青春レーベル「ファンキー・モンキー・ベイビー」

 

キャロル

 

ご存じ、キャロルのメガヒット曲。
我が青春の一曲でもある。

イントロからリードギターの高音でいきなり盛り上がる。
10代のボクには斬新かつインパクトがありました。
すげぇーと思いましたね。

で、メンバーの革ジャンとリーゼントがカッコよかった。

その頃、ボクたちの先輩はアイビーと呼ばれる格好が多かった。
流行の震源地は、VANジャケット。

紺のブレザーにコットンパンツをはいて、
レジメンタルのネクタイを締めたりしていた。

女性もトラッド・ファッション全盛。
横浜・元町の店フクゾウが爆発的人気となり、
「ハマトラ」と呼ばれる格好が流行った。

いずれきれい系。

が、キャロルはおとな社会への反逆まるだしの歌と格好でデビュー。

10代はみんなそこにハマった。

 

よって当時すでにハタチを超えたお兄さんお姉さんたちからは、
あまり人気がなかったのかもね。

ボクは10代のストライクゾーンだったので、
もろに影響を受けてしまいました。

余談だけれど、フーテンと呼ばれるひともよくみかけた。
この方たちは、いつでもどこでも道に座り込んだりして、
片手に酒の瓶とシンナーとビニール袋をもっていた。

当時、街にははこういうひとがパラパラいました。
ボクの先輩にひとりこの手の方がいましたが、
不慮の事故で亡くなってしまいました。
いま思えば、妙な最後でした(具体的には書きませんが)

で、クルマの免許取りたて、青春真っ只中のボクとしては、
即キャロルのレコードを買い、それをテープに録音して、
走りながらカーステレオで繰り返し繰り返し聴いていた。

演歌やフォーク、歌謡曲全盛の時代に突然あらわれた、
日本初ではないけれど、
メイド・イン・ジャパンのロックンロールバンドだった。

それまで洋楽でロックンロールはよく聴いていたけれど、
日本発というのはかなり珍しいということで、
「ファンキーモンキーベイビー」はいきなりヒットチャートを駆け上がった。

この歌が流行ってから、
なんだか遊んでいる10代の皆さんを取り巻く空気が一変した。
定番のクルマ・バイクに女の子―
そこにサイコーの音が加わったからだ。

海の向こうでは延々とベトナム戦争がつづき、
ある日突然オイルショックなるものが起き、
朝起きると「危機」が叫ばれ、世の中は混乱し、
ボクはトイレットペーパーを買ってこいと母に怒鳴られた。

街ではマツダのロータリークーペが疾走し、
中島みゆきが「時代」を歌い、
ユーミンが「あの日にかえりたい」でメジャーになり、
遊び仲間が事故やシンナーで何人か死んでしまい、
ボクは将来が全く見通せないでいた。

ファンキー・モンキー・ベイビーの歌詞の意味は、
当時からよく分からなかったし、考えもしなかった。

ただ、♪いかれてるよ♪の歌詞に象徴されるように、
なんだか理屈ではないエネルギーのようなものを、
みんなが受け取ったのだろう。

で、なんだかみんなイカれてきた、ような気がしたのだ。
イカれてもいいんじゃない?ともきこえたからだ。

うっくつした時代の空気を蹴散らすエネルギーに
後押しされたボクたちは、
自分の未来を真剣に想像することもやめてしまった。

そんな一瞬でもあった。

そしてイージーに過ごす時間、酔っているような毎日は、
あっという間に過ぎていった。

あの陶酔していたような時間はいったい何だったのか?

それは思い返しても、いまだ、その輪郭が描けない。

 

で、ボクくらいの年代になるとだけど、好きなアーティストや楽曲も、
だいたい100や200はあると思う。

ながい時間にいろいろな歌も聴いてきた。

ジャズやボサノバやポップス、そして民族音楽、
たまにクラシックにも手をだしたこともある。

なのに不思議なことに、いまでもキャロルは特別なのだ。

そこには理屈では語れないなにか、
が相かわらずボクの記憶のなかに横たわっている。

聴いていた自身の幼さと、そのころのこころの有りよう、
そしてそこに流れていた時代の空気…

いろいろなものが凝縮された心象風景が、
人生の道連れとしてあとをついてくるのだろうか。

 

オスカー・ワイルドの審美眼

 

アイルランド出身の詩人で作家、劇作家である

オスカー・ワイルドは、

「サロメ」「幸福な王子」「ドリアン・グレイの肖像」など、

著名な作品を多数残しているが、その生きざまはすさまじく、

ボクなんかが到底ついてゆけないハチャメチャぶりで、

世間をアッと言わせる数々のエピソードを残している。

 

同性愛がバレて牢屋に入ったり、日々酒に溺れたり、

で梅毒による髄膜炎で死んでしまうのだが、

その死の前日に、彼はカソリックに入信している。

 

本人にしてみればとても真摯な生き方をしたと

ボクなんか思うのだが、

裏腹の評判となってしまうのはなんとも皮肉な話である。

 

ちなみに、かのオスカー賞受賞者に手渡される像のモデルが、

オスカー・ワイルドその人ともいわれている。

彼は、1923年にノーベル文学賞も受賞している。

 

彼はいつも人間や人生の本質というものを探求していたのだが、

そのまなざしの角度が人とはかなり隔っていて、

結果、その真実を掴んでしまった彼は、

心の深い井戸に突き落とされたのでないかと

ボクは推測する。

 

それがやがて日常の退廃や懐疑に繋がったのではないかと思う。

 

彼は、日本の文人である森鷗外、夏目漱石、芥川龍之介、

谷崎潤一郎などにも多大な影響を与えている。

 

そんなオスカー・ワイルドが、こんなことばを残している。

 

―――↓―――

 

「男は愛する女の最初の男になる事を願い、

女は愛する男の最後の女になる事を願う」

 

「流行とは、見るに堪えられないほど醜い外貌をしているので、

六ヶ月ごとに変えなければならないのだ」

 

「社会はしばしば罪人のことは許すものだよ。

しかし、夢見る人のことは決してゆるさない」

 

犯罪者というものはときに許されるものである。

しかし、夢見る人というのは決して許されない。

あなたが夢を語ると、それは無理だ、とすぐいう人はいないか。

いい年をして夢を追うのはいい加減にしろよ、

などと訳知り顔でいう人があなたのまわりにいないか。

彼らはみな、自分に自信がなかったり、強さがなかったりで、

夢をはるか遠い昔にあきらめてしまった人たちである。

あなたが夢を実現してしまうのではないかと不安を感じ、

悔しくて仕方がないから、ただ足を引っ張っていると思って

間違いない。

「オスカー・ワイルドに学ぶ人生の教訓」グレース宮田 著より引用

 

というように、オスカー・ワイルドという人は、

神がかり的に人の総てを見抜いていた。

友人、恋人、社会の入り組んだ糸の仕掛けが、

彼にはくっきりと見えていた。

 

彼の残したことばは、だから色褪せない。

真実を掴んだことばは、時代を軽々と超越してしまう。

 

それに引き換え、

おおかたの政治家や大金持ちが吐くことばの

なんと薄っぺらいことか。

まるで気の抜けた夕べのビール、出がらしのお茶、

冷めたラーメン…のようなことばを、

恥ずかしげもなく使い捨て続けている。

 

↑ホントはこっちを書きたいのか? 最近、かなり腹が立っているからね!

 

空ばかり見ていた(2)

 

 

東京や横浜に較べると空が広く見えるのが厚木だ。

まあ端的に言うと厚木郊外はかなりのいなかなので、

遠方まで見渡せるところが多いだけなのだけれど。

 

横浜~東京~厚木と動いてみて、

いまは雄大な空が見渡せる、

この厚木郊外の景色が気に入っている。

 

なので、気がつくとボクは空ばかり見ている。

仕事に嫌気がさすとぷらぷら歩きながら気を紛らわす。

最近は晴天の日が多いので空は薄いブルー一色だ。

まるで絵の具で空を塗りつぶしたように。

 

そこに雲のひとつでもぽかんと浮いていると、

それだけで空はなかなか良い絵になるのだけれど

などと思いながら歩く。

 

 

先日は近くにある運動公園から夜空を眺めてみた。

下弦の月が暗くぼんやりと、まるで行灯のあかりのように見えた。

さらに目を凝らすと次々に星がまたたきだして、

空全体がかなり賑やかなのが分かってくる。

(空って饒舌なんだと思う)

 

ときに視界にスッと流れ星が見えることがある。

こんなとき、こんど流れ星を見たら願いごとでもしようと、

健康でいられますようにとか仕事がうまくいきますようにとか、

急いで台詞を用意するのだけれど、

以後まったく流れ星には遭遇しないことのほうが多い。

 

思い返せば、ちいさい頃はよく空を見上げていた。

そこは高度成長時代の横浜の港近くで、

空はいつもねずみ色でスモッグだらけの空だったけれど。

 

そんな癖だか習慣のようなものは中学生になっても続いていて、

テストの前は深夜放送を聴きながら、

合間によく真夜中の空を眺めていた。

 

大学を出て会社に入って東京に引っ越し

マンション暮らしをしていたときは

全く空を見上げた覚えがない。

ビルばかりなので空を見上げることを諦めていたのか、

そもそもそんな余裕すらなかったのか、

そのあたりは全く覚えていない。

 

で、厚木に来てから再び空を見上げるようになった。

今日も歩きながら空を眺めていた。

 

 

で、これはボクがふと思い浮かんだ屁理屈なんだけれど、

ボクが見ている空はボクだけがみていたオリジナルな景色な訳で、

それは他に較べようもないボクの世界であり、

同時刻に他で空を眺めている人がいたとしても、

それはその人の空でありボクの空では決してない、

と言うこと。

 

そんなの屁理屈だよって言われそうだけれど、

空ってそれほどに多様性に富んだ存在であり、

おのおの個性が反応すると、

それこそ天文学的な数の空の世界が存在していることとなる。

 

空は刻々と姿を変え色を変え表情を変える。

それはどう考えても不思議としか言いようがない。

だから、あいかわらずボクは空ばかり見上げている。

 

 

 

元旦に地震とは!!

 

人類に忖度なし。

新年早々の大きな地震が起きてしまった。

自然は容赦ないなぁと改めて思う。

 

被災地の方々には心よりお見舞い申し上げます。

 

太平洋側は常に地震の警戒が言われていたけれど、

能登半島なのかと、虚を突かれた感じだ。

テレビを観ていて3.11を思い出す。

 

とても嫌な記憶が蘇ってきたので、

いい加減にテレビを消す。

 

ハードディスクにためておいた映画に切り替える。

 

「ネバーエンディングストーリー」。

もう2回観ているけれど、

なぜかこの映画には惹かれてしまう。

要約するとこんな映画だ。

 

本の好きないじめられっ子が、古本屋から拝借した本を

読みふけっているうちに、

ストーリーのなかに入り込んでしまい、

もうひとりの勇者と言われる少年とともに、

旅を続け、ようやく世界を救う…

(映画は夢と現実が同時に進行する)

簡単に書くと、そんなストーリーなのだ。

 

いにしえから男の子は困難な旅に出なくてはならない。

そうして誰かを救うことで一人前になり、

やがておとなになる。

 

こうした話は世界中で散見される。

いわば物語の定番であり王道だ。

が、この映画の設定がなかなか良いのだ。

 

この映画で、少年が戦う相手は「虚無」だ。

そう虚無なのだ。

 

映像はわりと幼稚なのだけれど、

虚無というものを敵に設定するところが秀逸。

 

人は夢や希望を失うと心がむなしくなり、

やがて虚無がその人を支配するようになる。

(これは現実に起こることでもある)

それが世界に広がると、やがて世界は崩壊する。

(そうなのかもしれない)

 

夢のない世界、失われた希望…

ふたりの少年の旅は、ある意味で、

人の心に灯りをともす旅であり、

いろいろな困難に打ち勝つことで、

ようやく世界は復活する…

 

一見単純だれど、テーマには、

人間にとって不変の尊い精神性が込められている。

 

現実は、

ロシア・ウクライナ戦争、イスラエル・パレスチナ戦争、

オイル危機、世界で起こっている災害の数々、

そしてパンデミックから、

いつ起きてもおかしくない金融システムの崩壊などなど、

ボクたちを取り巻く世界だって、

いつ「虚無」が広がるかわからない様相なのだ。

 

容赦ない。

 

という訳で、正月早々なのだけれど、

あまり明るいことは書けなかった。

 

今年はある意味で、

世界も日本も天王山の年になるのではないのか、とも思う。

(アメリカの大統領選も今年である)

 

やはり、気の引き締まる正月である。

 

 

新しい会社の方針はこれだ!

 

新しい会社の名前を妄想中である。

別会社だけど、たいそうなことは考えていない。

個人事業でも構わないと考えている。

その場合は屋号というのかな。

 

当初、エジソン・ライトハウスとしたが、

これはすでに存在していたので、却下。

 

次にレッド・ツェッペリンというのが閃いた。

しかし、ご存じのようにあのツェッペリン号は、

空で大爆発しているので、なんか縁起が悪い。

そもそもレッド・ツェッペリンとは、

失敗の意味でも使われていたと言う。

で、これも当然却下。

 

現在最も有力なのが、バニラファッジという社名である。

 

バニラファッジは、イギリスの国民的お菓子。

甘い食いものである。

 

さて、これらの候補は、

すでに気づいた方もいると思うけれど、

いずれも60~70年代に活躍した

世界的ロックグループの名ばかり。

バニラファッジのヒット曲、

「キープ・ミー・ハンギング・オン」は、

当時少年だった私には、凄いインパクトだった。

 

レッドツェッペリンの「天国への階段」も、

エジソンライトハウスの「恋の炎」もそうとう良かった。

いまもって忘れられない音楽だし、

これらをネーミングにするのは悪くないと考えた。

 

さらには「ホワイトルーム」のCREAMも候補にしたが、

次第に混乱してきて、結局はやめることにした。

 

コンセプトなどという難しいものはない。

思想感ゼロである。

発想の根拠が乏しいわりに、アナログ感だけが満載なのだ。

 

で、この新しい会社というか新組織がなぜ必要か、

なのだが、凄い稼いでやろうとか、そういうのでは全然ない。

 

むしろ、やることを減らす、嫌なことはやらないなど、

結構うしろ向き。

唯一、好きなことしかやらないとする一点において、

妥協のないよう検討している。

 

仕事としては、取扱品目を極端に絞り、

ライティングのみに集中すること。

ライティングが入り口の仕事であれば

その後も前も引き受けます、というスタンスにしたい。

 

なぜなら、ライティングから入る案件は、

それなりにテキスト重視であり、

それを核として組み上げるからこそ、

他とは違ったものが制作できる。

 

重要なのは、広告に文字は不要、

または重要ではないと考える企業などがあるので、

そこを切り離したいと思った。

(こちらにも意地がある訳)

 

で、ひと口にライティングといっても

広範な守備が必要となるが、

そこは私的な仲間やネットワークに

多彩な才能が眠っているので、

取扱品目を減らす代わりに、多彩な案件を受け入れたい。

 

私たちの仕事は、クライアントに寄り添って仕事をしている。

これは、ある意味、とてもやりがいのあること。

いつもなんとかしてあげようと、夢中で頑張る訳です。

 

しかし、なかには意にそぐわない案件もある。

意にそぐわないとは、広範にわたるからひとことでは

言えないけれど、嫌なことはやらないとする方針は、

新しい組織にとって欠かせない事項なのである。

 

イェスマンにはならないぞという決意でもある。

 

さらには、好きなことしかやらないというわがままも、

この際必要不可欠なのである。

 

で、好きなことしかやらないとは、

なんと生意気なと言われそうだし、

第一そんな方針で仕事が成り立つのか?

という不安や疑問等が残るのも事実。

 

がしかし、そこは試しである。

実験である。

 

コピーライターという職業は、

ときとして空しくなることがある。

 

全く共感できない企画やプロモーションの依頼。

また、ひとつ間違えばこれは詐欺ではないのか?

と思うようなセールスを頼んでくる企業もある。

 

このような依頼事に、

すがすがしく「ノー」を突きつけることの、

なんと難しかったことか。

 

その反動のようなものが、最近噴出してきたのかなぁ…

 

とにかく、好きなことだけやって生きていけるか?

この賭けはいまのところ読めない。

(自分の正しいが世間の正しいとは必ずしも一致しないし)

 

が、勘として勝算はある。

 

時代は刻々と変わりつつある。

 

風はかわったと信じている。

 

そして少しでも仕事が動けば、

 

生きる自信に繋がるような気がする。

 

 

上を向いて歩こう

 

ボクがまだ幼かったころ

家族4人で暮らしていた我が家は

とても小さくて狭くて粗末で

つよい風が吹けば

ふわっと浮かんで

どこかへ飛んでいってしまいそうな

あばら屋だった

 

けれどボクにとっては

まぎれもなく唯一安心できる我が家だった

 

ある年の元旦の朝に

和服の女性が男の子を連れ

我が家を尋ねてきた

 

突然の来訪者に母は驚き

つつましいおせちを出して

精一杯もてなした

 

「お姉ちゃん あの人たちだれ?」

ボクが姉にきく

「知らない」

 

姉は何かを察知したのだろう

とても不機嫌だった

 

和服の女性は

キツネのような目をしていた

男の子はボクよりひとつ年上で

ボクが苦労してつくった戦車のプラモデルを

壁に投げつけたりして笑っていた

 

松飾りがとれるころ

父と母のどなり合う声で

夜中に目が覚めた

 

そんな日が幾日も続いた

それでも姉は

いつもと変わらず

毎朝小学校へ走ってでかけた

 

眠りが浅くなってしまったボクは

毎夜毎夜つづく

父と母のののしり合いをきくことになる

 

「離婚しかないでしょ」

「そうだな」

 

ボクはそのたび

となりで寝ている姉の手をぎゅっと握った

 

姉は寝息をたてていた

 

お父さんとお母さんが離婚するって

いったいどういうことだろう

ボクはこの家にいられないんだ

もういまの学校へは通えない

ボクも姉も

みんなバラバラになってしまう

そしてボクはひとりになってしまう…

 

ひとりになったらどうしたらいいんだろう

 

いろいろな不安がとめどなく溢れる

 

そのうちボクは寝られなくなって

よく朝まで起きていた

 

小学校で授業が終わってみんなが下校し

誰もいなくなると

ボクは学校の裏庭でよく泣いた

 

それはいまでも忘れない

 

けっきょく父と母の離婚はなかったが

あの日以来

家のなかは

永年霧がかかったような湿気が残った

 

それから幾度か引っ越しをした

けれどその湿気はいつまでも残った

 

ボクは小学校を卒業しても

漠然とした不安は解消しなかった

いつも最悪の場面を想像し

その対応策を必死で考えるのが

癖になってしまった

 

そして浅はかではあったけれど

とにかく「さっさと独り立ちしたい」

というようなことを強く心に念じた

 

 

昭和30年代の終わりのころ

我が家のテレビはまだ白黒テレビだった

いや、どの家もそうだった

 

夕飯を食べながらテレビを観ていたら

坂本九という歌手が

「上を向いて歩こう」を唄っていた

 

―上を向いて歩こう

涙がこぼれないように―

 

あの日以来

幾度も幾度も

辛いことがあったけれど

そのたびにボクのなかで

あの歌が流れるのだ

 

それはいまでも変わらない

 

 

 

ショートストーリー「流星」

 

 

 

「アジル流星群が見れるのは、

次はずっと先の298年後らしいよ」

高次が暗い夜空を睨みながらつぶやく。

 

「そのころ私たち、当然だけどこの世にいないわね。

かけらもないわ」

 

草むらから身体を起こしながら、

多恵が笑って高次のほうを向いた。

 

小春日和の12月の中旬、

ふたりはクルマを飛ばして、

海が見える丘をめざした。

 

海からの風が、

あたりの草をざわつかせ、

ふたりの身体は一気に冷えた。

 

高次が多恵の肩に手をかけて

「大丈夫か、冷えないか、多恵」

と顔をのぞく。

 

「今日はなんだか良いみたいなんだ」

 

多恵の長い髪が風になびいて、

群青色の海を背景に

格好のシルエットとして映る。

 

高次はそれをじっとみつめた。

 

多恵は、9月の初めに病院を退院し、

ずっとマンションに籠もる生活を強いられていた。

パートナーの高次は、

そんな多恵を見守りながら、

彼女を表に連れ出すチャンスを伺っていた。

 

 

多恵が完治する見込みは、

いまのところないと、

幾つかの病院で指摘された。

 

(難治性心筋膜壊死症候群)

 

多恵が発病したのは、

ふたりが一緒に暮らし始めてから、

2年目の夏だった。

 

診断の結果に、ふたりの気持ちは塞いだ。

憂鬱な日が幾日も続いた。

 

が、ふたりは或る日を境に、再び歩きはじめる。

 

前を向いて生きよう、

そしてこれからのことについて、

現実的な解決策を考えようと。

 

ふたりは、

新たなスタート地点に、

再び立ったのだ。

 

 

憂鬱な日々は去った。

ふたりは、テレビを消し、

ネットを避け、

無駄な時間を一切排除して、

毎日毎日話し合いを続けた。

 

それはふたりの隙間を埋めてもまだ足りない、

濃密な語り合いに変わる。

 

残された時間を惜しむように、

相手を慈しむように、

そんな時間を重ねた。

 

―現実的な解決策など

見いだすことができない―

 

それは、お互いがあらかじめ

じゅうぶん承知していることだった。

 

ただ、いまさらながら

「いま」という瞬間の貴重さについて、

ふたりは改めて気づかされたのだ。

 

過去ではなく未来でもなく、いま。

この瞬間瞬間を精一杯生きていこうと、

誓い合った。

 

 

高次は、仕事の合間を縫ってネットだけでなく、

図書館でいろいろと文献をあさってみたが、

やはりかんばしいこたえを探し出すことができなかった。

症例が希で予後は良くないとの、

専門医のことばだけが記憶に残った。

 

現実的な解決策は、やはり見いだせない。

 

高次は日を追う毎に

焦りのようなものを感じるようになった。

 

 

(海辺の丘にて)

 

ふたりが真夜中の空を凝視する。

 

あたりは誰もいない。

海風だけがうるさく木々を揺らしている。

 

その流星は南西の夜空に明るく降り注ぐと

テレビでは話していたが、

こうして夜空を見ていると、

流星は決してシャワーのように現れたりはしない。

 

或る間隔をあけてスーッと光っては消えてしまう。

それはとても控えめで静かな星の軌道だった。

 

「多恵、もう眠いだろう?」

「うん、眠い。もう疲れたね」

「そろそろ帰るか?」

「うん」

ボクらは草を払いながら立ち上がった。

 

「もう2時間もいたんだよ」

あくびをした多恵の口が少し尖っている。

時計を覗き込むと、午前2時を差していた。

 

「高次は、明日の仕事キツイね」

「なんとかなるさ」

 

帰り際に南西の空をもう一度見上げると、

線香花火のようなオレンジ色の光が

暗闇に現れた。

その光が漆黒の空にスッと一筋の弧を描いて、

次の瞬間、濃い群青色の海に消えた。

 

「いまの見た?」

「見た、見たよ」

 

高次はそのとき不思議なことを思った。

 

―この地上って、いろいろな人間やいきものがいて、

みんな一様になんだかいろいろと大変な事情を抱えていて、

それでもなんとか生きているんだ―

 

誰も彼も、よろこびはほんの一瞬なのではないかと。

 

高次は多恵の肩を抱いた。

「寒いな」

「うん」

 

そして高次は、

ある約束のようなものを、

自分自身に誓った。

 

いつか再びこの丘で

多恵とこの流星を見るのだ…

 

(なあ多恵、もし生まれ変わっても、

君さえ良かったら、また一緒になろう。

そしてこの流星をいっしょに見よう)

 

いつかまた多恵と出会い

同じ時代を生きてみたいと

高次は本気で考えた。

 

 

あの流星を見に出かけた日いらい、

多恵はまた床に伏してしまった。

 

「無理させてしまってゴメンな」

「そんなことない。とても素敵な夜だったよ」

 

多恵の細いうなじが、

日に日にハリを失ってきているのが、

高次にも分かった。

今夜は足もおぼつかない。

「大丈夫か?」

「…」

 

多恵の辛そうな身体が、

まるで背後の暗さに溶けていくかのように、

か弱く小刻みに震えている。

 

 

高次は病院にいくたびに、

無駄と知りながら、何度も医者に食い下がった。

医者はむずかしい表情で、

その度に薬を変えた。

 

が、多恵の衰えは止まらない。

 

或る日高次は、

「またあの流星を一緒に見たいな」

とベッドの多恵に話しかけた。

 

「ええ」

多恵が微笑んだ。

「だけど298年後でしょ?」

 

「そのときが来たら、

また多恵と一緒にあの流星を見るって、

ボクは決めたよ」

 

多恵の目が潤んだ。

そして多恵が、

「高次ってホントに空が好きだね。

なんで?」

 

「なんでって…」

 

「だってムカシから空ばかり見ているじゃない」

 

「それはこの空だけが、ボクたちのことを

ずっと覚えていてくれると思うからさ」

 

多恵の目から涙がこぼれた。

 

「高次、死んだら私どこへ行くのかな?」

 

「つまらないことをいうなよ」

 

高次が多恵に語りかける。

 

「いいか多恵、よく聞けよ。

何処にも行くな。

いつもボクが近くにいると

強く信じていてくれ」

 

「独りになるって寂しいね」

 

高次は一瞬押し黙った。

そしてゆっくりと話し始めた。

 

「多恵、キミを独りにはさせない。

ボクから離れるんじゃないぞ。

ボクから離れるんじゃない」

 

 

多恵の病状は徐々に悪化し、

その年の暮れ、再び入院することとなった。

 

そして年が明けた翌1月の冷え込んだ朝に、

多恵は二度と微笑むこともなく、

あっけなく逝ってしまった。

 

 

高次はそれ以来、

永い日を放心して過ごすこととなった。

身体にあいた大きな空洞のようなものが、

彼を虚無の世界に閉じ込めたのだ。

 

 

半年の後、高次はようやく仕事に復帰した。

 

高次はとあるごとに、

自分に誓ったあの約束のことばかりを、

一心に考えるようになった。

 

多恵、

キミにまた会えることを信じて、

ボクはいまもその手がかりをさがしている。

それはとても非科学的な考えなのかも知れない。

けれど、ボクたちは或る何かを超えて、

再び会えるような気がするんだ。

 

だから多恵、298年後なんてすぐ来るような気がする。

 

「ボクの声が聞こえるかい?」

 

(完)

 

 

 

夏の夕ぐれに想うこと

 

 

 

窓のそとの風景が動かない

 

そんな夏の夕ぐれは

きっと少しだけ

ときも止まっているのだろう

 

溶けてしまう前にと

氷のように光る雲が

急ぎ足で過ぎてゆく

 

とおい赤く染まる

その背後の群青色のスクリーンに

過去の残像が映ると

こころ踊り

悲しみ

そして広い空を舞う我が思いで

 

ゆったりと

窓辺のイスに心身をまかせ

アイスティーで

昼のほてりをしずめて

夏の夕ぐれは

いつも同様に回想するも

残像の彼らはやはり口もきかず

笑みだけを残して

いつもとおいくにへと

帰ってしまうのだ

 

今日という

この夕ぐれだけがみせてくれる

陰影のドラマはきっと

いのちが尽きるまで

続くのだろうか

 

夏の夕ぐれは

だから誰だって

遠いくにの夢をみる

 

 

たとえ明日世界が滅びようとも

 

写真にある本は、

作家でカメラマンの藤原新也氏の、

いまから10年前に出された本である。

 

主に、3.11にまつわる話が多い。

 

内容は重みがある。

当然と言えば当然であるけれど、

中に写真が一枚もない。

表紙のみである。

 

ボクは、この表紙から言い知れぬものを感じ、

中身も見ずに買った。

 

この表紙の写真&テキストは、

広告で言えば1980年代の手法。

広告が時代を引っ張っていた、

広告にパワーがあった、

そんな時代の手法である。

 

ビジュアル一発、

コピー一発でバシッと決める。

 

この表紙は古い手法なのだけれど、

いまみてもなんの衰えも感じさせない、

ある種の凄みがある。

 

 

母と産まれたばかりの赤子との対面。

 

母はこのうえなくうれしい。

赤子は初めてこの世に出現したことに

戸惑っているのか。

少し不安の表情もみえる。

 

が、しかし、

たとえ明日世界が滅びようとも…

 

このコピーが、なにかとても救われるのだ。

 

この世は、地獄でもなければ天国であるハズもない。

明日は、なんの不具合もなく延々と続くような気もするし、

第三次世界大戦が勃発して人類は滅亡するかも知れない。

 

だけどこの子は確かにこの世界に現れたのだ。

 

この

たとえ明日世界が滅びようとも、

の名言は以下このように続く。

 

たとえ明日世界が滅びようとも、

今日私はリンゴの木を植える。

 

そこには、強い意思が込められている。

最良、最悪な出来事も予見した上での、

覚悟のようなもの。

 

それはなにかを信じることなのか

それが愛とかいうものなのか

 

ボクはいまだ未回答のまま。

 

だがあいかわらずボクは、

たいして中身も読まずに、

この表紙をみるたびに、

飽きもせず、

感動なんかしてしまう。

 

風のみち

 

いつものように

ボクは通勤で通る

東京都目黒区中根の

目黒通り沿いを歩いていた

 

寝不足が続いていたので、

少し頭が痛む

とりあえす目頭をぎゅっと押さえ

早足で駅へ急ごうと

ピッチを上げたときだった

 

とつぜん身体がグラッとしたかと思うと

目の前が真っ白になり

次の瞬間あたりを見ると

その見慣れない道が現れたのだ

 

それは

空から舞い降りたように

かげろうのようにゆらゆらと

目前に伸びていた

 

一旦は後ずさりしたのだが

その道が海に続いているとボクは直感した

そしてためらうことなく

足を踏み入れたのだ

 

後に続くひとは誰もいない

前を歩く姿も見うけられない

 

 

その道は雨後で舗装はされておらず

かなりぬかるんでいたが

ボクはためらうことなく歩いていくことにした

 

というより

そのときの事を思い返すと

誰かに呼ばれるように

おおきな何かに導かれるように

その道に進んだように思えてならない

 

ざわめく木々

揺れる草花

 

風のつよい日だった

風のつよい道だった

 

疲れていたボクは

どういう訳か

その道を歩きながら

生きてゆく意味を問うていた

幾度も幾度もその問いについて

こたえを探していたように思う

 

風とぬかるみで

ボクの思考は何度も混乱したが

その道は確かに

穏やかな海へと続いていたのだ

 

 

すでに風は止み

足で踏みしめた浜から

潮をのぞくと

夕闇を帯びはじめた空のした

わずかな赤みを残したまま

波は静かに寄せては返している

 

浜の向こうには

小さな漁村が点在していて

夕凪(なぎ)のなかを人々が集って

盆に開かれる踊り稽古や

飾り付けの支度をしていた

 

「どこから来たのけ?」

 

白髪頭の浅黒いおとこに問われ

 

「いや、あの道を歩いていたら…」

 

ボクが振り返ってその来た道を

指さそうとするが

そこはなぜだか高い山に覆われていた

 

「まあいいやな、あんたもここへ来たのは

なんかの縁じゃろうて。

せっかくだから踊っていきんさい」

 

「はい、そうします

ありがとうございます」

 

こうしてボクは

それはいま思えば不自然極まりないのだが

この漁村のひとたちといっしょに

老若男女に混じって

朝まで踊り、唄い、酒に酔い

盆の祭りに参加していた

 

明けの明星が光るころ

ボクは疲れ果てて

そのまま浜に横になって

眠り込んでしまい

はっと気がつくと

東京都目黒区中根の

目黒通り沿いを歩いていたのだった

 

 

私は毎日この道を歩いて

会社へ通っている

今日もそこを歩いてきたのだが

いくら客観的にみても

何の変哲も無い

都会によくある沿道なのだ

 

が、あの日以来「その道」が

私の前に現れることもなければ

その兆候すら皆無なのだ

 

ただ、よくよく思い返すに

あの道は以前どこかで

歩いたような気がする

あの海辺の村は

幼い頃にでかけたような気もするのだが

それが全く思い出せないのだ

 

 

ただ、ボクがその道を歩いて

あの祭りに参加したことは

確かなことなのだ

 

なぜなら

いまボクのかばんには

その道で拾った赤松の枝の切れ端と

祭りで村のひとからいただいた

盆に村のひとに配られる

紙の御札が一枚入っているからだ

 

そしてあの事件(?)からちょうど3ヶ月後

ボクは生活のためだけに通っていた

あの鬱屈した会社を退職し

新しい仕事にチャレンジすることにした

 

忙しい毎日で相変わらず寝不足な毎日だけど

あれ以来あの嫌な気分はなくなり

頭痛がおきることもない