東京都武蔵野市の閑静な住宅地に住む私は、
まず、朝の散歩からすべてが始まる。
この住宅地の特徴は、なんといっても、
住人同士の繋がりを意識し、
挨拶運動も盛んだ。
これは、防犯上も欠かせないものらしく、
不審者は、その辺りに敏感に反応する。
そんな訳で、私も積極的に挨拶を交わす習慣がついている。
が、しかしだ。
朝っぱらから、あの厳しい目つきはなんだろうと思うのだ。
すれ違う度にイライラするのだが、
例の熟年が連れて歩いているポインターは、
とてもつぶらで、穏やかな目をしているのだが…
あの犬は、きっと性格も良い。
問題は、その素敵な白と黒のポインターを始終連れて歩いている、
買い主たる、あの熟年だ。
定年退職して10年経ちました。
唯一の趣味は、犬を連れて散歩することです。
そのように思う。
そうとしか思い浮かばない。
が、この熟年が周囲を威嚇する、
あの目と警戒心は、どこからくるのだろうか。
きっと此奴は近所に敵意を抱いている。
過去になにかあったのだろう。
それにしても、愛想なさ過ぎだな。
此奴は、雨が強く降る日も、歩いている。
しっかり素敵な雨合羽を羽織っている。
レインブーツも履いている。
準備とやる気は、充分に感じられる。
連れ添うポイン犬も、しっかり前を見て、
黙々と歩く。
台風が近づいた或る日、
私は隣町をクルマで走っていた。
平日午後3時というシチュエーションなのだが、
此奴は例の雨合羽を羽織り、黙々とポイン犬と歩いているではないか。
思うに、私は此奴、
いわば熟年Aの人生や生活のなにも知らない訳だが、
なんでかすべて分かるような気になってしまうのだ。
10年前まで、大手印刷会社の業務管理部長をしていました。
自他ともに認める実直さは度を超し、
まわりから煙たがられるだけでなく、
そろそろ自分で自身が嫌になっていた頃でもありました。
そんなこんなでそろそろ年だし、
会社を辞めることにし、半年ブラブラしていましたが、
なにか自分の現状に実直さが足りないとイライラし、
近所の公民館で開催されているシニアダンス教室を覗きました。
(自分に足りないものは、うーんユーモア?)
ずっと自覚はしていたので、まずは社交性を磨かないとと、
自ずとダンスを目標に致しましたが、
教室内では、すでにできあがった仲良しグループで構成されていまして、
熟年Aは、どうも馴染めない自分に失望すると共に、
この排他的なダンス教室に敵意を抱いたのでありました。
あっ、そうだ。
熟年Aには、とてもできた奥様がいます。
奥様は、「あなたのやりたいこと、なんでもなすったら」
と、いつもやさしくAを応援し、
自らは永年勤めている近所のお菓子工場へ、
いそいそと出かけるのでありました。
が、実はこの奥様はこのパート先に仲良しがいっぱいいまして、
中には若いイケメンのボーイフレンドも混じっております。
Aが、その臭いを嗅ぎつけたのは、
退職後3ヶ月余りの或る夕食での会話でした。
当然Aは、このことを妻に告げるつもりもありませんし、
その気力も失せております。
子供は二人いますが、現在はどちらも片付いて、
いまはそれぞれ家庭を持ち、
遠くで暮らしています。
そんな或る家族を長い間眺めて暮らしていたのが、
利発なポインターです。
ポインは奥様にやさしく育てられました。
二人のお子様も、この家でやさしく育てられました。
そんなポインもそろそろ中年にさしかかった頃です。
のんきにひなたぼっこする毎日から、
いきなり熟年Aに連れ回されることになったのですから!
最初は、毎日毎日出かけられるうれしさで、
くんくん鼻を鳴らしていたものです。
が、さすがの猟犬ポインも中年です。
だらんとした毎日を過ごしてきた訳です。
毎回3キロ~5キロ、そして朝晩と回数も距離も増えますと、
さすがに中年のポインもバテ始めます。
が、熟年Aは、実直かつ、まわりに敵意を抱く、
まさに歩くロボットです。
そんなポインの具合や体調などに配慮するデリカシーなど、
端っからありません。
気の良い奥様に育てられたポインは、
まあそんなことも分かっていましたので、
まあいいかと今日も此奴に連れられ、
真っ直ぐ前を見て、
ただただ黙々と歩くのでした。