ハズキルーペって何がすごいのか?

 

ハズキルーペが人気だ。

勢いが止まらない。

それはコマーシャルの出稿数からも判断できるし、

豪華なキャスティングからも分かることだ。

売り上げは急激な右肩上がり、だろう。

 

火が付いたのは、渡辺謙と菊川怜のコマーシャルあたりからか。

菊川がきゃっと言ってハズキルーペをお尻で踏んづけるも、

メイドインジャパンの堅牢なハズキルーペである。

何ともない。

丈夫にできている。

で、菊川のヒップが評判になった。

堅牢なルーペに、さらに色気を付けた訳。

 

かくしてコマーシャルは成功。

最近ではバージョンアップ版に変わった。

 

銀座にでもありそうなクラブに小泉孝太郎が入店する。

おしぼりを顔に当て、

パソコンで相当目が疲れている、という設定。

すかさず、ママ役の武井咲が、

ハズキルーペがいいわよ、とがち押し。

「字が小さくて読めない」と言っておしぼりを投げ、

謙さんの真似をする小泉。

そして「謙さんには内緒だよ」と、

ちょっとしたギャグを飛ばす。

常連にありがちだなぁ。

 

武井ママも新製品を見せびらかす。

と隣の席にまたまたハズキの新製品である

サングラス仕様をかけた気取ったミドルがいて、

かなりすかしているではないか。

適役、舘ひろしである。

でなんか、気が付くと、

店の女の子も全員がハズキを装着している。

 

で、ここで絶対に逃せないのが、

店の女の子が、ハズキを置いてある椅子に、

次々に座るシーン。

悩ましいヒップのクローズアップ。

このシーンを2回繰り返す念のいれようなのである。

前回から色気も数倍バージョンアップした訳。

 

おっと何のコマーシャルだったっけ?

と我にかえる。

まるで、通販の臨場感を意識したつくりなのだ。

 

制作者は、このシーンを最初に思い浮かべた。

これがやりたくてこのコマーシャルを考えたとしか、

私には思えません。

世間がうるさいイマドキ、勝負に出た感がある。

ハラスメント?

エンターテインメントに徹したので、

なんとか納まっている感はある。

 

こうなるとだ、ハズキルーペの勢いは止まらない。

物事には勢いというものがある。

そこをハズキは逃さない。

いままさに、黄金期。

観ているほうも、

「ワシもそろそろハズキルーペ買おう」と、

無意識に購買を予定しているおっさんがいっぱいいると、

私は踏んでいる。

ちなみにおばさんは、

かなりの不信を抱いているように思うがね。

 

そもそもハズキルーペって、

中高年を中心に、こまかいものを大きくして見るための

虫眼鏡じゃなかったっけ。

むしめがね…だよなぁ

そこにファッション性と堅牢と色気をふりかけると、

摩訶不思議にヒットした。

 

こうしたエグいコマーシャルって結構多い。

私も割とノってしまう性格なので、

過去にかなり不要なものを買いためている。

家中にすでに使わないものが溢れている。

冷静に考えると、

金は使うは、家はどんどん狭くなるわ、

なんで買ったんだろうと反省する訳です。

そんな事をさんざん繰り返していると、

いい加減、いろいろと気づくものです。

財布の紐も堅くなる。

 

コマーシャルとか通販って要するに、

仕掛けが透けて見えるようになってしまったら、

終焉を迎えます。

ながらく続いた消費文化の限界も見えるようです。

そして人はますます手堅くなる。

 

しかし、広告のスタイルは尚も進化するのだろう。

広告って雑草のように強いから。

 

とりあえず、罪な広告ではある。

 

 

空のアーティスト

 

大空を専門に描くアーティストがいて

これは誰なのか?

青空の色とグラデーションの具合

雲の形状で季節だって表せる

ときに風だって表現する実力の持ち主

わかりません

 

そして太陽や月や星…

あっ、あれは神様からのプレゼントです

 

 

 

 

哲学的満月の夜

 

 

僕らが眺めているこの夜空に

なにか知らない

もうひとつの世界が広がっていて

ときにその騒がしさが漏れるのが

満月の夜

この世界しか知らない僕らは

とてもちっぽけな田舎者なのだろう

 

 

 

たき火の安息

 

 

生きていると楽しい いや疲れる

とにかく煩わしさはいつもついてまわるから

安息のときは必要だ

食う 寝る他になにかないものか

日常だけではホントの自分を見失うから…

そこにあたたかい火があって

揺れる炎が僕を惑わしてくれて

遠くで鳥が鳴く

川のせせらぎがとおくに響く

こうして時間は消滅する

 

 

 

秋を探しに

 

 

 

 

 

 

 

秋の気配を探しに出かけました。

陽はまだ強い。

が、風はひんやりとしている。

ちょっと立ち止まると冷えるようです。

そして空は高く、空気は澄んでいる。

ひたすら川沿いを歩く。

セイタカアワダチソウが盛んに咲いている。

季節は確実に進んでいて、

あちこちで夏とは違った、

秋の芳醇さがあります。

稲の収穫は順調と思いました。

推測だけど。

都会と違い、ここのススキは、

いくら採ってもタダです。

川でヘロンを見つけました。

ヘロンは青サギのこと。

数年前から住み着いているようです。

青サギって朝を象徴する鳥だそうで、

泣きながら飛ぶと雨が降ると言われている。

達郎の曲「ヘロン」って、

上の言い伝えを受けて、

雨を降らさないでくれと歌っている。

ちょっと哲学的です。

きょうはこの辺で。

 

 

 

 

 

 

なつ雲 ひかる風 とおい世界

 

 

 

 

 

 

 

 

改編・時代とコピーと普遍性について

 

かつて日本が繁栄を極めた1980年代、

「おいしい生活」というコピーが巷に溢れた。

 

「おいしい生活」?

いまきくとピンとこないが、

その時代にライブで知った身としては、

当然ピンときた。

 

ロジックで語るには面倒なコピーだ。

おいしい、という何の変哲もない言葉に、

生活というやはり何の変哲もない言葉をつなげると、

とても新鮮なコピーに仕上がった。

 

このコピーが、当時の空気を的確に表していた。

都会も地方も皆元気で、更なる繁栄を信じ、

仕事に精を出していた時代。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という、

アメリカの社会学者が書いた本も、

世界でバカ売れした。

 

日本に、そんな時代があったのだ。

 

で、このコピーの広告主は、西武セゾングループ。

バブルと共に頂点に達した企業である。

コピーライターは、やはりあの糸井重里さんだった。

 

いま「おいしい生活」というコピーを、

大々的に発信したとしても失敗するだろう。

「おいしい生活」という語感から想像する生活は、

ちょっと怪しい気配すら漂う。

何かを誤魔化す、ちょろまかす…

そうした行為の上に成り立つ生活とでも言おうか。

しかし、当時のこのコピーの響きは、

希望に満ちたよりよい明日への提案として、

皆に受け入れられたのだ。

あなたの素敵な生活はすぐそこにあります、

とでも言わんばかりに。

 

商品の向こうにあるライフスタイルを提案する―

そうした企業が現れた点で、

この広告は最先端に位置していた。

 

経済的背景、語感からくる意味合い、市場の成熟度など、

いまと全く違う日本が、そこにあった。

それが「おいしい生活」だったのだ。

 

同じ80年代の同時期に、

とても美しいコピーがヒットした。

サントリーが発信したウィスキーの広告で、

 

「恋は遠い日の花火ではない」

 

このコピーは、当時の中年のおじさんの心を、

わしづかみにした。

世はバブルである。

おじさんたちは、右肩上がりの成績を更に伸ばすべく

奮闘していたのだが、

やはり、ふと気がつくともの寂しかったのだろうか。

 

忘れかけていた恋というキーワードが蘇る。

もうひと花咲かせようと…

それは不倫なのかも知れないし、

遠い昔好きだった人に、

もう一回アタックしてみようか、などと。

 

しかし、例えばいまどこかの広告主が、

恋は遠い日の花火ではない、と謳ったとしても、

いまひとつ響かない。

受け手に伝わらない。

いわゆる不発である。

 

なんせ、コピーが美し過ぎるし。

時代は移り変わっているのだ。

 

では、このコピーを少しいじって

「戦争は遠い日の花火ではない」とか

「テロは…」とすると、

いきなり迫真めいてくる。

いまという時代にフィットしてしまうから、

皮肉な事ではある。

 

更に時代を遡ると、もっと分かり易い事例がある。

「隣のクルマが小さく見えます」

というコピーが流行ったのが、

バブル期よりずっと以前の70年代初頭。

広告主はトヨタ、クルマはカローラだった。

 

最大のライバルである日産サニーに対抗すべく、

できたのがこのコピーだった。

日本に、いや世界のどこにもエコなんていう発想もなく、

でかいクルマ=裕福という図式が世界のスタンダードだった。

 

とても分かり易い例。

 

もうひとつ。

この時代に流行ったコピーに、

「いつかはクラウン」というのがある。

当時のクラウンは、いわば成功者の証しであったし、

いま思えば、幼稚で下らない自己実現法とも思うが、

この程度で、皆が満足できる時代でもあったのだ。

 

このように、過去のコピーを検証すると、

それは、時代とともに変化する、

いわばナマモノであることが分かる。

 

ヒットしたコピーというのは、

そうした時代を的確に捉えている。

相反するように、時代とズレたコピーはまずヒットしない。

 

しかし、例外的に時代を問わず普遍的であり、

いまでも魅力的に響くコピーがある。

 

「時代なんてぱっと変わる」(サントリーのウイスキー)

 

「少し愛して長く愛して」(サントリーのウイスキー)

 

「君が好きだと言うかわりに、シャッターを押した」(キャノン)

 

「恋を何年、休んでますか。」(伊勢丹)

 

 

これらのコピーは、広告という概念を離れ、

時代に左右されない力をもっている。

使い方次第では、いまでも人の心をすっと射貫く。

 

死ぬまで言葉と格闘した詩人の寺山修司に言わせると、

こうしていつまでも古びないコピー(言葉)には、

時代を超越した「実存」が眠っている、

という解説が成り立つらしいのだが。

 

 

 

カラオケ30年

工夫のないタイトルだが他に思い浮かばない。

カラオケに4時間いて、古い順に唄ったら、

30年分唄ったという話なので、

カラオケ30年なのである。

 

私の記憶に残る1960年代から唄ってみた。

この頃のヒット曲は、私もおぼろげなものもある。

「僕は泣いちっち」(唄・守屋浩)は、

親戚のおじさんがよく口ずさんでいたので唄ってみた。

東京に憧れている青年の歌だ。

なんかさみしくて泣いているので「泣いちっち」らしい。

いま、泣いちっちって言わないよね?

流行らなかったのか。

 

「東京ドドンパ娘」(渡辺マリ)は、

私もよく覚えていて、小学校でもみんな唄ってた。

激しいリズムと独特なテンポ。

それがドドンパらしい。

日本発のドドンパ、ちょっと南米っぽい。

ウッ!なんてみんなで駆け回っていた当時が懐かしく甦る。

そういえば、あの同級生だった子も、

いまはおばあちゃんになってしまったのだろう。

いや、そもそもこの世にいるのか?

そこが分からない。

 

「夕陽が泣いている」(ザ・スパイダース)

「いつまでもいつまでも」(ザ・サベージ)

「バラが咲いた」(マイク眞木)

 

グループサウンズとかフォークとか、

日本の音楽がどんどん新しく入れ替わる時期だった。

私も、舟木一夫ファンをやめ、新しい音楽に便乗。

中学に入ってからはギターとかドラムを始めましたね。

卒業間際に、中学校で、いまでいうライブを許可してくれたので、

私は友人と3人でフォークグループを結成。

ザ・リガニーズの「海は恋してる」を熱唱しました。

 

60年代の後半は、ヒット曲がものすごく多くて、

ここを歌いきるのに相当時間かかりました。

息もゼイゼイしたのでありました。

ちなみに、この頃のヒット曲を羅列すると下記の通り。

「ブルー・シャトウ」(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)
「虹色の湖」(中村晃子)
「この広い野原いっぱい」(森山良子)
「バラ色の雲」(ザ・ヴィレッジ・シンガーズ)
「恋」(布施明)
「君に会いたい」(ザ・ジャガーズ)
「帰ってきたヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダーズ)
「恋のハレルヤ」(黛ジュン)
「世界は二人のために」(佐良直美)
「好きさ好きさ好きさ」(ザ・カーナビーツ)
「モナリザの微笑」(ザ・タイガース)
「花と小父さん」(伊東きよ子)
「いとしのマックス」(荒木一郎)

あと、加山雄三とか石原裕次郎とか

もうキリがないんです。

 

ヒット曲は、続く70年代もとても多い。

中島みゆきとかユーミンも出てきます。

アリスも井上陽水もデビューしました。

百恵ちゃんもキャンディーズも全盛でした。

とこうして思い入れのある歌を連続してガンガン唄うのです。

その一曲ごとに想い出が甦るので、いちいち感動してしまう。

よってすげぇ楽しくて、心身が極端に疲れます。

途中、コンビニのおにぎりに食らいついて、

ジュースをごくごく飲んで、

炭水化物と糖分を補給。

もう、こうなるとスポーツです。

 

ノンストップで歌って、

せいぜい30年しかいかない。

よって、1990年代は歌えない。

フリータイム終了は夜の8時なので、

新記録樹立ならず、80年代で終了とあいなりました。

 

過去に、では新しい順から歌おうと歌い始めましたが、

新しい歌がぜんぜん分からない。

GLAYの「グロリアス」が一番新しかった 笑

これ、1990年代か。

ミスチルも、安室ちゃんも90年代までしか分からない。

よって、私のなかでは最新の歌は、2000年を超えていない。

我ながら、古いいきものであることを再認識する。

 

が、なぜか締めはいつもサザンの「ホテルパシフィック」か

柳ジョージの「青い瞳のステラ」となる。

この2曲は、神奈川県人会推薦。

ウソです。

両曲とも、なぜか2000年代にリリースされているが、

私も知っている。

それだけ名曲なのであると勝手に思っている。

 

修学旅行

受験勉強

恋愛

就職

離職

独立

結婚

子供

倒産危機etc…

 

4時間で我が人生を振り返る。

悪くない。

駆け足の30年だったし。

 

 

鐵馬厩 (テツマヤ【旧店名】鐵馬舍)というお店

降り出した雨で焚き火を中止し、

河原を後にした。

天気予報で事前に分かっていたのだが、

途中でちょっと日差しが出たので、

もしかしたら、と甘い判断をしてしまった。

車の後部座席とトランクには、

薪やコンロ、椅子、テントなどなどが、

結構びっしり積んである。

このまま帰るのも、なんか悔しいなぁ。

走る国道沿いで見かけた看板を頼りに、

道を逸れて小道を進むと、

山あいの静かなところに、その店はあった。

こういうムッときたときは、寄り道にかぎる訳。

雨に佇む…という形容詞がふさわしい。

大屋根の古民家を改造したお店は、

なかなか時代がかっていて風情がある。

 

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平日、しかもランチの時間も過ぎている。

店内は私たちだけだった。

 

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天井の太い梁が、この建物の歴史を物語る。

黒い炭でいぶされた内天井は、そのままいかしてある。

 

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店の若いご夫婦にいろいろとお話を伺った。

お二人とも揃ってハーレー乗り。

普段も晴れた日などは、東京などから、

続々とハーレーな人たちが訪れるらしい。

私も東京にいた頃はバイクを愛用していた。

渋滞ばかりの道では、バイクのほうが断然有利だし、

四輪に較べれば維持コストも安い。

が、その頃からハーレーは雲の上の存在だった。

まず私の免許が限定解除ではないので、

そもそも1200㏄もあるハーレーには乗れない。

またがる機会もなかった。

さらに金銭的に縁が無かったので、

ハーレーは眺めるもの、と決めていた。

元々、馬を繋いでおく場所に、

いまはハーレーが2台納まっている。

いわゆる馬と人間が同じ屋根の下に暮らす、

曲り家という特徴的な家だった。

岩手県の南部曲り家を取材したことがあるが、

確か曲り家は

あの地方独特のものだったように記憶しているが、

神奈川県にも昔はあったのですね。

ハーレーにちょっとまたがしてもらった。

初めての体験だが、

なんかしっくりくるなぁ。

ほどよい着座位置、握りやすいグリップの感覚。

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これを操って、暇な日などは、

山梨までドドッとツーリングに出かけますと、お二人。

よってお店は「鐵馬厩」の名が付けられた。

以前、「鉄騎兵、跳んだ」というモトクロスの小説を読んだことがある。

傑作で、なかなか興奮させられた。

やはりその中でもバイクが擬人化される。

マシンというのは、まああれこれと生き物に例えられる。

BMWは、狼に例えられるし、

アメリカのロックバンドであるC・C・Rは、

蒸気船のメアリー・エリザベスを、

「プラウド・メアリー」という歌にして、

全米ヒットチャートのトップに躍り出た。

もっともC・C・Rのジョン・フォガティは、

実在する船など知らずにこの歌をつくったというから、

当時の優雅な蒸気船を生き物に例えると、

気位の高いメアリーだった…

というところだろうか。

船は女性名詞だし。

で鐵馬厩は、やはり擬馬化か?

ハーレーは馬なのである。

いまでもこのハーレーという乗り物は、

勝手な想像だが、アメリカでは、

南部に集中しているように思えてしまう。

しかし映画「イージーライダー」のなかで、

よそ者として扱われ、自由を求めてさすらって、

遂にライフルで撃ち殺された若者が乗っていたのも、

チョッパーに改造されたハーレーだったし。

向こうでのハーレーの評価とか立ち位置というものが、

いまの私にはちょっと分からない。

 

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雨の降る山の木々の風景が美しい。

春で色づき始めている。

新芽が吹いて風に揺れている。

山桜がまだ残っているが、

道沿いのソメイヨシノは散り始めている。

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マグロの餃子、出汁巻きたまご、

格別の味噌汁に、生クリームがイケるシフォンケーキに、

和の器でいただくカフェ・ラテ。

うまいものを、たらふく腹に収めたので、まあ満足。

焚き火は、またの日の仕切り直しということで、

早々の帰宅となった。

↓食べログ

https://tabelog.com/kanagawa/A1408/A140802/14062837/

気持ちの良い日が続きますが…

3

寒くて風邪気味ですが、外の空気は澄んで爽快です。

例年と違うのは、景色に邪魔が入ること。

夏に飛蚊症を発症しまして、晴れた日に顕著に出現します。

青空に蚊が飛んでいる…イラッとします。

加齢による眼球の異常らしいのですが、

検査の結果、緊急性はないとのことでほっとしました。

年をとると、ふっとした景色に感動できます。

それが近所の何気ない日常だろうと、

街の雑踏であれ、イルミネーションであれ。

さて、なんでだろうと考えるのですが、

その答えはいまだみつからず、

ただなんていうか、そうすることで

いいなぁって思う訳です。

2

愛おしいといっても過言ではない。

こうして歩いている、独りで動いている。

家に帰ればなんか食える。

そして屋根のある寝床で寝ることもできる。

健康そして基本的文化生活って尊いです。

それすら叶わないひとたちが、世界中にごまんといる。

自ら病気をし、友人知人の死や闘病を聞く度、

いまこうしていることの不思議に、

やはり人生の垣根はできるだけ下げたほうが良い、

というのが私の辿り着いた、理想の価値観です。

いつもその基本を忘れて、つい欲を出しています。

何かを差別しています。

知らぬ間に差別することって、思えば割と怖いことです。

きれいごとをいくら述べたところで、

同じ過ちを幾度となく繰り返しています。

1

こう考えると、人って本来性善なのか性悪なのか、

よく分からない。

聖書もお経もコーランも、

良いことが書いてあるハズなのですがね。

やはり人ってその通りに生きられない。

この広い宇宙には

ブラックホールとホワイトホールがあるそうです。

またある説によると、この世界は必ずふたつあって、

それが対になっている。

パラレルワールドもそんな考え方が元になっているらしい。

太陽と暗黒。

白と黒、右と左。男と女。

そして善と悪。

どうもこの世の成り立ちが、

私たちの歴史にも関係があるのかも知れない。

そう思うと平静を保てます。

時代遅れ

大学時代の友人と20年ぶりに再会した。

奴が私を見て第一声「老けたのう」と言った。

そう言う奴も白髪頭を恥じるように、

相変わらずボソボソと

何か言い訳のようなことをつぶやく。

九州の大分で小さな工場をやっているが、

最近では息子さんを社長にして、

自らは第一線を退いていると言う。

歩き方に元気がない。

聞けば、心臓の手術、糖尿と修羅場をくぐってきたようだ。

しかし、息子さんが後を継ぐというので、

工場の設備費に6000万円位を費やしたとのこと。

「なので、退いたと言ってもまだ仕事はやめられんけん」

なんだか嬉しそうに話す。

「そっちはどうじゃ?」

ああ、そう言えば、この話し方で思いだした。

奴は結局、学生時代から東京で暮らしていても、

九州弁で通していたっけと。

皆が都会に馴染もうと地元の言葉を封じていたのに、

奴は一切お構いなしに方言を貫いた。

なんというか、古い男なのだ。

ムカシ、奴と横浜のキャバレーに行ったことがあるが、

うろ覚えだがロンドンとかそういう、

いまとなっては懐かしい店だったような…

そこでさんざん飲んで騒いで、

帰路、奴の口からはっとするような名言が飛び出した。

「最近のキャバレーには愛がないのう」

「………」

まあ、店の子が金金金と見えたのだろう。

奴曰く、

「ムカシの店はどこも人情も情緒もあってな、

そして気遣いも、愛もあったのに、

もうのうなったわ」

石原裕次郎の名曲「銀座の恋の物語」のような時代は、

その頃でさえとっくになくなっていて、

世の中はほぼ拝金がまかり通っていたことを

奴は痛烈に批判したかったようだ。

あれから30年以上が過ぎたいま、

疲れ老いてしまった中小企業の親爺が二人で、

懐かしの中華街で飯を喰いながら、

もうツベコベ言っても仕方がないのに、

次から次へと世相の話が尽きない。

翌朝、ホテルをチェックアウトし、

お互いの無事・安泰の言葉を掛け合う。

私が横浜みやげを渡すと、

奴もすかさず九州のおみやげを私に手渡した。

「お互い、少しは気が利くようになって、

ようやくオトナらしくなったのう」

奴をみなとならい線の駅に送り、

そのまま山下公園までとぼとぼと歩いて、

ベンチに腰かけ、快晴の海を眺めた。

(ああ、あの頃と何も変わっていないや…)

老いた俺たちだけど、

相変わらず青春の只中にいるんじゃないだろうか?

奴と今度はいつ会えるのか、

それが少々不安になってしまったのだが…

NHK朝ドラのテーマ曲に想うこと

NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」の主題歌である

宇多田ヒカルの「花束を君に」が流れると、

なんだか急にしんみりしてしまう習慣が身についてしまった。

朝のぼーっとしているときに困った事だが、

ストーリーが始まるとちょっとづつアタマが切り替わる、

そんな心理状態の流れが固定している。

この歌に秘められたしんみりが一体どこからやって来るのか、

いろいろ想いを巡らすのだが、

行き先、このドラマがそうした方向へ行くのか、

とも考えてみた。

しかし、現時点に於いてこの主題歌は、

ドラマのテイストとは異なるように思う。

本編のとと姉ちゃんだが、

話はかの有名な家庭誌である「暮しの手帖」を創刊した

大橋鎭子(しずこ)のストーリーであるらしい。

私的には同誌の元編集長であった花森安治という人の方が身近であり、

彼の功績ばかりが有名である。

今回は同誌・同社の創業に携わった大橋鎭子さんを中心に、

ストーリーが展開されるようだ。

時代的に考えれば、やはり戦争が絡んでいるし、

今後いろいろな展開が予想されるのだが、

このドラマの底流に流れるテーマは、

「さささやかな気使い」である。

これは数編前にドラマの中で語られていた。

そして暮しの手帖という雑誌も、

確かそうした方針でつくられていたように記憶する。

更に言えば、NHKの朝ドラの主人公はいずれ、

いつでも相変わらず強くて元気で快活。

ととネェチャンもそこは外さず、過去を踏襲しているのだが…

だからよけい、

宇多田ヒカルが歌う詞が気になる訳だ。

過去、この帯のドラマの主題歌は本編を支える、

または、あくまで物語に付随する役目にあったように思う。

が、今回の宇多田ヒカルのこの「花束を君に」は、

ドラマとは違う、他のベクトルを指しているような気がするのだ。

歌がすっと独り立ちしている。

そしてドラマを観ようとするこちらに、

何かまるで違う感情を提示しているのだ。

その妙にもの悲しい彼女の歌は、

スローで流れるようにスムーズで淀みがないメロディー、

それに乗せられ、静かに語りかけるように、

こちら側に詞を届けてくれるのだが、

それがひとつのストーリーとして、

ほぼ完結しているように思えるのだ。

普段からメイクしない君が薄化粧した朝

始まりと終わりの狭間で

忘れぬ約束した

花束を君に贈ろう

愛おしい人 愛おしい人

どんな言葉並べても

真実にはならないから

今日は贈ろう 涙色の花束を君に    

こうした歌詞から始まる意味深、かつもの悲しい歌は、
次にこう展開する。

毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く

  ただ楽しいことばかりだったら

  愛なんて知らずに済んだのにな    

これは、相当悲しい出来事がなかったら

考えつかない詞である。

花束を君に贈ろう

言いたいこと 言いたいこと

きっと山ほどあるけど

神様しか知らないまま

今日は贈ろう 涙色の花束を君に     

上の詞の「神様しか知らない」という箇所。

ここまできてやはり皆気づくのだ。

ああ、宇多田ヒカルは、

やはりお母様のことを歌っているのだな、と。

そこで思うのだが、悲しみを癒やすのは、

励ましでも同調でもなく、

やはり「時間」しかないのだろうなと…

天才宇多田ヒカルが満を持して送り出した新曲は、

何もNHKの朝ドラの為に書き上げた詞でなく、

現在の彼女のあるがままを表現した歌である。

だから感情を引き込む引力がとても強い。

それがいずれの方向だろうと、

彼女のつくる世界観はやはり魅力的である、ということ。

これはもはや、NHKが依頼した朝ドラのテーマ曲ではない、

彼女しかつくり得ない心の世界の提示、なのではあるまいか。

※カバーバージョン