―旅するように生きる―
こうした生き方をする人を
ライフトラベラーと呼ぶらしい。
ちょっと難しい。
具体的に書いてゆく。
●心の旅
これは例えば机上でもできるから、
物理的移動はないにしても、
もはや精神はそこにはないかも知れない。
心は、旅に出かけているので。
遙か宇宙にいるのかも知れないし、
アフリカ沿岸の深海に潜って、
シーラカンスでも眺めているのかも知れない。
いや、ひょっとすると未来人と交信中かも…
心の旅はまた、
毎日の何気ない生活の中でも続けられている。
●日々の旅
常に動いている心という無形のいきもの。
刻一刻と移りゆくのでなかなか休む暇もない。
唯一、夢さえみない夜に眠りにつく。
そして日々、旅は続く。
見る、聴く、話す、そして何かを感ずると、
心が動く。
それが嬉しいことだろうと辛いことだろうと、
美しいものだろうと醜いものだろうとも。
そんなことを繰り返し、ときは流れ、
心は時間の経過とともに旅を続ける。
●先人の旅
私たちの知る、
「旅」のプロフェッショナルを思い浮かべると、
古くは芭蕉や山頭火あたりだろうか。
―月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿―
と芭蕉は詠んだ。
山頭火は、
―けふもいちにち風を歩いてきた―
と詠んだ。
感じるものが尋常でないので、
やはり熟練した旅人のような気がする。
海外では、詩人・ランボーも旅にはまっていた。
ヨーロッパ中を放浪し、
道中では商売に精を出したり、
旅芸人一座と寝食を共にしていたともいう。
人は旅に憧れを抱く。
旅はなぜか万人を魅了する。
●ヒッピーの旅
ところは1960年代後半のアメリカでの旅の話。
この頃、ベトナム戦争の痛手から、
ヒッピーが大量に発生した。
彼らはそもそも目の前の現実に嫌気が差していた。
それは当然、戦争であり、
戦争が起きれば兵役の義務が生じ、
若者は銃を担いで海を渡り、
そこでは見知らぬ兵士を殺し、
または自分が殺されるという悲劇しか待っていない。
彼らは、巨大な体制と戦うことを諦めたようにみえる。
が、彼らがつくりだした「反戦」のムーブメントは、
世界に拡散されることとなる。
そして彼らは、仏教的東洋思想に惹かれる。
それはキリスト教的な神と悪魔、天国と地獄、
一神教という「絶対」ではなく、
東洋の多神・寛容という宗教的な思想に、
心のやすらぎを感じたに違いない。
時系列に自信がないのだが、
ビートルズのジョン・レノンが、
まずインド巡礼へと旅立ったのではなかったかと
記憶している。
ヒッピーがその後に続く。(いや、その逆もありえるけれど)
仏教が捉える世界観は宇宙をも内包する。
(それは曼荼羅図をみれば一目瞭然だ)
少なくとも西洋にはない東洋の、
静けさの漂う宗教観に、
彼らは傾倒したのだろう。
ヒッピーの信条は、自然回帰と愛と平和。
それは彼らの新たな旅の始まりだった。
旅の常備品はマリファナやLSDである。
マリファナやLSDをやることを「トリップ」とも言う。
彼らは逃避的な旅を模索していたのだろう。
これも一種のライフトラベラーだ。
●同時代の旅人たち
そもそも私たちが旅に憧れるのは何故なのだろう。
例え「旅行」などという非日常性などなくても、
私たちは常に旅を続けていると考えると、
人といういきものの不思議にたどり着いてしまう。
私たちは物質的な意味合いだけでなく、
この心身のどこかの片隅に、
あらかじめ組み込まれた、
「旅のプログラム」などというものがあるから、
なのだろうか?
誰も皆、立ち止まることなく旅をする。
私たちは皆、同時代を生きる旅人である。
そこにどんな繋がりがあるのか
検証する術(すべ)などないけれど、
せめて行き交う人に「良い旅を」と伝えたい。
そして、
この世を通り過ぎるのもまた、
旅と思うと、
少しは心が軽くなる。