東京ファッションレポート

 

諸用で久しぶりの東京。
新宿から山手線に乗る。

行き先はたった4駅先の恵比寿なのに、
このわずかな時間に新たな発見があったので、
この際共有しようと書いてみた。

まず驚いたのは、ホームで電車を待っている5人に一人ほどが、
外人さんだったこと。
欧米系の方、激増ですね。

次いで驚いたのが、皆さんのファッションの奇抜さです。

もちろん、日本の方も含めてです。

今日はここ中心に話しを進めたい。

 

●気になるファッションその1

気がつくと、座っているボクの前にヌッと立ち尽くしている人がいて、
背は180センチくらいあるかな?
骨張った顔はとても男らしく、銀髪のロングのカツラをかぶっている。
顔にわずかなファンデーションが施されていて、
がっしりとした肩幅の身体に、
スパンコールのようなワンピースをぶら下げている。
超ミニ丈。
あらわな太ももには、紫のできものがいっぱいできていて、
彼は?彼女は、まわりを気にするでもなく、
つり革につかまって、
窓の外の一点に焦点を合わせている。
その姿がなんだか凜々しいのだ。

 

●気になるファッションその2

小柄な女の子がひとり、巨大なリュックを背負い、
スマホで動画を鑑賞している。
全くサイズの合っていないブルージーンズがちょいイマドキなんだけど、
メンズのLLサイズなのかな?
如何せん、やりすぎ感が高じてズタ袋をはいている状態。
ふーせんジーンズ? で、裾はメチャひきづるくらい長いのを、
赤い洗濯バサミのようなものでテキトーに留めてあり、
一部が床に垂れて引きずっていて、ボクは「ん?」と思ったね。
こういうのってかっこいいのかな?

 

●気になるファッションその3

帰りの山手線で。
陽も落ちて窓の外にネオンが光っている。
社内は混んでいて、ボクはいったん降りて車両を移動。
ちょっと空いているドアに滑り込んだ。
ひと息ついて反対側のドアに目をやると、
全身黒ずくめの小柄な男とおぼしき人間が、
ドア横の壁にぴったりと張り付いていてピクリとも動かない。
車両が大きく揺れても、彼?は微動だにしない。
その黒ずくめは、ちょうど外国映画に出てくる
悪魔の儀式に集まる人の衣装にそっくりで、
つなぎの帽子のようなもので顔面・頭部を覆っている。
「何者だ!」とボクは心の中で叫んだね。
手には楽器ケースのようなものをぶら下げている。
仮装パーティーの帰りで、会場でクラリネットでも吹いていたのか?
(せめて着替えろよ)

 

●気になるファッションその4

その女性は欧米系で、確か渋谷で下りたような気がする。
階段を上る姿を見て驚いたのだが、
きちっとした白いジャケットの下はスパッツのみ。
それがなんというか薄すぎたため、この日本に於いては、
如何せん刺激が強すぎた。
その薄くてピンク色のスパッツ姿って、ほぼ下着だろう?
と、まわりをみても誰も驚いたりしない。

↑それが東京の流儀なのだよ、おっさん!
とまわりに諭されているようで、
返って自分の反応を恥じなければならない気分になる。

誰もまわりに無関心を装うのが東京流。

んー、なんだかよく分からないけれど、
手強いなぁ、最近の東京。

もうついて行けないし!

 

※今日の画像は失敗作ですな。チャットGPTがボクの要望を受け付けない結果がこれです。

 

寛斎さんのこと

 

山本寛斎さんが逝ってしまわれた。

オールバックのヘアスタイル。

大胆なファッションを難なく着こなす立ち姿、

笑顔を絶やさず、しかしふとした瞬間にみせる

神経質かつ気難しい表情が、格好よかった。

 

訃報に接し、或る記憶が鮮明に甦ってきた。

私は過去に一度、寛斎さんを取材したことがある。

当時、私は大手出版社の制作を専門としている

編集系の制作会社に在籍していた。

一応、前職の内容を買われての転職だった。

 

しかし、入社早々から戸惑うこととなる。

まず、大手出版社のやり方がさっぱり分からない。

そして、社内の人間さえ把握していない時期に、

いきなりディレクターとしての活躍を期待されてしまった。

一応、部下と呼べる人が4人ばかりいたが、

彼らのほうが数段レベルが高いと思われた。

 

私の担当は、或る出版社が企画している、

科学から文化など多岐に渡る分野の近未来の

ビジュアル事典なるものの巻頭の特集ページだった。

 

しかし、そのころ私自身悩みを抱えていて、

こうした世界にいること自体に疑問を抱いていた。

不安定な収入、家へ帰れないほどの仕事量、

〆切に追い立てられる日々。

この世界は、どこも同じような職場環境だった。

 

当時は、飲食業とかトラックの運転手とか、

学生時代に慣れ親しんだ仕事でもしようか、

と内心では転職を考えていた。

要するに、全く違う業界へ救いを抱いていた。

さらに、奥さんが最初の子を身ごもっていたので、

そちらへも気が散っていたのかも知れない。

 

しかし、とりあえずは働かなくては食べていけない。

そして目の前にある仕事に飛びついてしまったのだが、

こうした業界には、すでに幻滅を感じていた。

 

よって、毎日が激務なのに気はノラない、

すべてがうわの空なのに、

日に日に責任が覆いかぶさってくる。

〆切のページ項目がみるみる増えるなど、

猛烈なストレスの日々だった。

 

或る日、出版社の局長がぷらっと訪ねてきて、

「未来のファッション」を企画している旨を、

私たちの前でボソボソと話し始めた。

そしてこの人が、「寛斎さんはどうですかね」

と、なぜか私に話を振ってきた。

「いいんじゃないでしょうか」と

適当に答えた。

すると局長が、

「だよね、では君がすべての段取りつけて

本人のインタビューをとってきてください。

予算は大丈夫ですよ」と

あっけなく話がまとまってしまった。

後日談では、寛斎さんの件は

すでに決定していたとのことだった。

私はのせられた、試されたようなのだ。

それが何の為だかは、

いまだに謎ではあるのだが。

 

単独取材は、表参道にある寛斎さんの事務所で行われた。

そのビルの最上階にある真っ白い一室は、

防音が施されていると思えるような、

おそろしいほど静かな部屋だった。

 

私は寛斎さんとふたり、

白い机を挟んで向き合っていた。

 

寛斎さんはとても礼儀正しい方だった。

幼年時代の苦労した話は知っていたが、

そこは避けることにした。

寛斎さんの話している仕草や内容から、

異常とも思える忙しさが伝わってくる。

なのに快活でエネルギッシュな生き方が、

それを上回っていた。

「元気」「ゲンキ」をコンセプトとした、

ファッションという枠に捕らわれない、

複合的なイベントのことを盛んに話された。

 

私はとにかく終始気後れしていた。

なのに無謀にも、ノートとペンのみで取材に臨んでいた。

テープレコーダーの持参も頭に浮かんではいたが、

当時はメモの取れない奴が録音をあてにする、

などの風潮もあってか、メモのみとした。

 

さらに、肝心の下調べと質問事項などの

下準備を怠っていたのだ。

時間は刻々と過ぎてゆく。

世間話ばかりしていてもたいした材料にはならない。

 

事前の準備を怠っていたのは、

他の作業がすでにもうどうにもならないほど日程が遅れていて、

そちらの火消しをしているうちに、

気づいたら取材前日の夜になっていて、

まあ、半ばやけくそな気にもなっていたことだった。

 

取材が終わると、寛斎さんが

何か物足りないというような表情をみせた。

それは不審を覚えたような目でもあった。

私は当然と思った。

 

赤坂への帰りの地下鉄にへたり込み、

私は憂鬱かつ脱力した心持ちで、

車輪が発する騒音さえ遠くに聞こえるほど、

放心していた。

社に帰ってメモを見返すと、

とてもいい記事になるとは思えない、

どうでもいい走り書きばかりが目についた。

当たり前のことだった。

 

そして、とてもまずい事態がそのあと次々に起こる。

私の書いた原稿が突っ返される日々が続いた。

これは私も承知していた。

というより、書いた本人が一番分かっているように、

とても世間に発表できるほどの内容ではなかった。

それでも記事を書き直す日々は続いた。

それはとてもキツい毎日だった。

 

要するに、取材失敗である。

さらに善後策が皆無であり、

無策の私は、社内で全く身動きがとれなくなっていた。

いっそ逃げることも考えたが、

それではどうにも納得がゆかない。

後々、自分が許せなくなるだろう。

 

そうした状況が2週間も続いた或る日、

途方に暮れている私のところへ、

社内の編集者やライターなどを取りまとめている、

Aさんが近づいてきた。

この人がどういう人なのか、

私は話したこともなく、よく知らなかった。

 

Aさんはとても落ち着いた声で

「話は聞いています」

と切り出した。

「ご迷惑をおかけしています」

私は他に言葉がみつからなかった。

そしてこの人は余裕があるのか、

笑みさえ浮かべて

「事情をききましょうか?」

と少し身をかがめてきた。

私は、自分の仕出かしたことが、

まわりに多大な悪影響を及ぼしていること、

時間もチャンスも

すべて取り返しのつかないところまできていること、

そして事前準備を怠ったいきさつなどを、

包み隠さず話した。

 

彼は、かなりながい時間、

オフィスの天井あたりをじっと眺めていた。

そしてこう言った。

「そのメモを私にみせてください。あとは

あなたからみた寛斎さんの印象を私に教えてください。

そしてですね、後から調べた寛斎さんに関するもの

すべてを私に提出してくれませんか」

「はい…」

そしてこう言ったのだ。

「私は寛斎さんに関してはかなりの情報をもっているので、

後は私が何とかしましょう」

 

胸につかえていた苦しいものが、

ポトっと取れた気がした。

 

後で聞いたのだが、

Aさんは制作会社の社長に頼まれて、

出向で社内を統括している方らしく、

元大手出版社の優秀な社員であり、

企画、編集、執筆、さらには対外の折衝もこなし、

創作の世界においても

かなり名の知れた人とのことだった。

 

私は、このプロジェクトが終わると同時に、

この会社を辞めた。

なのに飲食をやることもなく、

トラック・ドライバーに戻ることもなく、

さらに制作会社を転々とした。

 

いま思い返してみても、

その転職理由はただただ悔しかったのだろうと、

自分では推測している。

そしてこの業界から逃げることは、

自分の性格からして、

後々後悔することは目にみえていた。

それより自分が巻き起こしたトラブルを

難なく解決してくれたあの人のようになりたい、

とも考えるようになっていた。

 

後、私は広告業界に転職したが、

スタンスの違いこそあれ、

感覚的にいえば前職となんら変わりはないと感じた。

 

その転職した広告会社は表参道にあった。

そしてそのビルが、偶然というべきか、

寛斎さんの会社が入っているビルだったことに、

私は心底に驚いてしまった。

 

(寛斎さんのご冥福をお祈りいたします)