さよならだけが人生だ

 

4月になって、友人がふたり逝ってしまった。

 

若い頃、同じ広告会社に同時に転職したiは、

年齢こそ私より下だが、

すでにキャリアを相当積んでいて、

後にふたりがそれぞれ独立したとき、

私はiの作品を拝借して、

プロダクションに売り込みに回ったこともあった。

これにはかなり助けられた。

ありがとう。

奴の渋谷・松濤の古いマンションの一室で、

一緒に小難しいコピーに悩んだ頃を思い出す。

よく中目黒の安い寿司屋にいったなぁ。

 

そして後、iは社員30人くらいの社長となり、

麻布十番にオフィスを置き、

時代に先駆けていち早くネットを手がけ、

業界内ではかなりの知名度だった。

 

おととし、自由が丘の酒場で

久しぶりに再会したとき、

iはすでに病に冒されていた。

そして奴は一切の抗ガン治療を拒否して、

東京の会社や自宅すべてを引き払い、

沖縄に移住した。

その直前、わざわざ私の家まで来てくれた。

 

ついこないだまで、

ずっとLINEでやりとりはしていたが、

会うのは、そのときが最期だった。

 

一緒にライターのネットワークをつくろう、

そんな話もしていたのにな…

 

安らかな死だったそうだ。

 

 

 

もうひとりは、中学からの友人で、

こちらは突然の訃報だった。

ここ数年会っていなかったので、

気にはなっていた。

 

nは、或る電子部品大手企業の

系列会社の代表をしていた。

 

元々俳優志望だった奴はかなりの男前で、

若い頃は、町で彼のことを知らない人はいなかった。

そんな男前だったけれど、役者の卵をしていたとき、

とある監督からこう言われたそうだ。

「君はね、すげぇ二枚目なんだよ。どこから見ても

誰がみてもさ。だけどそれだけなんだよな。

君ってそう見られてしまうから、この先難しいよ」と。

 

nは、役者の道を諦めて、10回くらい転職を繰り返して、

いまの会社に辿り着いたのだった。

 

19のとき、ふたりで竹芝桟橋から船に乗って、

沖縄をめざした。

沖縄が、米国から返還された翌年だった。

そこには、いまの沖縄とは全く違う、

異国の島があった。

数日後、小さな船で与論島に渡り、

島のサトウキビ畑を分け入ったら、

誰もいない白いビーチに出た。

濡れた手を砂に付けると、

星砂がいくつか混じっている。

ポンポンポンと蒸気をはいて

沖をいく古い漁船を眺めながら、

ふたり何も話さずに、ただたばこをふかしていた。

波の寄せては返す音。

サトウキビ畑から、あのザワワが聞こえていた。

 

いま思うと、あれほど贅沢な時間は、

その後そうそうなかった。

 

訃報を受け取った翌日、彼の家に電話をした。

電話の向こうの奥さんが、気丈そうな声で話してくれた。

nは、機嫌がいいときなどに、

私と行った沖縄の写真を部屋のどこからか出してきて、

それを奥さんに見せ、楽しそうに話していたと。

 

nよ、まだ話してないこと山ほどある。

悔いが残って仕方がないけれど、

本当にさよならだな…

 

 

 

iが好きだったグループ。
ふたりで仕事を放りだしてライブを観に行ったっけ…

 

nとふたりで、よくこの歌をギターで弾いた

 

安らかに眠ってください

 

合掌