フェイク旅行記

 

遠いむかしだが、

私は出版社で編集者として働いていた。

それ以前はちょっと気張っていて

独立してノンフィクションの分野をめざそうと、

ルポルタージュの教室へ通ったこともあった。

 

が、これはやめることにした。

己の力量がないことが徐々に判明したからだ。

で、早々に進路を変更し、

まずは無難な出版社に潜り込むことにした。

 

出版社といってもいろいろある。

総合出版社は別として、

各社には得意分野というものがある。

また、硬派、軟派系でも分類できる。

 

私の場合はたまたま趣味・娯楽系で、

当然、硬派であるハズもなく、

取り扱う内容も肩の凝らないものが多かった。

 

だからといって楽な仕事である訳ではない。

この業界の仕事はかなりどこもハードである。

いずれ、例外というものはなかった。

 

さて、私がその出版社で働くようになって、

想定外のことが次々に起こった。

まだ新人だった私への指令というか命令というか、

その一連の内容がいちいち無理難題なものばかりで、

理不尽さを感じた。

 

たとえば、こんなことがあった。

夜の10時頃になって、

やれやれと帰宅しようとすると、

「明日の朝までに××の取材予定の現地が

撮影に適しているか、これから行ってみてこい」

 

また、こんなこともよくあった。

印刷前の校正の大詰めの時期に、

或る事情から記事の差し替えとなり、

徹夜で新しい記事を書いたり写真を探したり…

 

毎日が予測不能の連続。

 

あるときは、評論家さんの原稿が届かず、

雑誌2ページ分の穴がぽっかりとあいてしまった。

これは嫌な予感がした。

私はデスクに座っていてその事情を知り、

下を向いて調べものをしているフリをしていると、

「おっ○○君、ちょっと!」と呼ばれたので、

これはまずいと思った。

「はい」とこたえて部長に顔を向けると、

「お前さ、いまから八重洲に行って、

世界中の観光局まわってね、

ここいいなぁっていうとこ決めて記事書け」

「はぁ」

 

私はうんざりとして山の手線に乗り、

当時は八重洲にあった世界各国の観光局に出向き、

観光パンフレットを山ほど集めた。

そして八重洲の地下街の喫茶店でぐったりしながら、

各国のパンフを猛烈なスピードで目を通した。

 

会社に戻ると部長が獲物を捕らえたように、

ニコニコしているではないか。

「○○君、ただの観光ガイドじゃ駄目だぞ。

本当に行ってきたような記事にしろ。

体験記だよ。分かる?

要するにリアリティだよリアリティ!

面白くな、頼むよ」

 

「旅行記ですか?」

 

「そう、決まっているだろ。

単なる観光案内じゃつまらんしな」

「………」

 

結局、私が書いたフェイク紀行文は、

ギリシャのミコノス島だった。

私はミコノス島なんて、

当然行ったこともみたことさえない。

ただ、パンフレットに載っていた

青い海と島の白い建物の写真が

とても美しかったからなのだが。

 

そのフェイク紀行文は2時間でできあがった。

が、どこか嘘くさい。なにかが不足している。

それは自分がフェイクと知っているからなのか、

客観的に読んでも嘘くさいのか、

そこが判然としなかった。

 

そこで、近くにいた出来る先輩に

その原稿を読んでもらうことにした。

先輩が難しい顔をして、

そして「ふむ」と呟いた。

で私にこう告げたのだ。

「これ、嘘くせぇな、

現地へ行って書いていないのがバレバレだぞ」

先輩の目が意地悪く笑っていた。

 

結局、締め切りの時間は刻々と迫り、

その記事は多少の手直しで掲載されてしまった。

 

一応ではあるが、

高潔な夢を抱いてこの世界に入った若者(私)は、

こうしてフェイク記事に手を染めてしまった訳だ。

 

私は次第にこうした世界に、

私のような奴がごまんといるような気がしてきた。

それはこの業界に長居しているうちに、

徐々に分かってきたことだが。

 

悪意という点に於いて、

政治・経済系のフェイク記事は、

より多くの読者をあらぬ方向へと導いてしまう。

偉そうなことを言える身ではないが、

真実を伝えるのはそれ相当の努力と覚悟がいると悟ったのは、

その頃からだった。

 

後、ことの大小はあるにせよ、

数々のフェイクを経験した私は、

広告業界へと進路を変更した。

 

この頃、ノンフィクションは当然ながら諦めていた。

不誠実な自分にはとても務まりそうもない分野だと

十分思い知ったからだ。

 

そして自分の素養が「つくりごと」に向いている、

そんなことに気づいたのもこの頃だった。

広告がそのひとつのような気がした。

 

広告というのは、まず「これは広告です」と宣言する。

ニュース記事などとは違いますと読者に分かるような扱いにする。

そして広告なのだから、

「内容はとうぜん広告主の我田引水ばかりですよ」と謳う。

事前にこれだけでも伝えることで、

以前の私のフェイクよりは罪が軽減される。

そう思ったからだ。

 

そして、この広告の世界で心底思い知らされたのは、

今度は皮肉なことに、つくりごとの難しさだった。

広告の制作過程は星の数ほどあるけれど、

結局ハイレベルなつくりごとを競う場である。

広告作品の出来不出来、評判というのは、

ひとことではあらわせない複雑さが関与するが、

それが広告におけるつくりごとの難しさだった。

 

広告業界の誰もが日々悩んでいるのは、

結局つくりごとのレベルであり、

狙いどころであり、

時代性なのではあるまいか。

端的にクリエイティブの差とは、

そういう諸々の要素が複雑に絡んだ結果、

なのかも知れない。

 

出版と広告は、とても近いようにみえるが、

実はまるで内容そのものが違う。

それはカワウソとイタチの違いを、

遠目で見分けるような難しさに似ている。

 

 

或る編集者の記録

その、気になる文庫本は、ビレバンの棚で寝ていた。

買い主を探す気もないように見えた。

タイトルは「編集者の時代」。マガジンハウス編となっている。

サブタイトルは、―雑誌づくりはスポーツだ―

良いタイトルだなと思い、私が強引に起こし、レジへ。

アマゾンでも見落としていたような本が、

街の本屋でみつかったときは嬉しい。

本屋にないものがアマゾンでみつかることもあるが、

これはそれほどの感激はない。

あったな、というだけ。

私たちは、買うスタイルを使い分けている。

売り手さんは上手く共存してください―

これが本屋さんに対する私の理想だ。

で、この本のまえがきを読むと、

「ポパイ」という雑誌が1976年に創刊されたことが分かる。

計算すると、私はまだ学生だった。

ポパイは、よくカタログ雑誌と評された。

アメリカの西海岸やハワイのライフスタイルを手本に、

そこで活躍しているモノを通して、これらを日本に紹介する、

当時としてはある意味画期的な雑誌だった。

この頃、私のまわりは皆、

ポパイファッションになっていた。

もっと遡ると、

お兄さんやお姉さん方はすでに平凡パンチの影響を受け、

アイビールックで街を闊歩していた時期があった。

あれもこれも、上記の本の編集者たちが仕掛けたものだ。

社名を平凡出版からマガジンハウスと変えてからも、

そのパワーは持続していた。

世の中のファッションやライフスタイルを変えるほどの影響力を、

彼らはもっていた訳だ。

なかでも、注目される編集者が木滑良久という人。

かなりの有名人で、

一時はテレビにも頻繁に出ていた。

彼が、これらの企画の元をつくった人と言われている。

彼の素材モチーフは、アメリカにあった。

現代に置き換えると、

私たちの知らないアメリカのオシャレなファッションや雑貨、

ライフスタイルなどをいち早く日本に紹介する、

ファウンダーというところか?

後年、私も雑誌編集者となったが、

この本に書かれているように、世の中の風向きを変える、

という華々しい経験は皆無。

マイナー誌だったので、だいたいが後追い状態。

これらの雑誌類とは編集方針が違うといえば聞こえは良いが、

金がない、人が足りない…いや、企画力と情報収集力、

更に編集力がなかったと言ったほうが正確だろう。

「編集者の時代」は、

ポパイの或る時期の編集後記を書き連ねただけのものだ。

しかし、年代と記事の中身を読みあわせると、

不思議なほど、その時代の空気が再現されている。

サーフィン、スケボー、ウォークマンスタイル、ラコステのボロ、

スタジャン…。これらの流行に加速をつけたのもポパイだ。

それは羨ましくもあり、読み進める程に、

ひとつの時代を築いた自負が感じられる。

(このグループが後に女性誌「オリーブ」を創刊する)

1977年8月10日の編集後記は、

ジョギングについて書かれている。

まず、ニューヨークのセントラルパークや、

ロスのサンタモニカのジョギング風景が紹介され、

それは都市のライフスタイルとしてカッコイイんじゃないか、と。

そして、海の向こうの彼らは、

生活のなかに自然にスポーツを採り入れているよと…

何気に日本の空気を変えようとしている。

翌月はこうだ。

「ポパイは理屈が大嫌い」

70年安保を経て、日本には、依然アカデミックの風が闊歩していた。

この時代の主役雑誌は、言わずと知れた朝日ジャーナル。

とにかく、政治を語れない奴は生きている資格なし、

のような時代もあった。

しかし、これに対するアンチテーゼが、

平凡出版の「平凡パンチ」であり、

その軽さを継いだのがポパイのような気がする。

新しい時代の訪れだった。

ポパイの他、ブルータス、オリーブ、

本の雑誌、広告批評、NAVI、ミスターバイク、ビーパル等、

創刊ラッシュが起きる。

景気は更に上向き、

雑誌編集者もエンターティナーとなってゆく。

前述した木滑良久がテレビに出ていたのも、

こうした背景からだろう。

他、嵐山光三郎さんや、先に紹介した「本の雑誌」の

椎名誠さんらが加わる。

「編集者の時代」のあとがきは、

後藤健夫さんというポパイの創刊メンバーの方が書かれている。

それによると、

木滑良久さんの口癖は「男は少年の心を忘れてはいけない」

だったそうである。

更に、海の向こうの「エスクァイア」の創刊編集長であった、

アーノルド・ギングリッチの言葉として、

「雑誌づくりは青年の夢だ」を引用している。

一時代を牽引したポパイは、いまも刊行されているし、

ブルータスと共に、またまた息を吹き返しているようにみえる。

一見、なんの主張もないような雑誌とみる向きもあるが、

作り手には、実に熱いものが流れているのが分かる。

雑誌とか本づくりとは、本当はこのようなものなのかも知れない。

つくっている本人が面白くない本など、なんの価値もない。

この本を読んでいて、

なんだか私も再び雑誌をつくりたいと思うようになった。

ネットに較べて、予算、人員の割き方も去ることながら、

その投資しただけの企画とこだわり、

そして直しの利かない真剣さを求められるが、

それだけの価値が、この仕事にはある。

エキサイティング・マーケット

関東圏の或る都市のファッションビルデパートから、

代理店経由でプロモーションを依頼されたことがある。

施設としての規模は小振りで、若者志向のテナントが多く、

来店者数が落ちているとのこと。

早速現地にでかけてみた。

事前に、この地域の人口と構成比、人の流れ、施設、

競合他店やその傾向、地域性などを調べた。

また、過去の広告類も見せてもらい、予備知識を蓄積した。

現地で地図を広げると、駅からかなり遠い。

さらに、メイン道路から少し引っ込んでおり、

道路づけも良くない。

要は、入り口付近に広がりがないように思えた。

更に、各階のフロアを歩いてみると、各テナントの殺風景さが目立った。

これは、ディスプレイの問題の他、

広々とした通路が逆に仇となっていた。

売られている商品の品質やトレンド性、プライス等もチェック。

館長さんや各店長さんにヒヤリングを開始する。

いろいろと聞くと、どうもこのデパートに蔓延しているものが、

「諦め」という空気だった。

諸条件の悪さはあるが、オープン時は良かったという。

広告もかなり打ったらしい。

その後、徐々に売り上げを落とし、

幾つかのプロモーションを仕掛けたが、

なにをやっても駄目ということで、

館内に「諦め」ムードが広がっていた。

オープン当時からの広告を更に細かくチェックすると、

ずっと新規オープンを謳っている。

時間の経過とともになにを語るでもなく、

このデパートは、ずっと新しさで推していた。

後に残るウリは、どこを見ても、やはり値段の安さのみだった。

事前に分かってはいたが、これはひどいなと私は思った。

どこの広告会社が手がけたのかを事前に聞かなかった私は、

そのとき初めて東京の某大手広告代理店の仕事と聞いて驚いた。

季節やシーズン、いろいろな節目のなかで広告は打たれるが、

館内のポスターやサイン、まかれたチラシ、

外にかけられた懸垂幕を見ても、

問題はそれ以前と判断し、店長会を呼びかけることにした。

私が企画したテーマは、当然のように、にぎわい、だった。

それを「エキサイティング・マーケット」と名付けた。

アタマのなかで、アジアの活気溢れる露天をイメージした。

店長会の会場で、

リニューアル・コンセプトを私は熱く語った。

その具体案として、通路に並べるよりどりの商品や陳列のノウハウ、

時代の先端をゆくその店の服装や小物を身につけることの徹底、

そして館内の全員には「笑顔」をお願いした。

このとき、私もちょっとヒートアップしてしまい、

店長さんたちの反応も考えず、

その企画内容がホントに伝わったのかどうか、

後日心配になってしまった。

広告関係もこのノリを踏襲して制作し、

私としてはかなりの手応えを予想していた。

リニューアルオープン前に、

確認のため、もう一度現地で店長会を開いた。

そこで、再度、当然のように私の企画意図を話すと、

数人から手が挙がった。

彼らからの質問は、おおむねこういうものだった。

「アジアに行ったことがないので、どうも分からない。

イメージできない」

それを聞いて、ええっと私はのけぞってしまった。

言い遅れたが、この話はいまから20年くらい前の話である。

ネット以前だが、

みな情報はもっていると私が勝手に思っていた。

その会場で、私はアジアの市場について、

その様子を細かく語ったが、

いくら話してもピンとくる人は少ないように思われた。

で、その夜は徹夜で各店舗を見て回り、

一店一店アドバイスして回ることとなった。

数日後のオープンは、上々の入りだった。

売り上げも伸びた。

私は一応安堵したが、

これはなにかが欠けていると思った。

長続きはしない予感があった。

それは、館長から聞いた財務面の憂鬱な話と、

各店舗の従業員のモチベーションの問題だった。

後日聞いた話だが、

私の考えた店舗づくりのせいで従業員の手間と作業が増え、

店長さんが数人、店員さんから吊し上げをくったと言う。

「やってられない」という嫌な声も耳に入った。

財務面の心配も、現実のものとなった。

結局、後にこのデパートは人手に渡り、

安売りの大型スーパーになってしまったのだ。

去年、旅行の帰りにここに立ち寄ったが、

見る影もないほど閑散とした疲れたビルが

そこにひっそりと建っていた。

結局、この仕事に次はなかった。

私は、中途半端な気分になった。

このやるせなさは、後も引きづった。

しかし、後年、あるテレビで、

とても人気のあるお店の特集をしていて、

そのひとつが、当時、急伸していたドン・キホーテだった。

中年になった私は、店内の映像を見て驚いた。

以前、あのデパートで展開しようとしていたビジュアルが

再現されていたのだ。

あの猥雑さ、あの賑わい。

ああっと、私は溜息をついた。

そして、思った。

時代の読みの難しさというもの。

とにかく、これが身に染みた。