東京詩人

 

詩人はいつも

ビルの谷間を歩き

3番線のホームに立ち

そして地下鉄東西線に乗って

暗闇のなかの景色から

着想したりしていた

 

あるとき

野山を吹く風のように

詩人は海を渡り

砂漠を横断し

ヒマラヤで眠りについた

 

そこで空を昇る術を手に入れ

詩人は大気圏を脱出し

天を垣間見たりした

 

ときに詩人は

そうして天の川に身を浸し

ほうぼうを思索したりした

 

そんな話を誰にもしたことがない

妻や子供にも言わなかった

 

詩人は実は一編の詩も

まともにかけない詩人だったが

あなたの夢に

すっと入り込むことはできる

 

しあわせな朝が

訪れますようにと

 

 

詩人の詩人たる所以である

 

友も奥さんも孫もワンコも まとめてバーベキュー

   

 

まさか、大雨がやむとは思わず、

他の方々は残念ながら、

諦めたのだろうよ。

 

 

前日にキャンセル続出の、

宮ヶ瀬湖のバーベキュー場。

 

しかし、朝からピーカンです。

会場は、晴れを信じた私たちしかいない。

まわりは賑わいどころか、

まず人っ気がない。

山あいはしんと静まり返っている。

ちょっと異様だ。

 

雨上がりは、冷気が残っている。

炭をがんがん入れ、肉を焼き、

やがて食うほどに陽も高くなり、

体温も気温も上昇し、

ようやく夏っぽくなってくる。

 

 

しかし、肉を食うペースが

みんな遅い。

以前はなかった漬物が、

数年前から登場。

なかなかの人気を博しているから、

可笑しい。

野菜も年々増えて、

なんか健康度がアップしているなぁ。

アルコールを飲む人も極端に減った。

 

数年前から、

大学時代の仲間と集まるようになった。

最初は、横浜のイタリアンレストランで、

10人くらいで再会した。

なかなか面白いので、

いろいろ趣向を凝らそうと、

次回の企画をあれこれと立てるも、

孫もワンコも小雨でも、

との希望をまるごと引き受けてくれるところがない。

結局、ここのバーベキュー場が残った。

消去法で決まった訳。

 

いい加減、お腹が膨れたところで、

みんな歩きたがっているのが分かる。

じっとしていると、

本当に固まっちゃうからね。

 

午後、陽射しが強烈になる。

雨上がりだからか、

風が透き通っているって、

みんなが口々に。

空気、見えないけどね。

 

 

孫も増えて愛犬もいて、

顔ぶれがどんどん増えて、

内輪だけでも結構な大所帯。

 

山あいに、

60~70年代のロックやポップスが、

風に乗って吸い込まれてゆく。

音楽は、一行の共通項でもあるから、

みんな言わなくても、

各自あれこれ想いを馳せながら、

聴き流している様子。

 

 

 

とても平和なひととき。

 

振り返れば、

40年来のつきあいになる。

この仲間たちと、

確か77年に野沢にスキー合宿へ行った。

 

あの頃は全く疲れなかった、

といえばおおげさだけど、

やはり時の流れを感じるなぁ。

そして大学の卒業式の日は、

みんなまともには帰らず、

横浜駅近くのディスコ、ソウルトレインで、

朝方まで踊り狂った。

誰も休まず、

連続して踊り続けていた。

 

飲んだビールの水分とアルコールが、

汗となって体中の汗腺から、

凄い勢いで抜けてゆくのを実感した。

 

若いっていうのは、

なんか素晴らしいな、良かったなと、

つくづく思う。

 

帰りにみんなで近くの温泉でも、

と思ったが、

ワンコがかわいそう、

ということで現地解散。

 

さぁて、次は?

との話になるも、

やはりここ、同じところか…

 

他にないかね?

 

 

いきなり「人生100年時代」

 

地元の同窓会へ行ったら、

約半数の同級生がリタイアしていた。

彼らの集合場所は、パチンコ屋と聞いた。

ほう、いいねぇ、地元に残った方々よ。

 

で、今度は大学時代の友人たちと集まったら、

約半数が再就職していて、

給料が現役時代の約半分ほどで働いているらしい。

うーん、こちらは厳しいなぁ。

 

どちらも、盛り上がる話題は病気のことで、

血糖値高い自慢とか、手術の話とか、

ちょっと気がかりな体験談が多い。

 

まあ、そんな私も老後はどうしよう、

幾つか患ったけど、

まだ元気なうちに旅行とかですね、

いろいろ妄想していたが、

ここんとこ、あちこちで「人生100年時代」とか

言い始めていて、えーっとのけ反った訳。

 

働くのは嫌いじゃない。で、金もそんなにない。

じゃ働くか、で現役続行しているのだが、

それにしても人生100年とか人生100年時代って

なんだ? と思う訳。

 

年金支給開始を引き上げる国の算段とか、

人口減少による働き手の不足とか、

まああれこれ思い当たるけどね、

が、人生100年時代とか急に言われると、

身体の力が抜けるんですね。

やっとここまで生きてきたのに、

ストレスいっぱいで働いてきたのに、

まだ残りが40年弱もあるの?

と、なんだかね、

だらーっと身体の力が抜けるんですね。

 

42.195キロを走り抜いた選手に、

「おー君! まだだよ、

ゴールがいましがた変更されたのね。

まだ走るんだよ、君!

ゴールはこのずっとこの先の、

あの山の頂上あたりかな、

見えるだろう?

そう、雲に霞んでいるけど、

旗がたっているからね、

あとひと息だよ、さあ頑張ろうね。

そーれダッシュ!」

 

そんな感じ?

 

もう我々ってそんなに体力ないし、

身体もいたわらなきゃならないし、

みんな患っているし、

んー困った。

 

しかしだ、人生100年時代って、

いったい誰を対象にしているんだろう?

いまの若い人たちなら、

寿命はこれから更に延びるだろうし、

それならなんか分かる。

(にしてもやはり疑問だらけだ)

けど、人生100年時代が

私らに向いたアジテーションならば、

ちょっと現実離れしていると

言えなくもないよなぁ。

 

みんな、早々に患うよ!

10年や20年で、ほぼみんな死んじゃうよ!

 

で、生き延びた奴らは神様扱いか?

冗談です。

 

この先、働き手がどんどんいなくなる。

年金のプール金もどんどん減っている。

さらに国の年金の運用があまり上手くない。

 

わー、なんか未来が怖い、

バラ色の人生なんか、

この先絶対にこないね!

 

100年生きる自信がない。

仮に生きる保証があったとしても、

金がない!

 

さあどうする。

追い詰められた我々よ!

このまま死に向かって、

がむしゃらに働き続けるか?

いーや、海外へ逃亡する、

いや移住する?

 

そんな度胸もない。

 

金の力でなんとかする輩もいるだろう。

で、金のない奴には、

いやー、この先恐ろしい世の中だね。

たとえ健康でも、気は抜けない。

 

なんか寂しい終わり方だなぁ…

 

 

「湘南異論」(架空レポート)

 

1970年代~80初頭の数年間、

 

僕はカリフォルニアのサンディエゴという都市に住んでいた。

 

交換留学生としてこの町に来たのだが、といっても、

 

私立で、ある程度お金を払えば、

 

だれでも行ける程度のものだったので、

 

まわりも遊び目的の留学生が多かった。

 

 

サンディエゴはこの頃、すでに街からヒッピーたちは消え、

 

新たなムーブメントがあちこちで花ひらいた頃だった。

 

 

さんさんと光が降り注ぐ太陽の元、サンディエゴの人たちは、

 

体にいい食事とスポーツにいそしむようになっていた。

 

なかでもヨガは一大ブームとなり、

 

海沿いにはヨガスタジオが林立し、

 

サーフボードを抱えた若者が、立ち止まって内部を眺めていた。

 

 

街ゆく彼らは、一様にオープンな性格で、

 

活動的だったのが印象的だ。

 

 

それが新たなムーブメントの影響なのか、

 

気候風土的なものから来ているのか、

 

リベラルを支持する土地柄からなのか、

 

僕には皆目分からなかった。

 

 

こう書くと、アメリカのお国柄じゃないかと言うひともいるが、

 

それは当たらない。

 

アメリカ中南部の保守的かつ内向的な人々と接すれば、

 

それは明白だった。

 

 

サンディエゴの海岸沿いの道は、年がら年中、

 

バハバグと呼ばれる改造車やバギーカーで、

 

クラクションを鳴らして疾走する若者たちで溢れていた。

 

アメリカ製のムスタングなどの改造車は極端に少なく、

 

大半がビートルだった。

 

なぜドイツのビートルだったのか、

 

そのルーツがナチス・ドイツにあることなど

 

誰も気にすることなく、単に構造のシンプルさから

 

人気に火がついたのだろう。

 

 

留学生の中でも、とりわけ地味な僕は、

 

彼らのあっけらかんとしたものの捉え方にかなり引いてしまい、

 

やはり同じ海沿いでも、

 

もう少し落ち着いたシアトルを希望すべきだったと後悔した。

 

 

一方で、そうした若者たちをさげすむ連中も次第に増え、

 

その彼らこそがめざしたものが、

 

もっとまじめで革新的な生活スタイルだった。

 

それがのちに一大ムーブメントとなってゆく。

 

 

彼らは、たとえば自転車を自分たちに相応しい道具と捉え、

 

CO2を排出する車を避けるようになる。

 

自転車のフレームデザインなどを個性的に作り変え、

 

次々とネイチャーカラーに塗り替え、

 

自然志向の暮らし方を模索し始めていた。

 

 

がぶ飲みしていたコーラをやめ、ハンバーガーを控え、

 

糖分や油について考察するようになっていた。

 

彼らは、ハーブティーなどのオーガニックな飲み物と

 

採れ立ての無農薬野菜のサラダをこよなく愛した。

 

 

新たなライフスタイルが、次第に形になり始めていた頃だ。

 

 

そんな彼らをみていて、僕はまだ、その意図がよく分からなかった。

 

 

そうした変化は、やがて思想や人生観までをも揺り動かし、

 

ニューヨークを中心とした東海岸の文化とは異なる、

 

これまでのアメリカにはなかったムーブメントが、

 

西海岸から生まれた。

 

 

そうした光景をまざまざと見せつけられ、

 

それでもなお、僕はハンバーガーとコークに執着した。

 

当時の、僕らの一種のあこがれが、

 

そうしたアメリカの食生活だったので、

 

アメリカ西海岸の新しいムーブメントの目的が、

 

当時はまだ理解できずにいた。

 

 

1982年に帰国した僕は、何かと湘南にでかけていた。

 

そこで目にしたものは、未完成ながら次第に形成されつつある、

 

いまに続く、湘南のカリフォルニア化だった。

 

 

海沿いに次々としゃれたレストランやカフェがオープンし、

 

そのどれもが自然派志向のメニューを取りそろえていた。

 

やはり、ハーブティーや無農薬野菜のサラダにこだわっていたのが

 

印象的だった。

 

 

サーファーたちの多くが、

 

移動手段を車から自転車に変えていたのもこの頃からだった。

 

 

麻の紐と貝がらなど、

 

自然素材でつくるアクセサリー類を売るショップも、

 

この頃からぽつぽつと目につくようになり、

 

そしてやはりというべきか、

 

海を一望できるヨガスタジオというのもオープンした。

 

 

「サンディエゴとまるで同じじゃないか…」

 

僕の素直な感想だった。

 

 

そのつぶやきをせせら笑うように、

 

湘南のそうした流れはさらに加速していった。

 

そして、いまに至っている。

 

 

湘南に住むひとたちは、

 

いまではそうしたナチュラル志向のライフスタイルが、

 

一見、自然と身に付いているように映る。

 

そして、東京や横浜とは価値観を共有しない独自の進化を

 

遂げている。

 

 

結果、湘南はブランドとなり、その人気は不動である。

 

 

しかし、日米のムーブメントをライブで目撃してしまった僕としては、

 

複雑な感情を抱かざるを得ない。

 

 

サンディエゴの街はいま、すでに先見性は薄れてしまったが、

 

そのライフスタイルはいまも確実に根付いていて、

 

かつてのムーブメントとは違った、

 

とても落ち着いた海辺の都市としての魅力を放っている。

 

 

一方、湘南である。

 

いまも言わずと知れた一大観光地として進化しているが、

 

かつてカリフォルニアをコピペしたこの地は、

 

この先、いったいどこへ向かおうとしているのか。

 

 

カリフォルニアスタイルは、湘南スタイルとして、

 

どこまで浸透しているのか。

 

いや、単なるスタイルだけでは危険な匂いがしないでもない。

 

それが問題だ。

 

 

ひょっとしたら、

 

或る日、私たちが目撃する湘南は、

 

古びた海岸沿いの田舎まちとして映るのかも知れない。

 

 

夢なら、いつかは醒めるのだから。

 

 

ショーケンれくいえむ

 

 

わかい頃、水谷豊が

「兄貴ぃー!」って呼んでいた。

そこからショーケンこと萩原健一は

ずっと我らの兄貴ぃー!でもあった。

 

ヤザワではない。

高倉健でもない。

 

そもそも芸能人に憧れるガラではないし、

まして同性なのに。

が、唯一ショーケンだけにはたそがれた。

 

グループサウンズでおかしな衣装を着て、

あまり上手くもない歌を歌っていたが、

あれは彼の不本意だった。

よって解散を申し出たのもショーケン自身。

 

彼はそれ以前にブルースのバンドを組んでいて、

その道へ行きたかったらしい。

が、彼はブルースを目指さずに、

役者へ転向する。

 

これが良かったんじゃないかと思う。

 

役どころとしては「傷だらけの天使」のおさむ、

「前略おふくろ様」のサブが印象深い。

前者は、ショーケンのアドリブだらけ。

後者は、倉本聰の台詞とあって、

一字一句、台本のままだという。

 

黒沢映画の他、多彩に活躍したが、

やはり妙に素人っぽかった初期の頃に、

彼の地が滲み出ている。

 

倉本聰の作品は、彼らしくないという

意見もあるが、あれもショーケンのある一面と

言えなくもない。

結構ナイーブなところが発端となって、

騒ぎを起こしているし。

 

ショーケンが追求したのは、

ダンディーとか、男の中の男とか

そんなんじゃない。

 

一見、かっこ悪いと思わせる。

ちょっと親しみやすくて憎めない。

しかし、ふとした瞬間に、

寂しそうな表情を浮かべたり、

とてつもなく凶暴だったりする。

そこがヤザワでも健さんでもなく、

独特かつ不思議なオーラを放っていた。

 

実際、彼はそのような性格だと思う。

ずっと悪のイメージがつきまとっていた。

まあ不良といえばそのようにみえなくもない。

しかしその程度。

 

彼をウォッチしていて気づいたのは、

妙な正直さが仇となって、

逆に悪評が広まったり、

その風貌や態度から、

ネガティブな印象をもたれたりと、

随分とバイアスがかかった部分がある。

 

或る人たちにとっては、

良いところを探すのが

なかなか難しい人ではある。

 

こういった人間は、

我らの身の回りにも数人いて、

それは身近に付き合ってみないと、

みえてはこない。

 

たとえば、意外に正直であるとか、

思いやりがある、

誠実であるとか…

 

ガキの頃からの知り合いに

こういうのが割と多い。

みんな結構付き合える。

いや、いまも付き合いは続いている。

 

共通点は、みな一様に偉い人間や

偉そーに振る舞う奴には

徹底的に逆らう、というところ。

 

もうひとつ共通点があった。

心根がやさしいこと。

チンピラと違うところは、

カッコよく言えば、

強きを挫き弱きを助ける。

なのに、どうでもいいことで、

弱音を吐いたり…

 

こんな姿が、ショーケンにも投影される。

彼は何回も捕まったし、

結婚も離婚も数回繰り返した。

けれど、それらを軽々と

飛び越えてしまう魅力が、

彼には備わっていた。

 

ショーケンは実は、

ずっと映画の裏方をやりたかったらしい。

脚本とか、演出とか。

意外。

 

彼が亡くなる8日前の写真が、

「萩原健一最終章」の最期のほうに載っていた。

その写真は、

奥さんが隠し撮りした一枚。

 

そろそろ死期が迫っている。

本人も、死が迫っていることを

うすうす感じている。

 

ほの暗い部屋で机の灯りを点け、

彼の丸まった背中がみえる。

机に向かって、ずっとシナリオを、

声を出して読んでいたという。

 

我らの知る最期の男の背中が、もの悲しい。

 

人生を、

疾風のごとく通り過ぎた男。

やはり、最期までショーケンだった。

 

我ら、こんなに強くはなれないけれど…

 

合掌

 

村上春樹の志向を考えてみた

 

「騎士団長殺し」…

 

タイトルは奇抜な割に魅力がない。

なんだか2流のテレビドラマのタイトルのようだ。

おまけに1部2部各上下巻計4冊もあるので、

最初からどんと全巻を買うのは気が引けて、

まず1部上下巻を買ってみた。

文庫シリーズだけど。

 

かったるかったらやめよう。

そう思って買った。

結局、さらに2冊を買い足して、

現在2部上巻に突入している。

 

騎士団長殺しが面白いかといえば、

まあ面白いとしか応えようがない。

どう面白いかといえば、

作者の人間性が投影されているから、

そこに隠れている志向というか、

考えている、そして展開する世界に、

やはり惹かれるとしか言いようがない。

 

寝る前のひとときの読書が、

夕方になると待ち遠しい。

これには自分でも笑える。

 

 

当初、タイトルから想像していたものと、

まるで違うストーリーが展開する。

やはりこの人の書くものは、

エンターテインメントかつ

ファンタジックでミステリアス。

そんなことばが浮かぶ。

そして、人間というものを改めて考えてしまう、

そんな根源的な問題提起をも含んでいる。

 

平然とときを超えるような話は、

この人の得意とするところだが、

それはもう自然体。

当たり前の日常のように、

入れ込んである。

 

ここらあたりは、

昼間の雑多なメンドーなことを

すべて忘れさせてくれるので、

ストレス解消にも役立っている。

 

 

話は、日本の古い仏教の時代が出てくる、

と思えば、キリスト教の話と絡まったり、

それは複雑に入り乱れる。

これらは、すべては一枚の繪から始まるから、

読むほうは、当然謎を追いかけざるを得なくなる。

 

主な舞台は神奈川県・小田原の別荘地。

ここで物語は展開するのだが、

話は加速をつけて八方に飛散してゆく。

当然、謎の人物も登場する。

 

ストーリーはさらに海外にも飛んでゆき、

時間も超越して、

要するに、作者は自在に書いている訳だ。

 

約25年前の「ねじまき鳥クロニクル」では、

大陸で起きたノモンハン事件が出てきたが、

本編ではやはり戦中のヨーロッパや

ナチスの話にも及ぶが、

そこに不自然さは全くない。

 

登場する絵画をはじめ、

クラシック、料理の話から建築のこと、

そして当然、魅力的な女性や、

個性的な車など、あいかわらず演出は万全である。

 

村上春樹という人は、

ノーベル賞を狙っているのではなく、

実は、自らの創造する力で、

テキストによる映像化を突き詰めていると

思わせる。

 

ハリウッド顔負けの長編大作映画を

独りでコツコツつくる痛快さ。

 

―わざわざ映画化しなくても、

私の本にはすべての要素が詰まっている―

 

そう言いたげな彼の不適な笑みが、

脳裏に浮かんでしまった。

 

村上春樹の衰えない人気の秘密は、

こうした潜在的な志向が、

ずっと以前から

隠されているのではないかと

思えるのだが。

 

気になるアラカルト

 

●眞子さまって誰

小室圭さんという人がなぜ世間で騒がれているのか、

最近になってやっと分かってきました。

一見、好青年。

が、いろいろな事情が絡んでいるらしい。

で、眞子さまは誰の娘さんだろうと

ウチの奥さんに聞いたら呆れていまして、

「そんなことも知らないの!」

なんだか興味がないと何も覚えられない…

浦島太郎状態です。

「小室圭」の画像検索結果

 

 

 

●トランプと習近平

米中貿易戦争が本格化しそうです。

いまのところ、米国が中国を圧倒しています。

関税の争いとなると、米国に有利です。

まあ、中国の輸出量が膨大ですから。

しかし、ある説によると、

実は中国のほうが最終的に米国に勝つのではないかと。

米国の国力は低下しています。

経済も、一見好調と皆いいますが、

とてもバブリーな金融主体の国なので、

あぶないとの説も。

そもそもこれは経済戦争なのか、

そこが問題でして、

イデオロギーの戦いのようにもみえるし、

世界の覇権国としての争いのようにも映る。

いずれ、とばっちりはご免ですね。

 

 

 

関連画像

●マックよりおいしいよ

バーガーキングがうまい。

いまはもう閉店してしまったようですが、

湘南台のバーガーキングで初めてワッパーを食して、

それ以来ファンになりました。

肉とケチャップがやけにアメリカっぽくてね。

先日は相模大野のバーガーキングで休んでたら、

カーティス・メイフィールドのスーパーフライを

ガンガン流している。

近くに座間キャンプもあるし、まあ本格的。

マックとかフレッシュネスにはない雰囲気なのに、

日本ではイマイチ売れない。

また撤退しちゃうのかな?

 

 

●ユーチューブ広告は救われない

ユーチューブ有料版というのがあって、

お金を払えば広告なしの動画、音楽が楽しめる。

当初は月額にして、1180円。後1550円になるらしい。

思えば、不思議な現象である訳です。

広告を観たくないのなら、お金を払えば解決する。

料金は結構高いと思いますね。

いかに広告収入が大きいかという裏付けでもあります。

私が不思議と思うのは、そんなに嫌がっている広告なのに、

ユーチューブに出稿する広告主がいる、ということでして、

私が宣伝部長でもやっていたら、ユーチューブへの出稿は、

まず予算が余っていても外します。

要は、ユーチューブと広告は相性がよくない。

テレビやラジオと何が違うのか?

そこをよく考えると回答が出るのですが。

 

 

 

●ふたりのカメラマン

最近、木村伊兵衛の写真をみる機会に恵まれ、

彼の人となりも一応目を通した。

そこでどうしてもアタマに浮かぶのが土門拳。

同世代のふたりのライバルは、

いかに仕事に取り組んだのか?

そこに興味が湧いた。

洒落た出で立ちと作風の木村伊兵衛。

パリの街角とか人を撮らせると、

右に出る日本人写真家は皆無。

対する土門は、東北出身で粋な木村と較べると、

かなり土着的で地味な印象を受けるが、

作品をみると、どれも骨太で凄みがある。

これは好みの問題だろうが、

私は土門拳の作品に傾倒してしまう。

そして土門拳賞を受賞した鬼海弘雄が、

最近とても気になる。

彼の写真集「PERSONA」は、

浅草浅草寺を訪れる、いわゆる癖のある人たちを

20年に渡って撮り続けたものを収めた写真集なのだが、

ページをめくるたび、

彼がなぜその人を写真に収めたのか?

それが滲み出ている。

一見の価値がある。

筑豊のこどもたち

 

PERSONA

 

 

カーティス・メイフィールド

「君たちはどう生きるか」

 

 

 

遅まきながら

「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)という本を

読み始めた。

まだ、道半ばだけど。

 

評判が高く、ずっと気にはなっていた。

が、買うのは控え、図書館で借りた。

実はこの手の本を少々疑っていたので、

買わなかった。

 

タイトルからして、

哲学的な課題に真っ向から向き合っている。

私のストライクゾーンは相当狭い。

若い頃から、自身、けっこう悩んだ覚えがあるので、

自分なりのスタンスというものもあるし、

第一いまさらどう生きるか、ということより、

どう生きてきたかと振り返る年である。

よって偏狭な人生観を抱えているので、

ストライクゾーンが狭いと予想をつけた。

 

若い人が読む本なのだろうが、

この本がどういった切り込みをするのか、

そこに興味をもった。

 

寝転んでペラペラと読み始める。

表紙の帯には、

日本を代表する歴史的名著とある。

前書きは池上彰。

とても端的であり、興味を惹く文だった。

 

主人公のコペル君は中学生でいたずらっ子。

学校の成績は、飛びぬけて優秀というのではない。

彼が日常で遭遇するいろいろな出来事を通して、

彼は考え、そして成長してゆく。

親戚の叔父さんというのがいて、

この人はかなりのインテリである。

コペル君はこの叔父さんと仲がよく、

お互いの手紙のやりとりのなかで、

コペル君は次第に、生きるとは、

という難題について丁寧に考える、

という構成になっている。

これは、作者のひとつの仕掛けであり、

とても分かりやすい方法だと思う。

 

コペル君が遭遇するのは、

ほぼ日常に誰にでも起こりうる、

オーソドックスな出来事の数々。

とんでもない事件などない。

しかし、誰もが経験するような悩みが、

次々に出てくる。

 

コペル君も叔父さんも、

とても誠実な人間である。

私も思春期の悩みの数々を思い起こした。

 

しかし、如何せん説教くさい。

進行がまどろっこしい。

ひとつひとつの話が長くて、饒舌に過ぎる。

一応、小説のスタイルをとっているから、

致し方ないのだが、

話の構成が面白さを抑えてしまい、

次第に意欲が萎えてしまった。

 

この本が書かれたのは昭和10年だから、

戦争が始まる2年前である。

時代的に風雲急を告げるときだったが、

やはり時間の流れは、

まだ、ゆっくりと流れていたように思う。

この本を読んでいて、内容の悠長さに、

そんな気がしてしまった。

 

にしても、じっくりと読めないのは、

こちらのせっかちな性格のせいだし、

中身は若い人向けであり、

ピンとこないでもないのだが、

そういう悩みか…と、

ちょっと遠い心持ち。

 

戦争の足音がするなかでの、

正義、誠実、友情、思いやり…

とても大事なこと、大切なことである。

この本は、相当正しい。

 

が、それにしてもである。

生きるという難題である。

明快な回答こそないが、

正論がつらつらと並べられる。

それを息苦しいと感じてしまうのは、

なぜだろう。

正し過ぎるくらい正しい話に、

くらくらとしてしまうのは、

なぜなのだろう。

もう我が子等は成人しているが、

もし年頃だったとしても、

この手の本を読ませようとは思わない。

 

・自分の人生は自分で考える

・自分で考え決断する

・友情

・勇気etc

 

これら、当たり前のことであろうに、

いちいち語らねばならないじれったさと、

本の中身は全くまっとうなのに、

肯定もしたくないこちらは、

やはり、へそ曲がりなのか。

 

正論が正面から風を切って歩いてくると、

参ってしまう。

こうした本に狼狽してしまうのは、

私だけか。

 

それが目下の悩みかなぁ…

 

 

丘の上の春

 

春は、だいたい風が強い日が多い。

 

その風に紛れて花粉が舞っている。

それも数十種類いや数百の木々や花から

放たれたものだ。

 

これが目に鼻に辛い。

 

木の葉とか虫とか、

土、埃、細かいゴミ、

ビニール袋、

果ては人のため息まで舞っているから、

実は、春の風は身体に良くないのだ。

 

丘の上では、

そういうものが風の中にひしめいている。

が、ほとんどの人は気づいてはいない。

 

なにしろ、暖かさが人を油断させる。

霞のかかった景色に人は眠気を感じるから、

警戒心も解けてしまう。

 

 

色をなして、無数の生が無数の生に呼びかけている。

それは性であり、精でもある。

 

春は、命のお祭りのようなものなのだ。

 

 

しかし、それを謳歌と呼ぶには危なすぎるし、

危機と感じるには、あまりに面白みがない。

 

ただ、生きているという実感を強く感じることのできる、

この上なく猥雑な季節であることは確かなことである。

 

 

 

春景色7題

雪柳

春に小さい白い花を咲かせる雪柳。

暖かい陽ざしに決して溶けたりはしない、ユキヤナギ。

 

 

雲は流れる、時も流れてゆく。

ああと感嘆詞の瞬間さえ、遠くへ遠くへと消えてゆく。

 

 

水辺

水辺は季節を映す鏡。木々を空を水鳥を描く。

けれど、君の考えていることは、まず映さないからね。

 

 

不吉

とても美しい日暮れに身体を抜ける心地よい風。

出来過ぎた一日…つい良くないことの前触れかと勘繰ってしまった。

 

 

朝もや

朝もやのなかを、テクテクと歩いている酔っ払いがいる。

そこには、爽やかなズレのような空気が生じている。

 

 

お祭りに使う造花なんじゃないかと思うほど、過剰なきらびやかさ。

ソメイヨシノって、自然な不自然で咲いている自然の造花物。

 

 

桜山

満開なのに誰も見に来ない。無風。鳥の声も止んで。

この桜山は、有史以来ずっと孤独でした。