村上春樹の志向を考えてみた

 

「騎士団長殺し」…

 

タイトルは奇抜な割に魅力がない。

なんだか2流のテレビドラマのタイトルのようだ。

おまけに1部2部各上下巻計4冊もあるので、

最初からどんと全巻を買うのは気が引けて、

まず1部上下巻を買ってみた。

文庫シリーズだけど。

 

かったるかったらやめよう。

そう思って買った。

結局、さらに2冊を買い足して、

現在2部上巻に突入している。

 

騎士団長殺しが面白いかといえば、

まあ面白いとしか応えようがない。

どう面白いかといえば、

作者の人間性が投影されているから、

そこに隠れている志向というか、

考えている、そして展開する世界に、

やはり惹かれるとしか言いようがない。

 

寝る前のひとときの読書が、

夕方になると待ち遠しい。

これには自分でも笑える。

 

 

当初、タイトルから想像していたものと、

まるで違うストーリーが展開する。

やはりこの人の書くものは、

エンターテインメントかつ

ファンタジックでミステリアス。

そんなことばが浮かぶ。

そして、人間というものを改めて考えてしまう、

そんな根源的な問題提起をも含んでいる。

 

平然とときを超えるような話は、

この人の得意とするところだが、

それはもう自然体。

当たり前の日常のように、

入れ込んである。

 

ここらあたりは、

昼間の雑多なメンドーなことを

すべて忘れさせてくれるので、

ストレス解消にも役立っている。

 

 

話は、日本の古い仏教の時代が出てくる、

と思えば、キリスト教の話と絡まったり、

それは複雑に入り乱れる。

これらは、すべては一枚の繪から始まるから、

読むほうは、当然謎を追いかけざるを得なくなる。

 

主な舞台は神奈川県・小田原の別荘地。

ここで物語は展開するのだが、

話は加速をつけて八方に飛散してゆく。

当然、謎の人物も登場する。

 

ストーリーはさらに海外にも飛んでゆき、

時間も超越して、

要するに、作者は自在に書いている訳だ。

 

約25年前の「ねじまき鳥クロニクル」では、

大陸で起きたノモンハン事件が出てきたが、

本編ではやはり戦中のヨーロッパや

ナチスの話にも及ぶが、

そこに不自然さは全くない。

 

登場する絵画をはじめ、

クラシック、料理の話から建築のこと、

そして当然、魅力的な女性や、

個性的な車など、あいかわらず演出は万全である。

 

村上春樹という人は、

ノーベル賞を狙っているのではなく、

実は、自らの創造する力で、

テキストによる映像化を突き詰めていると

思わせる。

 

ハリウッド顔負けの長編大作映画を

独りでコツコツつくる痛快さ。

 

―わざわざ映画化しなくても、

私の本にはすべての要素が詰まっている―

 

そう言いたげな彼の不適な笑みが、

脳裏に浮かんでしまった。

 

村上春樹の衰えない人気の秘密は、

こうした潜在的な志向が、

ずっと以前から

隠されているのではないかと

思えるのだが。

 

雨月物語の妖しい世界

雨月物語を読んでいるうち、

妙な感覚に陥るのです。

江戸時代の後期に書かれたもので

作者は上田秋成という人です。

読むのはだいたい寝しな。

夜中です。

話のいずれもが、

生きている人とすでに死んでいる人が

違和感なく話したりたち

振る舞ったりしているのですから、

ちょっとこっちとしては困ってしまうのですが、

まあ、登場人物に生死の垣根がなく、

あるときは動物の化身が話したりと、

ある意味おおらかでいいんですね。

私の枕元のスタンド近くには

母の遺影が置いてありまして、

一応就寝前にひと声かけるのですが、

これまた日によって怒ったり微笑んだりします。

そして雨月…を読み進むうちに、

どうもあの世と現世の境が曖昧になります。

この雨月物語は、

話の下地が中国の白話小説らしいということは、

判明しているらしいのですが、

まあ日本各地の地名が出てくるので、

リアリティはあります。

たとえば白峰という話。

西行という坊さんが四国の白峰陵に参拝したおり、

いまは亡き上皇の亡霊と対面する。

果ては両者で論争となるのですが、

その場面がかなり迫力があります。

そして死んだ者が歴史を変えている事実を、

後に坊さんが確認するという話なのですが、

現世の営みに死んだ者も参加していて、

そこいらへんの境がない。

浅茅が宿は、なかなかの悲劇で、

ときは乱世。 

遠く京へ商売に出た男が

なんとか7年目に奥さんの元へ帰り、

すでに死んだ女房と対面するという話。

これは7年ぶりに対面した夫婦の風貌、

仕草、会話が秀逸で、涙をそそります。

蛇性の淫…このあたりからは話しません。

読んでみてください。  

さてこの世界って、

果たして生きているものだけで

動いているものなのか?

雨月物語を読んでいると、

この世というものはそもそも

過去の人もまぜこぜになって

成り立っている、

のかも知れない…

そんなことを考えたりもしてしまう訳です。

ある哲学書に死んだら無だとありまして、

違和感を感じたことがありました。

無とはさみしい。

そして想像しがたい恐怖が湧いてくる。

なので、最近は

無はどうも言葉の綾でしかないと

考えるようにしています。

雨月物語はまあつくり話なのでしょうけれど、

話と筆運びのうまさが引き立ちます。

よって、現実にはあり得ないのに、

引き込まれてしまう個所もしばしば。

作者の前書きが面白いんですね。

この時代からすれば

過去の名作である源氏物語の紫式部と

水滸伝の羅貫中を引き合いに出し、

彼らは現実にあるような凄い傑作を書いたばかりに、

後に不幸になったが、

私のは出鱈目(デタラメ)だから

そんな目にはあわないと宣言しているんですね。

これは卑下か、

いや厄除けのようにも思える。

しかし比較するものから思うに、

上田秋成はこの話を書いたとき、

相当の手応えを感じたに違いない。

要は自信のあらわれだろうと想像できます。

ちなみに雨月物語のタイトルの由来は、

世の中、怪しい事が起きるときというのは、

どうも雨がやんで月が見えるころらしい、

というところからきている。

ちょっと怖いけれど、

時間と空間を超えて綴られるこれらの話って

実はロマンチックの極みなのかも知れません。