東京さんぽ

 

久しぶりに東京へでかけた。

人に会うためとの大義名分のもと、

結局は息抜きの時間が欲しかった。

 

普段は神奈川の山間部で暮らしているので、

街の空気がたまに恋しくなる。

 

久しぶりに新宿駅で降りる。

なかなかの雑踏ぶり。

誰もあくせく急いでいる。

これぞ都会だ。

 

青山一丁目駅へは大江戸線が最短とわかり、

乗り場を探してウロウロするも、

気がつくと新宿3丁目あたりに来てしまった。

表示板に従って歩いたのになぁ。

 

で、大江戸線をあきらめる。

至近に千代田線の乗り口を発見。

そこから乗り換えて

青山へと向かうことにする。

 

それにしても大江戸線だ。

ネットで調べると

新宿駅から大江戸線に乗り換えるのは、

かなり難しい、

分からないとの書き込みが多い。

 

いつも思うのだが、

この国の鉄道をはじめ道路の標識サインなど、

とても不親切かつ分かりづらい。

そのくせ余計なサインが氾濫し、猥雑。

大切なサインを見逃してしまう原因になっている。

 

文句はこのくらいでやめにする。

 

久しぶりの青山・ツインタワービル。

地下のラーメン屋で、

野菜たっぷりの塩ラーメンを食す。

 

ここのラーメン屋は

かれこれ30年以上営業している。

ボクが友人3人と初めて会社を興したのが、

この青山一丁目なので、

ここはかなりお世話になった店だ。

 

そのオフィスは、赤坂郵便局の裏手にあった。

ラーメン屋を出て、そのビルへ足を運ぶ。

が、既に新しいビルに建て替えられていた。

 

当時を思い起こしても、

そのときからかなり古びていた。

夜はねずみの巣のようなビルだったので、

もうないだろうな、とは思っていたが。

 

付近を見渡すと全く見知らぬ街の風景が

広がっていた。

 

アジア会館で人と待ち合わせていたので、

そこで打ち合わせを2時間で済ませ、

早々に六本木方面へと歩く。

 

元防衛庁があったあたりは、

東京ミッドタウンとして、

なかなかハイカラな街に変貌している。

 

テナントをのぞきながら歩くも、

なんだかこちらに全く縁の無いブランドものの店が

ズラッと並んでいる。

 

↓イルミネーションもしゃれている東京ミッドタウン

↑東京ミッドタウンのビルはデカい

 

居心地がすこぶる悪いので、

六本木交差点を右折し、

霞町方面へとぷらぷらする。

 

すでに陽は落ち、

街は仕事帰りのひとひとひとで、

ごった返している。

 

外人率が異常に高いことに気づく。

歩道を疾走する自転車通勤の人も、

相当数いる。

皆、かなりおしゃれにみえる。

 

ムカシはこのあたりものんきで、

安い焼き鳥屋なども数件あったが、

いまはそんな商売は成り立たないのか、

とにかく単価の高そうな高級店ばかりが目立つ。

 

走るクルマは、ベンツ、BMW、アウディが、

なんのプレミアム感も感じないほど

普通に走っている。

我が家のまわりを走っている軽自動車率は、

ほぼ皆無。

 

なんか変だぞ、東京。

 

↓乃木坂あたりから見える六本木ヒルズ

 

翌日は朝から根津美術館へ足を運ぶ。

開催中の企画展に興味はないので、

かなり長い間、館のまわりをうろつく。

 

以前から、この美術館の建物に興味があったので、

やっと現物を見ることができた訳だ

 

↓根津美術館の軒下はなかなかの風情

 

 

↑都会にあってなかなかいい雰囲気

 

ここの外観を嫌というほど見分して

ふたたび表参道へ戻り、

待ち合わせた友人と昼飯を食う。

どこも人出が多くて、

そろそろうんざりする。

 

友人はこのあたりを根城にしている

アパレル系のバイヤーなので、

一年中このあたりに生息している。

 

ボクがこの街の感想を述べると、

ふふっと笑うだけだった。

 

ボクもかつてこの街で3年働いていたが、

そのころはとても良い街だった。

コーヒーは伝説の店「大坊」があったし、

四つ角の交差点近くには、

サンマ定食を500円で食わせてくれる、

おばあさんの経営する定食屋があったし、

夜食は「青山ラーメン」があったしなぁ。

 

同潤会アパートは表参道ヒルズとなり、

道路沿いはハイブランド店がズラリと並ぶ。

 

神南に用があったのでそのまま原宿まで歩くも、

やはり異常ともいうべき人の波に、

いい加減いらいらしてきた。

 

↑いちばん派手なプロモーションはやはりルイ・ヴィトンだった

 

山の手線の陸橋を越えて

明治神宮までくると、

ようやく静けさが戻る。

 

いやぁ、疲れる東京さんぽである。

 

神南の知り合いの店で、

特製の緑茶をいただいて、

しばらく歓談。

どうやらやっと肩の荷が降りたように

思えてきた。

 

疲労こんぱい。

 

そろそろ山へ帰ろう。

それが性に合っていると、

改めて自覚した。

 

↓マリオカートのようなゴーカートが公道を走っている。みな外人。あやしい。

 

↓裕福な知り合いのポルシェ。かっこいいよなぁ

コピーとかことばの不思議ばなし

広告の仕事をしていてよく思うこと。

それは、コピー軽視です。

特に、キャッチコピーを軽んじている人の

なんと多いことか。

 

対して、デザインは比較的分かり易いので、

みなさん、アレコレと口をはさみますし、

こだわっているようにも思えます。

デザインは、誰もが大筋は判断できるのでしょうね。

格好いいとか、都会的とか…

 

がしかし、デザインに於いても、

それがコンセプトに沿ったものかどうか、

本来、そこを考えなくてはいけない。

そんな観点で今一度デザインをみると、

なかなか難しいものです。

 

で、これがコピーとなると、

かなり粗末な扱いとなる訳です。

検討以前となってしまうことも、多々あります。

適当に誰かが書いて、それがそのまま最後まで残り、

掲載されてしまうことも少なくありません。

 

ボディコピーは、作文の添削と同じように考えるひとが多い。

よってそのコピーがその場に相応しいかどうかではなく、

一応、みな校正のようなチェックはしますが、

この場合も日本語として正しいかどうかのみで終わってしまう。

 

制作する側でも、一部でこのコピー軽視の傾向が、

増えているように思います。

 

よって、フツーの人はなおさらでしょう。

しょうがないといえばそんな気もします。

 

では、なぜ人はキャッチコピーを軽視するのか?

そう、答えは簡単。

分からないからです。

割とみな分からない。

で、私たちコピーライターの出番なのですが、

そもそもキャッチコピーの力を信じない人に

その重要性を説いても無駄でして…

 

私も無理強いはしないようにしています。

 

コピーが元々広告の添え物であり、

そこになにか書いてあれば良し、

要はどうでもいいもの…

そう思っている人は多いのではないか?

その理由は、前述したように分からないから。

 

が、これは甚だしい間違いです。

 

本来、人はことばで動いています。

たとえば、自らの日頃のコミュニケーションを

振り返っても、

ことばひとつで勇気づけられたり、

傷ついたりした経験はないでしょうか?

 

ものの言い方、ことば使いって、

実は難しい。

とてもデリケートなんですね。

 

或るひとことで愛しあう。

或るひとことで涙を流す。

或るひとことで怒る。

 

かように、人の心もことばで動くのです。

ことばって、わりとパワーがあります。

 

おおげさですが、

そのあたりを突き詰めたのが経典とか、

呪文なのかも知れませんよ。

 

人が本気で口にしたものには不思議な力が備わる。

また、そうしたことばが、ひとり歩きをしたりもする。

これを、人は言霊と呼ぶ…

 

コピーはいきものです。

活きもの!!

本気のことばには、魂が宿ります。

よって、コピーは添え物ではありません。

本気で考えたコピーには、不思議なパワーがあるのです。

 

このことを広告に携わる方だけでなく、

毎日を暮らす皆さんに知っていただきたい。

但し、考えすぎると、

不思議な世界に迷い込んでしまいますがね!

 

自由業ってホントにFreedom?

 

会社を辞めて独立した頃は、

所属も何もないので気楽なものだった。

と言いたいところだが、

世の中はそんなに甘くなかった。

 

特に金融機関である。

ここは外せない事情がある。

 

提出書類に必ず職業欄というのがあって、

その箇所でよく迷った覚えがある。

 

いまもそうだが、フリーなどという分類はない。

自営業とか自由業というのが目について、

まあフリーになったんだから自由業だろうと、

それにチェックを入れていた頃がある。

 

書類に目を通した行員が、

まず決まったように皆、同じセリフを発する。

「自由業ですか、うらやましいですね。

で、どういったお仕事をなすっているのでしょうか?」

だいたいこんな具合に尋ねてくる。

 

彼らは寸分違わず、

ビシッとした紺またはグレーのスーツを着ている。

何故か、銀フレームのメガネ率も高かった。

 

最初の頃は分からなかったが、

話の最中、

彼らはそのメガネの奥底で

こちらをあざ笑っているようだった。

少なくとも私はそう感じた。

 

フリーが銀行から融資を引っ張るのは大変だ。

こちらも事業の明るい見通しなんかを

一応は説明するのだが、

要は生活する金が足りない訳で、

そんな事情を百も承知でからかわれていたのだ。

 

担保などというものは当然ないから、

万が一借りられたとしても金利は高い。

しかし何としても借りなくては生きていけない。

よってやむを得ず銀行へアタマを下げにいくのだが、

そこらへんの事情をまるごと知ったうえで、

彼らは紳士然と振る舞っているから、

まあ、別の日にでも道でばったり会ったりしたら、

突然殴りかかっていたかも知れないけどね。

 

向こうも焦げ付きは出したくないのは承知している。

けれど、こちらは生活していけるかどうかだ。

引き下がる訳にはいかない。

舐められているのを承知で、

アタマを下げざるを得ない。

まあ、いま思い出しても虫唾が走る。

 

では一体、自由業というのは、

どういった方たちを指しているのか?

いまさらだけど、改めて調べてみた。

 

コトバンクによると、

開業医、弁護士、会計士、コンサルタント、芸術家など、

高度かつ専門的な知識・才能に基づく独立自営業者

ないしその職業のことで、第三次産業のサービス業に属する。

とある。

 

うーん、そういうことだったのか。

ひとくちに自由業といっても、

自分には縁遠いことがいまさら判明した。

こういう人たちは、

間違っても銀行に金なんか借りにこないだろうし。

 

で、こうした過去を振り返って思うに、

金も才能もない自由業はかなり苦労するということ。

いろいろな場面で不自由な思いをする。

生活も不安定極まりない。

当たり前だけど。

 

こうした環境は、そのうち心身に変調をきたす。

 

自由業の面々が次々と脱落していったのを、

私はこの目でしっかりと目撃している。

仕事がなくて田舎の実家に帰った者。

アル中で入院した仲間。

サラリーマン・クリエーターに戻った友人。

うつ病を患ったデザイナー等等、

思い出すとキリがない。

嫌になる。

 

こうなると、もはや自由業という名称を疑う。

不自由なことが実に多いのだ。

かつ万が一の保証もない。

そういえば、子供をあきらめた仲間や知り合いも、

何組かいたし…

 

ではなぜ、そんな境遇にもかかわらず、

自由業というカテゴリーを選択したのかだが、

そこがどうもうまく説明できない。

 

しかし、イマドキのフリーの方々に聞けば、

実に明快な解答が出てくると思う。

それもポジティブな意見として。

 

私たちの時代は、

おおげさにいえば社会的に虐げられていた時代なので、

自由業で生活してゆくには、

どうしても決意のようなものが必要だった。

さらに言えば、忍耐を伴う覚悟だ。

 

私的な意見だが私の場合は、

思春期あたりから抱いていた人生観のようなものが、

「自由業」へ向かわせたような気がする。

それは妙に拡大した自由奔放な自我と、

社会のシステムに対する不信、

とでも言おうか。

 

とまぁ少々暗い話をしたが、

リスクをとって余りあるほど面白いのもまた、

自由業なのである。

 

ここが不思議といえば不思議なのだが、

自由業というのは、

社会の或る一部の人間だけを魅了してやまない。

 

軽すぎる例えになってしまうが、

まず格好が自由であること。

私はスーツとか背広が大嫌いだったので、

会社を辞めた途端、

夏なんかはいつもTシャツと短パンで通していた。

あと、会社勤めのときはいつも

出社の際にタイムカードを押していたが、

ああいうものは身体によくないので、

辞めた途端スカッとした。

時間の使い方も自分でコントロールできるので、

子育てに参加できたことも

とても良かったと思っている。

 

ではさて、

いったい自由業を選択するとは

どうゆう事なのか?

 

そこをたいそうに語れば、

人生の賭けであり冒険でもあると、

言えないこともない。

だから多大なリスクをとる。

 

それと引き換えに得るものが、

なにものにも代えがたい。

目にはみえないものばかりだけど…

 

だからあなたや私を、

自由業へと駆り立てる訳だ。

 

 

p.s

新自由業と呼ばれるユーチューバー、独立プログラマーの方々も、

人生の宝島をめざして頑張っていただきたい。

 

p.s2

ちなみに、前出の銀行員の方々はその後バブル崩壊、

平成不況やら、合併に次ぐ合併で疲弊。

いまじゃゼロ金利で経営圧迫され、

人員削減の憂き目なんだそうです。

磐石なエリートでも未来は見通せません。

要は、この世にずっととどまる、

安定しているなんてものはひとつもないということ。

 

だって世界は刻々と変化し続けているのですから…

 

フリーの現場シリーズその2

 

発作的にフリーになったいきさつ

 

同僚とつくった会社は、当初から順調な滑り出しをみせた。

売り上げは安定し、仕事に必要な備品など難なく買えた。

社員旅行へも行った。伊豆カニ食い放題とかいろいろ。

みんなで流行りの飲み屋へもよく行った。

これらはすべて領収書、経費で落した。

のんきで抑揚のない日が続いた。

 

企画・コピーは私ひとり。

あとの3人はデザイナー。

クライアントは〇〇製作所のみ。

いわば〇〇製作所の宣伝部・制作分室のような位置づけである。

ひと月に幾度か、宣伝部のお偉いさんから飲み会の誘いがあった。

要は、料亭とかクラブへお供して金を払え、

で、帰りはタクシーを呼んでくれというものだ。

 

これには、結構アタマにきた。

その後もひんな人間に何人もであったが、

だいたいタイプは決まっている。

要は、セコイことに精を出して、他はテキトーなのだ。

仕事に於いてそれは顕著に出る。

 

こうした接待のとき、幾度か同僚に付き添ったが、

あまりにもバカバカしくて時間の無駄なので、

後は辞退した。

あるとき仕事の勤務時間に関して、

社長に据えた人間から不満を言われた。

私が他のみんなより働いていないと。

私がみんなより必ず早く帰るからと。

変なことを言う奴だなぁと思っていたところ、

他のデザイナーからも同じようなことを言われた。

 

私は日頃から、昼間は近くのコーヒーショップで仕事をしたり、

神宮外苑を歩いたりと、

確かに見た目は遊んでいるようにみえたかも知れない。

しかし、帰るのが早いとか、

いや昼間にぷらぷらしている件もだが、

そもそも仕事の内容が違うではないか、

と反論した。

 

職種の異なるものを時間で比べるものではない。

外で仕事をするのも、歩くのも、

それはそれで結構考えている訳なのだが、

どうもそれがうまく説明できない。

 

思えば、デザイナーの仕事は、

デスクに張り付いていなければできない仕事であり、

絶対時間は彼らのほうが圧倒的に長い。

そこまで彼らに合わせることもなかろうと、高をくくっていた。

 

加えて、その頃、

私が他の領域の営業を始めようと提案したところ、

みんなの反対にあった。

これが私のいらいらに拍車をかけた。

彼ら曰く、順当に仕事が入ってきているのだから、

余計なことをするな、ということらしい。

 

私は毎日まいにち、

同じ広告主から依頼される同じようなコンセプト、

似た寄ったりのポスターやパンフレットづくりに、

いい加減にうんざりしていた。

だから街をプラプラしていたし、

外で仕事をしていた節も、確かにある。

それに、あの陽の当たらない陰鬱なビルにいるのが、

どうしても嫌だった。

 

あるとき、4人で話し合いをすることとなり、

私はこうした領域の仕事は、

そもそも時間ではかっても意味がない、

というような話をした。

こうした考えは、私のなかでは当たり前と思っていたが、

デザイナー連中は納得しなかった。

ではと、私がなぜあなたたちは

他の分野の仕事を伸ばそうとしないのかと問い詰めると、

そのなかのひとりが「それは楽だからでしょ」とつぶやいた、

未知の仕事はちょっと自信がないともほざいたので、

私はいきなりぶち切れてしまった。

 

「○○さん、そんなこと言っていると、

いまに他のことを全くできない

どうしようもないデザイナーになっちゃうぜ」

と私は吐き捨てるように言った。

 

思えば、私は組む相手を間違えていた。

彼らは、ただ収入が安定すれば良かったのだ。

これじゃ、志望動機が不純な公務員となんら変わらない。

潰れてしまった以前の会社のほうがスリリングで面白かった。

仕事の幅は広かったし、営業は新鮮な仕事をよくもってきた。

よってやるときは徹夜してでもやったし、

寝たいときは昼間からデスクで寝ていたけれど、

仕事に関しては真摯だった。

 

後で判明したことだが、私が嫌われた本当の原因は、

徹底的にクライアントの接待を嫌ったことだったらしい。

まあ、それは認めざるを得ないのだが。

(これは難しい話ではあるのだが)

 

こうして私は自らつくった会社を発作的に辞めることとなった。

このとき、会社の預金は4桁の万単位の金があったらしい。

(私はこのときもそれ以前も通帳をみていないので断言はできないが)

 

よって、私はこの会社から一銭も受け取らずに辞めてしまった。

一応「ハシタ金はいらねぇよ」と啖呵を切った。

社長に据えた人間が「当然でしょ」とほざいたのを、

いまでもずっと覚えている。

忘れないなぁ。

(結局この会社は数年後に内紛で解散した)

 

※教訓:共同経営を長続きさせるって至難の業だと思うよ!

 

 

フリーの現場シリーズ

 

その1  フリーへの道

 

きっかけはいろいろあるだろうけれど、
最近はフリーになる人が多いと聞いた。

社会構造の変化とか働き方の多様性とか、
そうしたものがフリーへ向かわせるのかも知れない。

ムカシはフリーへの敷居が高かった、というと語弊がある。

正社員でいたほうがいろいろといい時代だったから、
フリーになる必要性があまりなかった。
そもそもフリーの土壌がまだできていなかった。

敷居が高いというよりフリーの需要がなかったとしたほうが
正確な表現かも知れない。

しかし、働き方に関してなにか思うところがある、
独自の労働哲学をもっている。
特別のスキルをもっていて独りで稼ぐ自信がある。

こうした人たちは早々とフリーで働いていた。

さて、一念発起してフリーになる人がいる。
なんとなく成り行きでフリーになった人もいる。
資金等、準備万端でなる人。
あらかじめクライアントを確保してから、
という運のいい人もいる。

私的なことだが、
私の場合はスタートは成り行だった。

当時、勤めていた広告会社の経営が傾き、
ひとりふたりと会社を去るひとが出てきた。
「うーん困ったなぁ。子供もいるし、
家賃も払わにゃならんし…」
そんなのんきなことを思いながら数ヶ月が過ぎたころ、
いきなり会社の全体会議が開かれ、
そこで社長が「会社の危機的状況」を初めて直に口にした。
彼は涙を浮かべていた。

いきなり焦った。
不安が現実のものとなった。
身の振り方を考えねばと、
とりあえず家には真っ直ぐに帰らず、
会社の近くにある地下のバーでビールを飲みながら、
今後のプランを考えることにした。

家に直行すると奥さんにバレる、
そして子供たちの屈託のない笑顔なんかみたら、
泣きそうと思ったからだ。

地下のバーに出入りしていることを
会社の仲間に話すと、次第に未来の落ちこぼれが
集まった。

誰かが、いやこの私だったのかもしれない。
よく覚えていないが、
「この際、ここにいる俺たちで会社つくっちゃおうか?」
となった。

いい加減な提案だったが、なんだか希望の光がみえてきた。
それはみんなも同じだった。

「会社っていったいどうやってつくるんだ?」
「そこからだな。まずスタートに立とう」
「なんとかなる」
「なんとかなるかねぇ…」

そんなこんなで、約3ヶ月後に、
私たちは青山一丁目にあるきったないビルの一室を借り、
登記を済ませ、会社をオープンした。

そして倒産しかけている私たちの会社の社長と数回話し合いをもち、
クライアントを引き継ぐ、という形でスタートを切ることができた。
交換条件としてそれまでの給料の未払いなどは不問とすることとした。

これは、恵まれた独立の一例といえるだろう。

職場となった青山一丁目のそのきったないビルの一室は、
ときたま馬鹿でかい気味の悪いネズミが走っていたのを
何度かみかけた。

以上の私の例は、フリーというより会社設立の話だが、
ホントのフリーの話は次回にする。

後に、私はここを辞めてホントのフリーとなったのだが、
それはフリーの種類からいえば発作的フリーというもの。

これは、間違いなく例外なく茨の道が待っているので、
まずおすすめはしないフリーだ。
これはのちほど書くとして、
フリーって「Free」なのだから、直訳すれば自由のはずだ。

フリーになるとホントに自由になれるのか?
フリーという自由な働き方とは?
そのあたりもおいおい書く。

で話を元に戻す。

フリーは誰でもすぐになることができる。
免許も資格も何もいらない。

ただフリー宣言すればいい。

それだけのことなのだが…

(つづく)

 

次回は

・発作的にフリーになった惨めな話

・フリーになるとホントに自由になれるのか?

・フリーという自由な働き方とは?

などを予定しています。

 

新会社、妄想中

 

新しい会社の名前を妄想中である。

別会社だけど、たいそうなことではない。

個人事業でも構わないと考えている。

その場合は屋号というのかな。

 

当初、エジソン・ライトハウスとしたが、

これはすでに存在していたので、却下。

次にレッド・ツェッペリンというのが閃いた。

しかし、ご存じのようにあのツェッペリン号は、

空中で大爆発しているので、なんか縁起が悪い。

そもそもレッド・ツェッペリンとは、

失敗の意味でも使われていたと言う。

で、これも却下。

 

現在最も有力なのが、

バニラファッジという名前である。

バニラファッジは、イギリスの国民的お菓子である。

名前のとおり、甘い食いものである。

 

で、これらの候補は、

気づいた方もいると思うけれど、

いずれも60~70年代に活躍した

世界的ロックグループの名ばかり。

 

バニラファッジのヒット曲、

「キープ・ミー・ハンギング・オン」は、

当時少年だった私には、凄いインパクトだった。

レッドツェッペリンの「天国への階段」も、

エジソンライトハウスの「恋の炎」も相当良かった。

いまもって忘れられない音楽だし、

これらをネーミングにするのは悪くないと考えた。

 

さらには「ホワイトルーム」のCREAMも候補にしたが、

次第に混乱してきて、結局はやめた。

 

で、この新しい会社というか

新組織はなぜ必要か、なのだが、

凄い稼いでやろうとか、

そういうのでは全然ない。

 

むしろ、やることを減らす、

嫌なことはやらないなど、

結構うしろ向き。

 

唯一、好きなことしかやらないとする一点において、

妥協のないよう検討している。

 

仕事としては、取扱品目を極端に絞り、

ライティングのみに集中すること。

ライティングが入り口の仕事であれば、

その後も前も引き受けます、

というスタンスにしたい。

 

なぜなら、ライティングから入る案件は、

それなりにテキスト重視であり、

それを核として組み上げるからこそ、

他とは違ったものが制作できる。

 

重要なのは、広告に文字は不要、

または重要ではないと考える

企業などがあるので

そこを切り離したいと思った。

 

ひと口にライティングといっても

広範な守備が必要となるが、

そこは私的な仲間やネットワークに

多彩な才能が眠っているので、

取扱品目を減らす代わりに、

多彩な案件を受け入れたい。

 

また、ネット上のライターたちとの違いを、

価格と品質においてもバッティングしないよう整備し、

一線を引きたいとも考えている。

 

私たちの仕事は、

クライアントに寄り添って仕事をしている。

これは、ある意味、とてもやりがいのあること。

しかし、なかには意にそぐわない案件もある。

意にそぐわないとは、

広範にわたるからひとことでは言えないが。

 

嫌なことはやらないとする方針は、

新しい組織にとって欠かせない事項である。

さらに、好きなことしかやらないというわがままも、

この際必要不可欠となってきた。

 

あるときから、好きなことしかやらないが、

嫌なことはやらないという心境より優勢となり、

これが基本方針に変わった。

 

好きなことしかやらないとは生意気な、

と言われそうだが、

そして、そんな仕事が成り立つのかとの

疑問も起きるが、

そこは、試しである。

 

実験である。

 

とにかく、好きなことだけやって、

生きていけるか?

この賭けはいまのところ読めない。

こういう場合、果たしてAIは、

この問いにどんな回答をだすのだろう?

 

この世界には、魑魅魍魎が跋扈している。

しかし、勘としての勝算はある。

 

まあ、少しでも仕事が動けば、

生きる自信に繋がるような気がする。

 

フリーになるとはどういう事なのか?

 

いまどき、どの分野でもフリーは溢れるほどいる。

割と気楽に独立できるらしい。

とにかく、フリーの時代に突入したようだ。

 

しかし、フリーってそんなに簡単になれるものなのだろうか?

 

フリーになったら自由になった、

なんて話はまず聞かない。

勤め人時代からあらかじめ収入が約束された、

お客様付きの保証型フリーは別として、

だいたいがまず、経済的に貧することとなる。

あてもなく無計画に独立したりすると、

大やけどを負ってしまう。

羅針盤もなく航海するのと、同じである。

 

私が経験者なので、間違いない。

ここはしつこく念を押してしまおう。

 

―清水の舞台から飛び降りてしまった―

当時、私にはそんな自覚はなかったが、

後々、あの独立は無謀だったなぁと、幾度となく述懐した。

 

フリーになると、まず慣れない営業活動をしなくてはならない。

金銭の管理なども自分でしなくてはならない。

営業は未経験だからとか、

私の専門はクリエーターだから営業はできないとか、

そんな悠長な事は言ってられない。

金銭の出納記録も、地味な作業ながらついて回る。

 

とここまで書いて気づいたのだが、

ここで述べる事は、

潤沢な資金を持って独立する人には無関係なので、

その限りではないことを、一応断っておく。

 

話を戻そう。

勤め人クリエーターは、社内の営業が仕事を持ってきてくれる。

経理に領収書を出せば、金銭は戻ってくる。

仕事が面白くないと、同僚と文句のひとつも言い放ち、

テキトーに流す仕事もあるだろうが、

フリーとなるとそうはいかない。

 

私も勤め人時代は、

会社の業績に関する事を多々耳にしたが、

そのことは全く気にならなかった。

私とは関係がないと考えていたフシもある。

それは、要は他人事だったからだ。

そもそも経営なんていうものもよく分からないし、

責任もなにもなかった。

よって無頓着でいられたに違いない。

 

私がフリーになるとき、

それは嬉しくて意気揚々としていた。

独立の記念にと、なけなしのお金をはたいて、

自らにオーダーの机を新調した。

黒の天板で脚がステンレスの、

いまどきはめずらしくもない机だが、

私にとっては、とても愛すべき机だった。

そこにワープロとプリンターを設置し、

来たるべき仕事の注文に胸は膨らんだ。

 

しかしだ、仕事はいっこうにこない。

 

私の家ではすでに長男が生まれていたので、

日に日にお金がかかるようになっていた。

おむつ代、ミルク代だけでなく、

みるみる成長してくれるのはとても嬉しいことではあったが、

次々に新しい子供服も買わねばならない。

 

そして、預金残高がみるみる減ってゆくのが、

なにより恐ろしかった。

 

来る日も来る日も新聞の求人欄をみるのが、

習慣になっていた。

そのなかで、外部スタッフの募集をみつけると、

即電話をかけ、作品をもって東京中を駆け回った。

業界の知り合いや、そのまた知り合いにまで、

いろいろな頼み事をしたこともある。

 

思えば、プライドも何もない。

そこに残っていたのは恥以外、何もなかった。

 

ときは80年代中頃。

 

世間は金余りでバブルだったが、

私はやっと、どうにかこうにか食える状態になろうかと、

わずかに光明がさしかかった程度の経済状態だった。

ただ、この頃のコピーライティング料や広告の制作料は、

現在のようなアドメニューのデフレ化がなかったので、

私みたいな者でも救われたと思う。

 

思い起こせば、当時のフリーになった人たちは、

それなりに知名度も実力も兼ね備えている、

一握りの一流人ばかりだった。

そうでなければ、先に述べたように、

当時のフリーは、あらかじめお客様を抱えている

保証型フリーとでもいおうか、

まあ、食える見込みがある人たちのみに許された、

職の形態だったように思う。

 

一介の無名な私がやるような事柄ではなかったのだ。

まあ、元々いろいろと無謀な勘違いをする気性なので、

いまでは笑える事ではあるのだが。

 

では、なぜフリーをめざしたのか?

 

そこを考えると、かなり面倒でややこしい事になるのだが、

一言で済ますとなると、

それは性格なのだろうと言うしかない。

 

生まれもったものであるとか、

家庭環境、幼児・思春期に受けた影響などが、

きっと多分に作用しているのだろう。

 

私の家庭は、ほぼ放任だったので、

勝手に何でもやってなさいというところがあった。

おかげさまで、勝手に思うがままに育つ訳で、

そこに歯止めなどは一切なかったし、

それが自由だと信じて疑わないところはあった。

 

よって人から束縛される事を極端に嫌う性格だった。

 

また、父は典型的な公務員だったので、

その姿を幼い頃から観察していた私は、

或る年頃になって感づいた事だが、

父が本来もっていたであろう個性が、

全く私からは見えなかったことだ。

とにかく始終難しい顔をしている。

すべてが時間どおりに過ごす窮屈さ。

幼い私から話しかけられない、役人特有の奇妙な威厳。

そうした印象も、

少なからず私に影響を与えているのかも知れない。

 

あと、これは私独自の性格からくるものだが、

勤め人時代、タイムカードを通して出社する訳だが、

私はあのタイムカードという存在に、

なぜか毎日いらいらしていた。

 

目に見えない束縛とでもいおうか。

あの管理のされ方は、

いまでも嫌な記憶として残っている。

 

しかし、永くいたい会社もあったし、

ユートピアのような会社もあった。

なのに、どうもそのぬるま湯的な雰囲気が、

いつか自分を駄目にするような予感がした。

 

とんでもない会社を転々とした事もある。

それは代表の愛人が社内にいて、

社内の雰囲気が極端におかしい会社だったり、

人を人として扱っていない会社だったり、

専門職として採用されたにもかかわらず、

全く違う部署の手伝いばかりをさせられたり…

 

ちょっと長くなってしまったが、

いろいろな事が重なって、

結局、私は独りを選んだのだろう。

 

そうした傾向をある意味、

社会不適応とでも言うのだろうか?

そこは、いまもって分からない判断なのだが。

 

さて、職業的フリーとは何かだが、

不自由この上ないフリーという名のこの形態は、

いまも社会に増殖している。

 

それは、リスクを取ってでも得たい、

危うく魅力的な何かがあることだけは、

確かなことなのだ。

 

不安定な経済状態を覚悟で臨むフリーという形態。

そこには、金銭を超えるものがなければ、増殖するハズもない。

 

金銭に置き換えられない何か…

その価値がその人にとって大きな存在であればあるほど、

その若者は、そのシニアは、

やはりフリーをめざすのだろう。

 

独りはとてもしんどい。

辛い、苦しい。

けれど、

喜びも愛しさも織り混ざった幾年月なのである。

 

私は遠い昔にフリーからはじめていまに至ったことを

ほぼほぼ良かったと、いまでも思っている。

 

そこには、金銭ではまず解決がつかない何かが横たわっている。

 

―己の船の舵を、人任せにしてはならない―

 

そう、人生観にまで関わる秘密が眠っているからだ。

 

 

アイデアはタダではない

仕事の性格上、

いろいろとアイデアを捻らなければならない。

やっとアイデアがうまれても、

それが仕事上ベターなのかベストなのかは、

どうしても相手次第となる。

自信があってもこればかりは、

結果をみないと分からない。

が、一応社内のベストアイデアとして、

依頼主に提案する。

具体的に、それが企画書であったり

デザインまたはキャッチフレーズ等々、

一応カタチとして表す。

仕事の予算にかかわらず、

私たちも同業者も、常にベストを尽くしている。

なぜなら、予算によってアイデアをひねり出す度合いを

調整するなんて、土台無理だからだ。

とりあえずベストを尽くしてしまうのが、

この職業域に生息する人間の性分なのだ。

よって、苦労したアイデアが採用されると、

とてもうれしい。

悩んだ甲斐があるなぁと、しみじみ思う。

向上心も刺激され、社内的にもいい影響を与えてくれる。

より良いアイデアを捻り出すため、

私たちは過去から現在に至るまで、

それなりのベンキョーと経験と実践を積み、

相応の時間を費やしている。

しかし、仕事の性格上、

そこにビジネスの難しさがつきまとうことも知っている。

思うに、アイデアはまずカタチがないものなので、

どうもそのあたりに問題が隠れているようなのだ。

依頼されたとはいえ、そうそうにモノが動く訳ではないし、

発注と同時に金銭授受が発生する訳でもないのが、

この業界の特徴である。

裏を返せば、こうした仕事の依頼と受注前後に、

双方の思い違いやニュアンスのズレなど、

さまざまなトラブルも発生する。

口約束、曖昧な意味合いのメールなども、

後のもめ事の一因になる。

それは私たちのつくりだすものが、

そもそも実体のないものだからである。

依頼者による評価やその価格などにおいても、

個々の判断によって大きく乖離してしまうことがある訳で、

これは私たちの扱うものが、

面倒な商品であることの証左だ。

アイデアを提案したからといっても、

実はそこに正解はない。

具現化したところで、

ベストとはいえないことも多々あるだろう。

価格においても同様のことが起こる。

では適正価格というものを考えた場合、

それは双方が同意すれば、

それはそれでカタがつくハズなのだが…

諸事情が絡んで、現実は複雑怪奇に進行することもある。

そこで最近よく聞くのが、

仕事を始める前に双方で詳細な取り決めをし、

厳密な契約書を取り交わす例などがある。

アイデアを捻り出すのは、かなり心身のエネルギーを使う。

有限的な時間を費やすので、他の時間を圧迫する。

よって、そこに有益な何かが存在しなければならないと

私たちは次第に考えるようになった。

ビジネスとしてのアイデアは、私たちの意識如何で、

しっかりとその権利を生むハズだ。

だから私たちは日々頑張っていけるのだし、

食べてもいける。

(誰がみても陳腐なアイデアは論外だけどね)

アイデアに対するコスト意識は、

後に続く人のためにも、

しっかり定着してもらいたい事柄である。

「アイデアはタダではない」

当たり前のように思われる方も多々いると思うが、

現実はかなり厳しい。

私の実感だ。

だから経済活動を営む誰もが意識してもらいたい、

いや一度は考えていただきたい、

大切な事柄のように思うのだが。

魑魅魍魎コンサルタント

その神経質そうで、か細い声の電話の主は、

是非とも当協会のコンペに参加してくれないかと

ねちっこく、かつなかなかしぶといので、

無料コンペはお断りの旨を伝えると、

では最低保証は支払いましょうと、

妙に真剣なのである。

ウチ等をどこかの会社と間違えているのか?

改めて名を名乗ると、間違いないという。

ならばということで、この協会をいろいろ調べると、

まずどうしようもないサイトしかもっていないことを知る。

全国的に「名の知れた団体なのになぁ」と、

私はひとりつぶやくのであった。

後日、競合は3社と判明。

で、現在の広報・宣伝の状況などをヒヤリングしたのだが、

実は内部で今後の方針を巡って意見がバラバラで、

全くまとまらない、

かつこれといったアイデアもなく、

全く方向性がみえない、

よって、コンサルを雇うことにしたとの経緯を聞く。

ふーん。

この協会がPRにかける年間予算はだいたい3000万。

コンサル料は10㌫くらいだったろうか?

などと考え倦ねているうち、

ふとイケルと、何故か思ってしまった。

全体の段取りがぼんやりと見えてしまったのだ。

が、まずコンペを勝ち抜かなくては元も子もない。

戦略としてはいろいろ策はあるが、

この場合は正攻法でいくことと決める。

奇襲は必要ないと考えた。

まずリサーチによるこの協会の知名度実証把握、

現在の広報・宣伝費を洗い出し、

その質と方向性、費用対効果などを詳細に調べる。

バラバラだったものの方向性をひとつに絞り、

媒体の変更などによる予算の組み換え、割り振り、

さらに媒体ごとの訴求も考え、ラフをつくり、

プレゼン準備を進める。

プレゼン当日、おおっとムカシ若かりし頃、

憧れていた大手も参加していることを知る。

△△エージェンシー

が、内心このプレゼンはイケルと確信する。

プレゼン本番はかなりの手応えで、

後日ウチに決まったときは「当然でしょ」と、

分かったいたようにうぬぼれる。

まあ、ここまでは自慢話。

流れからして仕方がない。

が、肝心なのはこの先なんである。

コンサルなんてやるんじゃなかった…

そればかり考えた一年になってしまった訳です。

なんでかというと、

この協会内部の力関係というか、

役員同士の人間関係というか、

これらがとんでもなくドロドロしていて、

アレコレと絡まった糸のようなもつれ、

収拾のつけようもない。

当初の協会からウチ等への依頼も空しく、

各自が自分たちの思い通りの方向へ事を進めようと、

この私を口説く、飲みに引きずり回そうとする、

果ては、こちらが思い通りに動かないと分かるや、

裏工作で足を引っ張る、反対する決議を引き延ばそうとする、

アレコレ難癖をつけて会議を無駄に終わらせてしまう等、

とにかくこちらとしては、

強烈なストレス攻撃を受けたのであった。

よくよく調べるに、どうもそれらの動機が、

それぞれに各業者と裏で繋がっている関係から始まっており、

こちらが費用対効果の悪い媒体とかを切ろうとすると、

鋭い反撃を食らわすのであるからして、

半年も過ぎた頃には、もうこれはある意味、

すさまじい内戦状態に陥ってしまったのである。

うわー険悪

この間、約一年でこちらがぶった切った媒体と業者は、

永年この協会をヤドリギのようにしてきた所ばかりで、

こちらの調査では、

クソの役にも立たない媒体と宣伝物ばかりだった。

あるとき、この協会の全体会議の後に行った飲み屋で、

懇意にして頂いている一人の役員から、

○○さん夜道の独り歩きに気をつけなよと

真顔で忠告されたときには焦ったね!

後日、こちらが取引停止をした新聞社のお偉方数人が、

「どいつだ、ウチを切るとほざいている奴は」と、

この協会に怒鳴り込んできたというから、

いい加減笑ってもいられなくなった。

怖!

しかしだ、

なかにはとても真面目に協力してくれる方や、

こうした協会の状況に危機感を抱いている役員の方々も

少なからずいてくれたので、

こちらも途中で逃げずに済んだし、

胃潰瘍寸前でなんとか「卒業」できたのだが、

結局、成果として、

当初の改革目標の半分も達成できなかったのである。

これがいまもって悔しく思うことがある。

過日、風の便りにきいた噂では、

この協会はただの飲み会の場と成り下がり、

元の業者となあなあの付き合いを開始。

協会の体たらくは末端にも広く伝播することとなり、

会員の数も激減と一途を辿っているらしいと。

「大丈夫か?××協会さん」と思わずつぶやいてしまった。

後、いろいろと調べて分かった事だが、

この狭い日本には、こうした得体の知れない法人、

訳の分からない利権集団がすこぶる多いのであ~るよ。

知らなかったなぁ…

という訳で、おおいに反省した次第。

しかしですね、まあとんでもない事も体験できたし、

とてもベンキョーになりました(汗)

とでも言っておこうか。

東京村

築地市場の移転問題で揺れていますね、東京都。

たまにニュースや関連記事を読んで思うのは、

世界最大の都市・東京なのに、政治・行政は

田舎レベルだとバレてしまった、ということだろうか。

代々、都知事になるのは実力はさておき有名人ばかりで、

議会は親分・子分の関係が絡み合った寄り合いレベル。

利権がないといえば嘘になるだろう。

こうして次はオリンピック・パラリンピックの開催である。

きっと誰かが一稼ぎをする、しているのだろうことは、

誰もが思うこと。

で、気づいたのは、こんだけ大きな都市だから、

予算は膨大なのだけど、

そこは無尽蔵の如く結構適当だということ。

難しい事、面倒な事は専門家に丸投げし、予算は言い値。

あとはなんとかなってしまうのが東京都だ。

税収が多いし、まあ、たまに失敗しても

誰も責任をとらないところが太っ腹である。

そもそも、リスクを伴わず責任もとらない仕事というのが

イマドキ存在すること自体、私には驚きであるが、

そんな曖昧な集団は、きっと腐る、いつか腐る訳で、

よくよく考えれば、こんな人達の塊は

いまでも日本の何処にでも存在しているのだから、

思わずため息が漏れてしまうのだ。

こうなると、経営という側面のみで考えるに、

花の都・大東京の政治・行政を動かすのも、

それほど大変なことのような気がしないから、

こちらも親近感が湧いてくる。

零細企業なんかを経営するほうがよっぽど難しいのではないか。

これは半分皮肉だが、半分は本気である。

かつて東京に住み、東京の企業に勤め、

更に友人たちと会社を立ち上げたときのことではあるが、

この頃は当然、夢と希望もあった訳だが、

それに沿うように先行きの不安が始終ついて回っていた。

いくら零細とはいえ、潰してしまっては大変な事になる。

常に危機意識が拭えない。

コスト、創意工夫。

そんな言葉がいつもアタマを駆け巡っていた。

とまあ、これがフツーなんだけれどね。

さいわい、東京と言うところは企業数がずば抜けて多く、

よって仕事も大量に発生するので、

営業力とツテとそこそこの仕事をこなしていると、

経営はなんとか維持することができたのである。

事務所の家賃など固定費等の維持費は高いが、

それを上回るメリットがあるのが、東京なのである。

よってリスク覚悟でビジネスをするのに、

東京はかなり面白いマーケットではある。

で、肝心の仕事の質・レベルだが、

凄い仕事をする会社や人間がいるのも東京だとしたら、

逆に低レベルでもなんとか喰えてしまうのも、

東京という所ではある。

才能と実力がなくても、

ツテでなんとか凌ぐことができるのが、

東京のおおいなる包容力といえるのではないか。

こうした感想は私の勝手な経験則で、

皮肉でもなんでもない。

が、こうした事情がクリエーターに限ったことなのかどうかは

私にはよく分からない。

よって、この話は広告業界限定である。

そしてやむを得ない事情で東京を離れて実感したのは、

仕事の仕方、そしてマーケットとその構造が全く異なることだった。

この場合のマーケットとは、

東京以外というマーケットという定義にしておくと分かり易い。

仕事の規模も小さく数も少ない非東京マーケットは、

当然、クリエーターの数も少ない訳だが、

なんというか、そこにハッキリと生存競争の原理が働いているのが

手に取るように実感できるので、

ひょっとしたら東京以外のほうが、

厳しい環境下なのかも知れないということだ。

非東京マーケットはおおむね、

媒介として、大手広告代理店が介在しない。

よって、経営者と直にやりとりする。

ときに厳しい言葉を投げかけられる。

おまけに予算が少ないことのほうが断然多いのが、

非東京マーケットである。

そこには、仕事のレベルも関係するようにも思うし、

営業力も影響するのだが、

更に難しいのは、経営者の志すところを察知し、

それを共有しないことには

仕事が立ちゆかなくなることである。

こうした環境下において、非東京という仕事場には、

あの大東京市場のような包容力もなければ、

無駄とか余力というものは一切存在しない、

ということである。

よって各企業の切実さも直に伝わるし、

経営者が決断して身銭を切る分、

当然のようにこちらに要求するハードルも高くなる。

翻って思うに、

東京にはそれなりに過酷な何かが存在するのも確かである。

その過酷が何かは、それぞれの人によって違うような気がする。

それを分かった上でなお、

ビルとか混雑だとかの見た目とは裏腹に、

あんなに住みやすい、いや生き易いところもない。

それが東京のように思う。

だから皆、東京を出るのを嫌がる。

そして怖がる。

逆説的にモノを言うようだが、

東京には「村」のようなやさしさがあるように思えてならない。

これが一極集中日本の光と影の現実である。

だから誰も東京をめざすのだ。

だからみんな東京に居続ける。

だから東京はいつも人がいっぱいなのである。

東京という村を一歩出ると、

そこには喰うものもなく山姥がいて、

カッパが出て、熊に追いかけられて、

おまけに真っ暗で…

おっと、またひねくれてしまった、

ヤメとこっと!