センチメンタル・ジャーニー

 

先だって富士におもむき、

初冬の紅葉を見に出かけたことを書いたが、

思えば、あれはあれで綺麗で美しいが、

ちょっと寂しくも感じるのは、

己の行く先を暗示しているようでもあるからだ。

 

 

いきものは、滅する前にもういちど華開くという。

紅葉は、きっとそのようなものなのだ。

 

冬は、万物が眠りにつくとき。

または、いきものの死を意味する。

だからこの季節は美しくも、もの悲しい。

 

永く生きていると、

或るときから死を意識する。

残された時間をどのように過ごすか?

その問いは果てしなく哲学的でもあり、

宗教的でもあるように思う。

 

いきいきと生きている先輩諸氏がいて、

さっさとあの世に行ってしまう

友人や後輩がいたりする。

 

死は知らず知らずのうち、

身近なものとして、

いつも私のまわりをうろついている。

 

若ぶるか、しっかり老け込むか…

分岐点に立つ人間は、そんなことさえ問題なのだ。

 

滅する前にひと花咲かせるとは、

まさに色づく老木の紅葉の如き。

なかなか粋な演出とも思えるけれど。

 

だから、紅葉には死のにおいがする。

紅葉があれほど美しいのは、

「生」というものに対する賛歌でもある。

 

こんなことを考えてしまう私はいま、

まさに生と死の分岐点に立ち尽くす

迷った旅人なのか。

 

いや、

未知の道を行く無名の冒険者として、

考えあぐねている最中なのだと、

肝に銘じている。

 

 

朝のうた

 

それはいつも

突然のできごとのように

つい思ってしまう

 

ベッドでボクが目を覚ますと

まず読みかけの本が目に入った

 

夕べ開いた

その本の内容を思い浮かべる

けれどそれは

すべて消えてしまって

なんにも覚えていない

 

徐々にだが

置時計のカチカチ音が聞こえてくる

手に触れるシーツの感触

うっすらと見えてくる白い壁紙

耳を澄ますと

外に人の歩く気配までしてきた

 

ああ新しい朝だと

いつもボクはそこで気づく

 

覚醒は進行し

ボクは起き上がって

戸を開ける

 

カーテンに飛び込んでくるあさひ

冬のキンと引き締まった冷気

 

それらがまるで

初めての体験のように

そのたびごとに

ボクは驚いてしまうのだ

 

枕元のペットボトルに気づいて

それを一気に飲み干す

 

朝はやはりというか

確実にボクの元に訪れたのだった

 

夕べ

ベッドで本を読みながら

そのまま消えてしまったボクは

気がつくと

この世界をふかんするように

遠いところから眺めていた

 

そこはなんというか

とても高いところのようであり

どこか別の空間のような気もする

そこは釈然としないのだが…

 

だから

新しい朝に生まれかわり

よみがえり

しかし予想どおりというか

一抹の不安のなか

この小さく些細なボクの朝に

ふたたび舞い降りることができたと

つい思ってしまう

 

毎日毎日くりかえす

なんの変哲もないこの朝に

だからボクは

深く感謝するのだ

 

横浜みなとみらい探訪

   

 

山岳部に住んでいると

時に海が見たくなる。

それも都会の海。

 

ボクが生まれ育ったところも、

横浜の工場地帯で海が近く、

しかしその海は

とても汚れていた。

 

今回はその対岸である

みなとみらい地区。

 

海をのぞくと澄んで底がみえる。

ここも以前はゴミが結構浮かんでいたのに、

最近はきれいになった。

 

みなとみらいは、

ボクが若い頃に突然あらわれた。

ここは以前、造船所だったので、

その印象が消えない。

 

当時、このあたりをクルマで通ると、

ものすごい金属をたたく音が、

鳴り響いていた。

 

日本が造船大国として、

世界に名をとどろかせていた、

そんな時代。

 

よって、みなとみらい地区は、

ボクにとっては、

新しいヨコハマである。

 

 

 

 

山下公園あたりの古い建物も、

まだ幾分残ってはいる。

が、保存する価値のある建物は、

手厚く守られているようだが、

それ以外は、スクラップ&ビルドの

憂き目に遭っている。

 

 

 

横浜公園は横浜スタジアムになり、

元町商店街は古びてかなりさみしくなり、

伊勢佐木町もなんだか勢いがない。

 

横浜駅の東口の海沿いから、

ここみなとみらい地区にかけては、

ほぼ未来都市の様相を施している。

夜に通るとそれは顕著だ。

 

 

で中華街で店をさがすときの話。

 

ボクは必ず裏通りをほっつき歩く。

毎回そうしている。

 

なるべく質素なたたずまいの店。

観光客がのぞこうともしない店。

セットメニューなどないし、

年寄りがのんびりとやっていると、

なおいい。

 

そこで適当なものを頼んで

のんびりと食う。

どれも必ずうまい。

なのに安いから、つい頼みすぎてしまうけれど、

ほぼハズレはない。

 

食後は、

伊勢佐木町の片隅にある小さなお店

アローザでコーヒー。

学生時代によく通った店だ。

 

ここは中華街からはちょっと離れている。

がこうしたコースを辿っていると、

懐かしい古い友人たちのことを思い出す。

 

だからと言う訳ではないけれど、

この新しい地区、みなとみらいは、

ボクのなかでは依然、実態の掴めない

幻のような地区であり、

それはそのまま東京のお台場や、

浦安のディズニーランドと一体を成す、

仮想都市のように思えて、

違和感のようなものが残ってしまうのだ。

 

多分、年のせいだとは思うけれど…

 

焚き火へGO!

 

前回の富士付近の旅行あたりから遊び癖がついてしまい、

今度は河原で焚き火です。

 

 

相方は、システム・エンジニアのF君。

シティーボーイながら、頑張って火起こしに挑戦。

(プログラムとは全く違うスキルなのですが)

 

薪も良いのを揃えたので、なかなかの炎になりました。

 

 

場所は、神奈川県の愛川町、中津川の河原です。

ここはよく来ます。

 

横浜の友人によく聞かれるのですが、

バーベキューと焚き火と何が違うのかと。

 

「焚き火ってなんか面白いの?」とも。

 

そうですね、バーベキューがエンタメだとしたら、

焚き火は、ちょっとキザですが「思索」です。

 

よってあの炎を眺めながら、

日頃は埋もれていた自分の内面の気づきとか、

アタマのどこかに隠れていた本能を呼び起こす作用とか。

 

まあ、アウトドア系の瞑想のようなものでしょうか。

 

話が盛り上がるならお互い饒舌にもなるし、

何にも話すことがなくても、炎をみているだけで、

何ら気まずいこともない。

 

焚き火ってなんだか不思議です。

 

単なる外遊びのような、カジュアルな儀式のような…

 

それでいてまた行きたくなる魅力がある。

 

けれど、やはり初冬の河原は冷えます。

陽が落ちると、気温がグングンとつるべ落としのように下がる。

 

 

 

 

この日は愛川町の気温が、夕刻7℃だったので、

おそらく水辺は3℃くらいだったかと思います。

 

河原には、泊まりとおぼしき本格派もいて、

キャンピングカーやジープやバンで来ている。

夕飯の支度に取りかかっている様子です。

 

アマチュア焚き火愛好家のボクたちは、

さっさと火の始末をして、

クルマのヒーターを最強にセット。

 

早々に家路につきました。

 

また来よう!!

 

↑シラサギが集まっていました

 

↑国産の広葉樹の薪が良い炎をみせてくれます

 

↑初冬の水面には沈黙という言葉が似合うような

 

 

富士をめざして

久しぶりに東名高速をかっ飛ばして、富士山をめざした。

 

山中湖畔に着いた頃から、陽ざしが出てきて、

なかなかの旅行日和になる。

 

紅葉が目にしみる。

湖面が光っている。

 

 

いつも夏しか来たことがなかったので、

紅葉の季節もなかなかいいなぁと思った。

 

 

湖畔から山へクルマを走らせると、

三島由紀夫文学館があった。

ここの存在をボクは知らなかった。

この日、宿で読むつもりで持参してきたのが、

偶然にも三島由紀夫の文庫本だったので、

ちょっと驚いた。

 

山中湖は標高が高いところにあるので、

昼間でもかなり寒い。

 

翌朝の気温は3℃だった。

 

 

河口湖をめざす。

新しい道路が複雑怪奇に増え、

ナビをみるのもメンドーになってきたので、

道路標識に従ってテキトーに走る。

 

早朝にもかかわらず、すでに湖畔の駐車場は、

クルマがほぼ満杯。

聞けば、紅葉まつりとか。

 

平日にもかかわらず人出が凄いことに。

ボクら夫婦は人混みと渋滞を避け、

湖畔の反対側へと移動。

富士を真正面にしたポイントに出会う。

ちょっとした横道に逸れただけなのだけどね。

 

 

「あっ、忍野八海に行くのを忘れていた」、

ということで、再びクルマを山中湖方面へ。

 

富士の絶景は、やはり忍野からでないと。

 

 

八海は陽ざしでまぶしく、

ちらちらと魚影がみえる。

 

 

見上げると空がでかい。

そしてやはり富士山はいつみても、

高く雄大だ。

 

山頂にわずかだが白いものがみえる。

 

が、ここも観光バスがひっきりなしに来ては、

人々を排出して、ひとひとひとだ。

バスから降りてくるのは、

ほぼ外人さんばかり。

 

インバウンド再開。

コロナはどうなったっけ?

この日はアメリカの中間選挙。

ウクライナは収まらず。

連日、北朝鮮からミサイルも飛んでいる。

地震も最近多いような。

 

おそらく来年は日本も、突然円高に振れるだろう。

インフレはさらに加速するだろうし、

ボクたちはさらに厳しい生活を強いられる。

 

という訳で、

そんな諸々を忘れるために出かけました。

 

夢のような一時はまさにアワの如く…

 

 

東京脱出計画

 

かつて、那須に土地を買ったことがある。

お金が溜まったら、そこにログハウスを建てる。

庭で畑を耕し、裏の那珂川で魚を釣り、

その日暮らしをする。

 

そんなことを考えていたと思う。

 

那須の土地を買うかどうか、

現地に出向いたのは夏のとても暑い日だった。

 

東京から東北自動車道をひた走り、

那須インターを降りてめざす販売地に着いたが、

やはりそのあたりも東京都と変わらず暑かった。

 

めざす土地は別荘地区域とはいえ、

かなり山奥でその付近だけが整地されている。

背後は木々が密集して、

恐ろしくうっそうとしていた。

雑木林が、明るい陽ざしをキッチリと遮っている。

 

東京より気温は低いらしいのだが、

湿度が異常に高いと感じた。

空気は重くむっとしている。

 

「なんだかここ、暑いですね?」

私が、立ち会いに来た不動産屋のおっさんに話しかけた。

「そうですか、私はそんな暑くないですね。

ここは高原ですので、かなり涼しい筈なんですがね…」

 

そして

「でも今日は異常な暑さですね、

○○さん。悪いときに来ちゃいましたね」

 

敷地は、長方形で地形(土地のかたち)は良かった。

前の道路は4㍍程で狭いがこんなもんだろうと思った。

 

奥さんが「この辺は買い物はどこへ行くのですか?」

と切り出した。

(言い方にトゲがあるなぁ)

 

不動産屋のおっさんがしきりに顔の汗を拭いている。

で突然ニカッと笑って、先ほど私たちが来た道を指さして、

「いま来た道を15分程戻った所にスーパーがありますよ。

気がつきませんでした?」

 

私たちは顔を見合わせた。

家族全員(夫婦と子供ふたり)知らないという顔になった。

 

この不動産屋のおっさんはかなり焦ったようだ。

店の看板が小さかったから見過ごしたとか、

店が道路から奥まっているとか、

いろいろな言い訳をはじめた。

 

後にして思えばだんぜんあやしいおっさんなのだが、

当時の私には不動産を見る目がないどころか、

気持ちに焦りがあった。

 

自然がいっぱいのところで暮らすことが最良と考えていた私は、

早々に引っ越す土地を確保する気持ちばかりが先走っていた。

 

来る日も来る日もスケジュールに追われ、

徹夜など当たり前なのに報われない…

そんな東京での生活に早くピリオドを打とうと、

私は私なりに必死の土地探しだった。

 

ひととおりその土地のセールストークを披露すると、

へらへらの白いシャツを着た不動産屋のおっさんは、

汗をふきふき愛想を振りまいて、

とても忙しそうにして先に帰っていった。

 

不動産屋のボロボロのカローラが印象的だった。

 

私たちは現地で即答はしなかった。

買うとも買わないとも意思表示はしていない。

 

残された私たち一家はさしてやることもなく、

またじっとその土地を見ていても

なにも新しい発見もないので、

別荘地のまわりを歩いてウロウロしていた。

 

そこで小さな川をみつけ、架かる小さな橋から、

考えるでもなく川の流れを眺めていた。

 

突然、小学生の長男が私を呼ぶ。

橋の下で休んでいるアオダイショウをみつけたのだ。

 

おおっとみんなで叫ぶと、今度は私と長男とでその蛇に

石を投げはじめていた。

アオダイショウは逃げた。

 

思えばアオダイショウは私たちより先にあの川岸にいて、

しかものったりと休憩でもしているかのようにうかがえた。

私たちに敵意などをみせた様子もないし、

仮に敵意をみせたとしても、

それは当然のことなのだが。

 

なんであんなことをしたのか?

それがいま振り返っても全く分からないのだ。

(アオダイショウさん、いまさらだけどごめんなさい)

 

さて、私はあそこにログハウスを建て、

どのようにして生計を立てようとしていたのか?

そこが全く抜けていることを薄々知っていたのに、

当時の私はそこをあえて全く考えないようにしていた。

なんとかなるとも、ならないとも検討しない。

 

 

そんな精神状態は、東京から逃げる、

という言葉がふさわしかった。

きっとそれほど疲れていたのだろう。

 

奥さんは、この計画が実行されることはないと踏んでいた。

後に聞いたが、私が余りに疲れていたので、

計画に口を挟む余地がなかったと話してくれた。

 

しかし、この土地を買ってから私に変化が起こった。

(結局、買ってしまった訳)

いつでも逃げられる態勢だけは整えたので、

なにかゆとりのようなものが芽生え、

それが私を楽にしてくれた。

 

しかしそれから数年も経ち、

その土地を持っているという気も薄れ、

相変わらず仕事に没頭している自分がいた。

 

が、そろそろ他の要因で限界が来た。

年老いた親の事情も絡んできた。

 

急遽、私たち一家は神奈川の実家へ引っ越すこととなった。

 

結局、那須の土地は6年後ぐらいに手放した。

実家行きは、いろいろな事情が絡んでいたので、

めざす所ではなかった筈なのだが…

 

那須ほどではないが、転居先はやはり

いなかであることに変わりはなかった。

当初は不便を感じて、

生活や仕事の不満ばかりが溜まっていたが、

そのうち慣れてくると、

やはりいなかのほうが自分の性に合っているなぁと、

実感するようになった。

 

肝心の仕事は運も重なり、

なんとか生きながらえることができた。

(最も、行き先も違うし、

ログハウスも建てられなかったけれど)

 

結果的に私の東京脱出は成功したことになる。

 

いや、正確に記すと、実は私は東京を脱出したのではない。

 

追い出されたと表現したほうが嘘がないように思う。

いまでもそのほうが我ながらしっくりくるから、

きっとそれが本当なのだろう。

 

「19才の旅」No.9

(前号までの大意)

夢も希望もみつからないふたりの男が、

ゆううつな毎日を過ごしていた横浜の街を脱出。

東京・芝浦桟橋から船旅で沖縄をめざすことに。

時は1973年、8月。

沖縄が米国から返還された翌年のことだ。

ふたりの鬱屈した気分は、海と接し、

沖縄の地を巡るうちに、次第に薄らいでゆく。

19才の彼らはいろいろな事を思い描くようになる。

そして行く先々での出会いが、

彼らに新たな何かをもたらすこととなる。

 

(ここから続き)

 

19才の旅は、こうして終わりを迎えるのだが、

この旅をきっかけとして、

ボクたちのなかの何かが少しづつ変わり始めていた。

それは、遅まきながら、

社会というものを意識しはじめた、

ボクたちの新たな旅の始まりだったともいえる。

 

高校時代につまらないことが重なり、

人生につまずいたふたりだったが、

この旅で、「世界はなかなか広いじゃないか、

ボクたちもなにか始めなくては!」

と気づいたのだ。

 

以来、ボクたちは申し合わせたように、

目的もなく街をふらつくことをしなくなった。

 

そして考えはじめた。

 

自分の将来について考えはじめた。

これから何をめざそうか?

漠然とだが、そんな人生の目標について、

おのおの真剣に考えるようになっていた。

 

翌年から丸山は役者をめざして、

横浜の映画専門学校へ通うようになった。

彼は、以前から役者になりたいと話していた。

ただ、その第一歩が踏み出せなかっただけなのだ。

 

ボクは、卒業した高校へ久しぶりに顔を出し、

卒業証明書を手に入れることにした。

いい加減、アルバイト人生から足を洗って、

改めて大学を受験しようと決めたからだ。

 

それから数年が経ち、

当たり前のように誰もが経験するように、

ボクたちも社会という大波に翻弄されていた。

 

いくつもの紆余曲折があり、

相変わらず毎日毎日、

厳しい「旅」を続けていた。

 

丸山はというと、

いくつもの劇団を渡り歩いていた。

が、次第に月日ばかりが経ち、

その行く先々で、

「なかなか芽が出ない」とぼやいていた。

 

あるとき、彼と自由が丘のバーで会ったとき、

ミラーのビール缶を数缶あけた丸山が、

とても疲れた表情で、頭を抱えてこう言った。

「もう、いい加減に役者やめるよ」

 

「………そうか」

 

彼のいきさつをだいたい知っていたボクは、

そのとき気の利いたセリフなど、

なにひとつ浮かばなかった。

 

その後、丸山は小さな旅行会社で、

見習いのツアーコンダクターをしていた。

新大久保の倒れそうな古いアパートで、

彼は必死に仕事に励んでいた。

 

またあるとき、

彼はめでたく結婚をして中目黒に住んでいた。

丸山は毛皮の販売会社で働いていた。

 

 

ボクはといえば、なんとか大学を出て、

中堅の出版社へやっとのことで潜り込み、

場末の編集者としてのスタートは切れたものの、

3年半もすると心身ともに擦り切れてしまい、

会社に辞表を出していた。

 

その頃、ボクはすでに結婚していたが、

編集者からコピーライターへ、

出版社から広告制作会社へと、

職種と会社の同時転向を考えていた。

 

当然、経済的な基盤などできるはずもない。

 

毎日毎日、新聞の求人欄とのにらめっこが続く。

 

ようやく決まった会社もなかにはあったが、

徹夜ばかりとか、告知した給与に全く達しないとか、

そんな会社を幾つか渡り歩いて、

やっとのことで普通の広告会社に落ち着く。

 

そんなさなかに、長男が生まれる。

(このことはボクの人生において、

とても大きな出来事だった)

なぜなら、自分以外の人の為に働くという意識など、

それまでのボクには考えつかない行為だったのだから。

 

彼はとても元気におっぱいもミルクも飲んでくれた。

それはとても嬉しい風景だった。

 

夫婦ふたりで暮らしていたそれまでのアパートは

当然手狭になり、

広いアパートへと引っ越すことになるのだが、

お金のやりくりはいつも大変だった。

 

預金残高は、いつも危険な状態だった。

(いや、いつも誰かに借金をして

その場その場をしのいでいた)

 

そしてコピーライターとして働き始め、

広告会社を渡り歩くうちに、

気の合った数人のデザイナーと、

赤坂で会社を立ち上げることとなる。

が、一年も経たないうちに、

社内がもめはじめてしまう。

 

嫌気が差したボクは、そんなとき、

ふとフリーランスという新たな道を

みつけてしまった。

そしてせっかく立ち上げた会社をふらっと辞めた。

まあその決断が、

後に地獄のような貧乏生活を招くのだけれど…

 

 

沖縄への船旅で何かに気づいたボクらは、

それからの新たな目標をみつけることができた。

それは、ボクの人生にとっても彼の人生にとっても、

なかなか画期的な出来事だったと思う。

 

しかし、やはり現実は厳しかった。

若かったふたりが描いた将来像とは、

全く違った生活を送っていたのだから。

 

しかし結婚をしても子供ができても、

ボクらは相変わらず飲みに出かけていた。

 

結局、ボクたちはどこか似たもの同士だったのだ。

それは、社会や企業というシステム的なものに対して、

全くついていけない質である、ということ。

 

生来のへそ曲がりという性格も加わっていたので、

まわりに合わせることもできないで、

頑として自分のなかの何かを変えようとはしなかったことだ。

 

それは、幼い頃に持っていた理想の何かを、

潔く捨て切れなかったことだと思う。

 

飲み屋でビールを飲む合間に口を付いて出るのは、

「世の中とか会社というところはホントに面倒だなぁ」

 

(続く)

 

 

「19才の旅」No.8

 

与論島を離れるさいごの日、

ボクと親友の丸山は、

サトウキビ畑のなかを歩いた。

 

唄にあるように、確かにサトウキビ畑は、

風に吹かれて「ざわわ」と言った。

 

サトウキビ畑の向こうから波の音が聞こえる。

 

背の高いサトウキビの葉を、

手で必死で払いながら歩き進むと、

突如として目にまぶしい

白い砂浜が広がった。

 

そこにはもちろん誰もいなかった。

いや、ずっと昔から誰もいなかった。

そう思えるような、

とても静かで時間さえも止まっている、

そんな白い小さな浜だった。

 

朽ちた廃船が、

白い砂に半分ほど埋まって、斜めに傾いている。

破れたボロボロの幌だけが、

海からの強風でバタバタと暴れている。

 

遠く珊瑚礁のリーフのあたりで、

白い波が踊っているようにみえた。

その波の砕ける音が、

遙か遠くから聞こえる。

 

サンゴのリーフの向こうは、

まるで別世界の海であるかのように、

深いブルーをたたえている。

 

空と海のそれぞれに意味ありげな、

ブルーの境界線が、

水平線としてスッときれいに引かれている。

 

そこをなぞるように、

まるで水面から少し浮いているように、

一隻の小さな漁船が、

ポンポンという音をたててボクらの視界に入り、

そしてゆっくりと消えていった。

 

この旅で最後の一本となってしまった、

貴重なタバコであるセブンスターを、

ポケットから取り出して一服することにした。

そして遠くを眺めながら、ぼぉーっとする。

 

こんな時間が存在している。

ボクの知らない空間は、

この地上にそれこそ無数に存在している…

 

ボクは、この旅に出かけた自分と丸山に、

とても感謝した。

 

そしてふと手についた白い砂を眺める。

そのうちの幾つかの白い砂が、

星の形をしていることを発見した。

(ああ、これがあの星砂だ!)

 

とっさにボクたちは、

空っぽでクシャクシャになってしまった

セブンスターのパッケージを再び元の形に戻し、

その白い星砂を必死で探してはより分け、

丁寧にパラパラとはたいて、

セブンスターの空き箱へ入れた。

 

そんな地道な作業を、

一体どのくらいやっていたのだろう。

 

時間の感覚は失せていた。

 

それはまるで、

偶然にも砂金をみつけてしまった旅人が

興奮をあえて抑えながら、用心深く息を止め、

そっと金を採っては集めるという行為に

似ていなくもなかった。

 

その星砂を、

ボクは横浜へ帰ったら、

一度は別れてしまった女性になんとかして渡そう…

そんなことを考えていた。

 

なぜなら、そのときのボクにとっての宝物が、

その星砂であり、その人だったからなのだ。

 

しかしその星砂は数年間にわたり、

ボクの机の引き出しに眠り続け、

日の目をみることはなかった。

 

その後、その女性とは一切会うこともなく、

ボクの人生の軌道修正は叶わなかった。

 

机のなかで眠っていた星砂も、

いつの間にか記憶もないまま、

どこかへ消えてしまった。

 

 

(続く)

 

 

「19才の旅」No.7

 

話は再び、1973年の、

ボクと丸山の沖縄の旅へと戻る。

 

那覇空港の近くでハブとマングースの戦いを

見世ものとしてやっていた。

ボクは興味津々だったけれど、

料金が割と高いので、しぶしぶ諦めた。

 

観た人の話によると、「かなり凄い!

迫力がある。マングースはああ見えて、

なかなか強いからな」とのこと。

 

ハブは沖縄だけど、マングースは

一体どこから連れてこられたのだろう。

妙な疑問が生まれた。

 

その近くでは、

小さいワニの頭部をバックルにしたベルトが、

露天の店頭にずらっと並べて売られている。

 

その光景はかなり異様だった。

 

こうしたイベントやおみやげものは、

その後に開催された「沖縄海洋博」を前に、

すべて打ち切られたとのこと。

 

これは日本だけでなく、世の中の外面は、

だいたいそのようなことが切っ掛けで、

キレイになっていった。

 

が、それらが消滅してしまっのか否かは、

ボクには分からない。

ただ一旦隠れてしまったものは、

もう誰にも文句は言われないので、

制御の働きをするものは取り払われ、

本性だけがむき出しになる。

ハブとマングースの戦いは、

いまもどこかで開催されているのかも知れない。

それももっと高い料金で、

さらに残酷な見世物として。

小さいワニの頭部をバックルにしたベルトは、

その拠点を外国にでも移したのかも知れない。

 

それから数日間、ボクたちは首里城周辺を巡り、

そこから北部へ向かい、

コザのまちを経て再び那覇に戻り、

セスナ機で西表島へ飛ぶため、

空港でキャンセル待ちをしていた。

 

ちょうどお盆休みの時期だったので、

空港もごった返していた。

西表島行きは、何時間待っても駄目だった。

 

いい加減に待ち疲れたボクたちは、

小さな客船が与論島まで行くので、

数時間後に出航するという情報を得た。

 

目的地は違ったがその船に乗ることにした。

そこは船底で窓もなく、

ゴロゴロするしかないスペースだったが、

仮眠している間に隣の与論島へ着いてしまった。

 

 

与論島は、当時はまだ未開発の島だった。

民宿をみつけて、そこでようやくひと息ついていると、

ご主人がわざわざ部屋まで挨拶にきてくれた。

そして食堂にきてくれとのこと。

 

そこで地元の酒である泡盛を飲み干すこととなった。

というより、飲まされたというのが正しい。

 

泡盛を飲み干すのは、

島の歓迎に応えての感謝の意、とのこと。

よって飲み干すのが客の礼儀であった。

 

ここの泡盛はとても強い酒だった。

がしかし、途中で飲むのをやめるとか、

そんなことは礼儀に反する。

 

ボクと丸山は、茶碗に並々と継がれた

その泡盛を一気に飲み干した。

 

着いた草々にアルコール度数の強い

泡盛を飲み干し、

たちまち酔ってしまったボクたちは、

前後のみさかいもないまま、

夜の島をほっつき歩きはじめた。

 

途中、暗闇の先にネオンのあかりをみつけた。

(酔っ払いはネオンに弱い)

ディスコという文字が光っている。

近づくとそこはログハウス造りの建物で、

結構しゃれた店にみえた。

 

ドアを開けると、客がポツポツいる程度で空いている。

誰も踊っていない。

 

島で初のディスコということで、

もの珍しさがウリだったようだ。

 

音楽のボリュームがとにかく異常に高く、

まるで大都会の地下鉄の騒音にも似ていた。

 

会話はできない状態。

 

ボクらはそこでさらに飲んだくれ、

朝方までソウルミュージックにあわせて、

踊り狂っていた。

 

民宿に着くと、倒れ込むように寝た。

が、飲み過ぎと暑さのせいで喉が渇いて、

水を飲むためにたびたび起きてしまう。

結局、よく眠れないまま

夜明け近くになってしまった。

 

船で知り合った、東京から来たという大学生は、

民宿の外の砂浜で寝ていた。

確かに浜で寝た方が海風が涼しい。

 

二日酔いのまま丸山と浜辺を歩いていると、

雲間から朝日が昇る瞬間に出会えた。

 

ボクたちはその突然の風景にみとれていた。

めまいも吐き気も不思議と消え失せていた。

 

遠くの砂浜でヒッピーの男がひとり、

太陽に向かって祈りのような仕草をしている。

 

それから数日の間、ボクらは浜で泳いだり、

島の各所を自転車で巡ったりして過ごした。

宿の天井から落ちてくる大きなイモリに恐怖し、

夜は必ず強い泡盛を飲み、

この異国を巡るような旅に時を忘れた。

 

ふたりの横浜での鬱屈した日々は、

このとき何の跡形もなく、

すでに綺麗に消滅していた。

 

(続く)

 

「19才の旅」No.6

 

南太平洋の島々を、まるで各駅停車のように巡る

コンチネンタル航空機は、ようやく最終目的地である、

パラオ空港に到着した。

 

太陽の陽を受けて白く照り返す、滑走路。

前に降りたヤップ島の空港となんら変わりない。

 

ちなみにボクがパラオ諸島へ行った1981年、

この地は「ベラウ共和国」という国名だった。

不確かだが、ベラウ共和国の頭には

アメリカ領とあったと記憶している。

要はアメリカが統治権をもっていて、

完全な独立国ではなかったのだ。

 

国旗は、海のブルーをバックに、満月。

とてもロマンチックなデザインだ。

これは聞いた話だが、パラオの人たちの評判も

上々とのことだった。

 

この国旗は、ちょっと日本の日の丸に似ていると思った。

日の丸が昼なら、ベラウの国旗は夜を表している。

そこに、不思議な繋がりのようなものを感じた。

 

ボクは、この国旗のデザインがとても気に入ってしまい、

Tシャツの他、この国旗のデザインのおみやげを、

かなり買い込んでしまった。

 

この旅の目的地であるパラオ諸島では、

ボクはいかなる事件も起こさなかった。

慎重な行動を心がけた。

 

自ら起こしたトラブルがきっかけで、

自分を疑うようにもなっていたし。

振る舞いや行動に用心深さも加わり、

それは自分という人間を客観視するための、

良いトリガーとなった。

 

パラオ本島であるコロールには、

スーパーもガソリンスタンドもあり、

ミクロネシアの島々のなかでは、発展しているように思えた。

 

スーパーの棚には、アメリカ製のスナック菓子コーラ類も、

ズラッと並んでいる。

レジの若い女の子は英語または現地のことばしか話さない。

通貨はドルだ。

 

が、そのスーパーを出て歩いていると、

現地のおばあさんと偶然目が合ってしまった。

英語でこんにちわと挨拶をすると、

深いシワの顔をさらにクシャクシャにして、

「日本からかい?」と流暢な日本語で返された。

聞くと、ここは日本の統治が長かったので、

島の年寄りは皆日本語が話せるとのこと。

 

島の人々は、ボクのような日本人に

とても優しく親切に接してくれる。

人の名前も、キンサクとかフミコとか、

日本名の人がたくさんいるとのこと。

これには驚いた。

 

ボクたちが学んだ歴史の教科書には、

戦争中の日本軍に対しては、

ほぼネガティブな記述しかなかった。

よって良い待遇などあるはずもない。

 

が、他の島の人たちにもそのことを聞いて歩いたが、

一様に、日本が統治していた頃の感想は良いものだった。

 

ここで戦った先人たちは、何をめざしていたのか?

この戦争の真相は一体どこにあるのか?

 

この島の方たちのボクたちへの接し方をつぶさに振り返ると、

ボクは解明できない歴史の難問にぶつかったと感じた。

 

 

本島と隣の島バベルダオブ島にかかる橋は、

ピカピカの出来たてで大きくとても立派だが、

ジャングルが深いこのあたりでは、返って異様さを放っている。

 

ボクが滞在したホテル・ニッコー・パラオは、

そのバベルダオブ島にあった。

バベルダオブ島には店が一軒もないので、

ボクはこのふたつの島の行き来を、

島の若者から借りたバイクで済ますことにした。

 

バイクはホンダ製。

ボクが東京でも乗り回しているバイクもトレール車だったので、

不満も不自由さもなかった。

 

レンタルの金額はとても安かった。

ボクが提示した金額と彼が提示した金額が、

ほぼ同じだったことで、

よけいこの島に住む人に親近感を覚えた。

 

パラオの先駆的なホテルともいえるホテル・ニッコー・パラオは、

以前はコンチネンタル・ホテルという名だった。

従業員も米国人と現地のひとたちで構成されている。

 

ホテルはおのおの2階建てヴィラのような形態で、

湾を望む丘陵のヤシの木々の間に

ほどよい間隔を保って建てられている。

 

室内に入ると、南の島にふさわしく、

天井付近で大きなプロペラが回っている。

籐でつくられたベッドに、更紗のベッドカバー。

ベランダに出ると、ミントブルーの内海が望めた。

 

3日後、この島でスコールというものを初体験した。

暑さが極まると、あたりが暗くなり、

そして突然の豪雨になる。

が、数分で止むと、

また何もなかったように再び快晴になり、

カラフルな鳥が鳴き出すのだ。

 

 

ボクは、赤道を越え、南半球にいる。

日付変更線を越え、いまは電話も通じないこの島にいる。

 

ホテルのフロントの人の説明によると、

海底ケーブルはサメにでもかじられたんだろうとのこと。

そんな事情もあってか、ボクはかつてないほどの

リラックスというものを体験した。

もちろん異国であるとの緊張と用心はあるのだが、

東京での毎日の暮らしを思うと、

全く次元の違う、いわば幸福感のようなものに包まれた。

 

 

ホテルの裏山を歩いていると、

錆びて端はしが崩れている大砲が鎮座していた。

旧日本軍の大砲だ。

 

それは、当初ボクがイメージしていた南の島の平和な風景を

打ち砕くのに、充分過ぎる効果があった。

戦後の風雨に耐え、そして朽ちながらも、

ボクについ数十年前に起きた戦争のリアルを、

突きつけてきた。

 

サンゴの島々を巡り、海に潜り、

海を眺めながら新鮮なシャコ貝も平らげたし、

ホテルでは大きくて真っ赤なロブスターも食した。

 

100パーセントの楽しみがあるのなら、

ボクはその100パーセントをまるごと楽しんだような、

気がするのだ。

 

が、夜になって、現地のビールを飲みながら、

テラスへ出て夜空を眺めるとき、

日本では見ることのできない南十字星がみえると教えられ、

毎夜、それを仰ぎ見ていた。

そんなとき、どうも気持ちが淀んでいる自分に気づくのだ。

 

南十字星のことは、戦争映画を観てボクも知っていた。

先の戦争で南方に行った兵隊は、

皆、この星をみて大半が死んでしまったのだ。

 

このあたりの島々には、

ボクたちの先人の悲しい痕跡が多すぎた。

 

あるとき、ホンダのバイクで島を走っていると、

上下真っ白い服を着てお札を下げた一団をみかけた。

この人たちは、日本から来た遺骨収集団とのこと。

これからセスナ機でペリリュー島まで遺骨収集に行くのだと言う。

皆、年を召した方々で、

思うに、一緒にこの島で戦った仲間なのかも知れないし、

または戦死した家族の遺骨を探しに来たのかも知れない。

 

また後日、海上をボートで走っていると、

サンゴの海の浅瀬に横たわっているゼロ戦があった。

このとき初めて、ボクはあのゼロ戦の実際の姿をみた。

水がきれいなので、機体がすべて見通せる。

機体からは誰かが立てたのであろう、

竹の棒がスッと立っていて、

そこに千羽鶴が海面の上にびっしりと結わかれ、

海風に大きくなびいている。

 

これをみたとき、ボクは遂に耐えられなくなった。

そしてボクは再び混乱してしまった。

 

この旅の帰路、ボクは飛行機のなかで、

ここ数週間に起きたこと、見たことを、

まるで走馬灯のように、アタマのなかで巡らしていた。

そして、ボクは沖縄のひめゆりの塔のことを

再び思い出していた。

 

あのお年寄りが語ってくれた実話が、

ひしひしと身に迫ってくるようになるまで、

ボクには時間がかかり過ぎた感がある。

 

島のあのおばあさんが話してくれたこと

あの悲しみの一部始終の一端が、

少しづつ見え始めてきた。

それは染み入るように、

身体を通して、

徐々に理解できるようになっていた。

 

いかほどの時間をかけ、

それは偶然を装い、

実は誰かの巧みな計算によって仕掛けられた物事のように、

ボクの心に刻み込まれたのだ。

ボクが戦争というものを、

また改めて、歴史も含めて遡るようになったのは、

こうした経験を経てからだった。

 

 

―やはり世界は常に緊張している。

戦争は実はいつもどこかで起きている。

そしていつもどこかで起きようとしていた。

それは皮肉なことに、

いまも変わらないまま続いている―

 

 

(続く)