彼岸花のころに

 

死んじゃっちゃぁ

話しもできねーじゃねえか

なあ

そんなことってあんのかよぉ

なあ

 

 

 

 

花と陽のあたる楽園

 

もういない叔母が

フジ子ヘミングによく似ていて、

あの音色を聴くと、

必ず叔母の顔が浮かぶ。

 

横浜で、ずっと服飾デザイナーをしていて、

小さい頃は叔母の家に行くと、

いつもミシンを踏んで何かを縫っていた。

 

傍らで僕はボビンとか

色とりどりのカラフルな糸を眺めながら、

叔母は仕事をしていて、独身で、

ウチの母は、家庭の主婦で、

ちょっと違うんだと思った。

 

叔母の家の棚には、

とてもきれいな布が、沢山置いてあった。

僕は、よく叔母に服をつくってもらったが、

そのどれもがハイカラ過ぎて、

それを着て小学校へ行くと、

必ずみんなに奇異な顔をされた。

 

あるとき、叔母が編んでくれた

ブルーのラメ入りのセーターを着て教室に入ると、

ある女の子がむっとした顔で、

「まぶしいから、そんな服着ないでよ!」と

詰め寄ってきた。

 

後日、その事を叔母に話すと、

けらけらと笑っていた。

そして「○○(僕の名前)、そんなのはどうでもいいの、

大きくなったら、好きなものだけを着ることよ」

と言って僕の頭を撫でてくれた。

 

叔母はずっと独りで生きている女性で、

とても綺麗で華やかにみえたが、

本人の心情は当時から晩年に至るまで、

私にはよく分からなかった。

 

叔母の最期を看取ったのは僕と奥さんで、

とてもやすらかに目を閉じていた。

それは僕たちが、

とてもほっとできる事だった。

 

叔母の墓地は、花の咲きみだれる公園墓地を選んだ。

僕は此処へくると必ず墓地を一周する。

季節の花々が美しく咲く生け垣をみながら、

陽射しのなかを歩いていると、

生きているなぁって思うのだ。

そして傍らでたばこを一服してから、

元気でな、また来るから…

とおかしな事を必ず口走る。

 

こうした時間はとても救われると、

ふっと気づくことがある。

それは、生きている者も、

もういなくなってしまった者も、

実はたいして違わないじゃないかと、

思えることだ。

 

すぐ隣に、「ありがとう」って

笑っている叔母がいる。

そう思えるだけで、

僕の死生観が変化するのなら、

それは、僕にとって、

いつか必ず救いとなる。

 

 

 

東京

 

泣きたくなったら

夜中にひとりで泣く

Y男はそう決めている

 

誰に知らせるものではない

後は微塵も残さない

そして生まれかわるかのように

何事もなかったかのように

朝飯を食い

背広を着て家を出る

 

あまり好きではない会社へ

よくよく分からない連中と

挨拶を交わす

 

お客さんのところで

それなりの大きな売買契約を獲得し

帰りの地下鉄のなかで

Y男は考えるのだった

 

この広い都会で

オレの自由って

一体どんなもんなんだろう

たとえば

しあわせってどういうものなのか

こうして地下鉄に乗っている間にも

オレは年をとり

時間は過ぎてゆくのだ

この真っ暗な景色でさえ

微妙に変化してゆくではないか

妙な焦りとあきらめのようなものを

Y男は自分の内に捉えた

 

地下鉄を出ると

けやきの木が並ぶ街に

夕暮れの日差しが降り注いでいる

(とりあえず今日だけでも

笑顔で歩いてみようか)

 

Y男は陽のさす街並みを

さっそうと歩くことにした

こんがらがった糸を解く間に

過ぎ去ってしまうものが愛おしいからと

 

歩く

歩く

 

いまオレ

太陽をまぶしいって

そして

久しぶりに心地よい汗が流れている

 

徐々に疲れゆく躯の心地

そうして遠くに消えゆく昨日までのこと

 

まずは

そう感じている

こころをつかむことなのだと

 

 

フリーになるとはどういう事なのか?

 

いまどき、どの分野でもフリーは溢れるほどいる。

割と気楽に独立できるらしい。

とにかく、フリーの時代に突入したようだ。

 

しかし、フリーってそんなに簡単になれるものなのだろうか?

 

フリーになったら自由になった、

なんて話はまず聞かない。

勤め人時代からあらかじめ収入が約束された、

お客様付きの保証型フリーは別として、

だいたいがまず、経済的に貧することとなる。

あてもなく無計画に独立したりすると、

大やけどを負ってしまう。

羅針盤もなく航海するのと、同じである。

 

私が経験者なので、間違いない。

ここはしつこく念を押してしまおう。

 

―清水の舞台から飛び降りてしまった―

当時、私にはそんな自覚はなかったが、

後々、あの独立は無謀だったなぁと、幾度となく述懐した。

 

フリーになると、まず慣れない営業活動をしなくてはならない。

金銭の管理なども自分でしなくてはならない。

営業は未経験だからとか、

私の専門はクリエーターだから営業はできないとか、

そんな悠長な事は言ってられない。

金銭の出納記録も、地味な作業ながらついて回る。

 

とここまで書いて気づいたのだが、

ここで述べる事は、

潤沢な資金を持って独立する人には無関係なので、

その限りではないことを、一応断っておく。

 

話を戻そう。

勤め人クリエーターは、社内の営業が仕事を持ってきてくれる。

経理に領収書を出せば、金銭は戻ってくる。

仕事が面白くないと、同僚と文句のひとつも言い放ち、

テキトーに流す仕事もあるだろうが、

フリーとなるとそうはいかない。

 

私も勤め人時代は、

会社の業績に関する事を多々耳にしたが、

そのことは全く気にならなかった。

私とは関係がないと考えていたフシもある。

それは、要は他人事だったからだ。

そもそも経営なんていうものもよく分からないし、

責任もなにもなかった。

よって無頓着でいられたに違いない。

 

私がフリーになるとき、

それは嬉しくて意気揚々としていた。

独立の記念にと、なけなしのお金をはたいて、

自らにオーダーの机を新調した。

黒の天板で脚がステンレスの、

いまどきはめずらしくもない机だが、

私にとっては、とても愛すべき机だった。

そこにワープロとプリンターを設置し、

来たるべき仕事の注文に胸は膨らんだ。

 

しかしだ、仕事はいっこうにこない。

 

私の家ではすでに長男が生まれていたので、

日に日にお金がかかるようになっていた。

おむつ代、ミルク代だけでなく、

みるみる成長してくれるのはとても嬉しいことではあったが、

次々に新しい子供服も買わねばならない。

 

そして、預金残高がみるみる減ってゆくのが、

なにより恐ろしかった。

 

来る日も来る日も新聞の求人欄をみるのが、

習慣になっていた。

そのなかで、外部スタッフの募集をみつけると、

即電話をかけ、作品をもって東京中を駆け回った。

業界の知り合いや、そのまた知り合いにまで、

いろいろな頼み事をしたこともある。

 

思えば、プライドも何もない。

そこに残っていたのは恥以外、何もなかった。

 

ときは80年代中頃。

 

世間は金余りでバブルだったが、

私はやっと、どうにかこうにか食える状態になろうかと、

わずかに光明がさしかかった程度の経済状態だった。

ただ、この頃のコピーライティング料や広告の制作料は、

現在のようなアドメニューのデフレ化がなかったので、

私みたいな者でも救われたと思う。

 

思い起こせば、当時のフリーになった人たちは、

それなりに知名度も実力も兼ね備えている、

一握りの一流人ばかりだった。

そうでなければ、先に述べたように、

当時のフリーは、あらかじめお客様を抱えている

保証型フリーとでもいおうか、

まあ、食える見込みがある人たちのみに許された、

職の形態だったように思う。

 

一介の無名な私がやるような事柄ではなかったのだ。

まあ、元々いろいろと無謀な勘違いをする気性なので、

いまでは笑える事ではあるのだが。

 

では、なぜフリーをめざしたのか?

 

そこを考えると、かなり面倒でややこしい事になるのだが、

一言で済ますとなると、

それは性格なのだろうと言うしかない。

 

生まれもったものであるとか、

家庭環境、幼児・思春期に受けた影響などが、

きっと多分に作用しているのだろう。

 

私の家庭は、ほぼ放任だったので、

勝手に何でもやってなさいというところがあった。

おかげさまで、勝手に思うがままに育つ訳で、

そこに歯止めなどは一切なかったし、

それが自由だと信じて疑わないところはあった。

 

よって人から束縛される事を極端に嫌う性格だった。

 

また、父は典型的な公務員だったので、

その姿を幼い頃から観察していた私は、

或る年頃になって感づいた事だが、

父が本来もっていたであろう個性が、

全く私からは見えなかったことだ。

とにかく始終難しい顔をしている。

すべてが時間どおりに過ごす窮屈さ。

幼い私から話しかけられない、役人特有の奇妙な威厳。

そうした印象も、

少なからず私に影響を与えているのかも知れない。

 

あと、これは私独自の性格からくるものだが、

勤め人時代、タイムカードを通して出社する訳だが、

私はあのタイムカードという存在に、

なぜか毎日いらいらしていた。

 

目に見えない束縛とでもいおうか。

あの管理のされ方は、

いまでも嫌な記憶として残っている。

 

しかし、永くいたい会社もあったし、

ユートピアのような会社もあった。

なのに、どうもそのぬるま湯的な雰囲気が、

いつか自分を駄目にするような予感がした。

 

とんでもない会社を転々とした事もある。

それは代表の愛人が社内にいて、

社内の雰囲気が極端におかしい会社だったり、

人を人として扱っていない会社だったり、

専門職として採用されたにもかかわらず、

全く違う部署の手伝いばかりをさせられたり…

 

ちょっと長くなってしまったが、

いろいろな事が重なって、

結局、私は独りを選んだのだろう。

 

そうした傾向をある意味、

社会不適応とでも言うのだろうか?

そこは、いまもって分からない判断なのだが。

 

さて、職業的フリーとは何かだが、

不自由この上ないフリーという名のこの形態は、

いまも社会に増殖している。

 

それは、リスクを取ってでも得たい、

危うく魅力的な何かがあることだけは、

確かなことなのだ。

 

不安定な経済状態を覚悟で臨むフリーという形態。

そこには、金銭を超えるものがなければ、増殖するハズもない。

 

金銭に置き換えられない何か…

その価値がその人にとって大きな存在であればあるほど、

その若者は、そのシニアは、

やはりフリーをめざすのだろう。

 

独りはとてもしんどい。

辛い、苦しい。

けれど、

喜びも愛しさも織り混ざった幾年月なのである。

 

私は遠い昔にフリーからはじめていまに至ったことを

ほぼほぼ良かったと、いまでも思っている。

 

そこには、金銭ではまず解決がつかない何かが横たわっている。

 

―己の船の舵を、人任せにしてはならない―

 

そう、人生観にまで関わる秘密が眠っているからだ。

 

 

父の不条理

父は公務員としての職業を全うしたが

それより以前は軍人だった

本当は電気屋をやりたかったと話したことがあるが

叶わなかった

強制的に軍人となって満州へ渡り敗戦

シベリアでの捕虜生活は苦渋の毎日だったと

それより以前はとうぜん父はとても若かったし

将来の夢をいっぱい抱えた少年だったのだろう

父は海辺の村に育った

大きな旅館の息子だった

父の父は旅館の経営はやらず海運業を興した

とても静かないなかでの生活

父はいつも目の前の海で泳いでいたという

戦後2年が過ぎて

父は村でたったひとり生きて帰ってきた

村の人たちは父を冷ややかな目でみた

そして父はふるさとを後にした

しかし晩年になって

父はふるさとの話をよくするようになった

帰りたいともらしたことが幾度かあった

そうかと思えば

あのシベリアに帰りたいと言い出すこともあった

どうしてなぜと問うと

難しそうな表情で苦笑いを浮かべていた

きっと父は

もうなにがなんだかわからなくなっていたのだろう

自らの人生を阻まれた父の不条理を思うと

私はやはりそのよどんだ水底のような心情を察し

深く考え込んでしまうのだ

父は人生という流れの漂流者だった

若い奴にはわからない格言

年をーとると…

年をとると、

歩くのがどうも遅くなるようだ。

ようだ…との曖昧な言い回しは、

たまたまビジネス街を歩いていて、

気がつくとまわりのみんなにドンドン追い越されていくことに、

後になって気づくのだが、

ビジネス街のあの人たちって、どうも速歩のような気がするなぁ、

という訳。

飲み込みが悪いというのは、理解するのが遅いの意でなく、

文字通り口にほおばる食品類を嚥下するのが遅いということである。

嚥下力の強さは、若さの象徴である。

年をとると、この力が低下する。

ときにむせたりもするから、食品摂取は命がけだ。

嚥下力のUpにはカラオケが良いということで、

先日カラオケに出かけるも、連続して歌ったら酸欠になる。

いずれ、危険!

老眼っていうのは簡単に言ってしまえば、

たとえば文庫本を読もうとするも、

眼鏡なしの裸眼だと、

活字が蚊の死骸がズラッと並んでいるようにみえるから、

ちょっと憂鬱。

だけど、いいところもある。

見たくないものは見ない、読まないで済む。

年を取るとは、いらぬ話を持ち込まないこと。

老眼の効用なんである。

禿げるとは、鏡を見てあっと気づいた時から

額やツムジに強烈な自意識が集中する。

これってある意味、老化する己の確認でもあるからして

或る人は頭痛持ちとなるも、

年々ひどくなる一方の物忘れが幸いして、

そのうち他人の禿げ頭を冷静に眺めるようになる。

これは嘘である。

では性欲はとなると、

3ヶ月前の忘れ物を何かの拍子でふっと思い出すようなもの―であるからして

若い頃のように毎日いっときも欠かさず意識するような面倒な事態に陥ることなく、

イキノイイ若い奴のように、

息荒くあからさまに、焦って忘れ物を取りに帰ったりはしないものである。

 

↓若い頃大好きだったゾンビーズの「ふたりのシーズン」
 歌詞の内容はヒドイけど…

ホルター心電図、初体験

先のGWは、なんだか楽しくなかった。

というのも、不整脈の疑いで5月1日~2日にかけ、

ホルター心電図を付けるハメになったから。

ホルター心電図って、簡単にいうと携帯の心電図で

24時間身体に付けその記録がとれる、というところか。

そもそも、事の始まりは、古い友人と競っていた、

血管年齢計測器でどちらが若い年齢が出るかという

いわば遊びからだった。

この年ともなると、健康と若さがとても気になる。

それは私だけではないだろう。

テレビの健康番組の数の多さからも歴然だ。

誰も実年齢より老けているのは嫌だろうし。

最近では公民館や自然公園の管理事務所などで、

血管年齢計測器をよくみかける。

私も一時、ちょっとしたマニアだった。

それがあるとき、実年齢より若く計測されるのに、

不整脈の疑いがあるので医者への受診をすすめる旨の

メッセージが出るようになった。

再度チャレンジしたが、結果は同様だった。

かくして医者へ。

そこでの心電図検査では異常は認められなかったが、

私の年齢や、近頃は疲れているといった発言をした私の

万が一を考慮し、ホルター心電図をすすめられた。

「これで異常が出た場合は、大学病院を紹介しますから」

「最悪の場合は、どんなことが想定されるのでしょう?」

「うーん、ま、いまはなんとも言えませんが、

検査の結果次第ではペースメーカーとかが考えられますね」

親戚の年の離れた従兄がペースメーカーを付けているが、

いままで全く他人事だったので、

この医者の話に私はかなり驚いた。

が、反面「しょうがないな」と思っている自分がいた。

あきらめ半分というか、

逃げようにも逃げられない現実があることも

承知しなければならないのだから。

結果がもし最悪なら、そこから最良を考えるしかない。

いまのペースメーカーはかなり良くできていて、

風呂もシャワーもOK。運動も問題ないとのこと。

これを聞いて、少し安堵した。

さて、ホルター心電図だが、これは装着が簡単だ。

胸3カ所にペタッとシールみたいなものを貼り、

そこから出ている線が、

腰ベルトに装着した小型の機器に繋がっている。

が、この小型機器がクセモノで、

服の着脱時はかなり邪魔だし、

寝るときも気になる。

あとは心理的違和感だ。

24時間に渡って計測器を装着しています、

と意識した途端、ストレスとなる。

私は最初、意識過剰になっていたが、

ちょうどこの頃、仕事が忙しくなってしまい、

意識するどころではなかったのが、

結果良かったようだ。

翌日、ホルター心電図を外しに医者へ。

電極をはがすと、肌は真っ赤になっている。

トクホンとかサロンパスと同じ状況。

で、ここからが長ーい日々が続く。

検査結果は連休明けと言われていたので、

休み明けの5月8日に問い合わせたところ、

結果はまだ、とのこと。

「明日、また連絡くださいね」

と病院の女性の明るくハツラツとした返答。

結局、検査結果が出たのは5月12日。

連休中のストレスはソコソコだったが、

連休明けからのストレスは、

かなりキツかった。

当日、医者は開口一番私にこう告げた。

「ああ○○さん、やはり不整脈ありましたよ」

「!!!???」

やはり出たか、不整脈…

続けて医者がこう告げる。

「でもね、うーんこのくらいの不整脈は、

えーとえーと…」

(早く言えよ、このウスラ医者め!)

「許容の範囲内の不整脈だから、

うーん、大丈夫かな」

「かなって…」

「そういうもんですか?」

「そういうもん、うん大丈夫だよ」

医者のこの回答に私たち夫婦は

大きく安堵した。

長期にわたった緊張感がどっと解け、

ちょっと不可解かつ妙な脱力に襲われた。

またこの前々日、

私の友人が胃がんの手術を受けていたので、

私も彼の奥さんを励ましつつも、

ちょっと自分の気持ちの不安定さが

制御できないでいた。

検査結果の出た翌日、

新横浜の彼の病院を訪ねた。

奴の元気な顔をみて、

私はさらに脱力してしまっていた。

思うに、

年を取ってゆくリスクは相当なものであるなぁ、

というのが私の実感。

予期しない脅威が

次々に現れては襲ってくるような不安。

これはもう、未知の領域を探検するのと、

なんら変わりないではないか。

年を取るって、実は冒険なんだ。

そしての先には確実に「死」がある。

さて楽しくイキイキ、

元気な老後ってホントにあるのでしょうか?

これは現在の私にとっては、かなりの難問である。

青汁飲んで平気平気と思っているそこのご同輩よ、

地獄はいつだって大きな口を開けて、

あなたが落ちるのを待っているのですよ!

絶望のカフカ

カフカといえば「変身」が有名。

私も「変身」しか読んだことがない。

精一杯、苦労して読んだ。

で、以後は読みたいとも思わない。

ほんとは長編の「城」とか「審判」も続けて読むつもりだった。

しかし、やめた。

いや、挫折したのだ。

―ある朝、目覚めると私は巨大な虫になっていた―

「変身」はなんの脈絡もなくこのように始まり、

最後まで希望のないまま終わるのだが、

読後の疲労感だけが残っていたのを覚えている。

しかし最近、ひょんなことから、

再度カフカに関する書物に惹かれ、

ついにそれを買い、読んでしまった。

帯にあった「絶望」という二文字が気になったからだ。

しかし、その本は彼が書いたものではなく、

彼の発言、メモを集めた本、とでもいおうか。

題して「絶望名人カフカの人生論」(新潮社刊)。

著者は、カフカの翻訳や評論をしている、

頭木(かしらぎ)弘樹という編訳者。

「絶望」がなぜ気になったのか?

これは、自分に思い当たるフシがあったからに他ならない。

生涯の絶望は、決して忘れるものではない。

いまとなっては笑える事柄でも、当時のことを思い返すと、

やはりやりきれなさが甦る。

そして絶望は複数でやってくる。

単体の不幸ならなんとか踏ん張れるものも、

そういうときに限ってショックは重なって押し寄せる。

だから人は絶望するのだ。

さて、カフカの著書を読んだときのあの憂鬱感は、

どこから来るものなのか?

なにはともあれ、

彼は近代を代表する小説家でもある訳で、

それはいかなるところが評価されているのか。

さらには、カフカの絶望とはいかなるものなのか。

彼は生涯どの程度の絶望に陥ったのか。

そして世間でいう絶望とはどのようなものなのか。

自分と照らし合わせ、その「絶望」とやらの

本質というか程度というものが知りたかったからだ。

まず、カフカの文学的評価は、おおよそ次のようなものだ。

「現代の、数少ない、最大の作家の一人である」(サルトル)

「カフカは、もはや断じて追い越すことのできないものを書いた。

…この世紀の数少ない偉大な、完成した作品を彼は書いたのである」

(ノーベル文学賞作家エリアス・カネッティ)

「フランツ・カフカが存在しなかったとしたら、現代文学は

かなり違っていたものになっていたはずだ」(安部公房)

私にはよく分からないが、カフカに対する評価は相当なものである。

なのに、彼が生涯抱いたものは「絶望」なのである。

この本には彼の生涯における、絶望的な体験や言葉が、

それこそ洪水の如く溢れ出ている。

それはなんというか、壮絶でさえある。

たとえばこうだ。

「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。

将来に向かってつまづくこと、これはできます。

いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」

なんというか、すごい。

また、カフカは結婚したいと強く願いながら、

生涯独身だったそうである。

これは彼のあまりにネガティブな思考から、

自ら結婚を破談にしてしまったらしい。

彼(カフカ)によると自分は身体が虚弱で、胃が弱く、

不眠症だった。

家族と仲が悪く、特に父親のせいで、

自分が歪んでしまった…

で、彼の書いた長編小説はすべて途中で行き詰まり、

未完である。

彼は嫌々ながら生涯サラリーマン勤めをしたそうだが、

ここでも彼は何事にも成功しなかったそうだ。

彼の特質は失敗からはなにも学ばないこと。

よって彼は常に失敗し続ける人生を送ったそうだ。

こうなると、彼の小説は趣味的にとでも捉えられる。

ようやく死後、世に出ることとなったのだが、

なんと、彼は亡くなる前、

友人に「遺稿はすべて焼き捨てるように」と

遺言したそうである。

しかしこの友人が遺稿を出版し、

結果、カフカの名と作品が世に出た訳だ。

彼(カフカ)は言う。

ぼくの人生は、自殺したいという願望を払いのけることだけに、

費やされてしまった。          ―断片

しかし、ここに人生における価値があるのでないかと著者は言う。

「人生の多くが、むなしく費やされるとしても、それでもなお人は

何かをなしうるということでしょう」

永い人生で、人は何度も絶望する。

そんなとき、

「死ぬ気になれば何でもできる」とか励まされても、

しらけるばかりである。

「追い求め続ける勇気があれば、すべての夢はかなう」

これはウォルト・ディズニーの名言だが、

絶望している人間を救えるかというと、

この場合は適さない。

強い人間、成功者の言葉には、どこかザルのような隙間があり、

そこからこぼれ落ちるものは、まず見えることはない。

カフカは誰よりも弱い人間だった。

心身とも弱い人間だった。

よって、強ければ気づかないことにも気づけた。

たとえば、足が弱ければ、ちょっとした段差にも気づける。

人の心に寄り添うこともできる…

「ぼくの弱さ―もっともこういう観点からすれば、

じつは巨大な力なのだが―」

カフカの言葉です。

(本稿は「絶望名人カフカの人生論」(頭木弘樹:新潮社刊 )を
引用、参考として構成されています)

計らい

泣きながら産まれたこの世は

如何でした

そんなこたぁ分からねぇなと

ビールをひったくって飲んでいる

姿が忘れられない

あなたを

泣きながら皆が送り出すさきには

何があるのでしょう

いったい

何処へ行くのでしょう

あなたが産まれたとき

きっと嬉し涙を流したひとが

いるのです

そして皆腹をかかえて

大声で笑って

祝って

賑やかになったことでしょう

あなたを

泣きながら皆が送り出すさきには

何があるのでしょう

いったい

何処へ行くのでしょう

遠い国

碧い星

見えないかなた

雲のうえ

空のむこう

遙かむかし

いえ

いいえ

そこ

そこ

となりで涙を流しています

年を跨いで諸々の話

年末31日の日の入りを記念に撮りました。

丹沢山塊に沈む夕陽はいつ見てもいいものです。

IMG_3273

年が明け、近所の神社へ初詣。

もう陽が傾いていまして、甘酒も売り切れてしまい、

しょうがないのでコンビニでコーヒー。

いつもと変わりません。

↑このくだりは、前回の記事と被っていますなあ…

IMG_3274

2日は大混雑を覚悟で奥さんと買い物へGo!

クルマ大渋滞、店内大混雑。

みんなヒーヒーしていまして、座るところもままなりません。

喉がカラカラ、結構面白い。

こんな環境で冷静な買い物なんかできっこない。

私らも含め、みんなバカですね 笑

そこがいい、という人もいますが。

3日は、奥さんの実家がある横浜へ。

恒例の墓参り。いつの頃からか鳥居が並ぶようになりました。

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ウチの菩提寺もこの近所にありまして、

その高台からの眺めはなかなか。

横浜ららぽーとが見下ろせますから。

この街は私の地元でもあるので、

いまでも幼なじみがかなり暮らしています。

去年の11月に、調度同窓会があり、

私も出席しましたが、現役で働いているのは、

出席者の約3分の1程度でした。

皆一様に言われたのは、まあまあそこそこに

働いているのがいいよ、ということ。

そういうもんかね?

ああ、リタイアはね、あれはあれでなかなか難しいよ。

ふーん、そういうものかね?

あとは本人が患っているとか、親御さんの介護だとか、

皆なかなか大変な日々を送っているようです。

私もいろいろとありますが、基本マイペースなので、

また、他との比較対照は何の意味もないことも、

経験上理解していますので、

皆自分を全うすればよいのだとしか思いません。

ただ、今年もなんとか無事に過ごせればなぁと思っています。

本日8日は、早々と連休中日です。

なんでか、切羽詰まっているものが幾つか。

仕事となってしまいました!

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では皆様もこの一年をご無事でお過ごしください!!