さきごろ読み終えたスティーヴン・キングの「シャイニング」は、
タイトルを直訳すれば光るとか輝くとかそんな意だが、
人の心のなかにそんなものがあったとしたら…
それが霊力とかスピリチュアルとか呼ばれるものなのかどうかは不明だが、
まず彼はそうしたものをよく書く作家ではある。
「シャイニング」は上・下巻の結構ぶ厚い長編で、
内容はいわば幽霊屋敷もの、と呼ばれているものだ。
そうしたジャンルの話だけあって、
上巻はその怖さを演出するための舞台装置が完璧に準備され、
続く後半は、ジェットコースターのような圧倒的な恐怖の連続となる。
なので取り掛かるには、それなりの覚悟が必要となる。
となると、寝る前に読むには不向きだろうと思われるが、
この小説には、何か恐怖や不安とは別に、
人が抱えるやるせなさとか悲しさみたいなものが漂っていて、
そこがスティーヴン・キングの作品と、
他のホラー小説は決定的に違っている。
という訳で、或る読者にとっては、
寝る前のひとときの適書と言えなくもない。
前述の通り、彼はこのストーリーに或る偉大な存在とでも言おうか、
Great・somethingを盛り込んでいる。
そして彼は、ホラーだけでなく
「スタンド・バイ・ミー」や「グリーン・マイル」と言った
人間味溢れる作品も巧みに描くのである。
とりわけ「グリーン・マイル」は、
ある意味とてもヒューマンな話である。
それは作者の考える、
世の中の理不尽さを表すような設定でもあるし、
悲しみややるせなさが、ことごとく滲み出ている。
そして、人の恐怖や不安だけでなく、
やはり彼はこのストーリーのなかに、
人知を超えたGreat・somethingを描く。
それが「神」なのかどうかは彼自身は語らない。
いや語る必要もないのであろう。
そうしたものを絶望に瀕したものなら誰もが、
やはり一度は信じる。
それが彼のスタンスのように思えてならないからだ。
だからというべきか、
必然的に彼はストーリーの面白さだけでなく、
人を魅力的に描くのが上手い。
それが良い人間であろうと無かろうと…
1980年代、かの村上春樹はすでに彼の虜になっていて、
世間の評価がまだ低かった彼の作品を、多いに評価していた。
その裏付けは、後の村上作品の随所に見られ、
例えば「ダンス・ダンス・ダンス」のいるかホテルの設定なども、
ある意味スティーヴン・キングを模して描いた節がある。
また、村上作品に頻繁に登場する羊男も、
「シャイニング」に登場する犬男のパロディー、
いや、オマージュとして名を冠し、
登場させたのではないかとも思える。
そして「海辺のカフカ」に登場する人物に至っては、
その誰もが魅力的なパーソナリティーをもち、
かつ超能力というべきか、
異次元の力のようなものをもつ人物が登場するのだが、
これは、スティーヴン・キングがよく描く人物像と被る、
と言えなくもない。
こうした点検を重ねる毎に、
村上春樹の世界を形づくる
或る一片の原型の出所が見え隠れする。
最近出された村上春樹の「雑文集」を読むと、
彼のスティーヴン・キングへの強い傾倒がみてとれる。
村上春樹は、それを一切隠そうとはしない。
それどころか、
すでに30年以上前に書いたスティーヴン・キングへの想いを、
今回、再編集して掲載している。
これが村上春樹の懐の広さというか、
そうした素材を更に進化させ、
自分なりの作品へと昇華してしまうところが、
彼のベストセラー作家としての自信なのだろう。
更に、私の手元に30数年前の「ユリイカ」があって、
それは「村上春樹の世界」と題された臨時増刊号である。
そのなかに、「村上春樹とスティーブン・キング」という、
風間賢二(幻想文学)さんが書いた一節が妙に頭に残る。
「前文省略…
60年代の子供たちの同時代感覚ー(絶望)を創作の糧とする
村上春樹とスティーブン・キング。
しかし、彼らの作品を読んで悲観的になったり
不快になったりすることはない。
キングの場合、むしろ勇気づけられることがある。
それは絶望的な状況をサバイバルしようとする人たちを描きながら、
ヒューマニティーを逆説的に語っているからである。
また村上春樹の場合は、読後にやさしい気分になれる。
シニカルな観察者であってもその語り口は
カインドネスに満ちているからである。
おそらくこれが、双方共にベストセラー作家たる由縁だろう」
同時代を生きる、あるいは同世代のいずれかが共鳴するとき、
そこに生まれるのは同質の世界観であり、
その根底に模倣があっても何の不思議もない。
それを意識するにせよ、意識しないにせよだ。
よって、自分だけの世界観を創り上げようとするとき、
それはどこかで影響を受けた誰かを避けて通ることは、
決してできない。
それが歴史上初のオリジナルであるハズもなく、
単に自分というフィルターを通した焼き直しには違いないのだが、
しかし、人はそれでも新たな道を拓くことに余念がないのは、
人が進化しながらとはいえ、継承するいきものだからではあるまいか。
こうしてスティーヴン・キングもまた、
その原点に誰かのオマージュがあったに違いないし、
それは本人が意識しようとしまいと、
彼の世界観、作品に必ず反映されているハズである。
オリジナルの姿とは、
結局のところ、ある意味での模倣を免れることはできないし、
また、これが現代のオリジナルと呼ばれるものの宿命、
とも言えるのではないかと思われる。