ありがたいことなのだけれど、
プレス原稿、スローガン、ランディングサイト他が重なり、
頭が忙殺されているうち、ブログの更新が止まってしまった。
相変わらず世の中は忙しく、
トランプとかプーチンとかで世界はめまぐるしく動いている。
或る夜遅く、
そうだボブ・ディランを聴いてみようと思い立ち、
アプリを開いてみた。
「風に吹かれて」
どれほどの道を歩かねばならぬのか
男と呼ばれるために
どれほど鳩は飛び続けねばならぬのか
砂の上で安らげるために
どれほどの弾がうたれねばならぬのか
殺戮をやめさせるために
その答えは 風に吹かれて
誰にもつかめない
どれほど悠久の世紀が流れるのか
山が海となるには
どれほど人は生きねばならぬのか
ほんとに自由になれるために
どれほど首をかしげねばならぬのか
何もみてないというために
その答えは 風に吹かれて
誰にもつかめない
どれほど人は見上げねばならぬのか
ほんとの空をみるために
どれほど多くの耳を持たねばならぬのか
他人の叫びを聞けるために
どれほど多くの人が死なねばならぬのか
死が無益だと知るために
その答えは 風に吹かれて
誰にもつかめない
(壺齋散人さんによる歌詞の日本語訳より引用)
彼の音楽はやはり素朴だなあ、
それにしても、小節にことばが詰め込まれている。
そして音符に彩られたことばが呼びかけるのだ。
溢れるのは詞なのか、
いや詩だな。
これがノーベル文学賞なんだと思うと、
そうだろうなと納得した気持ちと、
いや、と思い、
そこは村上春樹だよとは思ってはいないが、
やはり私はキャロル・キングが頭に浮かんだ。
私の世代は、あまりボブ・ディランに馴染みがないのか、
彼の歌を聴くと、
中学校時代に耳にした、
日本のフォーク・ソングと被ってしまう。
―岡林信康とか高田渡とか、
吉田拓郎とか泉谷しげる―
みんなボブ・ディランに憧れていたんだと改めて納得。
最も、日本で歌われたフォークに、
それほど政治の色彩はないのだが。
初めてギターを手にしたとき、教本は「ガッツ」、
曲はジョーン・バエズの「ドンナドンナ」だった。
ジョーンバエズもボブ・ディランも同時代だと思うが、
なぜかジョーン・バエズのほうが記憶に残っている。
有名になる前のボブ・ディランを、
公の場で紹介したのもジョーン・バエズと聞いた。
当時はベトナム戦争という無慈悲が進行していた時代。
メッセージ色が強い。
(最もジョーン・バエズの歌は公民権運動の色合いとも言われている)
メロディーに包み込まれた詩に、
当時のやるせなさが綴られている。
そのことばひとつひとつが浮いていない。
♪風に吹かれて♪のフレーズに、
そのもどかしさまでもが、届いてしまう。
だから、ボブ・ディランなのだろう。
最も、詩の成り立ちは、
思えば小説などよりその歴史も古いから、
文学の礎ではある。
彼のノーベル賞受賞は、
なんら不自然ではないと思う。
しかし、前述のように、この時代のアーティストで、
私を掴んだのは、やはりキャロル・キングだった。
「君の友達」という歌は、こんな感じ。
あなたが困っているとき、
辛いとき
そして私を必要としているなら
すぐに呼んで!
私はすぐにでもあなたの元へ行く
それが冬でも春でも夏でも秋でも
ただ私の名を呼べばいいの
わたしがどこにいようと
あなたに会うためなら
走ってゆく
だって友達だもの
友達がいるって素敵なこと
そう思わない?
みんなとても冷たくなってしまって
あなたを傷つけたり見捨てたりする
あなたが油断すれば
それこそ魂までも奪ってしまう
だけど私はそんなことはさせない
私の名前を呼んで!
あなたには友達がいるのよ
ボブ・ディランの詩は他のものとは格が違うというか、
ことばがダイナミックな放物線を描いて、こちらにズシンと届く。
一方、キャロル・キングのこの歌は、
一見身近でやさしい言い回しだが、
これは、この時代の空気を纏った、
一種のレトリックだろう。
勝手に私的にだが、
やはりノーベル心の文学賞はこちらなのだろうと…
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