アナログレコードを捨てる

永年眠っていたレコードを屋根裏でみつけた。

レコード5

↑捨てられなかったレコードの一部です。

40年~45前のものばかり。

で、思いっきり捨てようと決心する。

が、一枚一枚眺めている間に気が変わった。

ジャケット写真やデザインに、

そのレコードを聴いていた頃の事が鮮やかに蘇る。

うーん、

こうなると、仕分けとなる。

捨てる、とっておく、その判断に苦しむ。

煩悩…

現在、我が家では「捨てる」が流行っている。

当然、要らなくなった物を捨てる作業だが、

これが積もり積もった塵のように、

そこら中からゴッソリ出てくるではないか。

気がつけば要らない物ばかりの中で暮らしていたのだ。

断捨離というのが一時流行ったが、

こういうことなのかと今更ながら納得。

しかし、断捨離ってもっと厳しいらしい。

断=入ってくる要らない物を断つ

捨=家にずっとある要らない物を捨てる

離=物への執着から離れる (ウィキペディアより)

以前、或る女性有名文化人の本を読んだら、

断捨離という表現では書いてなかったが、

要らない物を処分したら、

最後はボストンバッグ一つになったという。

物への執着を一切捨ると、

身軽かつ爽快な人生が待っているらしいのだ。

ふーん、己は甘いなと自戒。

しかし、シンプルライフってカッコイイけれど、

どこか「この世を去る」準備のように思えて、

いまひとつ寂しいように思ってしまう。

「神さま、まだやりたい事がいっぱいあるので、

レコードさえスパッと捨てられません。

どうしましょ?」

そんな心境です。

実際、我が家は捨て続ける一方で、

毎日毎日、本は増え続けているし、

「今度のクルマはやはり黄色いビートルにしようかな」

などとほざいているのであるからして、

断捨離の心なんぞ全然分かっていないし、

未だ物欲で走り続けているのである。

更にレコードを聴くためにですね、

針付きのプレーヤーの無い事に気づき、

早速アマゾンをチェックする始末。

こうなると己の浅はかさに呆れるばかり。

よくインテリ人種が、

「あいつは俗っぽいね」などと、

上から見下ろすように言い捨てるのを聞いた事があるが、

確かにその通り。

それは「私」です、ハイ!

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レンタルビデオ屋に通い詰める

最近、ゲオというレンタルビデオ屋さんで

怪しい行動をしているのは、私です。

パッケージを手にとってピクリともしない。

帯のコピーとか写真にジッと見入っている。

そして「うーん」とか「ウン?」とか呟くのです。

自ら少し変だなぁと思って周りを見回すと、

ちょっと驚いたんですが、

同じような人って結構いるものなんですね。

そんな訳で、寝る時間を削り、

できる限り映画を観ています。

セレクトは準新作が主ですが、

過去に見逃したものが中心。

範囲はサスペンス、冒険もの、恋愛系と節操がありません。

片っ端から借りてきては、遅い夕飯の後に見入っています。

そもそものきっかけはですね、

たまにテレビを点けると、

これがかなり詰まらないものばかり。

たまげましてね。

面白い番組は事前チェック。

毎週ハードディスクに録ってますから、

大丈夫なんですが。

それ以外にアタリという番組が余りに少ない。

「チロリン村とくるみの木」から永年テレビを愛してきた世代として、

これはかなりまずい状況だと思います。

おまけにコマーシャルまで面白くないものばかりなので、

絶望しまして。

で、映画に走った訳です。

映画はいいですね。

それが愛だろうが死だろうが戯言だろうが、

戦争だろうが、宇宙人だろうが、幽霊だろうが、

とりあえず私は日常を脱出して、

感動したり恐怖したりしている訳です。

エンドロールが流れると、すでに夜半過ぎ。

私はその余韻も去ることながら、

今日のクソッ垂れな出来事をサッパリと忘れて、

寝入ることができるのです。

8月の家族たち

はじまりのうた

プレテターズ

ヘアスプレー

サマータイムマシンブルース

チョコレートドーナツ2

ワンデイ

ニューヨーク冬物語

「8月の家族たち」「はじまりの詩」「プレデターズ」

「ヘアスプレー」「サマータイムマシン・ブルース」

「チョコレートドーナツ」「ワン・デイ」「ニューヨーク冬物語」

etc…

えっと後なに観たっけなぁ…

映画ってホントにいいですね!

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歳をとると忙しい、らしい。

先月72歳の誕生日を迎えたご近所の春枝さんは、

年々、早起きになってしまいましてと、

困り顔で話されました。

「そうですか~」と私。

「若い頃は、昼過ぎまで寝てたんだけれどね」

と懐かしむように笑われました。

で、春枝さん。

まず早朝の薄暗いうちに近所を軽く歩く訳です。

この歩くという行為が、

若者には理解し得ない貴重な習慣とか。

曰く、歩いて少しでも筋力を養おうという意欲も去ることながら、

老化絶対はんた~い!、だそうです。

歩く先々では、アサトモ(朝友)と挨拶を交わしたり、

立ち話をしたり。

これも立派なコミュニケーションですね。

あと、朝陽を浴びるとよく眠れますよ、だって。

潜在的な脅迫観念で歩いていらっしゃるのかなぁ?

春枝さんは週に3日、

午前中は早くから、近所の公民館へ行かねばならない。

そこでは絵手紙教室をやっていて、

僅かな授業料で

懇切丁寧に教えてくれるところが嬉しいのだとか。

ホントは、その絵手紙がうまかろうが下手だろうが、

そんなことはどうでもいいそう。

脳ミソを使う、手先を動かす、みんなと話をする。

これでボケない、友人もできる。

一石二鳥以上の収穫なのよ、と。

さて、授業が終わるとみんなでお茶…なのですが、

そこで皆さんの持病の話に華が咲くのよね。

春枝さんは、まわりの話を聞いて内心ほっとするらしい。

みーんな何かしら患っている訳!

おっと、今日はそんな話をのんびりしている場合ではないわ。

で、春枝さんは「皆様、ごきげんよう!」と小走りに15分程歩いて、

馴染みの医院へ診察カードを出しに行ったらしい。

散々待たされている間に、

「主婦の友」を半分まで熟読してしまい、

今度はうたた寝。

と、看護師さんからいきなり呼ばれまして、

病室へふらふらと。

「望月さん、やはり平均よりかなり高いね、血圧。

下がらないね、うん、飲み続けましょうよ。

もうね、こうなるとこの薬とは一生のお付き合いになるね」

人なつっこい笑顔の先生に促され、

半ばしょうがないといった感じで薬を頂いたのよ。

今度は、病院から5分程引き返したスーパーで買い物。

小松菜、卵、即席ラーメン、夜は独り鍋にしようかしら、

と鍋セットもカゴへ。

で、自宅に戻って簡単なお昼を済ませ、

ちょっと横になる春枝さん。

なんと、自分のいびきで目が醒めてしまいました。

「ひるおび」を見損なって、

腹立たしいったらあらりゃしないのよ!

こうなると、「ミヤネ屋」に釘付け、

ガン見ですから!!

芸能ニュースにゃ目がないんですが、

こういう趣味はいつからなのか、

本人もトンと覚えていないらしい。

なんだかんだで夕方に突入すると、

ユニクロで買い揃えたナウなジャージの上下が、

カッコイイと春枝さん。

傾いた午後の陽を浴びながら、

これで、町内を一回りも二回りもするんですが、

目標は厚生労働省の発表どおり8,000歩をめざす。

春枝さんは、若い頃から几帳面だった。

陽が落ちてくるし、だんだん薄暗くなってくるも、

決してくじけない。

(夕飯は何にしようかしら?)

おっと、汗が化粧を溶かして顔がヤバイ。

が、外も薄暗くなってきたし年も年だし、

ここはもはや気にしない開き直りで

歩き続ける春枝さんでした。

ようやく歩数計が8000歩を示すと、

どっと疲れが出る。

心地良い達成感と同時に、

「生きているんだ」という実感が、胸に迫り来る。

だから止められないのよね…

というか、背後に迫る死神に捕まらないためにも、

頑張るしかない春枝さんには、もはや後がないらしい。

旦那を5年前に亡くした春枝さんは、

独り身ながら元気かつ生きる意欲が旺盛です。

そして、仏壇には毎朝欠かさず手を合わせているのよ。

さて、いまの悩みは、テレビの通販番組で知った、

骨粗鬆症に良いと言われているグルコサミンを買うかどうか。

汗を拭いながら、膝の痛みを考えると…

「やはりあのフリーダイヤルに電話してみましょう!」と

ようやく決心がついたようです。

夜、体操をしながら

大好きなテレビ番組のひとつである

「お宝探偵団」を観ていると、

突然電話が鳴ったのよね。

「こんな遅くに誰かしら?」

知らない電話番号、

思えば一ヶ月ぶりに鳴った電話だった。

恐る恐る受話器を取ると、

なんと小学校時代の同窓会のお誘いだ。

電話の主は名前だけは知っているクラスメイト。

聞けば30人位は集まるとか。

「出席させて頂きます、ハイ!」

嬉しさに久しぶりに胸が高鳴るも、

思えば、前回の同窓会が約30年前だったけれど、

なかには60年ぶりに会うクラスメイトもいると思うと、

懐かしいというより、

なんだかどっと疲れを覚えましてね。

「みんな元気なのかしら?」と

何気なく春枝さんは尋ねたらしいのですが、

それがね…と電話の向こうが言うには、

「だいぶいなくなっちゃったのよ」

(………)

翌朝から、春枝さんの歩くスピードは更に増し、

距離もグングン伸びたようです。

己の生命力にムチを入れるように…

そして顎とウェストの贅肉をそぎ落とすぞ、

と今更ながら明確な目的が設定された為でもある。

「負けませんからね!」

春枝さんに落ち込んでいる暇はないと言う。

「なにしろ私はいま忙しいの!!

死んでる暇なんかない訳よ」

と春枝さん。

私は思わず後ずさりして

「そっそうですよよね、私もそう思います!」

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ネットの時代に、あえてペーパーを推す訳。

ネットの時代、いまやペーパーレスとはいっても、

相変わらず印刷物のオーダーは続いています。

今後はどうなるか分かりませんが、

ペーパーにはそれなりの良さがあると思います。

個人的な事ですが、私はあまり電子書籍は買いません。

なぜ?と問われれば、きっと買ったものの実体が薄い。

実感が薄いと、人はその価値さえ薄れてゆくので軽んじる。

よって買ったものさえ忘れてしまう自分がいます。

こんな考えは古い人間だからでしょう。

若い人にそんな感覚はないのだろうと思います。

それにしても、ペーパーの良さは、あの実体です。

邪魔だろうと部屋が狭くなろうと、

そのように存在する。

存在感はありますから…

で、印刷物のオーダーは相変わらずあるという話ですが、

例えば、パンフレットやリーフレット類の良さというものは、

歴然としてある訳です。

ネット上のPRと較べ、

印刷物は、やはり実体としての存在そのものが、

受け取った人に与える印象として格段に突出していること。

それは、ゴミ箱にでも捨てられない限り、

対象者が目にする度にアピールしている訳ですから、

ネット上のPR以上のツールとして優れていると言えます。

デメリットは、ネットに対して露出が限られていること。

いわば、マーケット規模に於いて、

ターゲットに届く数量が限られていることです。

さて弊社の場合、

お問い合わせ内容の大部分が、

目的はしっかりある、が、

内容がぼんやりとしていると困惑している方がほとんどです。

よって、予算もページ数も、強いては紙質など、

諸々がすべて不安のようです。

これって考えてみれば当たり前でして、

同じ業界内でもネットしか携わっていない会社に尋ねても、

ほぼ皆分からないのがフツーですから。

そうしたぼんやりとした不安を払拭するために

私たちがいます。

利用しない手はありません。

時間の許す限り、という前提条件付きですが、

お気軽にご相談ください。

一応、知恵と経験はありますので…

森の時間、海の時間

冷えた躰は

無骨な木の階段を踏みしめるたび

徐々に上気し

汗も滲むほどになると

おおげさにいえば、

「ああ、生きているんだなぁ」という

素朴な実感

自分の足で踏みしめる

進む、登る

しまいに息継ぎが荒くなって

晩秋の森のなかで

一個の人間が無意味に汗を流している

内蔵も全開で動いているんだろうな

自分という存在が

森という大きな存在に溶けてゆく

木々の葉が無作為に

ある不文律に沿って

ひらひらと遊歩道に落ちてゆく

やがて視界がひらける

やれやれと思うと

鳥があちこちで

鳴いていることに気づかされる

木も鳥も虫も

静かに生を営んでいるんだなぁ

ペットボトルの水のひとくちが

格別にうまい

丹沢山塊の端の展望台から

湘南、横浜、東京を望む

あそこに住んでいた頃のことが

あれこれと思い浮かぶ

良いことも苦い想い出も

この森のなかでは

無色透明に浄化される

視界の爽快感

山歩きの何が心地良いって

それはいろいろありすぎて…

山2

山1

さきほど見えた海が気になって

後日クルマで海をめざす

小一時間で海に出る

若い頃は山なんて興味がなくて

海ばかり来ていた

海ばかり見ていた

海って端的にいえば

くるくるとめまぐるしく

その表情を変えることだろうか

それは若い頃の不安定な心と同調する

若さと海は相性が良い

この日は

遠く霞んで

雲と波の隙間を縫うように

伊豆大島の輪郭がぼんやりと見えた

めずらしくゆったりとした海

凪いでいる表情

こんな海だったら

海沿いに住むのも悪くないと思う

けれど、ゆっくりしっとりと

四季のうつろいを教えてくれる山あいが

いまの自分のリズムにフィットする

時のうつろい

若い頃は分からなかった

いや気にも止めなかったような…

いま愛おしいのは

時間なのだと気づいた

海2

海1

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幾つになっても…

誕生日に花を頂きまして、

それが結構長持ちしています。

しょぼい玄関に飾りました。

花

白いゆりの花も入っていまして、

最初つぼみだったのですが、

これがいま見事な大輪です。

白百合

赤い花の名前は知りませんが、

気にいってます。

毒々しい色が自分と被っていて、

親近感を覚えます。

で、なんたかうれしくて、

だいぶ前にスケッチしました。

対象物にまるで忠実でないところが、

私的には好きです。

1の絵

そういえば、いま平塚美術館で、

「画家の詩、詩人の絵」を開催しています。

平塚

11月8日までやっています。

私は先日観てきましたが、

心に残る作品が幾つかありました。

詳しくは、↓をクリック!

できない場合は、URLをコピペしてください。

http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/art-muse/

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なぜ太るのか、不思議

なんだか最近太ります。

たいして喰ってないのにですよ。

運動もそれなりにしていますが、効果は低いです。

年をとると代謝が悪くなる、なんて言いますが、

それですかね。

あと、心当たりは食後のチョコレートです。

酒をやめてから、甘党になりました。

まんじゅう、ケーキ、あんぱんといろいろ喰いましたが、

最後まで喰い続けているのがチョコレートです。

お陰で、歯医者通いも増えまして、踏んだり蹴ったりです。

チョコは、世界中のを喰いました。

一番美味いのは、やはりオーストリアのチョコです。

おっと、太る話でした。

数年前にかなりスマートになった時期があります。

往年のGパンもすっとはける。

我ながらカッコイイ 汗

Tシャツ一枚でも腹が出てないのでカッコイイ 汗

しかし、そんな良い時期は、人生で一瞬です。

脂肪が黙っていませんから…

で、息子が毎日ジョギングをやっているので、

私もその気になりまして、

ここはまずウェアからだろうと、

まずスポーツ用品店に見にいきましたら、

ウェアって結構な値段するんですね。

ついでに、どうしても似合わない気がする。

何というか、変なんです。

自分的にオカシイ!

カッコ悪いんですよ、私には。

ではということで

「お父さん、じゃあ泳ぐのがいいよ」

と再び息子に促され、

またまたスポーツ用品店に。

で、水着というか海パンですね、

アレ、最近の物ってやたらピチッとしている。

すげぇ密着感が全然慣れない。

気持ち悪い。

おまけにカッコ悪い事、この上なし。

私の場合ですよ。

格好を付けている場合ではないのですが、

かなり悩みまして、

アタマに浮かんだのがライザップのCMでした。

なにしろライザップは

「結果にコミットする」とハッキリ断言している。

で、ネットを幾つかチェックすると

費用としてまず30万円は下らないだろうということで、

即却下。

結果にコミットしなくてもいいだろうと、

いい加減な結論に達したのでありました。

とここまで書いて、

奥さんに何で俺って太るんだろうと話しましたら、

意外な答えが返って参りました。

「何でって、あなたいつも何かたべているじゃない」

「えっ、そう?」

「夕食前からアレコレ結構食べています!」

オオッ、なんと最近太ってきた原因が

やっと分かりました 汗

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ささやかだけど…(しあわせの定義って?)

ろくなもんじゃねぇ、なんて言いたくもなる今日この頃。

仕事、家庭、その他せっこい事柄も織り交ぜると、

生きてゆくとはかなりしんどい事だなぁと感じる訳で…

毎日が楽しくて楽しくて仕方がない、なんていう方が羨ましい。

恋でもしておられるのでしょうか。

健康そのもの。

自動的に大金が舞い込んでくる。

こんな感じか?

どうか一度、楽しく生きるコツを聞いてみたいものである。

でもホントはね、

こういう方たちに対し、私は懐疑的なんです。

何故なら、神さまは私たち人間に、

そんな楽な生き方は与えないから…

ただ、なんというか、死んだら終わりだから、

それならいっそのこと楽しくと、

享楽に走るのも良いかと考えてもみる。

しかし、よくよく思索するに、

こうした場合は享楽でなく、哲学だな。

哲学。

例えば、

貧乏ながら楽しく生きる知恵

愛がなくたって大丈夫という孤独の哲学

人の死にも己の死にも正面から向き合える強さ

己の生い立ちの悪さ、環境をすべて許す寛容さ

そして

―生きるとは何かを悟っている―

こういう方がたまにいらっしゃいます。

いや、

世界情勢も経済も収入も、そんなのカンケーねぇー

働こうが道端で寝ていようが、そんなの気にならねぇー

はたまた、

絵を描いていればそれだけで幸せ

電車に乗っていればそれだけで幸せ

世間にはいろいろな方がいらっしゃるもんだ。

うーん、コツはね、

己のハードルを低くする?

いや、開き直る事?

この話を進めると、いつも泥沼にはまってしまいそうなので、

やはりこの辺でヤメにします。

少し分かったことがあります。

楽な人生はどのみちないってこと、

どのみち苦労はついて回るってこと。

やはりキーワードは

「ささやかな何か」なのだと思います。

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ありふれた恋

約3年前

あの砂浜に落とした

18金の涙のカタチをしたごく小さなペンダントを

最近になってやはり探しに行こうか

そんな事を考え

久しぶりに海へと出かける

その砂浜は扇形に遠くまで広がって

向こうの端が遠く霞んでいる

風の強い日だ

流れついた木の枝を適当な長さに折り

砂を突っつきながらボチボチと探し始める

うつむき加減に独り砂浜を歩く僕の姿を

他人の目にはどう映るのだろう

もうすぐクリスマスだというのに

僕に祝う相手はいない

集まる仲間はいるけれど

やはり今年は独りでいよう

コートの襟を立てても

首筋を通り過ぎる浜風の痛さが

身に沁みて

その冷たさに悔恨の念が少しづつ膨らみ

そんなペンダントはとっくのムカシに

他の誰かに拾われたか

潮がさっさと持ってったと

やはり浜風が笑いながら

そして耳元で囁くのだ

子供のようだった僕は

よく人を傷つけ

それに気づくこともなく

ただ通り過ぎてゆく人間だったのだろう

それは悪意のない分

余計に質の良くない事なのだが…

そしてそのありふれた恋も

結局相手の意を汲むことなく

僕のなかではひとつのゲームとして

それなりに楽しめたのだが

やはりゲームセットが近づくと

僕はいつもの通り

次のゲームに夢中になっていたのだから

この砂浜のなかのペンダントは

きっともうみつからないだろう

そしてこうして夕暮れまで探し続けて

夜は冷え切った躰を

どこかの店の安いコーヒーとハンバーガーで

癒やすのだろう

ひとつづつ

少しづつ

オトナになってゆく

失ってゆく

忘れがたいものに変わってゆく

年をとる

そしてどうでも良くなって

すべてを忘れて死んでゆく

夜の海の沖の遠く

黒い空と混じり合うあたりに

きらりと光る灯りが見えて

それが果てしなく遠く思うのは

思えば

あのありふれた恋のひとつと

なんら変わらない事なのに…

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記憶の風景―1969

村上龍の「69」という小説を読んでいたら、

当時の自分は何をしていたのか気になった。

「69」とは1969年の意。

かなりムカシの話だ。

私はまだ幼い中学生だったが、

1969年という年はよく覚えている。

確か大きな事柄がふたつあった。

万博、そしてベトナム戦争である。

1969年。

翌年に大阪万博を控えた日本は高度経済成長真っ盛り。

誰もが「平和」を享受していた。

日本中のみんなが大阪万博を盛り上げていた、

そんな感じだった。

翌年、大阪万博が開催され、

学年の金持ちの同級生はみんな家族と大阪へとでかけた。

貧乏な友達に悔しがる奴もいたが、

だいたいこういうものは下らないと即断した僕は、

毎日水泳部の練習に明け暮れた。

しかし、家へ帰っても誰もいない。

我が家は共働きだったので、当然お袋もいない。

いつものように即席ラーメンをふた袋分まとめて鍋にぶっ込み、

それを平らげると、居間で独り汗だくで寝た。

テレビをつけると「長崎は今日も雨だった」と

「ブルー・ライト・ヨコハマ」ばかりが流れていた。

しかし、ウンザリした覚えがない。

幾ら見ても聴いても、退屈しない。

当時のテレビの魔力は相当なものであったと思う。

その頃

海の向こうのベトナムは戦争のさなかだったが、

日本にその危機感は薄かったように思う。

グローバル以前の時代の感覚のなかで、

戦争はまだ対岸の火事のように感じられた。

その5年後、ようやくベトナム戦争が終結する。

この戦いは旧ソ連とアメリカの代理戦争であり、

ベトナムという国が割を喰ってしまう。

ベトナムは焦土と化した。

この戦争は結局、

ベトナムにとって約15年という大切な時間と、

多くの命を無残に葬っただけの、

大国のエゴの犠牲でしかなかった。

世界中で反戦運動が一気に広がったのも、

このベトナム戦争がきっかけだった。

平和な日本も例外ではなかった。

ベトナム戦争が始まった頃といえば、

私はまだ小学生だった。

授業では、この戦争の話を幾度となく教えられたが、

担任がバカで、幼ごころに下らないと、

その腹立たしさを抑えるために、

そっぽを向いて窓の外を眺めていた覚えがある。

要するにバカ担任はどっちが勝つとか負けるとか、

そんな話ばかりをしていた。

戦争の本質を何も語らない、

そこが腹立たしかったのだ。

ビートルズが「カム・トゥゲザー」をヒットさせたのが、1969年。

同じ年、ローリング・ストーンズが

「ホンキー・トンク・ウィメン」をリリース。

横浜にもフーテンと呼ばれる若い奴等がウロウロしていた。

皆ラリっているので恐かった覚えがある。

お姉さん方は皆、ミニスカートかパンタロンという出で立ちで、

街を颯爽と歩いていた。

VANに代表されるアイビールックが流行ったのも、この頃だ。

映画「イージー・ライダー」は、

病めるアメリカの一端を映し出していた。

僕の大好きだったロックグループ、C・C・Rは、

「雨を見たかい」でベトナム戦争の悲惨さを告発したと、

私は解釈している。

村上龍は「69」のなかで、

佐世保という地方都市の高校生ながら、

学校でバリケードを築いた首謀者であったことを告白している。

すでに時代の風をいち早く感じていたのだと思う。

まあ、較べるべくも無いことだが、

その頃の僕は、

横浜のどこにでもいる平凡な中学生で、

毎日が平和だと信じ、

いや何も知らぬまま、何も感じることなく、

毎日毎日泳いでいるだけだった。

しかし、1969年という年は、

何故かよく覚えているのだ。

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