片岡義男の「タイトル」はキャッチコピーになる!

作家・片岡義男の本は以前、何冊か読んだ。

映画化された作品も多く、
そのうちの何本かは観た記憶がある。

作品はどれも視覚的、映像的であり、
都会的なタッチのものが多い。

いずれアメリカ西海岸を思わせる舞台装置に加え、
個性的な文体と独特なセリフで、
片岡義男の独自の世界がつくられている。

彼の作品は、とにかくバタ臭い。
これは褒め言葉として。

それまでの日本の小説にはなかった、
カラッとした空気感が特徴的だ。

この作家は、英語に堪能で思考的にも
英語圏でのものの考え方もマスターしている。

彼はまた、時間の切り取りに長け、
ほんの数秒の出来事でも、
ひとつのストーリーとして成立させることのできる、
センスの持ち主である。

写真のプロでもある彼は、
つかの間の時間を、
まるで連続シャッターでも切るように、
物語をつくりあげる。

さらに驚くべきは、彼の作品のタイトルだ。

例をあげよう。

 

「スローなブギにしてくれ」

「人生は野菜スープ」

「彼のオートバイ、彼女の島」

「ホビーに首ったけ」

「マーマレードの朝」

「味噌汁は朝のブルース」

「幸せは白いTシャツ」

「小説のようなひと」

 

いくつか挙げただけでも、センスの良さが光る。

このタイトルに込められた物語性、意味深さ、
そしてそのかっこよさに、
ボクは学ぶべき点がおおいにあると思った。

そしてコピーライティングに欠かせない何かを、
片岡義男はこのタイトルで提示してくれている。

それはいまは使えない武器なのだが、
またいつか使うときが必ずくるので、
必須で習得すべきとも思っている。

いまはテレビを付けてもネットをみても、
「限定販売!いま買うと驚きの○○円でお手元に!」
とか
「売り切れ続出!いまから30分なら買えます!お早く!!」
など、いずれも全く味気なく、
人の裏をかくような煽り広告が溢れている。
でなければ、とうとうと説得を試みようとする、
長い記事のLP広告を読まされるハメに。
(ボクらはランディングと呼んでいるが)

これは、いまのクリエイターが、
人の情緒に近づける術をしらないので、
ただのテクニックだけで売ろうとする広告が
目立っているからだけなのか?

それとも、世知辛い世相の反映としてなのか?

とにかく余裕のない日本の経済の合わせ鏡のように、
即物的な広告類は果てしなくつくられている。

たとえば片岡義男的世界を、
いまなんとか広告としてつくりあげられたとしても、
きっとどの広告主も「OK」を出さないだろう。
そして広告主たちはきっとこう言う。

「自己満足もほどほどにしてください」と。

とにかく世の中のスピードは加速している。
結果は即座に数字に出なくてはならない。

よって「この企画は長い目でみてください」
とか、
「この広告はボディブローのように徐々に効いてきます」
などのプレゼンには誰も興味を示さない。

分かるハズもない。

これは皮肉でなく、実感として感じる。

よってボクらの仕事はどんどんつまらなくなっている。

ホントはね、
たまに暇な時間に開く片岡義男の本にこそ、
ボクらの仕事に必要な、
コアな世界が広がっているのだけれど…

かつては誰もがもっていたゆとりと、
文化のかおり高いこの日本である。

いつかまたそんなときがくる…

少なくともボクはそう信じているのだが。

 

 

●片岡義男のプロフィール (以下、ウィキペディアより転載)

1971年に三一書房より『ぼくはプレスリーが大好き』、1973年に『10セントの意識革命』を刊行。
また、植草甚一らと共に草創期の『宝島』編集長としても活躍する。
1974年、野性時代5月号(創刊号[12])に掲載された『白い波の荒野へ』で小説家としてデビュー。
翌年には『スローなブギにしてくれ』で第2回野性時代新人文学賞を受賞し、直木賞候補となる。
1970年代後半からは「ポパイ」をはじめとする雑誌にアメリカ文化や、サーフィン、ハワイ、
オートバイなどに関するエッセイを発表する傍ら、角川文庫を中心に1~2ヶ月に1冊のハイペースで新刊小説を量産。
またFM東京の深夜放送番組「FM25時 きまぐれ飛行船〜野性時代〜」のパーソナリティを務めた他、
パイオニアから当時発売されていたコンポーネントカーステレオ、「ロンサム・カーボーイ」のテレビCMのナレーションを担当するなど、
当時の若者の絶大な支持を集めた。
代表作である『スローなブギにしてくれ』(東映と共同製作)、『彼のオートバイ、彼女の島』、『メイン・テーマ』、『ボビーに首ったけ』は角川映画で、
また『湾岸道路』は東映で映画化されている。
近年は『日本語の外へ』などの著作で、英語を母語とする者から見た日本文化論や日本語についての考察を行っているほか、
写真家としても活躍している。

 

テレビを捨てよう!

 

日常のノイズは多々あるが、

最近のテレビから発せられるノイズは、

かなりひどいなぁと思うわけです。

 

報道系に関しては、

事実とは異なると思われるものが多い。

 

よりによってキチンとした服装のアナウンサーが、

マジな顔で話すので、こちらも気を張っていないと、

なるほどなどと、言いくるめられてしまう。

 

で、NHKだけど、

かなり重要なニュースが幾つか流れたその後、

考える間もなく、相撲だ大リーグの大谷が…で

アタマをかき回されてしまう構成。

 

加えて、アメリカの偏ったニュースを、

それをそのまま流していると思える事例が

多いような気がする。

 

ちなみに、

世界のニュースサイトを翻訳にかけてみてください。

西も東も関係なく、

もちろん保守もリベラルも見境なくね。

 

すると改めて世界は広いと分かりますから。

私たちは、あまりにも知らないことが多すぎる。

 

ため息が出てしまうわけです。

 

多角的にものごとを追いかけると、

世の中は「???」の連続だ。

 

日本のテレビ報道は一元的に過ぎるので、

丸呑みは禁物です。

 

あとですね、

ムカシのゴールデンと言われる時間帯の

民放を観て思うこと。

 

すでに皆さんもご存じのとおり、

どこのチャンネル回しても芸人だらけ。

とにかく、多岐に渡ってあらゆる番組に

芸人が生息している。

 

ボクは彼らを観ても、話を聞いても、

ぜんぜん面白くもなんともない。

 

時代は変わったのに、

ネタは変わらず。

しらける。

 

しまいに辛くなるから、テレビを消すハメとなる。

 

これらのノイズは思考能力を低下させるだけでなく、

自分の大切な時間を無駄にしてしまう。

 

がしかしだ、

NHK、民放でも、

映画のセレクトや自然派ドキュメント、

科学番組、そしてアート系などは、

観ていてなかなか優れているつくりだなぁと、

感心するものが多いのも事実。

 

よって、依然テレビは我が家の居間にあるわけなのだが、

それさえリアルタイムでは観れない。

 

必要なものだけを録画して後で観ることとなる。

 

(だっていろいろと忙しくて時間があわないし、

民放となるとつまらないCMが延々と流れるので)

 

というわけで、

そろそろテレビいらないか…

セカンドストリートにでも売り飛ばしてしまおうか、

という衝動にかられてしまう。

 

そのムカシ、

寺山修司は「書を捨て町に出よう」と

ボクたちの先輩方をアジったが、

いまは「テレビを捨て町に出よう」がいい。

または「テレビを捨てYouTubeを観よう」かな?

 

いや、ここは再び「書」に戻っていただきたい。

「深み」のあるものは、やはり書籍にはかなわない。

 

兎にも角にも、

いまのテレビは人をダメにする。

そしてそのうちテレビは国を滅ぼすかも知れないぞ。

(おおげさではないと思いますが)

このままではボクたちの未来はない。

 

なので、

私たちはまず生活を一から見直さなくてはならない。

そして見直しの中枢に、テレビとはそもそも何なのか?

という命題を掲げてみる。

 

まず、そこから自分のアタマで考えてみると、

なんだか新しい世界がみえて来そうだとは思いませんか?

 

メンドーな作業だけれど、情報はみずから探す。

疑問・テーマに沿って、ものごとを多角的に検証してみる。

 

そして自分なりに得たものを起点に、

意見をもち、立ち位置を決める。

 

こういう行為って、

要するに一人ひとりが際立つこと。

それがひとつの「個性」に繋がるのではないかと…

 

いまはそういう時代であるとは、思いませんか?

 

コピーライター返上

 

最近つくづく思うのだけれど、

コマーシャルと名の付くものに

惹かれるところが全くない。

これは言い過ぎではない。

 

だって、大半のCMが電波チラシと化しているのだから。

 

番組そのものも、全局を通してほぼつまらない。

もちろん、一部を除いて。

よって観たい番組は録画して、

さらにコマーシャルを飛ばしての鑑賞。

他の人はどうか知らないが、僕はそうしている。

こうした現象は僕だけなのか。

 

広告代理店の評判もよろしくない。

(そんなことはムカシから知っていたが)

それはそうだろう。

あれは利権屋のやることであって、

手数料で太り、末端のギャラは雀の涙。

 

この広告代理店からなる

ピラミッド構造を破壊しない限り、

良いものなんかうまれないし、

第一良いクリエーターが育たない。

そのうち死滅してしまう。

(だから新興勢力が頑張っている訳だが)

 

番組づくりも同様ではないのか。

永らく続いている不況で予算は削られ、

コロナで萎縮し、

新しい企画などやる意欲も、

もはや失せているようにもうかがえる。

 

ネットも同様。

いろいろなチャレンジや暗中模索は続いている。

けれど、ネガティブな面が目立ってしまう。

よく皆が口にする「ウザい」という感想がそうだ。

 

コピーライティングに関して言えば、

中身はほぼセールスレターの大量生産であり、

アレコレと手を変え品を変え、

訪問者を説得しようとする説教のようなものが

延々と続くようなものが主流。

これはもはやコピーではなく、

単なるネチネチとしたtextである。

 

で、僕たちが以前から書いてきたコピーだが、

これが正解かというと、それも違う。

もうそんな時代ではない。

僕たちが以前からやってきたコピーライティングは、

いまでは穴だらけの欠陥品かも知れない。

それが統計に数字で示される。

いまはそういう時代なのだ。

 

では、どんな方向性・スタイルがよいのかと考えても、

いまの僕にはいまひとつよく分からない。

或るアイデアはあるが、まだ試したことはない。

またネット上に幾つか良いものも散見されるが、

まだ暗中模索なのだろう。

新しい芽であることに違いはないのだが。

 

さて、いまという時代は、流れに加速がついている。

よって皆があくせくしている。

その原因は、本格的なデジタル時代に突入したことによる

変容現象とも言えるが、その他にも要因がある。

それが経済的な問題による疲弊であり、

それが相当な比率で絡んでいるのではないかと

僕は考えている。

 

余裕のない生活には、当然だが心の余裕もない。

いまはすべてに於いて何に於いても

即物的になってしまう。

 

「タイムイズマネー」でしか価値を計れない時代に、

誰も余韻を楽しむ余裕などあるハズもなく、

世知辛いとはまさにこの時代のことを指す。

 

とここまで書いて、

「ではコピーライターのキミはいま、

いったい何をやっているのかな?」

と問いかける自分がいる。

 

「僕ですか?

そうですね、越境ECの立ち上げですかね?」

 

「それってコピーライターの職域なんですか?」

 

「できることは何でもやりますよ。

肩書きなんてものはあまり関係ないですね。

特にこれからの時代は」

 

「そういうもんですか?」

 

「そういうもんです、ハイ!」

 

 

青春レーベル「男の世界」

 

高校の頃に流行った歌といえば、

まず思い出すのが「男の世界」。

男性化粧品のCMから火がついた。

商品ブランドは「マンダム」。

歌うのはジェリー・ウォレス。

 

このヒットで丹頂株式会社は

社名をマンダムに変更した。

それくらいヒットした。

だって、みんなマンダム使ってましたからね。

一方、ジェリー・ウォレスは、

その後のヒットはなかったと思う。

一発屋だった。

 

マンダムも歌も売れに売れた。

その要因だが、これはひとえに

CMに出ていたチャールズ・ブロンソンが、

カッコ良すぎたから。

そう言い切れる。

イマドキはいない渋い役者。

男臭さが全身から漂っていた。

二枚目のアラン・ドロンとは

全く違う方向性をみせてくれた。

 

ちなみに私たちの時代はというのは

男らしさに重きが置かれていた。

喧嘩して殴られても「泣くな!」なんです。

男は黙って…の時代だった。

 

よって高校時代は私もまわりも

ほぼみんななんだか殺気立っていたっけ。

それが青春というものだったのかどうか、

いまでもよく分からないけれどね。

思い出せば、

町田の商店街でよく他校の奴ともめた。

横浜駅近くでもよく殴られた。

殴り返したら、向こうに

刃物を出されたこともある。

理由は些細で実にくだらない。

イマドキはダサいとなる。

 

まあそんな時代だったが

街にはかわいい子もいっぱいいたし

海もディスコも楽しかったし、

なかなかいい時代だった。

 

そういえば、女の子は女の子で、

まだ女性らしさというものが求められていた。

このらしさというのがなかなか難しい。

いまだによく理解できていないけれど、

それはこちらの鈍さか…

 

とにかく「らしさ」が求められる時代でした。

そんな時代です。

それに合わせるように、

あの渋いオトコの中のオトコ、チャールズ・ブロンソンが

「男の世界」の音楽に合わせて登場、

顎に手をあてて、「うーん、マンダム」と言う訳だ。

コレ、売れない訳がない。

 

イマと違ってヒットの方程式は、

意外と簡単につくれた。

 

でですね、この「男の世界」という歌とか、

チャールズ・ブロンソンという役者とかだが、

イマドキだと全く世間に相手にされない訳です。

干されてもおかしくないベクトルをもっている。

イマは誰もそんなものは求めていない。

というか、差別とかいう単語がちらつきます。

 

そんな世の中になりました、ハイ!

 

 

思えば、平成ってずっと不景気だったような気がする

 

 

最近では、平成も終わりを告げる、ということで、

あちこちで平成という時代の総括やら思い出を振り返る

番組をよくみかける。

 

夕飯の後なんぞ、寝そべってテレビをぼおーっと観ていると、

うーん、なつかしいなという反面、

平成って、結構辛い事が多かったなぁと、

深くため息をつくのだった。

 

平成の時代は、まずバブル後期から始まったように記憶している。

 

日本長期信用銀行に預けてあった50万円を渋谷店で下ろすと、

確か75万くらいになっていて、その金利の高さに歓喜した覚えがある。

しかし後、この銀行は潰れ、山一証券会社も潰れ、

世の中全体が、かなりどんよりしてきたのだ。

 

そこから、日本の不況は徐々に深刻さを増し、

それは伝染病のように社会全体に広がっていった。

 

私たちの業界も同様で、延々と続く不況に、

エッと驚くような酷い話はいくらでも耳に入ってきた。

あの大手が潰れたとか、知り合いの会社の倒産とか、

フリーランスへの未払い金などは優に及ばず、

離婚や自殺まで、枚挙に暇がなかった。

 

最も身近なのは、やはり広告の制作料金のデフレ化だろう。

 

まあ、広告の価格も案件に寄りけりだが、

こちらはわずかな利益の確保に追われる。

どこも経営が厳しいから致し方ないのだが、

業界の価格競争の激化とともに、

人的資源も枯渇して低レベル化が進み、

無駄な制作物が粗製乱造され、

結果、広告というものが大きな信用を失ったことだろうか。

 

現在でも、その余波は残っている。

 

平成はネットの時代に入った訳だが、そこでも同様の事柄は増え、

安かろ悪かろでもしょうがない、という事態が

ここかしこで起きている。

 

「コスパ」が流行ったのが平成の特徴だが、

それはいまも続いている。

 

いあらゆる事柄において、無駄は敵なのである。

如何に安くいいものをつくるか、

ここに心血を注がなければ生き残れない。

 

当然と言えば当然なのだが、

こと広告に関しては、コストはみえるものの、

パフォーマンスが見えづらいという欠点があった。

 

よって、広告も進化し、

結果を示すために、統計とか数字を示すようになった。

ここをしっかり説明しないと、コスパは語れない訳だ。

 

こうして、ただ高いだけ、安いだけの業者は淘汰されていく訳だが、

いまはその過渡期といっても過言ではないだろう。

 

でないと、広告は、出来の良い悪いが見えないのだ。

全くブラックな業界となってしまう恐れがある。

 

それは広告の危機を意味する。

 

よって結果をしっかりと出すことは、

いまやこの業界の鉄則なのかも知れない。

 

作り手の意識は変わる。

 

成功体験は、自信と自負と向上心を育てる。

そして、つまらない価格競争には乗らなくなる。

よって、広告のつくり手は、

あの湖に浮かぶ優雅な白鳥のように、

水面下では手足を常に動かし、

努力を惜しまず向上しなくてはならない。

それが現在の広告の作り手の、

極めてシビアな現状なのである。

 

ずっと以前、

いわゆる昭和における広告などはかなりアナログで、

ざっくりとしていた。

しかし、ヒットを飛ばす心意気は殺気だったものがあり、

それはいわば、正体の見えない宝物を追いかけるような、

摩訶不思議な冒険の世界だった。

 

現在のそれは、数字と統計にキッチリと表れる。

主観の及ばない正しい成績をはじき出してくれる。

ここは、確かなことなのだ。

 

しかし、実はここにも新たな問題がひそんでいた。

それはパラドクス的な話なのだけれど、

単に数字だけを追いかけると、

とてもつまらないものができあがる、という

なんとも皮肉なことが起きているという事実なのだ。

 

この新たな問題に真っ向から取り組んでいる

東京のクリエイティブの作り手を幾つか知っているが、

彼らは新たな開拓者として、そのうちにヒットを飛ばすだろう。

 

そのころ、平成という時代は幕を閉じている。

 

 

 

ハズキルーペって何がすごいのか?

 

ハズキルーペが人気だ。

勢いが止まらない。

それはコマーシャルの出稿数からも判断できるし、

豪華なキャスティングからも分かることだ。

売り上げは急激な右肩上がり、だろう。

 

火が付いたのは、渡辺謙と菊川怜のコマーシャルあたりからか。

菊川がきゃっと言ってハズキルーペをお尻で踏んづけるも、

メイドインジャパンの堅牢なハズキルーペである。

何ともない。

丈夫にできている。

で、菊川のヒップが評判になった。

堅牢なルーペに、さらに色気を付けた訳。

 

かくしてコマーシャルは成功。

最近ではバージョンアップ版に変わった。

 

銀座にでもありそうなクラブに小泉孝太郎が入店する。

おしぼりを顔に当て、

パソコンで相当目が疲れている、という設定。

すかさず、ママ役の武井咲が、

ハズキルーペがいいわよ、とがち押し。

「字が小さくて読めない」と言っておしぼりを投げ、

謙さんの真似をする小泉。

そして「謙さんには内緒だよ」と、

ちょっとしたギャグを飛ばす。

常連にありがちだなぁ。

 

武井ママも新製品を見せびらかす。

と隣の席にまたまたハズキの新製品である

サングラス仕様をかけた気取ったミドルがいて、

かなりすかしているではないか。

適役、舘ひろしである。

でなんか、気が付くと、

店の女の子も全員がハズキを装着している。

 

で、ここで絶対に逃せないのが、

店の女の子が、ハズキを置いてある椅子に、

次々に座るシーン。

悩ましいヒップのクローズアップ。

このシーンを2回繰り返す念のいれようなのである。

前回から色気も数倍バージョンアップした訳。

 

おっと何のコマーシャルだったっけ?

と我にかえる。

まるで、通販の臨場感を意識したつくりなのだ。

 

制作者は、このシーンを最初に思い浮かべた。

これがやりたくてこのコマーシャルを考えたとしか、

私には思えません。

世間がうるさいイマドキ、勝負に出た感がある。

ハラスメント?

エンターテインメントに徹したので、

なんとか納まっている感はある。

 

こうなるとだ、ハズキルーペの勢いは止まらない。

物事には勢いというものがある。

そこをハズキは逃さない。

いままさに、黄金期。

観ているほうも、

「ワシもそろそろハズキルーペ買おう」と、

無意識に購買を予定しているおっさんがいっぱいいると、

私は踏んでいる。

ちなみにおばさんは、

かなりの不信を抱いているように思うがね。

 

そもそもハズキルーペって、

中高年を中心に、こまかいものを大きくして見るための

虫眼鏡じゃなかったっけ。

むしめがね…だよなぁ

そこにファッション性と堅牢と色気をふりかけると、

摩訶不思議にヒットした。

 

こうしたエグいコマーシャルって結構多い。

私も割とノってしまう性格なので、

過去にかなり不要なものを買いためている。

家中にすでに使わないものが溢れている。

冷静に考えると、

金は使うは、家はどんどん狭くなるわ、

なんで買ったんだろうと反省する訳です。

そんな事をさんざん繰り返していると、

いい加減、いろいろと気づくものです。

財布の紐も堅くなる。

 

コマーシャルとか通販って要するに、

仕掛けが透けて見えるようになってしまったら、

終焉を迎えます。

ながらく続いた消費文化の限界も見えるようです。

そして人はますます手堅くなる。

 

しかし、広告のスタイルは尚も進化するのだろう。

広告って雑草のように強いから。

 

とりあえず、罪な広告ではある。

 

 

内田と田口とアイドルを探せ!

 

 

日大アメフト問題

あの内田監督という人は、なんだか酷い人ですね。

私と同世代というのがひっかかる。

あるブロガーが、この世代にはろくな人間がいないと書いていた。

記事に安倍首相も含まれていた。

そうですね、何も言えないね。

としておこう。

あるブロガーとは、リクルート出身の40代のやり手なのだが、

この人の「この世代……」というのが、

「いまの若い者は……」のつまらない発想と同根。

なんの新鮮さもない、目立つ事を追求するブロガーは、

今日もアクセス増のみをめざす、

かわいそうな人に思えてくる。

で、先の話。

権力を手にするということがどういうことなのか、

私はそうした立場にないので想像し得ないが、

上り詰めた人間にしか見えない、

よほど熱狂してしまう魔物みたいなものが、

彼らを惹きつけるのだろうよ。

 

 

田口コレクション

田口という実業家がいて、いい絵を収集している。

それを見に平塚市美術館へ行ってきた。

一応、現代アートというかそうしたカテゴリーの絵なので、

ちょっと興味があった。

一方、横浜美術館はいま、「ヌード」という企画が大当たりらしく、

連日満員だとかで、6月の24日最終日前あたりに行こうと思っている。

こちら、ロダンの彫刻がメイン。

私はよく分からないけれど。

で、平塚市美術館。

私的に、主だったアーティストは

アンディ・ウォーホル、キース・ヘリング、

モリーン・ギャレース、ジョナサン・モンク。

デビット・ホックニーをオマージュして描かれたモンクの絵は、

夏のプールなのに、全く動的なものが何一つない静けさがなんとも良い。

水しぶきひとつない。人の気配もない。

絵の中の時間が止まっている。

そこには、ホックニーと似て非なる静止画の情景が描かれている。

私は複製のポスターを探そう。

 

 

シルヴィ・バルタン

夜、なにげにテレビを付けると、

NHKになんとシルヴィ・バルタンが出ているではないか。

最近、夜ごとYouTubeで昔の歌を聴いていて、

そのなかにシルヴィ・バルタンの若かりし頃も含まれていたので、

ちょっと驚いた。

もう70を過ぎた彼女は、相変わらず美しく、素敵だった。

同時に、当時のツィッギーの活躍も、グリコポッキーのCMも、

雑誌「an・an」の創刊号の表紙も、ふわっと頭に浮かぶ。

レナウンの「イエイエ」のかっこいいCMなんか、

私のガキの頃の記憶として永久保存されている。

彼女のヒット曲「アイドルを探せ」は50余年を経て、

いま聴いてもまるで色褪せない。

アメリカンポップスを聞き慣れた耳には、

なんか新鮮なんだよね。

そういえば、やはりこの頃活躍していた歌う詩人というか、

シャンソンのシャルル・アズナヴールはどうしているのだろうと

気になって調べてみると、まだご健在だった。

「帰り来ぬ青春」がもの悲しい。

いまの私の心情とオーバーラップしてるし。

 

 

無粋な広告

こんな広告はイケナイナと思う代表が、

YouTubeに入れ込んだ広告だ。

あれは、なんというかTVCMより腹が立つ。

所詮、TVは受け身の姿勢で観ることの多い媒体だから、

そんな場合はしょうがないねぇ、となる。

別の言い方をすれば、TVCMの歴史は永い。

こっちも体にしみついているから、

まあいいだろう、となる。

一方、YouTubeを聴く場合、

「あっ、あの歌が聴きたいなぁ」などと、

かなり能動的なアクションを起こしている。

なのに、聴きたい曲の前や途中に、

動画広告が挟んである。

最低5秒は我慢しなくてはならない。

これってかなりイライラする。

こんな場面で登場する広告なんぞ、

まずいい印象など残らないだろうと想像するのだが、

しかし、この手のデータの専門家に聞くと、

ソコソコ視聴されているらしい。

が、そのパーセンテージはやはりというか、

俄然低調であるとのこと。

やはりね。

では、すべてアウトかというと、

成功例はしっかりある。

一例をあげるとフォードのCMで、

頭から5秒で、シートベルトをカチャッとしめるCM。

これは好評だそう。

要はシートベルトは5秒あれば締められる、

とアピールしている。

こうなると社会的意義もある。

これは無粋ではない。

ただ、難しい。

YouTubeをしっかり研究しないとつくれない。

ひょっとすると、TVCMを制作するより難しい。

だから、無粋なのが多い。

ひどいのになると、

5秒でスキップすることもできないものもある。

こうなると、私の場合、YouTubeを終了します。

あと、リマーケティング広告と呼ばれるものだが、

これは通称追っかけ広告と言い、

こいつも用もないのに過去にみた広告とはいえ、

いつまでもパソコンのIPアドレスを頼りに出現するいやらしさがある。

当然、成約率(コンバージョン率)は極端に低い。

リマーケ、嫌いだなぁ。

よって、ウチの場合は、リマーケはお客にはすすめない。

やめましょう、と。

その点、検索結果画面に出てくる広告、

いわゆるリスティング広告は、なんだか許せる。

しっかり「広告」とも書いてあるし。

というか、リスティング広告の場合は、

訪問者もかなりの情報を欲して検索してくるので、

そのマッチング度は高い。

有用である場合が多いし、

コンバージョン率も前記した広告に比べ、

飛躍的に数字が上がる。

また、フェイスブック等にみられる広告は、

個人情報、趣味、嗜好に合致したもののみ展開されるので、

そのマッチング精度も高く、

ユーザーの気を惹くものが多い。

(だけど私はなんだか嫌いですがね)

と、ここまで書いて気がついた。

世の中はうまくできたもので、

成約率の高い広告媒体というのは、

やはり広告料金も高い。

そこがなんというか、

世の中甘くないですよ、という訳。

ネット広告で気になるのは、

TVCMのように、まず内容ではなく、

それ以前の問題が多いように思う。

内容はその後の問題で、

そこはTVCMとなんら変わらない。

ネット広告の良し悪しは、

まず、いつ、誰が、どんなときに、という

タイミングなのだと思う。

「こんなときに広告かよ」と思われるタイミングは、

質の良くないTVCM以上に、

ユーザーの広告に対する、

いや、広告主に対する印象が悪化する。

無粋な広告というのは、

広告主も制作側も実はそうとは気がつかず、

お金を使ってまで流している。

これはもう悲劇であり、喜劇でもある。

では、こんなタイミングに、この広告って、
どうでしょうね? ↓

しあわせの涙

どうしてもEXILEが好きになれないスパンキーです。

がしかし、EXILEのATSUSHIがつくった歌と共に流れる

ゼクシィのCMが気になる。

「僕と結婚してくれませんか?」との声に

………

プロポーズされた女性(広瀬すず)は無言。

すぐに「はい」とか「いいえ」とか即答せず、

複雑に、そして少し控えめにですね、

刻々と表情が変化する。

一発勝負の長撮りなので、

下手な作り込みはなし。

これは、すずさんも相当入り込まなければできない芸当だろうな、

などと思いながら観ていると、

やがてですね、

はにかみながら「はい」と答えてから、

また何かを含ませた笑顔で緊張の表情を見せ、

そして次第に涙ぐむ。

いや、美しいなッと思う。

男女の付き合いの前後はさておき、

いざっというとき、

こうした表情を覗かせる女性って、

何はともあれ良い。

それが実は後に鬼嫁になろうが、

浮気女だろうが、

そんなことはどうでも良いのである。

プロポーズって一種のセレモニーでしょ?

節目にキチッとする。

それだけでOKなのである、とゼクシィが言っている。

いや、そんなことは言ってはいないか?

爺がいうのもなんだけど、

なんだか美しすぎて、怖いんですよ!

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いまが通り過ぎてゆく前に

フレーズとして、このタイトルは綺麗だ。

バズというグループが40年くらい前に唄った歌のワンフレーズ。

詞は続けてこう言う。

ああ、愛と風のように…

ご存知、ケンとメリーのスカイライン。

通称ケンメリのCM挿入歌だが、

このCMのキャッチフレーズは、ずばり、

愛のスカイライン

である。

一見キャッチらしくないが、

これも純然とコピーライティングなのである。

ストーリーはこんな感じ。

若いカップルが、スカイラインで日本各地を旅する。

で、この二人は恋人同士であり、名がケンとメリーである。

スカGで知られるように、前作の箱型スカイラインは、

どちらかというと硬派であり、オトコのクルマであった。

それは、性能の高さや、レースでの栄光といった、

旧来のスカイライン。

このイメージを打ち破るべく、

ソフトなイメージのCMがこれだ。

当時、私はこのクルマに興味がなく、

いわゆる前作のハコスカが好きだった。

が、スカGの中古相場が高騰し、手が出ない。

で、走りのイメージがあり、

なおかつ当時斬新なデザインでデビューした、

トヨタのセリカを買った覚えがある。

後年、このCMのクオリティの高さが見直された。

そしてケンとメリーのスカイラインは伝説になり、

愛のスカイラインというコピーは、

いまだに胸に刻まれている。

商品の売れ行きと乖離しても、

心に残るCMというものが、

果たして優れているのかどうか、難しい。

しかし、当時のクリエーターたちが築いた世界観は、

相当に前衛と思う。

何故なら、そこに物語があり、背景があり、

商品の向こうにある価値を語っているからだ。

これは、カタチを変え、いまでも使われる手法だ。

全然古びてなんかいない。

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