青のモラトリアム(ショートストーリー)

 

 

この先、自分はこのままでいいのか?

いったい何が正解なんだろう。

 

もうすぐ20歳になろうとする悟は、

最近、よく自問自答するようになっていた。

 

冷凍食品を小型の保冷車に積んで、

市内の肉屋やスーパーに配送するのが

いまの悟の仕事だが、

悟のルートセールスという仕事は、

配送だけでなく、

卸した先との価格の取り決めや

新製品の説明もしなくてはならない。

 

会社へ戻ると、出納伝票への記入や、

売り上げ報告書の作成、

そして防寒服を着て-35℃の冷凍庫に入って、

在庫の確認などもする。

 

帰りはいつも夜の9時をまわっている。

 

毎日同じ客筋を延々と繰り返してまわっても、

なにひとつ手応えを感じなかった。

カチカチに凍ったコロッケとか海老の箱詰めを、

肉屋やスーパーへ届けていると、

何かが違うのではないかと最近思うようになった。

 

しかし、いまの仕事は、

高校を卒業して最初に就いたバーテンダーよりマシだと、

悟は思っていた。

 

酔っ払いの相手はいい加減にバカ臭いと思ったからだ。

昼夜逆転の生活も、悟に暗い将来の暗示と映った。

 

関東一円にコーヒー豆を運ぶトラックの運転手もやってみたが、

夏の暑い日に延々と田園が続くアスファルトの道を走っていると、

このまま海へ続けばいいなと、よく思った。

 

支払いも日雇いと同じで、日給月給だった。

人生で初の正社員として採用してくれたのが、

いま働いている冷凍食品の会社だったが、

悟の自問自答は日増しに膨れあがり、

もう避けて通れない難問となって立ちはだかっていた。

 

よくよく考えると、

この問題は高校時代まで遡ることに気がついた。

 

悟の進んだ高校は私学で、

入学してから分かったことだが、

すべてにおいてスパルタ方式が徹底していて、

なにごとにおいても個人の自由は削がれていた。

 

そうした情報を知るすべを、

当時の悟には知るよしもなかった。

 

校内では、竹刀を手にした体育会系の教師がうろつき、

ちょっと気に入らない態度の生徒をみつけては

規律を乱すとの理由で容赦なく叩いていた。

 

悟は、いい加減にこの高校に息苦しさを覚え、

2度ほど本気で辞めようと思った。

しかし、もう少し続けてみようと思ったのは唯一、

担任の先生との関係だった。

 

その先生が、

何度も悟を説得してくれたのだ。

「悟、もう少し頑張ってみようよ」

「悟、人間には我慢しなくてはならない

ときというものがあるんだ。

それは後になって気づくことだけどな」

 

けっきょく悟は退学届けは出さなかった。

けれど、無断で高校を何日も休んでいた。

 

悟の行為は学内でいろいろと問題視された。

悟は退学処分になっても仕方がないと、

捨て鉢な態度に徹していた。

 

が、この担任の先生の計らいで、

悟は難を切り抜けることができた。

 

その私学は大学の付属校だったが、

悟はその大学に対しても、

すでに勝手に失望していた。

 

学校へ行かない日は、家へは帰らず、

地元の配管工をしている友人の家で、

寝泊まりを繰り返した。

 

昼間はそのアパートで、

よくフォークソングを聴いて過ごした。

 

その友人はいつも井上陽水を聴いていた。

彼はそればかり聴いていた。

 

が、「氷の世界」は悟には辛すぎるうたに聞こえた。

 

平日は、友人が「今日はおまえの番だぜ」と、

笑って仕事に出かける。

 

悟は家からもってきた吉田拓郎のアルバムを、

幾度となく繰り返し、聴く。

 

「人間なんて」という歌が、

当時の最新式のステレオから流れると、

悟は心底その歌詞に共感した。

そして、陽水より実はこちらのうたのほうが

かなり悲しいうたなんだと、ある日気づいた。

 

♪人間なんてララララララララ

人間なんてララララララララ

何かが欲しいいおいら

それが何だか分からない♪

 

 

そんな悶々とした日が続き、

悟はけっきょく何の結論も出ないまま、

高校はなんとか卒業する。

 

トコロテン式に入学できる大学への進学は、

早々に辞退していた。

 

悟以外は、クラスの全員がその大学へ進学した。

 

こうして、

高校時代から悟の軸は少しづつズレが生じ、

荒れた生活へと傾いた。

そして、

地元の遊び仲間たちとの行動が、

いろいろな歪みを生むこととなる。

 

警察の世話になるようなことも、

一度や二度では済まなくなっていた。

 

冷凍食品の配送をしながら、

しぜんに芽生えてしまった自問自答の原因は、

こうしたズレの集積であることに、

悟自身はようやく辿り着いた。

 

悟は考えた末、

この冷凍食品の会社に辞表を出すことにした。

 

突然の辞表に驚いた所長は視線を天井に向け、

「お前は一体何を考えているのか?」と繰り返した。

 

「いまはまだ分かりません」

 

所長は「後悔するぞ」と先を見通せるかのように、念を押した。

 

会社を辞めた悟は、

中学校時代に親しくしていた友人を、

久しぶりに訪ねた。

しばらく会っていなかった友人は、

大学の法学部で、

法律の勉強にいそしんでいた。

 

彼と懐かしい話をするうちに、

突然、悟は思い詰めたように、

或る想いをその友人に話した。

 

「俺さ、なんだか分からないけど、

いまの自分が自分でないようで、

いたたまれないんだ。

本当は何かをつくる仕事がしたい気がして。

たとえば、新聞とか雑誌とか…

そういうものに携わりたいんだ。

才能はないと思う。

だけど、ただやりたいなって…」

 

「………」

 

悟はさらに胸の内を話した。

 

「いや違う。

いまの俺が欲しいのは時間なのかも知れない。

そしてもう一度やり直したい」

 

友人は咳払いをひとつした後、

「いずれにしても、何かをめざすのであれば

まず大学を出ておいたほうが良いんじゃないか?、

世間ではいろいろ格好いいことを言うのがいるけれど、

現実は全く違うよ」

と話してくれた。

 

悟の最も嫌いな学歴ということばが、

やはり現実の世界では、いぜん幅を利かせている。

そして友人は、「モラトリアム」という言葉の意味を、

悟に教えてくれた。

 

モラトリアムは法律でも使われるようだが、

直訳すれば執行猶予という意だった。

 

要するに、

人生におけるやり直しの時間を手に入れる…

 

悟はそう理解した。

 

そして大学受験のために必要な願書というものも

偏差値も赤本も、さらに、

中学からの勉強のやり直しが最も有効だということも、

その友人が教えてくれた。

 

街に秋の気配が広がるころ、

悟は家にこもって勉強をスタートさせた。

 

遊び仲間は、悟の付き合いの悪さを、

みんなで酒の肴にしていた。

両親も悟の行動をいぶかしがったが、

特にそのことに触れることもせず、

生活費をよこせとだけ小言を繰り返した。

 

試験は、年明けの2月14日。

友人もときどき徹夜で応援してくれた。

正月の元旦を除いて、

悟は受験勉強に集中した。

 

こうして1974年の春、

悟はモラトリアムを手に入れた。

 

「この時間はとても大切なものだ」と、

悟は幾度となく胸の内で繰り返した。

 

けっきょく、悟はこの社会にひとつ迎合した。

それは学歴という何の中身もないのにのさばっている代物に、

手を出したこと。

さらにクルマの借金は相変わらず続く。

学費も稼がなくてはならない…

 

が、悟は自らの人生を再起動させた。

 

事態は決して良い方に100%傾いたとは言い難い。

 

とりあえず執行猶予期間を手に入れたことで、

悟は自らの羅針盤をつくり直す作業に取りかかった。