは書けなかった。

 

今年はある意味で、

世界も日本も天王山の年になるのではないのか、とも思う。

(アメリカの大統領選も今年である)

 

やはり、気の引き締まる正月である。

 

 

南佳孝&杉山清貴ライブへ行ってきました!

 

南佳孝&杉山清貴のライブへ行ってきました。

会場は、おなじみのビルボードライブ横浜。

(海風がキツくて寒かった!)

 

 

まずは、ざっくりと感想から。

ボクは南佳孝さんの曲をじっくり聴きたかったんだけれど、

違いましたね。

お二人とも、かなりのビートルズ・フリークだそうで、

そのカバー曲が中心。

 

それは良いんだけれど、カバー中心のライブがそのまま進行。

あおい輝彦の「あなただけを」とか、いしだあゆみの「ブルーライト横浜」とか、アズナブールのシャンソンだとか…

まあ、選曲が自由なんです。

 

それはそれでじゅうぶん聴かせてくれたし、ハイレベル。

で、雰囲気はなんだかムカシ行ったナイトクラブとか、

高級?キャバレーなんかを思い出すようなムードになっていて、

ボク的にはタイムスリップしてしまいました。

 

 

なんせ、60年代~70年代のヒット曲がコアなので、

若い人にはちょっと分からないと思う。

 

よって客もシニア中心だけど、ひとくせありそうな人間が目立った 笑

 

私的には、「日付変更線」とか「スコッチ&レイン」とか聴けたらと、

期待していたんだれど、その点はがっかり。

 

単独ライブと今回のライブが全く違うのは、ファンの常識と思われる。

やはり、にわかファンは情報・経験が甘いなぁ。

 

 

にしても杉山清貴さんのブルーライト横浜、良かった。

彼はボクと同年代でしかも同じく横浜出身ということも知らなかった。

杉山さんが海の方角(みなとみらい地区)を指さして

ぶつぶつ呟いていた。

「こっちはムカシは何もなかったんですよ。ただの海。

埋め立てられて原っぱだった」

 

同じ風景を共有していることが、なんだか沁みたなぁ。

 

 

上を向いて歩こう

 

ボクがまだ幼かったころ

家族4人で暮らしていた我が家は

とても小さくて狭くて粗末で

つよい風が吹けば

ふわっと浮かんで

どこかへ飛んでいってしまいそうな

あばら屋だった

 

けれどボクにとっては

まぎれもなく唯一安心できる我が家だった

 

ある年の元旦の朝に

和服の女性が男の子を連れ

我が家を尋ねてきた

 

突然の来訪者に母は驚き

つつましいおせちを出して

精一杯もてなした

 

「お姉ちゃん あの人たちだれ?」

ボクが姉にきく

「知らない」

 

姉は何かを察知したのだろう

とても不機嫌だった

 

和服の女性は

キツネのような目をしていた

男の子はボクよりひとつ年上で

ボクが苦労してつくった戦車のプラモデルを

壁に投げつけたりして笑っていた

 

松飾りがとれるころ

父と母のどなり合う声で

夜中に目が覚めた

 

そんな日が幾日も続いた

それでも姉は

いつもと変わらず

毎朝小学校へ走ってでかけた

 

眠りが浅くなってしまったボクは

毎夜毎夜つづく

父と母のののしり合いをきくことになる

 

「離婚しかないでしょ」

「そうだな」

 

ボクはそのたび

となりで寝ている姉の手をぎゅっと握った

 

姉は寝息をたてていた

 

お父さんとお母さんが離婚するって

いったいどういうことだろう

ボクはこの家にいられないんだ

もういまの学校へは通えない

ボクも姉も

みんなバラバラになってしまう

そしてボクはひとりになってしまう…

 

ひとりになったらどうしたらいいんだろう

 

いろいろな不安がとめどなく溢れる

 

そのうちボクは寝られなくなって

よく朝まで起きていた

 

小学校で授業が終わってみんなが下校し

誰もいなくなると

ボクは学校の裏庭でよく泣いた

 

それはいまでも忘れない

 

けっきょく父と母の離婚はなかったが

あの日以来

家のなかは

永年霧がかかったような湿気が残った

 

それから幾度か引っ越しをした

けれどその湿気はいつまでも残った

 

ボクは小学校を卒業しても

漠然とした不安は解消しなかった

いつも最悪の場面を想像し

その対応策を必死で考えるのが

癖になってしまった

 

そして浅はかではあったけれど

とにかく「さっさと独り立ちしたい」

というようなことを強く心に念じた

 

 

昭和30年代の終わりのころ

我が家のテレビはまだ白黒テレビだった

いや、どの家もそうだった

 

夕飯を食べながらテレビを観ていたら

坂本九という歌手が

「上を向いて歩こう」を唄っていた

 

―上を向いて歩こう

涙がこぼれないように―

 

あの日以来

幾度も幾度も

辛いことがあったけれど

そのたびにボクのなかで

あの歌が流れるのだ

 

それはいまでも変わらない

 

 

 

シャカタクのライブへ行ってきた!

 

やはりライブは違うなぁって、つくづく思いました。

当然のことですがYouTubeで聴くのとは

全くのべつものでした。

 

 

ボクはこのグループのライブは初めて。

退屈するかもと、何の期待もなく出かけた。

しかし今回のライブで、シャカタクに対する印象が、

以前とはガラッと変わってしまった。

 

退屈な訳がない。

とても充実の時間をもらった。

 

シャカタクがヒットを飛ばしたのが1980年代の中頃だったか。

ヒットした「ナイトバーズ」が街のあちこちから流れ、

日本の景気は最高潮で、ボクは新社会人として、

東京中をあくせくして走っていた。

(いや、机でじっと何かお粗末な記事を書いていた)

 

 

そこに「ナイトバーズ」が流れると、

なんだか少しストレスと緊張から逃れられるようで、

ふうーと肩の力が抜けた。

 

軽いタッチのヨーロッパのジャズ・フュージョン。

とにかく都会的な音楽だった。

ボク的には、彼らの音楽を心地の良いBGMとして

聴いていた覚えがある。

 

が、今回のライブで、彼らの印象は120度くらい変わった。

都会的な音楽というのは、いまでも色褪せない。

あれから数十年が経ったのに、依然として古びない。

(これはなかなか凄いことではないかと思う)

 

がしかし、「軽い」というのはボクが間違っていた。

次々に繰り出す馴染みの曲が、どれもなんとパワフルなことか。

ぜんぜん軽くないではないか。

新メンバーも加わったものの、

あの電子ピアノとパーカスは変わらずで、

そこに熟練のテクニカルな要素が加味され、

迫力の音楽シーンが再現されたのだ。

 

ライブの最中、ボクはジンジャーエールを

飲んでいたのだけれど、

途中グラスの中身を確認したほどだ。

ちょっとアルコールが入っているんじゃないか?

 

ノンアルコールでも酔える。

やはりライブって良いですね。

 

 

 

年をとると、みえてくるもの

 

だいぶ以前の話。

夕飯を食いながらテレビを観ていた。

たまたまつけたチャンネルが、歌番組だった。

 

テレビは、実はどうでも良かった。

気晴らしに観ただけだった。

 

はじめは聴き流していたが、

ふとその歌詞が気になりだした。

そしてじっと聴き入ってしまい、

しまいに、涙が溢れた。

 

ああ、

年をとったなと思った。

 

懐メロは幾度となく聴いてはいたが、

あまり古いものは知らないし、

そうした歌は、私の親の世代の歌のように思われた。

 

二葉百合子の「岸壁の母」も、

私の親の世代がよく唄った歌だろう。

 

敗戦後、ソ連からの引揚船が着くたびに、

岸壁に立って息子の帰りを待ちわびる

母親の姿と心情を歌っている。

(この歌は実話を元につくられた)

 

私は若い頃から、

この歌がテレビから流れると、

陰気な気分にさせられた。

そして、すぐチャンネルを回していた。

大嫌いな歌だった。

 

私は、戦争を知らない子供たち、のひとりだ。

しかし、こうして中年になり、

両親もいなくなり、

また人の親となって永く生きていると、

なにか他の景色がみえてくる。

 

それは流行りものでなく、

浮き沈みするようなものでもなく、

情というか、

人生に対する愛おしさとでもいおうか。

 

人ってつくづく不思議な存在だと思う。

 

いろんなものを背負って

そしていつかは去ってゆく…

 

生きるおかしさも

捨てたい悲哀も、

人は抱えきれないものを

幾つも幾つも背負い、

 

一体、何処へ行くのだろうかと…

 

天国への階段

初めてその夢をみたのは、

確か20代の頃だったように思う。

その後、幾度となくおなじ夢をみた。

その風景に何の意味があるのだろうかと

その都度、考え込んだ。

それとも何かの警告なのか?

 

30代のあるとき、友人と箱根に出かけ、

あちこちをクルマで走り回っていた。

心地のいい陽気。日射しの降り注ぐ日。

季節は春だった。

 

ワインディングロードを走り抜ける。

爽快だった。

が、カーブに差し掛かったとき、

私はこころのなかで「あっ」と叫んだ。

 

そのカーブの先にみえる風景が、

私が夢でみるものと酷似していたからだ。

 

夢のなかで私は、

アスファルトの道をてくてくと歩いている。

どこかの山の中腹あたりの道路らしい。

それがどこの山なのか、そんなことは考えてもいない。

行く先に何があるのかも分からない。

 

陽ざしがとても強くて、暑い。

しかし不思議なことに、全く汗をかいていない。

疲れているという風にも感じない。

 

カーブの先の道の両脇には、

或る一定の間隔で木が植えてある。

その木はどれも背が低くて、

幹が白く乾いている。

太い枝には葉が一枚もない。

 

そのアスファルトの道が、

どこまでも延々と続いていることを、

どうやら私は知っているようなのだ。

 

夢でみた風景が箱根の道ではないことは、

その暑さやとても乾いた空気からも判断できた。

現に箱根のその風景は、

あっという間に旺盛な緑の風景に変わっていたからだ。

 

しかし、それにしても夢でみた景色とそっくりなのが、

不思議でならなかった。

 

夢のなかのその風景は、

メキシコの高地の道路のような気もするし、

南米大陸のどこかの道なのかも知れないと、

あれやこれやと想像をめぐらすのだが、

私が知った風景ではないことは確かだった。

 

つい最近も、仕事の合間のうたた寝の際、

夢の中にその風景が現れた。

 

立ち枯れた木がずっと続くその道の先は、

きっとその山の頂上に続いているのだろうと、

ようやくこのとき私は想像したのだった。

 

酷似した箱根のあの道の先には、

瀟洒なホテルが建っている。

夢に出てくる景色ととても似てはいるが、

やはり違う。

 

ただ、現実にみたその景色が、

私のなかの何かを呼び出したことは、

確かなことなのだ。

 

そこに意味があるように思えた。

「あなたがみた夢を決して忘れないように」と。

 

夢のなかでは、怖さも辛さも感じない。

とても強い陽ざし。

暑さと乾燥した空気。

あたりに風は一切吹いていない。

それは異国のようでもあり、

とても穏やかで静かな時間だった。

 

覚醒した私は思った。

 

頂上にたどり着いた私は、

やがて、空へと続く一本の階段を発見する。

そして、誘われるように、

その階段をテクテクと昇ってゆくのだろうと。

 

もちろん、その階段は天国まで続いている。

 

新年明けましておめでとうございます

 

新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

最近は、古い映画や音楽ばかり観たり聴いたりしています。

やはり感度のいい時期に接したものは忘れませんね。

 

映画では、クリント・イーストウッドの「許されざる者」が

良かったですね。

彼の当たり役である「ダーティーハリー」シリーズより

もっと古いけれど、まだ観ていない方にはおすすめです。

筋はシンプルだけど、見応えがあります。

 

音楽は、歌謡曲、フォークソングからグループサウンズ、

ソウルミュージック、ジャズ、フュージョンと、

テキトーというかデタラメに聴いています。

 

ここ数日は映画「フットルース」の主題曲にはまってます。

フットルースってどういう意味なのか気になって調べてみたら、

まあ「足のおもむくまま気ままな」でした。

あえて肉付けするなら、

 

―夢ばかり追いかけている風来坊―

―気ままな旅行者―

―好きな所へ行けて好きなことができて…―

 

というような英語の例文が出ていました。

なんかいいですね。

若かりし頃、まさに自身が描いた理想です。

この映画、余計に好きになりました。

 

と言うわけで、

みなさまにとっても良い年でありますように!

 

 

フジコ・ヘミングのコンサートへ行ってきた

 

 

 

クラシック音楽、好きですかと聞かれると、

それほどでもとこたえるだろう。

正直、クラシックという柄じやない。

 

以前のブログでも書いたけれど、

リストという作曲家のラ・カンパネラを弾く、

フジコ・ヘミングは別である。

 

イタリア語で鐘を意味するラ・カンパネラ。

 

ピアノの高音が魅力的でなければ、

あの美しく荘厳な欧州の教会の鐘の音は、

再現できない。

そして、その音に哀愁のようなものがなければ、

ただの音になってしまう。

 

僕は、ん十年前イタリアのフィレンツェでこの鐘の音を

間近で耳にしたことがある。

 

夕暮れだった。

 

それは、日本の寺院から聞こえる鐘の音と、

ある意味で双璧を成す、

美しくも厳かな響きだった。

 

フジコ・ヘミングは、その鐘の音に

心を宿したといっても過言ではない。

 

ラ・カンパネラという曲をピアノで弾くのは、

超絶技巧である。

それは演奏を観ているシロウトの私でも分かる。

 

リストは、この曲をピアノで弾く際に、

器用さに加え、大きい跳躍における正確さ、

指の機敏さを鍛える練習曲としても、

考えて作曲したというから、

天才のアタマは複雑すぎて分からない。

 

この難曲を正確無比に弾くという点では、

辻井伸行の右に出るピアニストはいない。

彼もこの曲に心を宿しているひとりに違いない。

 

 

では、フジコ・ヘミングの何が僕を惹きつけるのか?

 

それは、人生を賭けたピアニストという職業に

すべてを捧げたフジコ・ヘミングが、

ラ・カンパネラが自身に最もふさわしい曲と、

ある時期、確信したからと想像する。

 

真っ白なガウンのような豪華な衣装で彼女が登場すると、

当然のように満場の拍手がわく。

杖をついている姿はこちらも折り込み済みだけど、

もう90歳近いこのピアニストの演奏を

いつまで聴けるのだろうかと、ふと不安がよぎる。

 

しかし、彼女が弾き始めると会場の空気が、

いつものようにガラッと変わる。

これはどう表現したらよいのか分からないが、

とても強いエネルギーのような旋律が、

その場を別の次元にでも移動させてしまうほどの、

力をもっている。

 

興味のない人でも、たかがピアノなのにと、

平静を装うことはまずできない。

そんなパワーのようなものをこの人はもっている。

 

レコードやCDで聴くのとはなにかが違う。

いや、全く違う。

そっくりだけど別物の存在なのだ。

 

僕はクラシックがあまり好きではないし、

知識も素養もない。

 

だけどフジコ・ヘミングの弾くラ・カンパネラは、

どういう訳か、とても深い感動を得ることができるのだ。

 

 

 

歌があるじゃないか

 

深夜の絶望というものは、

ほぼ手の施しようがない。

たとえそれが、限定的な絶望だとしても…

 

陽平はそういう類のものを

なるべく避けるようにしている。

「夜は寝るに限る」

そして昼間にアレコレと悩む。

いずれロクな結論が出ないにしろ、である。

 

意識すれば避けられる絶望もあるのだ。

 

70年代の或る冬の夜、陽平はあることから

絶望というものを初めて味わうこととなる。

 

高校生だった。

それは彼と彼の父親との、

全く相容れない性格の違いからくる、

日々のいさかいであり、

付き合っていた彼女から

ある日とつぜん告げられた別離であり、

将来に対する不安も重なり、

陽平の心の中でそれらが複雑に絡み合っていた。

 

根深い悩みが複数重なると、

ひとは絶望してしまうのだろう。

絶望はいとも簡単に近づいてきた。

ひとの様子を、ずっと以前から

観察していたかのように。

 

ときは深夜、

いや朝方だったのかも知れない。

ともかく、絶望はやってきたのだ。

 

陽平にとっては初めての経験だった。

彼は酒屋で買ったウィスキーを、

夕刻からずっと飲んでいた。

母親には頭痛がすると言って、

夕食も食べず、ずっと二階の自室にこもっていた。

 

机の横の棚に置いたラジオから、

次々とヒット曲が流れている。

ディスクジョッキーがリスナーのハガキを読み上げ、

そのリクエストに応えるラジオ番組だ。

 

どれも陳腐な歌だった。

そのときは、彼にはそのように聞こえた。

 

夜半、耐え切れなくなった陽平は、

立ち上がると突然、

ウィスキーグラスを机に放り投げた。

そして、荒ぶった勢いで、

ガタガタと煮立っている石油ストーブの上のヤカンを、

おもむろに窓の外へ放り投げた。

 

冬の張り詰めた空気のなかを、

ヤカンはキラッと光を帯び、

蒸気は放物線を描いた。

そして一階の庭の暗闇に消えた。

 

ガチャンという音が聞こえた。

程なく辺りは元の静寂に戻った。

親は気づいていないようだった。

 

手に火傷を負った。

真っ赤に膨れ上がっている手を押さえながら、

陽平はベッドにうつ伏せになって、

痛みをこらえて目をつむった。

 

ひとは絶望に陥ると

自ら逃げ道を閉ざしてしまう。

そして、退路のない鬱屈した場所で、

動けなくなる。

 

絶望は質の悪い病に似ている。

もうお前は治癒しないと、背後でささやく。

お前にもう逃げ場はない、と告げてくる。

 

絶望はひとの弱い箇所を心得ている。

それはまるで疫病神のしわざのようだった。

 

がしかし、不思議なことは起こるものなのだ。

 

そのときラジオから流れてくる或る曲が、

陽平の気を、不意に逸らせてくれたのだ。

不思議な魅力を放つメロディライン。

彼は瞬間、聴き入っていた。

気づくと、絶望は驚くほど素早く去っていた。

それは魔法のようだったと、彼は記憶している。

 

窓の外に少しの明るさがみえた。

あちこちで鳥が鳴いている。

彼は我に返り、

わずかだがそのまま眠りについた。

そして目覚めると早々に顔を洗い、

手に火傷の薬を塗って包帯を巻き、

母のつくってくれた朝食をとり、

駅へと向かった。

そういえば、母は包帯のことを何も聞かなかったと、

陽平は思った。

 

高校の教室では、

何人かが例の深夜放送の話をしていた。

「あの曲、いいよなぁ」

「オレも同感、いままで聴いたことがないね」

 

当然のように、陽平もその会話に混じることにした。

 

最近になって陽平はその曲をよく聴くようになった。

もっともいまでは、極めて冷静に聴いている。

 

過去に起きたあの幻のような一瞬に、

このうたが流れていた…

 

陽平はそのことをよく思い出すのだが、

なぜか他人事のように、

つい遠い目をしてしまうのだ。