夏の少年

 

半ズボンのポケットのなか

ビー玉がジャラジャラと重くて

手を突っ込んでそのひとつをつまむと

指にひんやりとまあるい感触

 

強い陽ざしにそのガラスを照らし

屈折が放つ光の不思議に魅せられて

しばらくそれを眺めていた

 

猛烈にうるさい蝉の音が響き回る境内

 

水道水をゴクゴク飲んで

頭から水をかぶり

汗だか水だか

びしょびしょのままで

境内のわき道をぬけ

再び竹やぶに分け入る

そんな夏を過ごしていた

 

陽も傾いて

気がつくと猛烈に腹が減っている

 

銀ヤンマがスイスイと目の前を横切っても

のっそりと葉の上を歩くカミキリムシにも

もう興味はうせて

空腹のことしか頭にないから

みんなトボトボと歩きだす

 

道ばたの民家から

魚を焼くけむりとにおい

かまどから立ちのぼる湯気

とたんに家が恋しくなって

疲れた躰で足早に山をくだる

 

あの頃のぼくらの世界は

たったそれだけだった

きのうあしたは

意識の外のじかんだった

今日という日だけを

精いっぱい生きていた

 

町内のあの山の向こうはわからない

あの川の先になにがあるのか知らない

 

僕らの信じられる世界は

たったそれだけで完結していた

 

 

 

1964東京オリンピックのころ

 

三丁目の夕日という映画がありますね。

日本中のまちがこの映画のセットのような、

というとややこしいのですが、

当時小学生の私は、

あの映画の舞台のようなまちの片隅で、

家族4人で暮らしていました。

東京オリンピックが開催されたのも、

そのころです。

 

オリンピックというものがなんなのかは、

当時の私には、

いまひとつ分かっていなかったように思います。

とにかく、この国に世界のスポーツ選手や、

いろいろなひとたちがやってくる…

そんな認識でした。

まあ、当時小学生の私としては、

この程度の知識でじゅうぶんとは思いますが。

 

となり町の国道を聖火ランナーが走るというので、

私たち小学生は、日の丸の旗振りの練習を

小学校でさせられました。

させられたといっても、とにかく楽しかったし、

やはりなにか高揚のようなものがあったのです。

 

応援地点は、東京から横浜へと続く

国道15号線沿いの子安あたりだったと思います。

 

私の住んでいたところは町工場が乱立してまして、

みんな早朝から暗くなるまで一生懸命に働いていました。

いつも鉄をたたく音が町中に響いていた、

そんな環境でした。

 

歩いて10分ほどの国鉄の駅のまわりには、

大きな商店街がふたつありました。

そこはいつもにぎわっていて、

季節ごとに赤いガラガラポンの抽選会をやっていました。

 

私は母に促されてそのガラガラポンを幾度か回しました。

電気スタンドとふとんのシーツを当てたことがあります。

母は大喜びしていました。

それがどちらも2等でした。

当時は、かなり高価なものだったようでした。

 

私の通っていた小学校はいま思えば不思議なところで、

みな誰も勉強はよくしていたのですが、

いまでも鮮烈に残っているのは、

先生たちがとてもやさしく、

どの先生も凛々しく、

私たちに常々話してくれたのは、

どんな問題もしっかり考え、

自分が正しいと思ったことは、

しっかり主張しなさいと教えてくれたことでした。

 

教室はいつも自由の空気がみなぎっていました。

休み時間は、机といすをうしろにどかして、

当時流行っていたモンキーダンスを

みんなで踊ったりしていました。

 

給食は、パサパサのコッペパンと

アメリカから配給された脱脂粉乳のミルクと

カレースープとかそんな献立でした。

 

昼休みになると、拡声器から

♪僕らはみんな生きている

生きているから歌うんだ

…手のひらを太陽に透かしてみれば

真っ赤に流れる僕の血潮♪

という歌が毎日流れていまして、

手のひらを…の歌詞に

なぜか強く惹かれたのを覚えています。

これは、やなせたかしさんの歌詞だと

後年になって知りました。

アンパンマンというキャラクターも

この人のあつい想いからうまれたのだと

納得できます。

 

坂本九の「上を向いて歩こう」も

このころ流行っていたと思います。

クレージーキャッツ、ザ・ピーナッツ、

弘田三枝子、そしてベンチャーズ。

この時代のスターそしてその音楽は、

いまでもアタマに焼きついています。

 

さて、1964年のオリンピックですが、

私の記憶に残っているのは、

重量挙げの三宅選手の金メダル、

ニチボー貝塚のバレーボールの金メダル。

このチームは東洋の魔女といわれ、

世界から恐れられていました。

そして裸足で走ったエチオピアのアベベ選手でしょうか。

そして、みなどこかで聴いたことのある、

オリンピック・マーチというのは、

いまNHKの朝ドラの主人公のモデルである

古関裕而という作曲家の作品です。

私としては、開会式の荘厳なファンファーに、

とても感動しましたが。

 

日本チームの赤白の制服姿はとてもインパクトがありました。

日の丸からのカラーリングだと私でも分かりましたし。

それを観るべく、我が家でも或る日、

父が電気屋を連れてきてテレビがついた次第です。

 

私のまちは、海まで歩いて15分ほどでした。

その岸壁あたりは、大きな工場がどんどん増えて、

煙突の煙でまちがうっすらと曇っていました。

丘の上からその手前を走っている鉄道を眺めていると、

汽車を先頭に、貨車は50両もあったこともありました。

 

当時の自分が、

そのころ世界でもまれにみる発展を続けている

日本という国のその現場である

京浜工業地帯のすぐ横で暮らしていたということは、

後年になって知ったことです。

 

横浜駅のまわりのいくつかの地下道には、

まだアコーディオンをひきながら

お金を乞う傷痍軍人と呼ばれるひとたちが

いっぱいいました。

足のないひと、手のないひと、

包帯を体中に巻いているひと…

暗がりからのぞく彼らの異常に白い目だけが、

いまでも私になにかを訴えてくるようです。

 

敗戦から十数年の1964年。

そんな時代に開催されたオリンピックは、

いろいろな意味での時代の転換点でした。

そこに意義のようなものをと問えば、

それなりの回答があると思います。

それも山ほど、あきれる程に。

 

ただ、時代の傍観者として、

こうした時代を振り返ると

万感の想いもある訳ですが、

結局、ときが流れていまがある、

としか形容できない気持ちが、

佇んでいるだけなのです。

 

それはなぜなのかと自問するも、

それが思い出というものだから…

とつれない訳です。

 

映画「この世界の片隅に」そして…

8月9日はとても暑い日だった。

長崎に原爆が落とされた日だ。

親父の命日でもある。

 

朝、仏壇に線香をあげ手を合わせる。

逝ってしまって、もう16年たつ。

たどたどしくも、いちおう般若心経を読む。

これがウチの習慣のようなものになっている。

親父もこちらも救われる。

なんだかそんな気がする。

「世の中はいま激変しているよ」と、

話しかける。

そして日課の筋トレを始める。

汗がとめどなくしたたる。

 

日中、簡単な仕事をいくつか片付け、

運動公園を歩き、買い物をして帰る。

 

夜、録画しておいた

「この世界の片隅に」を観る。

2度目だけれど、

とても気になる作品だった。

初回では見逃していた、

新たな発見もあった。

 

しかし、それにしても

この映画は辛いなと思った。

やるせない。

切ない。

呉という港町へいってみたくなった。

そして、丘から港を見下ろし、

時代をさかのぼるのだ。

 

愛おしい日常

死んでいくひと

死んでしまったひと

生きてゆくひと

生きなくてはならないひと

運命のようなものがどうあろうと、

実はたいして変わりはしない…

そんな思考の麻痺がおこるほど、

考えさせられる内容だった。

 

戦争って、のちの平凡な日々、

そして未来のすべての事象を、

おおきく歪めてしまう。

 

映画を観ていてふと気づいた。

終戦の日の8月15日といえば、

親父は確か満州にいたはずだ。

ソ連はすでに日ソ不可侵条約を破棄して、

満州に侵攻していたので、

この頃、親父はもうダメだと思っていた、

のではないか。

 

それでもシベリアでの壮絶といわれた

抑留から、親父は生きて帰ってきた。

昭和23年、終戦から3年経っていたという。

そしてふる里を捨て、

もともと遠縁だった母と結婚し、

横浜の親戚の家に間借りし、

公務員として務めることとなる。

そして姉と私が生まれた。

そこにいったいどういう意味があるのか、

親父が生きて帰ってきたというのは、

ただの偶然なのか。

そんなことをいくら考えても、

いつもいつも分からない。

 

ただ自分が存在することで、

家族ができて、

こんなことをぐだぐたと書いている。

ただ、それだけなのかもしれない。

 

親父が晩年に建てたさいごの家が、

どんどん朽ちてゆく。

そして年々あなたの顔が表情がしぐさが、

記憶のなかでだんだん薄らいでいく。

私は老いてゆく。

 

ただ、時が過ぎてゆくばかり。

 

 

寛斎さんのこと

 

山本寛斎さんが逝ってしまわれた。

オールバックのヘアスタイル。

大胆なファッションを難なく着こなす立ち姿、

笑顔を絶やさず、しかしふとした瞬間にみせる

神経質かつ気難しい表情が、格好よかった。

 

訃報に接し、或る記憶が鮮明に甦ってきた。

私は過去に一度、寛斎さんを取材したことがある。

当時、私は大手出版社の制作を専門としている

編集系の制作会社に在籍していた。

一応、前職の内容を買われての転職だった。

 

しかし、入社早々から戸惑うこととなる。

まず、大手出版社のやり方がさっぱり分からない。

そして、社内の人間さえ把握していない時期に、

いきなりディレクターとしての活躍を期待されてしまった。

一応、部下と呼べる人が4人ばかりいたが、

彼らのほうが数段レベルが高いと思われた。

 

私の担当は、或る出版社が企画している、

科学から文化など多岐に渡る分野の近未来の

ビジュアル事典なるものの巻頭の特集ページだった。

 

しかし、そのころ私自身悩みを抱えていて、

こうした世界にいること自体に疑問を抱いていた。

不安定な収入、家へ帰れないほどの仕事量、

〆切に追い立てられる日々。

この世界は、どこも同じような職場環境だった。

 

当時は、飲食業とかトラックの運転手とか、

学生時代に慣れ親しんだ仕事でもしようか、

と内心では転職を考えていた。

要するに、全く違う業界へ救いを抱いていた。

さらに、奥さんが最初の子を身ごもっていたので、

そちらへも気が散っていたのかも知れない。

 

しかし、とりあえずは働かなくては食べていけない。

そして目の前にある仕事に飛びついてしまったのだが、

こうした業界には、すでに幻滅を感じていた。

 

よって、毎日が激務なのに気はノラない、

すべてがうわの空なのに、

日に日に責任が覆いかぶさってくる。

〆切のページ項目がみるみる増えるなど、

猛烈なストレスの日々だった。

 

或る日、出版社の局長がぷらっと訪ねてきて、

「未来のファッション」を企画している旨を、

私たちの前でボソボソと話し始めた。

そしてこの人が、「寛斎さんはどうですかね」

と、なぜか私に話を振ってきた。

「いいんじゃないでしょうか」と

適当に答えた。

すると局長が、

「だよね、では君がすべての段取りつけて

本人のインタビューをとってきてください。

予算は大丈夫ですよ」と

あっけなく話がまとまってしまった。

後日談では、寛斎さんの件は

すでに決定していたとのことだった。

私はのせられた、試されたようなのだ。

それが何の為だかは、

いまだに謎ではあるのだが。

 

単独取材は、表参道にある寛斎さんの事務所で行われた。

そのビルの最上階にある真っ白い一室は、

防音が施されていると思えるような、

おそろしいほど静かな部屋だった。

 

私は寛斎さんとふたり、

白い机を挟んで向き合っていた。

 

寛斎さんはとても礼儀正しい方だった。

幼年時代の苦労した話は知っていたが、

そこは避けることにした。

寛斎さんの話している仕草や内容から、

異常とも思える忙しさが伝わってくる。

なのに快活でエネルギッシュな生き方が、

それを上回っていた。

「元気」「ゲンキ」をコンセプトとした、

ファッションという枠に捕らわれない、

複合的なイベントのことを盛んに話された。

 

私はとにかく終始気後れしていた。

なのに無謀にも、ノートとペンのみで取材に臨んでいた。

テープレコーダーの持参も頭に浮かんではいたが、

当時はメモの取れない奴が録音をあてにする、

などの風潮もあってか、メモのみとした。

 

さらに、肝心の下調べと質問事項などの

下準備を怠っていたのだ。

時間は刻々と過ぎてゆく。

世間話ばかりしていてもたいした材料にはならない。

 

事前の準備を怠っていたのは、

他の作業がすでにもうどうにもならないほど日程が遅れていて、

そちらの火消しをしているうちに、

気づいたら取材前日の夜になっていて、

まあ、半ばやけくそな気にもなっていたことだった。

 

取材が終わると、寛斎さんが

何か物足りないというような表情をみせた。

それは不審を覚えたような目でもあった。

私は当然と思った。

 

赤坂への帰りの地下鉄にへたり込み、

私は憂鬱かつ脱力した心持ちで、

車輪が発する騒音さえ遠くに聞こえるほど、

放心していた。

社に帰ってメモを見返すと、

とてもいい記事になるとは思えない、

どうでもいい走り書きばかりが目についた。

当たり前のことだった。

 

そして、とてもまずい事態がそのあと次々に起こる。

私の書いた原稿が突っ返される日々が続いた。

これは私も承知していた。

というより、書いた本人が一番分かっているように、

とても世間に発表できるほどの内容ではなかった。

それでも記事を書き直す日々は続いた。

それはとてもキツい毎日だった。

 

要するに、取材失敗である。

さらに善後策が皆無であり、

無策の私は、社内で全く身動きがとれなくなっていた。

いっそ逃げることも考えたが、

それではどうにも納得がゆかない。

後々、自分が許せなくなるだろう。

 

そうした状況が2週間も続いた或る日、

途方に暮れている私のところへ、

社内の編集者やライターなどを取りまとめている、

Aさんが近づいてきた。

この人がどういう人なのか、

私は話したこともなく、よく知らなかった。

 

Aさんはとても落ち着いた声で

「話は聞いています」

と切り出した。

「ご迷惑をおかけしています」

私は他に言葉がみつからなかった。

そしてこの人は余裕があるのか、

笑みさえ浮かべて

「事情をききましょうか?」

と少し身をかがめてきた。

私は、自分の仕出かしたことが、

まわりに多大な悪影響を及ぼしていること、

時間もチャンスも

すべて取り返しのつかないところまできていること、

そして事前準備を怠ったいきさつなどを、

包み隠さず話した。

 

彼は、かなりながい時間、

オフィスの天井あたりをじっと眺めていた。

そしてこう言った。

「そのメモを私にみせてください。あとは

あなたからみた寛斎さんの印象を私に教えてください。

そしてですね、後から調べた寛斎さんに関するもの

すべてを私に提出してくれませんか」

「はい…」

そしてこう言ったのだ。

「私は寛斎さんに関してはかなりの情報をもっているので、

後は私が何とかしましょう」

 

胸につかえていた苦しいものが、

ポトっと取れた気がした。

 

後で聞いたのだが、

Aさんは制作会社の社長に頼まれて、

出向で社内を統括している方らしく、

元大手出版社の優秀な社員であり、

企画、編集、執筆、さらには対外の折衝もこなし、

創作の世界においても

かなり名の知れた人とのことだった。

 

私は、このプロジェクトが終わると同時に、

この会社を辞めた。

なのに飲食をやることもなく、

トラック・ドライバーに戻ることもなく、

さらに制作会社を転々とした。

 

いま思い返してみても、

その転職理由はただただ悔しかったのだろうと、

自分では推測している。

そしてこの業界から逃げることは、

自分の性格からして、

後々後悔することは目にみえていた。

それより自分が巻き起こしたトラブルを

難なく解決してくれたあの人のようになりたい、

とも考えるようになっていた。

 

後、私は広告業界に転職したが、

スタンスの違いこそあれ、

感覚的にいえば前職となんら変わりはないと感じた。

 

その転職した広告会社は表参道にあった。

そしてそのビルが、偶然というべきか、

寛斎さんの会社が入っているビルだったことに、

私は心底に驚いてしまった。

 

(寛斎さんのご冥福をお祈りいたします)

 

 

夜の饒舌

 

常識や日常

いや信仰さえも崩れ落ち

世界は誰もが終末を口にし

神さえ疑わしい日から

幾年 幾月が過ぎた

 

月ってきれいだなと

ある日ベッドを窓辺に移し

文庫本ひとつを手に

和室の灯りを消し

すだれ越しに夜空を見あげれば

平安の時代から変わらないであろう

月あかりはやはり穏やかで

雲の流れる様が

ロマンチックなスクリーンのように

真夜中の空は饒舌だった

 

思わず本を置いて

見とれていると

どこからともなく

静かに 静かに

草の音 虫の音

 

なんと

平和な音じゃないか

平安の夜である

 

指揮者が不在でも

月夜の晩に必ずひらかれる

夜会

 

いまだ混沌の世の中で

誰もが疲れているけれど

このひととき

この瞬間

 

やはり神に祈ろうかと

 

 

 

 

空をあげよう

 

この絵の真ん中に

一本道があるだろ

その遙か先に

実は

薄く水色にのびる地平線があってね

その上に大きく広がっているのが

僕の空なんだ

 

想像してくれないか

あとはもう描くスペースがないからね

 

思えば

空って

泣いたり笑ったり怒ったりと

ホントに忙しい

ああ

僕と同じだって…

気まぐれで面倒

ときには心変わりだってするし

 

でも

空には

おひさまも

お月さまも

星もある

誰だって輝くものを

きっと幾つももっていて

それと同じなんだと

 

そして空は

宇宙へと続く

 

僕には到底描けないけれど

そんな僕の空を

受け取ってくれないか

 

 

長い舌

 

なにが面白いのか

みんなケラケラと笑っている

人だかりの向こうでひとりの男が樽の上に乗り

口から火を吹き

目を見開いているのがみえた

赤い奇妙な衣装を身につけたその男が

今度は槍をみんなに向けて突くマネをする

笑った顔から突き出た長い舌は真っ白で

白目に血管が浮き出ているのが遠目にも分かる

そんな大道芸が

最近町のあちこちに現れては人目を惹いては

人だかりができるのだ

僕はあの火を吹いた男を以前見たことがあるが

それが何処だったか

とんと思い出せない

なぜだか嫌な予感がして

背筋に悪寒が走った

部屋に戻ってテレビをつけると

見慣れない男と女が裸で絡み合っている

男が横になった女に呟いた

「愛しているよ…」

直後に男がカメラに振り返り

ペロっと長い舌を出した

その薄汚れた灰色の舌には

冗談というシールが貼られていた

僕はなんだか息苦しくなり

窓を全開にすると

いままでかいだこともない異臭が鼻をつく

遠くで何かが炸裂する音がしている

窓下の通りを数人の男達が走りながら

「やっちまえ、やっちまえ!」と絶叫していた

胸騒ぎが起きて

洗面所に走って行って顔を洗うと

赤く濁った

いままで見たこともない液体がとめどなく流れ

僕はその場で卒倒してしまった

どのくらい経っただろうか?

うなるような轟音の音で目が醒めると

外はどんよりと暗くなっている

窓に近寄り空を見上げると

見知らぬ飛行物体が上空を埋め尽くしている

咄嗟に逃げようと駆け出すと

今度は足元から地鳴りがして

部屋全体がガタガタと揺れ

僕は立っていられなくなり

そのまま窓の枠にしがみつく

窓下を

あの大道芸に集まっていた人達が

悲鳴をあげて逃げ惑っている

僕はあの大道芸の男の顔を

やっと思い出したのだが…

 

 

 

湘南クラシック・ホテル

 

湘南ホテル

 

以前、鵠沼海岸沿いに湘南ホテルというのがあった。

新しくはないが、結構、建物が洒落ていたので、

私はかなり気に入っていた。

外観は洋風で、重厚。

しかし、威圧感のようなものがない。

薄い緑色の外観が美しかった。

窓からは、海沿いの国道134号線を隔てて、海が見える。

静かな夏の早朝には、波の音も聞こえた。

小振りだが、地下には室内プールもあって、

真夏のカラダを冷やすのに最適だった。

実は、

この海岸沿いの道を学生時代からずっと通っていて、

ホテルの存在を、私は全く知らなかった。

中年になってふとしたきっかけで知ったのだが、

そのときはすでに閉館が決まっていた。

そこそこ繁盛していたように思うが、

このホテルは個人オーナーのものだったので、

閉鎖は相続の問題も絡んでいたらしい。

とても残念だった。

現在、この跡地には瀟洒なマンションが並らぶ。

いまでも時折、この前を通ると、

あの夏の日の、家族の笑顔が思い浮かぶ。

 

 

なぎさホテル

 

逗子のなぎさホテルの外観は小振りで、

見るからに古い洋館の造りだった。

海沿いを走っていると、こんもりとした緑の中に

ポツネンと佇んでいる。

若いひとから見ると、単なる古い洋館だ。

一見、時代に取り残されたように建っている。

しかし、一端中へ入ると、

黒光りする柱や漆喰の美しい壁が、

訪れたひとを魅了する。

私はここを、編集者時代に企画を出して、

取材と称して泊まったことがある。

しかし、取材の件は一切口には出さないで、

個人名で宿泊した。

カメラマンと男同士の宿泊は、

少し奇妙に映ったのかも知れないが、

まあ、それでも一般客として途中まで通した。

結果的に、ホテルのスタッフの方々の対応も、

そして食事もとても満足のゆくものだった。

結局、取材と撮影は最終日にホテルに切り出し、

慌ただしい仕事となってしまったが、

自ら納得したホテルを紹介することで、

自分も満足することができた。

もうだいぶ前に取り壊されたが、

作家の伊集院静さんが若い頃、

このホテルの居候をしたことがあるという。

そして後年、「なぎさホテル」という本を出版している。

彼にして、それほど思い出深く、

居候になるほど癒やされる、

素敵なホテルだったのだと知った。

 

 

パシフィックホテル

 

パシフィックホテルは、

茅ヶ崎の海沿いに忽然と姿を現すホテルだった。

古いホテルにしてはタワー型で、

当時としては画期的な建築物だったように思う。

このホテルを知ったのは学生時代で、

近くに波乗りのポイントがあり、

そこに通うようになってからだった。

高級ホテルだったので、

私は最上階の喫茶しか利用したことはないが、

ここからは、湘南の海が一望できた。

海を見下ろすという感覚は、

ここが初めてだったように思う。

一時、あの加山雄三さんのもちものであったし、

また、サザンの桑田さんも歌っているように、

そして大好きなブレッド&バターも、

このホテルの曲をかいているように、

皆に思い出深い、存在感のあるホテルだった。

 

 

湘南から姿を消した名ホテルは、

ときを経て、私のなかでより美しさを増す。

現存しているホテルでいまでも気になるのは、

大磯プリンスホテルと鎌倉プリンスホテルだ。

 

 

大磯プリンスホテルはクラシックホテルになれず、

ただ建物ばかりが古びていた。

まわりにこれといった観光地もない。

しかし、広い敷地がとても贅沢に使われていて、

空と海の広がりを堪能できる。

ここからの海の眺めは、湘南随一。

ホテルの前の西湘バイパスがなければ、

とても静かなのだが…

数年前にリニューアル・オープンしたので、

3回ほど足を運んだ。

ラウンジを吹き抜けにして、かなり派手な印象。

フロント付近では、外国からの観光客ばかりが目につく。

のんびりとした温泉施設も大幅に改造されて、

ハイカラなスパに生まれ変わっていた。

残念だったのは、

小高い庭に建っていたガラス張りの教会が、

すっかりなくなっていたことだった。

海辺に建つあの美しい教会を壊すとは…

思うに、このホテルのリニューアルを企画した人間は、

実は大磯プリンスホテルのホントの意味での良さを、

何も分かっていないのではないか?

 

 

鎌倉プリンスホテルは、

七里ヶ浜の丘の上の高級住宅地に建っている。

プリンス系列のホテルにしては、こじんまりしている。

プリンスホテルは、どこも高台が好きなようで、

いまはもうない横浜・磯子のプリンスホテルも、

横浜の海を見下ろす高台にあった。

シーズン・オフに宿泊したことがあるが、

横浜の海が見渡せる上階の部屋を希望したにもかかわらず、

一階の奥まった景色の悪い部屋に通された、

個人的に苦い思い出がある。

以来、一度も足を運ばなかったので、

ここの魅力は不明なのだが。

 

鎌倉プリンスホテルは、各部屋がビラのように、

丘の上に長く延びる3階建て。

正面の部屋は、海を真向かいに見て、

他は江ノ島方向を向いている。

どの部屋もハズレがなく、

山側という部屋がないので、たいした格差がないのが良い。

最近、ホテルをまるごとリニューアルして、

全室禁煙にしたので、もう私は行かないが、

あのホテルはなんというか、

隠れ家のような魅力があった。

 

 

いまはもうないホテルも含めて、

湘南の海辺に建つホテルは、

どれも個性的で美しい。

美しかった。

 

 

海沿いの134号線を走るたび、

それは潮の薫りに乗っては再び甦る、

蜃気楼のようなものになりつつある。

 

 

 

空のうた

 

空の写真ばかり撮っている。

いまのところ、

カメラ、アイフォン等に収めた、

空の写真の占有率は、70%をこえている。

一眼レフとかそういうのはメンドーなので、

いまではアイフォンでパシャパシャ撮る。

 

 

プロのようなテクニックがある訳でもなく、

アーティスティックな構図をマスターしたこともない。

ただ、好きなだけ。

それだけだ。

 

 

空を撮影する資格とか、

権利などというものは、もちろん存在しない。

プロのカメラマンしか撮ってはいけない、

この空は弊社の空です、我が国の空です、

なんていうのもありそうだが…

 

 

空は誰のものでもない。

そして誰のものでもある。

大きく捉えれば、地球の共有物。

 

 

空って、要するに自由の象徴なのだ。

 

 

 

空の写真を撮っていると、とても落ち着く。

リラックスできる。

いや、快い興奮と胸の好く感動さえ覚える。

同時に湧き上がるいろいろな事柄を、

ゆっくりと咀嚼することができる。

それはいいこともよくないことも。

 

 

撮影対象物とは別の、

もうひとつの心象風景のようなものが、

浮かび上がることもある。

 

 

そうした気持ちを携えて空を撮る。

 

 

写る絵は、色は、感情は?

それは空が勝手に描いてくれるので、

私は、チャンスのみにかける。

それだけだ。

 

 

そこには、過去の棚に置かれて、

いまはもう忘れてしまった、

忙しい日々には到底みえる訳もない、

とても大切な何かの断片らしきものが

写っていることがある。

 

 

それがおかしみなのか、

悲しみなのか、

とても懐かしいものなのか、

忘れてならない事なのか…

 

 

その何かを「どうぞ」と差し出してくれる。

それが空なのである。

 

 

 

 

今夜も妄想

 

そんなに楽しいもんじゃないなぁ、

人生って…

最近何故かそう思ってしまうのだ。

 

毎日がパーティーのような、

宴会のような…

 

そんな人生ありえない。

そもそもそういうのって

くだらないけれどね。

 

イマドキの世間をよくみてごらんって、

冷静な私が疲れた私に諭す訳さ。

若い頃は甘い未来予想図を、

少しは描いてはみたけれど、

これは人生をなめているなと。

 

一転して、

「荷を背負い山を登るが如く」と、

改める。

 

仕事に追いかけられたり、

金が途切れたり、

体がだるかったり、

それでも頑張って無理に笑顔で接してみたり…

まあ、苦労が絶えない。

 

が、生きるってだいたいそんなもんでしょと、

最近になって気がついた。

 

寝不足の夜更けの僅かな時間に、

往年の女優、グレタ・ガルボを観る。

ハービーマンのフルートを聴く。

 

仕事の合間をみて、河原へ焚き火にでかける。

写真を撮りにあちこち歩き回わる。

夕飯においしい肴にありついたりすると、

まんざら捨てたもんじゃない、

生きているって、なかなかいいじゃんとなる。

 

人生って実はとても単純そう、

がなかなか入り組んでいて、

一見浅いようで、

どこまでも深遠。

 

遂には、対極にある死についてさえ、

考えざるを得ない状況に出くわす。

 

生と死は一見、

こちら側、あちら側と分けることができそうだが、

これらが実は混在していて、

同じ世界の表裏に同時に、

いやそれさえ曖昧なまま、

すでに在るのではないか。

そう思うようになった。

 

最近、親しい友人ふたりがいなくなってから、

そうした想いがよりつのる。

 

あいつ等、どこかにいそうだ。

ホントは電話にも出そうだと。

 

まだ解決していない話がいくつもあるじゃないか。

しかしそれにしてもあいつ等、

最近何しているのだろうか?

手を尽くせばなんとか話せそうだ。

 

死して、相変わらず生きている。

そう感じて仕方がない。

 

 

さて今夜はデードリッヒの歌でも聴こうか。

そのうちグレタ・ガルボとも話せそうだし。

 

分かってくれると嬉しい。

生きているって、実は妄想なんだってことが…