さあ、出かけよう! (旅の考察)

 

旅行する機会が減りましたね。

不満が溜まります。

皆そう言う。

ボクもそう思う。

 

人にとって、

旅行は欠かせないものである。

なぜなら、旅行で得られる非日常感が、

日頃のマンネリから解放してくれるからである。

 

という訳で、人には時おりでも非日常がないと、

どうもうんざりしてしまうイキモノらしい。

だから、移動というイベントをやめないのだ。

 

以前、本屋でこんなタイトルの本を目にした。

「旅するように生きる」(作者は不明)

なんか格好いいんですよ、題名がね。

で中身はというと、これが分からない。

なんせ買ってないから。

 

本の帯にはこんなニュアンスのコピーが書いてあった。

―幸せに生きる極意が満載!!―

こういう売り文句に弱いんですが、

この手の本ってだいたい内容が薄くて、

ペラペラなものが多い。

で買わなかった。

けれど、いまさら気になるな。

 

とここで気づいた方もいると思うけれど、

話は旅行ではなく「旅」に移行している。

微妙にスライドしている訳です。

 

旅行も旅も同じじゃねぇ!

との声も聞こえますが、

どうもこの両者には、

いろいろと違いがあるらしいのだ。

 

端的な違いとして、

「旅行」はまず目的地があって、

そこで楽しむのが主であり、

日常を離れて新たなものに触れたりするもの等、

予定調和的なものであるらしい。

対して「旅」は自分でつくるもので、

不確定要素を多分に含み、

その道程に於いて自己を高め、

冒険的要素もある、ということらしい。

 

らしいとは他人事のような書き方だが、

調べると概ねそんなニュアンスなのだ。

 

海の向こうでは、

旅行のことを「トリップ」とか「トラベル」と訳し、

旅を「ジャーニィー」と訳しているんだそうな。

その違いだが、「トリップ」とか「トラベル」は、

比較的短期間で目的のある旅行、

対して「ジャーニィー」は目的までのプロセスを重視し、

そこでの体験から得られるものがある、

または自己成長があるもの、となる。

 

まあ、旅行は自己を解放して楽しむ、

旅は、困難を通して自己を高める、

そんな違いがあるのではなかろうか。

 

旅の話は続く。

 

旅というものを時間軸で捉えると、

私たちは絶えず「時」を移動している「旅人」とも言える。

 

人はひとときも欠かさず、時間の旅を続けている。

そういう意味に於いては、

私たちの人生そのものが、

「旅」なのだとも言えてしまう。

 

こう考えると、

人にとって「旅」は意味深である。

 

時間の旅人か…

 

たとえば仏教に由来する教えに、

「旅」とは、あの世からのきた人が

この世を旅することであり、

この世の生きる姿は

通りすがりの旅人の姿、

ということになるらしい。

 

これはボクが要約したので、

多々間違いがあるような気もするけれど…

 

その旅についてさらに考察すると、

人はいったい次元の異なる旅をするものなのか、

旅の最終は宇宙の果てなのかとか、

興味は果てしなく尽きることがない。

まあ、いくら頭を捻ったところで、

どうにもならないけれどね。

 

さて、冒頭の旅行の話から始まって、

かなりぶっ飛んでしまいました。

けれど、さらに旅の話の続きを、

もう少しだけ。

 

私たちはいわば、

同時代を生きている旅人であるということ。

同時代に生きている関係性って、

なんだか感動しませんか?

それは偶然ではなく、

ボクは必然のような気がしてならない。

 

(「旅人」であるボクたち私たちのどこかに、

潜在的に組み込まれた旅のプログラムがある…)

 

私たちはみな、ライフトラベラーであり、

同じツアーの同伴者なのだ。

さてこのひとときも、旅の途中。

 

おおいに楽しもうではないか。