東京詩人

 

詩人はいつも

ビルの谷間を歩き

3番線のホームに立ち

そして地下鉄東西線に乗って

暗闇のなかの景色から

着想したりしていた

 

あるとき

野山を吹く風のように

詩人は海を渡り

砂漠を横断し

ヒマラヤで眠りについた

 

そこで空を昇る術を手に入れ

詩人は大気圏を脱出し

天を垣間見たりした

 

ときに詩人は

そうして天の川に身を浸し

ほうぼうを思索したりした

 

そんな話を誰にもしたことがない

妻や子供にも言わなかった

 

詩人は実は一編の詩も

まともにかけない詩人だったが

あなたの夢に

すっと入り込むことはできる

しあわせな朝が

訪れますようにと

 

詩人の詩人たる所以である

 

 

(本編は、過去に掲載したものを編集し、再掲載しました)

 

マスク姿の考察

 

新型コロナウィルスが蔓延している。

が、行かなきゃならない所がある。

銀行とか仕事の打ち合わせとか、

セブンに立ち寄ってなんか食ったり、

スーパーで食料を買ったりと。

それが大それたことなのか、

たいしたことないことなのか、

もう、よく分からない。

で、外出時のマスクは必須。

もうマスク着用が当たり前。

ということでメガネにマスクそして帽子を被る、

この3点セットで出かけると、

普段だとかなり怪しい奴にみえる。

いまは事情が事情なので、

まあOKの雰囲気かな。

それが街の風景です。

とりあえず、すれ違う人の顔というか

その表情は分からない。

まるでモロッコとかイスラム圏の街のような。

マスクに効果があるなしの問題はさておき、

街でのマスク着用は必須。

とりあえず、マスク。

が、さらにメガネに帽子を足すと、

顔面不明の3点セットということで、

怪しさは増長されてしまうことも確か。

街にはこの3点セットの人々が

かなりうろうろしている。

ムカシ、TVで観た西部劇では、

銀行強盗が帽子を被って口を布で隠していた。

悪い奴はやはり口とか顔面を隠すのか。

よく欧米の人はマスクを嫌うと言われているが、

これもなんとなく理解できる。

向こうの人にとってマスク姿は、

きっと敵意のあらわれと解釈されてしまう…

これは勝手な解釈だけど。

個人主義の彼らにとってのハグが、

「私はあなたの敵ではありませんよ」のサイン。

マスクってその正反対の姿なのではないか。

やはり顔って、表情が表れるパーツ。

少しでも相手の心持ちが分かるに越したことはない。

新型コロナウィルスが流行る以前から、

黒い尖ったマスクをしている若いのがいて、

これが実に怪しくみえる。

私的に彼らをカラス天狗と呼んでいる。

このファッションというか流行が、

いつ頃どこからきたのかは知らないが、

どうみてもカッコイイとは思えない。

黒い尖ったマスクって、

誰に対しても戦闘的にみえてしまう。

カラス天狗マスクの若者たちは、

思うに、人とは一切関わりたくない、

声かけてきたら殴るぜとか、

そんな雰囲気を醸し出している。

街には、カラス天狗も混じって歩いている。

たかがマスク、されどマスクなのである。

現在もマスクは足りていないし、

この先も見通しは暗い。

ウチはたまたまマスクの在庫があったが、

それもそろそろ時間の問題となってきた。

で、マスクを切らしたら、

コーヒーを煎れるときのフィルターを加工し、

手づくりのマスクを計画中。

肌触りは、かなりカサカサしている。

見た目は、あまり美しくない。

生成り色のちょっとくすんだフィルターだから、

一見、汚れた風のマスクにもみえてしまう。

それに私の場合、メガネと帽子が加わる。

サングラスバージョンのときもある。

先行き、憂鬱。

日本も世界も経済は崖っぷち。

いやな時代だ。

が、とりあえずはマスクに関しての己の計画は、

カラス天狗マスクよりはマシにみえる手づくりで、

なんとか、この難局を乗り切ろうと思う。

 

山の上のカフェへ行ってみた


TVK(テレビ神奈川)をボォ~っと観ていたら、

デビット伊東と女の子が見晴らしのいい所で

コーヒーを飲んでいた。

どこかの山の中腹あたりだろうか?

景色がいいようだ。

晴れた日は東京あたりまで見えますよ、

と洒落た感じのマスターが話している。

 

 

ん~、そんな山中にカフェがあるのか?

店名を検索すると、宮ヶ瀬湖付近と判明。

「あんまり混んでも困る」主旨の話をマスターがしている。

なんか、のんびりと店をやりたいんだろうなぁ。

金よりもライフスタイル重視のマスターであった。

儲かっているかどうかは、全く不明。

元々、億万長者だったりして (笑)

焙煎は帰宅してからマスターが自らやるらしい。

ほほぅ、スタバとかタリーズとかとは、

一線を引いている訳なんだ。

いまどき、こだわりのコーヒーを出す店は、

あちこちにある。

3ヶ月ほど前だったか、二子玉川の高島屋のなかにある

カフェにたまたま入って国産のコーヒーをいただいたが、

これが妙な癖とか苦みが全くなく、

かなりマイルドな味がイケていたのを思い出した。

で、数日後にふと空いた時間を使って、

山の中のカフェをめざす。

途中、道に迷う。

田舎道を数周してからやっと辿り着く。

 

ナビはオンにしてあるけれど、

必ず迷うから我ながら不思議だ。

 

 

陽も傾いた午後3時のカフェ。

良い感じの夕日が照らしている。

農家の軒先のような広場が、訪れる車でほぼ満車状態。

テレビで放映したからなのか、そもそもこの店のファンが多いのか、

そこがよく分からない。

店内はめちゃ狭い。けれど、手作りの建物だけあって良い味出している。

 

 

満席なので、外からオーダーして、デッキで高原の風に吹かれながら、

うろうろする。

庭のあちこちに焙煎機の古いのやコーヒーの樽だとかが転がっている。

洋風の農家の庭先といった趣。

 

 

 

 

ちょっと寒い。洒落たマスターが膝掛けを持ってきてくれる。

屋外こたつというのを発見。が、そこに座ると相当目立つので、

引っ込み思案の私は、眺めるだけにする。

 

こうなると、コーヒーを味わうというより、

景色を眺めに来た、店を見学に来ました、

ついでになんか飲みます、という優先順位。

 

が、しかしと言うべきか、やはりと言うべきか、

マスターがテレビでデビット伊東に話していたように、

こだわって出てきたコーヒーは、やはりおいしかった。

 

しかしおいしかったでは能がないので、

ここでコーヒー通のような解説を書くべきだが、

そんな舌を持っている訳もなく、

味を分析するほどの経験も知識もない。

よって、おいしいとだけ記しておく。

この時期は、街中より野へ山へです。

みなさんもでかけてみてください。

詳しくは↓で!!

【あいかわCAFEめぐり】仏果堂

 

新型コロナウィルスが招く視界不良(その3)

 

テレビはあまり観ないようにしている。

少しのんびりと過ごせる夜は、

ハードディスクに溜めてある映画とか、

それもアクションもの、

または日曜美術館とか世界遺産、

世界はほしいモノにあふれてるなど、

そんなものを観て過ごす。

 

まあ、それでも世間の動き、

ニュースのポイントは一応おさえておかねばと、

主要な報道番組のアタマとかインデックス、

ネットのヘッドライン、SNSなどは、

ざっとチェックするようにしている。

 

そして、就寝前は気に入った小説の世界に没入する。

バランスは大事だ。

 

東日本大震災のときも経験したが、

ニュースとかワイドショーを見続けていると、

ちょっとメンタルがおかしくなる。

しっかりとした情報を掴もうと必死になるほど、

情報に振り回され、不安が増幅され、

果ては自ら何も考えられなくなっていた。

 

そうした経験から、

まずはメディアとは程よく距離をおき、

自ら考え、自ら情勢を判断し、どう行動するかに、

主軸を置くようにした。

 

よって、今回の新型コロナウィルスの件は、

どのように行動し対処し防御するか、

そして、事の半分くらいであろうか、

その程度は自己責任であるという結論に至った。

 

いや、或る疑念や批判したいシステム、

気がついてしまった事柄など、

書きたいことは山ほどあるが…

 

いま、私たちは対岸の火事を眺めている訳ではなく、

世界からみれば、注目すべき国で生活している

話題の国の人たち、であるのかも知れない。

そして尚、その渦中にいて

まるで他人事のような傍観者でいることも、

すべてに対して疑心暗鬼に陥ってしまうことも、

どちらも可能な状況である。

 

この場合、どう感じるかは、

その人の個性と置かれた環境下から受け取る

情報と感受性により左右される。

しかし、こういうときこそ、

メンタルは自由であるに越したことはない。

そこからしか、自らの判断は下せない。

 

しかし、これは「何か」に試されているとも感じるし、

いや、誰も試している訳じゃないとも思えてくるから、

メンタルはやはり、豪雨と小春日和のような天候を

行ったり来たりしているのである。

 

「明日のことは分からないさ」とは、

或る映画で主役のガンマンが呟いたセリフだが、

先日、このセリフがなぜか突然アタマに浮かんできた。

いまリバイバルで売り出すと、ヒットしそうな映画。

同時期、坂本九の「明日があるさ」という歌を思い起こす。

いま売り出しても、まずはヒットしない。

 

そういう時代を、ぼくらは生きている。

 

新型コロナウィルスが招く視界不良(その2)

 

先週末、新横浜のビジネスホテルをキャンセル。

とても大事な用で、絶対に外せない。

当たり前だけど、その用は遅刻厳禁だったので、

朝に弱い私はホテル泊で前乗りする予定だったが、

仕事が夜まで終わらず、

また新型コロナウィルスの件も踏まえ、

前乗りを諦めた。

で、その日はともかく早めに就寝、

朝5時起きで、マイカーで横浜をめざした。

国道246が思ったより空いていたので、

結果はセーフ!

無事に、大事な用事を済ますことができた、

のは良かったが、にしても、

この日の集まりに含まれている食事会は辞退した。

よりによって、この時期にしゃぶしゃぶの鍋を

みんなでいただくという神経はどうかと思い、

主催者に尋ねると、

逆に不審な顔をされてしまい、

こちらはちょっと困惑。

情報に対するおのおの感度の違いに、

結構驚いている。

仕事の取引先や、友人、知人とも、

新型コロナウイルスの話題が出るが、

その警戒度の違いには雲泥の差がある。

ある経営者は全く街や人混みに行かないという、

徹底ぶり。

自分でコントロールできるのがうらやましい。

友人のAは、毎日電車に乗って、

いつもと全く変わらない生活をしている。

感想を聞くと、対岸の火事の如く、

なんら心配をしていない。

まして、自分がそういうものに巻き込まれるなんて、

ついぞ思ったこともない、とのこと。

皮肉にもこんな原因から、いまごろになって、

テレワークが推奨されているが、

毎日通勤・通学をされている方々は、

どんな心境であるか。

家から全く出ないとか、

またその逆で全く気にしないとか、

私からするとどちらもよく理解できない。

いまは情報の深度をはかるべきときで、

その正確さを模索しているが、

今回のこの一件をとっても

正確な情報の把握は、実に難しいと感じる訳で、

こういうときこそ、実は情報リテラシーを鍛える場なのかと

思われる。

新型コロナウィルスは、まだ終息の兆しがみえないばかりか、

広がる一方の報道が目立つ。

経済活動も相当縮小しているので、

この騒動が終息したとしても、

後に表面化するであろう経済的な被害は、

甚大だと予想できる。

また、国内外で、この新型ウィルスが

政治的な潮目を変えるかも知れない。

敵は微細なウィルス。

いまひとつ姿がぼんやりとしている、

輪郭がハッキリしないという点で、

武器や自然災害とはまた違った怖さが、

浮き彫りとなった。

 

 

新型コロナウィルスが招く視界不良

 

新型コロナウィルスにはみんな結構迷惑を被ってまして、

テレビやネットから仕入れた情報も錯綜しています。

街へ出ても、心なしか人の数は少ない。

当然、みんなマスクをしています。

しかし、どこもマスクもアルコールティッシュも

売り切れていて、参っています。

感染力がいまひとつ不明なので、ちょっと怖い。

自然界のウィルスとか人為的なウィルスとか、

いろいろな説が飛び交っている。

自然界のものであるならば、

そうなのかと思わざるを得ないし、

そもそも変なものを食うなよな、

と言いたい。

万が一、人為的なウィルスだとしたら、

これは兵器です。

一体誰が得をするのか?

一体誰が何を狙ったものなのか?

それは想像すれば何となく分かりますが、

そのあたりは解明されないと思います。

きっと。

感染者や死亡者の数なども、

それがホントの数字かどうなのか、

疑えばキリがない。

そうした観点から考えるに、

敵の正体が明確ではないという点で、

不安というものに拍車がかかる。

それは今日現在でも継続していて、

それがココロのどこかに居座っている。

新型コロナウィルスなんかいなくても、

そもそも人はなにかしら不安を抱えていて、

その容量をなるべく増やしたくはない。

ひとつひとつ減らす努力をしている。

しかし、容量が警戒水域を越してしまうと、

人は生きる力を失う。

そこには当然、個体差による容量の大小や、

その人の置かれている状況により、

おのおの危険水域は異なるけれど。

しかし、理屈通りにいかないのも人である。

こうしたとき、

逆に戦闘モードのスイッチが入ることもある。

強くなるしかない。

こうした反応も遺伝子に記憶されているものなのだろう。

人はこういう苦難をいくつも乗り越えて生き残ってきた。

そして何世代と累々と命を繋げ、いまに至る。

―経験と智慧と勇気―

こうした事が起こる度、

それが人に課せられた運命なのかどうか。

それは答えのない問いとして、

哲学的にも宗教的にも語られる難題ではある。

━苦難は人を進化させる━

そう考えるのが、

いまはベストのような気がする。

 

闘いは当分続くのだろう。

 

ここではない、どこかへ

 

人恋しくなると、

街へ出て雑踏にまぎれる。

すると、理由は不明だが、

とても落ち着くことがある。

 

小さいとき、

木の傍らにしゃがんで、

アリの行列をじっと眺めていた。

おのおの個性や違いなどというものは、

ほぼないようにみえる。

ある一匹が、取り立てて目立つことは

ほぼないに等しい。

 

雑踏にまぎれる行為も、アリの行列も、

どちらもその他大勢という括りで、

一応、アタマの中では整理がつく。

 

思うに、アリも一匹でフラフラするのは、

不安なのではないか。

人恋しいではなく、アリ恋しいか。

 

こちらも、きっとそんな深層心理から、

たまに雑踏へ出てゆくのかなぁ、

と思ったりする。

 

であるならば、

渋谷のスクランブル交差点の人混みも、

週末の新宿の混雑も悪くはない。

がしかし、それが通勤とかで

毎日となると話は全く違ってくる。

たちまち拒否反応が出てしまう。

雑踏うんざり、また街中嫌いとなる。

 

都心勤め5年で嫌気がさし、

のち出勤なしのフリーになった私が思うに、

何事も程々が良いのである。

そのあたりのさじ加減というのが

また結構難しい。

 

よって住むところ、

働くスタイルや場所というのは、

現役にとっては重要項目である。

いや、引退してからもつきまとう。

 

新宿のど真ん中のマンションも、

山の中の一軒家もゴメンである。

 

だってライフスタイルの問題であるからして。

 

いつも静かで広い空が見渡せる。

で、たまに街中に直行できて、

雑踏の人になれる、

そんな程々の場所が一体どこにあるのか?

そうした理想の地こそが、

私の終の棲家に違いないと

最近になって分かった訳。

 

首都圏のいなか。

地方都市の静かな住宅地。

具体的に、伊豆半島とか軽井沢、

八ヶ岳山麓というような都会風の別荘地。

はたまた、

瀬戸内海に面した陽当たりの良いところ、

沖縄県南城市(ここに友人が移住したから)、

札幌郊外とか、金沢とか…

いやぁ夢は広がりますなぁ。

 

とここまで書いておいて、

ふとあることに気がついた。

 

生まれてから、

約十数回引っ越している身として、

いまの場所に飽きているのではないかという、

自己に対する疑念ですな。

実は、ここではない、どこかへ、

を探しているのかも知れない。

 

都会とかいなかとか、

あれこれと御託を並べたが、

もっと根深い問題が潜んでいるような…

 

学生時代に書いたもののなかに、

えんぴつとノートとカメラを持って

世界をまわる、というのが幾度も出てくる。

 

ああ、そういうことかと気づいた次第。

 

 

 

マジックアワーの憂鬱

 

 

折り返しも当に過ぎた

いわば人生の終盤とでもいおうか。

ある意味、夕暮れ時に辿り着いて、

ああ明日がある、

そしてその先にバラ色の未来があるなんて、

まずはほぼ思わない。

それは、年齢的なことだけでなく、

回りを取り巻く社会・経済または自然環境が

激変したことも、きっと含まれていると思う。

そのぼんやりとした不安の正体は

いまだ鮮明ではないが、

それは確実に大きく成長しながら、

こちらに徐々に近づいてくる。

 

現実の夕暮れ時の、

あの僅かな時間に世界を覆うオレンジ色は、

それはそれで感動的ですらある。

そして深い吐息と共に、

気持ちを穏やかにしてくれる。

だけどマジックアワーって、

なんだかとても憂鬱になることもあるよなと、

私の仕事の先輩がつぶやいたことがある。

 

人生の黄昏時は、

もうゴールがほのかに見えかかってくる。

戦いも競争も、もう遙か遠い日の出来事のように、

穏やかな時でもある。

同時に、どこか物憂げなあの色を仰ぎ見ると、

とても他人事とは思えない何かが胸に迫ってくる。

 

時間は年を追う毎に何故だか加速するようなのだ。

その瞬きの僅かな間に老いてゆくとは、

それこそ、つい最近知ったばかりだ。

 

若い頃は何かにときめいて、

それこそ何処かをめざして、

無我夢中で疾走していた。

 

さていま、どのあたりにいるのか?

それで一体何を成したのかなんて、

さっぱり分からない。

 

こうなると、

すべての出来事は夢半ばと知る。

それでもなお前進している。

それは納得でなく、まして達観でもない。

 

ようやく人生のアウトラインが、

かすかだが見えてきた頃に、

私たちはまるで通りすがりの旅人のように、

誰もがこの世界から旅立ってゆかねばならない。

 

おおよそのあらすじがみえてしまう黄昏時。

夕暮れ時の美しさと、

その穏やかさの底に沈殿している何かを

ほのかに感じ取ってしまう時、

人は誰も「人生の理不尽」を知り、

深いため息を吐く。

 

 

 

ナツが恋しいデス!

 

おめでとうございます!

知らない間に、あっという間に、年を越してしまいました。

元旦は、イオンにいました。

2日目は、休日歯科にいました。

トホホ…(ムカシのギャグ)

なんか面白くないです。

もう~毎日寒いし。

今年の私の運勢は、イマイチだそうな。

が、後半から持ち直すらしい。

早く、ナツにならないかな~

今年もヨロシクです。

では、ナツの音楽をひとつ!!

 

 

ならず者のうた

デスペラード

ならず者という意味らしい

 

19才も終わろうとする頃

カーラジオで初めて聴いた

この歌の虜になった

 

当時は意味なんて分からなかったけれど

デスペラードだけ聞き取れた

とてもやさしいメロディー

悲しげな歌

運転しながら

寂しさだけが押し寄せてきた

ある事情でみんなとはぐれていたから

話す相手もいなかったし

ガールフレンドとも遠ざかっていったし

この歌も、そんな歌なのだろうと

勝手に解釈することにした

 

ひとり国道246を西へ

どこかへ辿り着こうとか

そういうものはなかった

雑音だらけのラジオの音にすがるように

宛てもなく走った

 

ひとりが寂しいんじゃなくて

回りに壁をつくってしまった自分が

とても辛かった

 

デスペラードの歌詞は

だいたいこうだ

 

「…おい、そろそろまともに戻ったらどうだい?

…お前の、その気難しさやプライドが
お前自身を傷つけているんだよ

(中略)

…時の流れに誰もが逆らえない
なのにお前はたったひとりで
深い闇のなかをただ歩いているじゃないか
それも、もがきながら

(中略)

…ならず者よ、さあ目を開けて
怖がらないで

…雨降りだって
いつか虹がかかることもあるから

…まだ間に合う

この手を掴めよ
まだ間に合うから」

 

10代の終わりのあの遠い日々が

その後の推進力になったことに

いまは感謝しているけれど…