風のみち

 

いつものように

ボクは通勤で通る

東京都目黒区中根の

目黒通り沿いを歩いていた

 

寝不足が続いていたので、

少し頭が痛む

とりあえす目頭をぎゅっと押さえ

早足で駅へ急ごうと

ピッチを上げたときだった

 

とつぜん身体がグラッとしたかと思うと

目の前が真っ白になり

次の瞬間あたりを見ると

その見慣れない道が現れたのだ

 

それは

空から舞い降りたように

かげろうのようにゆらゆらと

目前に伸びていた

 

一旦は後ずさりしたのだが

その道が海に続いているとボクは直感した

そしてためらうことなく

足を踏み入れたのだ

 

後に続くひとは誰もいない

前を歩く姿も見うけられない

 

 

その道は雨後で舗装はされておらず

かなりぬかるんでいたが

ボクはためらうことなく歩いていくことにした

 

というより

そのときの事を思い返すと

誰かに呼ばれるように

おおきな何かに導かれるように

その道に進んだように思えてならない

 

ざわめく木々

揺れる草花

 

風のつよい日だった

風のつよい道だった

 

疲れていたボクは

どういう訳か

その道を歩きながら

生きてゆく意味を問うていた

幾度も幾度もその問いについて

こたえを探していたように思う

 

風とぬかるみで

ボクの思考は何度も混乱したが

その道は確かに

穏やかな海へと続いていたのだ

 

 

すでに風は止み

足で踏みしめた浜から

潮をのぞくと

夕闇を帯びはじめた空のした

わずかな赤みを残したまま

波は静かに寄せては返している

 

浜の向こうには

小さな漁村が点在していて

夕凪(なぎ)のなかを人々が集って

盆に開かれる踊り稽古や

飾り付けの支度をしていた

 

「どこから来たのけ?」

 

白髪頭の浅黒いおとこに問われ

 

「いや、あの道を歩いていたら…」

 

ボクが振り返ってその来た道を

指さそうとするが

そこはなぜだか高い山に覆われていた

 

「まあいいやな、あんたもここへ来たのは

なんかの縁じゃろうて。

せっかくだから踊っていきんさい」

 

「はい、そうします

ありがとうございます」

 

こうしてボクは

それはいま思えば不自然極まりないのだが

この漁村のひとたちといっしょに

老若男女に混じって

朝まで踊り、唄い、酒に酔い

盆の祭りに参加していた

 

明けの明星が光るころ

ボクは疲れ果てて

そのまま浜に横になって

眠り込んでしまい

はっと気がつくと

東京都目黒区中根の

目黒通り沿いを歩いていたのだった

 

 

私は毎日この道を歩いて

会社へ通っている

今日もそこを歩いてきたのだが

いくら客観的にみても

何の変哲も無い

都会によくある沿道なのだ

 

が、あの日以来「その道」が

私の前に現れることもなければ

その兆候すら皆無なのだ

 

ただ、よくよく思い返すに

あの道は以前どこかで

歩いたような気がする

あの海辺の村は

幼い頃にでかけたような気もするのだが

それが全く思い出せないのだ

 

 

ただ、ボクがその道を歩いて

あの祭りに参加したことは

確かなことなのだ

 

なぜなら

いまボクのかばんには

その道で拾った赤松の枝の切れ端と

祭りで村のひとからいただいた

盆に村のひとに配られる

紙の御札が一枚入っているからだ

 

そしてあの事件(?)からちょうど3ヶ月後

ボクは生活のためだけに通っていた

あの鬱屈した会社を退職し

新しい仕事にチャレンジすることにした

 

忙しい毎日で相変わらず寝不足な毎日だけど

あれ以来あの嫌な気分はなくなり

頭痛がおきることもない

 

 

 

青のモラトリアム(ショートストーリー)

 

 

この先、自分はこのままでいいのか?

いったい何が正解なんだろう。

 

もうすぐ20歳になろうとする悟は、

最近、よく自問自答するようになっていた。

 

冷凍食品を小型の保冷車に積んで、

市内の肉屋やスーパーに配送するのが

いまの悟の仕事だが、

悟のルートセールスという仕事は、

配送だけでなく、

卸した先との価格の取り決めや

新製品の説明もしなくてはならない。

 

会社へ戻ると、出納伝票への記入や、

売り上げ報告書の作成、

そして防寒服を着て-35℃の冷凍庫に入って、

在庫の確認などもする。

 

帰りはいつも夜の9時をまわっている。

 

毎日同じ客筋を延々と繰り返してまわっても、

なにひとつ手応えを感じなかった。

カチカチに凍ったコロッケとか海老の箱詰めを、

肉屋やスーパーへ届けていると、

何かが違うのではないかと最近思うようになった。

 

しかし、いまの仕事は、

高校を卒業して最初に就いたバーテンダーよりマシだと、

悟は思っていた。

 

酔っ払いの相手はいい加減にバカ臭いと思ったからだ。

昼夜逆転の生活も、悟に暗い将来の暗示と映った。

 

関東一円にコーヒー豆を運ぶトラックの運転手もやってみたが、

夏の暑い日に延々と田園が続くアスファルトの道を走っていると、

このまま海へ続けばいいなと、よく思った。

 

支払いも日雇いと同じで、日給月給だった。

人生で初の正社員として採用してくれたのが、

いま働いている冷凍食品の会社だったが、

悟の自問自答は日増しに膨れあがり、

もう避けて通れない難問となって立ちはだかっていた。

 

よくよく考えると、

この問題は高校時代まで遡ることに気がついた。

 

悟の進んだ高校は私学で、

入学してから分かったことだが、

すべてにおいてスパルタ方式が徹底していて、

なにごとにおいても個人の自由は削がれていた。

 

そうした情報を知るすべを、

当時の悟には知るよしもなかった。

 

校内では、竹刀を手にした体育会系の教師がうろつき、

ちょっと気に入らない態度の生徒をみつけては

規律を乱すとの理由で容赦なく叩いていた。

 

悟は、いい加減にこの高校に息苦しさを覚え、

2度ほど本気で辞めようと思った。

しかし、もう少し続けてみようと思ったのは唯一、

担任の先生との関係だった。

 

その先生が、

何度も悟を説得してくれたのだ。

「悟、もう少し頑張ってみようよ」

「悟、人間には我慢しなくてはならない

ときというものがあるんだ。

それは後になって気づくことだけどな」

 

けっきょく悟は退学届けは出さなかった。

けれど、無断で高校を何日も休んでいた。

 

悟の行為は学内でいろいろと問題視された。

悟は退学処分になっても仕方がないと、

捨て鉢な態度に徹していた。

 

が、この担任の先生の計らいで、

悟は難を切り抜けることができた。

 

その私学は大学の付属校だったが、

悟はその大学に対しても、

すでに勝手に失望していた。

 

学校へ行かない日は、家へは帰らず、

地元の配管工をしている友人の家で、

寝泊まりを繰り返した。

 

昼間はそのアパートで、

よくフォークソングを聴いて過ごした。

 

その友人はいつも井上陽水を聴いていた。

彼はそればかり聴いていた。

 

が、「氷の世界」は悟には辛すぎるうたに聞こえた。

 

平日は、友人が「今日はおまえの番だぜ」と、

笑って仕事に出かける。

 

悟は家からもってきた吉田拓郎のアルバムを、

幾度となく繰り返し、聴く。

 

「人間なんて」という歌が、

当時の最新式のステレオから流れると、

悟は心底その歌詞に共感した。

そして、陽水より実はこちらのうたのほうが

かなり悲しいうたなんだと、ある日気づいた。

 

♪人間なんてララララララララ

人間なんてララララララララ

何かが欲しいいおいら

それが何だか分からない♪

 

 

そんな悶々とした日が続き、

悟はけっきょく何の結論も出ないまま、

高校はなんとか卒業する。

 

トコロテン式に入学できる大学への進学は、

早々に辞退していた。

 

悟以外は、クラスの全員がその大学へ進学した。

 

こうして、

高校時代から悟の軸は少しづつズレが生じ、

荒れた生活へと傾いた。

そして、

地元の遊び仲間たちとの行動が、

いろいろな歪みを生むこととなる。

 

警察の世話になるようなことも、

一度や二度では済まなくなっていた。

 

冷凍食品の配送をしながら、

しぜんに芽生えてしまった自問自答の原因は、

こうしたズレの集積であることに、

悟自身はようやく辿り着いた。

 

悟は考えた末、

この冷凍食品の会社に辞表を出すことにした。

 

突然の辞表に驚いた所長は視線を天井に向け、

「お前は一体何を考えているのか?」と繰り返した。

 

「いまはまだ分かりません」

 

所長は「後悔するぞ」と先を見通せるかのように、念を押した。

 

会社を辞めた悟は、

中学校時代に親しくしていた友人を、

久しぶりに訪ねた。

しばらく会っていなかった友人は、

大学の法学部で、

法律の勉強にいそしんでいた。

 

彼と懐かしい話をするうちに、

突然、悟は思い詰めたように、

或る想いをその友人に話した。

 

「俺さ、なんだか分からないけど、

いまの自分が自分でないようで、

いたたまれないんだ。

本当は何かをつくる仕事がしたい気がして。

たとえば、新聞とか雑誌とか…

そういうものに携わりたいんだ。

才能はないと思う。

だけど、ただやりたいなって…」

 

「………」

 

悟はさらに胸の内を話した。

 

「いや違う。

いまの俺が欲しいのは時間なのかも知れない。

そしてもう一度やり直したい」

 

友人は咳払いをひとつした後、

「いずれにしても、何かをめざすのであれば

まず大学を出ておいたほうが良いんじゃないか?、

世間ではいろいろ格好いいことを言うのがいるけれど、

現実は全く違うよ」

と話してくれた。

 

悟の最も嫌いな学歴ということばが、

やはり現実の世界では、いぜん幅を利かせている。

そして友人は、「モラトリアム」という言葉の意味を、

悟に教えてくれた。

 

モラトリアムは法律でも使われるようだが、

直訳すれば執行猶予という意だった。

 

要するに、

人生におけるやり直しの時間を手に入れる…

 

悟はそう理解した。

 

そして大学受験のために必要な願書というものも

偏差値も赤本も、さらに、

中学からの勉強のやり直しが最も有効だということも、

その友人が教えてくれた。

 

街に秋の気配が広がるころ、

悟は家にこもって勉強をスタートさせた。

 

遊び仲間は、悟の付き合いの悪さを、

みんなで酒の肴にしていた。

両親も悟の行動をいぶかしがったが、

特にそのことに触れることもせず、

生活費をよこせとだけ小言を繰り返した。

 

試験は、年明けの2月14日。

友人もときどき徹夜で応援してくれた。

正月の元旦を除いて、

悟は受験勉強に集中した。

 

こうして1974年の春、

悟はモラトリアムを手に入れた。

 

「この時間はとても大切なものだ」と、

悟は幾度となく胸の内で繰り返した。

 

けっきょく、悟はこの社会にひとつ迎合した。

それは学歴という何の中身もないのにのさばっている代物に、

手を出したこと。

さらにクルマの借金は相変わらず続く。

学費も稼がなくてはならない…

 

が、悟は自らの人生を再起動させた。

 

事態は決して良い方に100%傾いたとは言い難い。

 

とりあえず執行猶予期間を手に入れたことで、

悟は自らの羅針盤をつくり直す作業に取りかかった。

 

 

 

 

「19才の旅」No.10(最終回)

 

 

中年にさしかかった頃、

丸山は、半導体関係の会社へ転職していた。

一時期、彼は松本へ転勤し、

そこで家族と暮らしていた。

 

ボクも東京暮らしに限界を感じていた頃だった。

不健康な仕事のサイクル。

息の抜けない人とビルばかりの都会生活。

そして不安定な経済状態。

 

子供の事も真剣に考え、

そこでボクら一家も早々に東京生活にわかれを告げ、

神奈川の郊外に移り住むことにした。

 

新たな土地での仕事の見込みは全くない。

が、ボクは精神的にも追い込まれていたのだ。

 

いまと違い、当時はまだネットもなく、

ましてフリーランスなど、

誰も鼻にも引っかけないような存在だった。

 

当初は、中目黒の知り合いのカメラマンの事務所に

机を置かせてもらい、

東京の仕事をそこでこなしていた。

そうするうち、運良く

神奈川県内の仕事が次第に広がりはじめた。

 

ボクは中目黒通いをやめることとした。

それはとても不安な決断だったが、

同時に、とても重い荷を下ろしたように、

気持ちが楽になった。

 

松本で支店長として赴任した丸山とは、

よく電話でお互いの状況を話した。

 

「フリーって食っていけるのか?」

と丸山が心配そうに口走った。

「まだよく分からない」

「お前は相変わらず博打のような生き方をするな。

そこは若い頃から変わらない」

「性に合っているのかも知れない」

 

丸山は、転勤先の松本の生活がとてもいい、

とよく話していた。

 

「セカセカしなくなった。

面倒な酒の付き合いも減ったしな。

あと、食い物もなかなかうまい。

冬になると、雄大なものも見られるぞ。

山のほうからタカだかワシだかが、

大きな翼を広げて飛んでくるんだ。

それが空を旋回する。

この光景は都会では味わえない。

なんだかすごく癒やされるんだよ」

 

数年後、丸山は横浜の本社へと栄転し、

肩書きは、系列会社の社長になっていた。

そして半導体を取り巻く世界の事情や、

デバイスに関する話題が増えた。

 

その頃、ボクも会社組織を整えた。

法人としての再出発だ。

そこでは半導体関係の取り引きもあったので、

彼の話題に興味は尽きなかった。

 

そしてお互い、仕事は徐々に激務になっていった。

音信不通が何年も続いた。

 

あるとき丸山から唐突に電話がかかってきた。

どこか、深刻な空気を感じたボクは、

時間をつくり、久しぶりに会う約束をした。

 

数年ぶりに会う彼は、驚くほどやつれて見えた。

(それはこちらも同様なのだが)

 

一通りの世間話のような話の後、

かなり酔ったようにみえた丸山が、

「なあ」と話題を切り替えた。

 

世間はバブル崩壊から全く立ち直ることもなく、

平成の世は相変わらず何もかもが低迷していた。

 

「いま実はオレ、社員のリストラ計画を作っていてな、

リストアップした社員の顔を思い浮かべるたびに、

心底自分にうんざりするんだよな」

 

そして、うつむいてもう嫌だよと吐き捨てた。

 

寿司屋を出たボクたちは気分を転じるため、

ジャズを聴かせるバーへ場所を移した。

 

お互い、もう若くはない。

ムカシのようにロックが鳴り響く店は遠慮した。

話もできないし。

 

店はライブの後らしく、人も引けて閑散としていた。

とても静かな店内に、女性シンガーのバラードが

流れている。

 

「ジャズってなんだか落ち着くよな」

「ああ、確かに。年をとったからかな」

「おとなの音楽、そんなところか」

「そのことをよく考えるんだけれど、

ジャズって、どうも正体が掴めないな」

「そう、ジャズには面倒な哲学があるからさ」

「面倒だ。いまはどうでもいいよな」

「ああ、でもいまはフォークソングよりいい。

フォークは湿度が高い。次回は、吉田拓郎でもいいけれど、なあ」

「そういうことだな」

 

 

酔い覚ましのコーヒーを飲む頃、

丸山がポツンと呟いた。

「戻りたいよな、あの頃に」

「横浜か、いや沖縄のあの旅か?」

「どちらもだ」

「いまは1時間ちょっとで那覇に到着らしい」

「そうか、そうだよな。ジェットだもんな」

「いまどきの船旅って贅沢らしいぜ」

「そういうことになるな」

 

「あの頃はあの頃で、なんだか悩んでいたのにな」

「いま思うと本当に懐かしいよな」

 

「ああ、しかし時間はもう戻せない、

しかも絶対的に止まらないしな」

「確かに。それは絶対的な真理だ」

 

「矢沢も歌っていた、時間よ止まれって」

「みんな思いは一緒なのかな?」

「そうだろうと思う…」

 

世の中が令和に切り替わった頃、

丸山は体調を崩した。

当初、風邪をこじらせたと思った彼は、

町医者に行き、

そこで大学病院へ行け、と言われた。

 

 

 

 

丸山は、いまは墓の下に眠っている。

去年、3回忌だった。

そこは横浜の北部の小高い丘の上で、

近くを国道が走っている。

 

かなりうるさいけれど、

墓のまわりだけは草花が生い茂り、

いろいろな虫も飛んでいる。

 

丸山の墓参りに行くたびに、

いろいろな出来事を思い出す。

そしてボクはこう話しかける。

 

「やっと落ち着けたな」

 

彼の旅は終わったのか、まだ続いているのか。

そんなことは分からない。

 

分かるハズもないけれど、

とりあえず残されたボクはまだ、

旅の途中であることは確かなことなのだ。

 

我々はどこから来て、何者で、どこへ行くのか?

ゴーギャンはその疑問に執着し、創作した。

 

それはとても不思議な絵である。

 

我々はどこから来て、何者で、どこへ行くのか?

ゴーギャンの遙か以前の旧約聖書にも、

この言葉があると言う。

 

結局ボクたちは、

あるいは、

この宇宙の旅人なのかも知れない。

 

それは、生と死に全く関係なく…

 

 

(完)

 

 

「19才の旅」No.9

(前号までの大意)

夢も希望もみつからないふたりの男が、

ゆううつな毎日を過ごしていた横浜の街を脱出。

東京・芝浦桟橋から船旅で沖縄をめざすことに。

時は1973年、8月。

沖縄が米国から返還された翌年のことだ。

ふたりの鬱屈した気分は、海と接し、

沖縄の地を巡るうちに、次第に薄らいでゆく。

19才の彼らはいろいろな事を思い描くようになる。

そして行く先々での出会いが、

彼らに新たな何かをもたらすこととなる。

 

(ここから続き)

 

19才の旅は、こうして終わりを迎えるのだが、

この旅をきっかけとして、

ボクたちのなかの何かが少しづつ変わり始めていた。

それは、遅まきながら、

社会というものを意識しはじめた、

ボクたちの新たな旅の始まりだったともいえる。

 

高校時代につまらないことが重なり、

人生につまずいたふたりだったが、

この旅で、「世界はなかなか広いじゃないか、

ボクたちもなにか始めなくては!」

と気づいたのだ。

 

以来、ボクたちは申し合わせたように、

目的もなく街をふらつくことをしなくなった。

 

そして考えはじめた。

 

自分の将来について考えはじめた。

これから何をめざそうか?

漠然とだが、そんな人生の目標について、

おのおの真剣に考えるようになっていた。

 

翌年から丸山は役者をめざして、

横浜の映画専門学校へ通うようになった。

彼は、以前から役者になりたいと話していた。

ただ、その第一歩が踏み出せなかっただけなのだ。

 

ボクは、卒業した高校へ久しぶりに顔を出し、

卒業証明書を手に入れることにした。

いい加減、アルバイト人生から足を洗って、

改めて大学を受験しようと決めたからだ。

 

それから数年が経ち、

当たり前のように誰もが経験するように、

ボクたちも社会という大波に翻弄されていた。

 

いくつもの紆余曲折があり、

相変わらず毎日毎日、

厳しい「旅」を続けていた。

 

丸山はというと、

いくつもの劇団を渡り歩いていた。

が、次第に月日ばかりが経ち、

その行く先々で、

「なかなか芽が出ない」とぼやいていた。

 

あるとき、彼と自由が丘のバーで会ったとき、

ミラーのビール缶を数缶あけた丸山が、

とても疲れた表情で、頭を抱えてこう言った。

「もう、いい加減に役者やめるよ」

 

「………そうか」

 

彼のいきさつをだいたい知っていたボクは、

そのとき気の利いたセリフなど、

なにひとつ浮かばなかった。

 

その後、丸山は小さな旅行会社で、

見習いのツアーコンダクターをしていた。

新大久保の倒れそうな古いアパートで、

彼は必死に仕事に励んでいた。

 

またあるとき、

彼はめでたく結婚をして中目黒に住んでいた。

丸山は毛皮の販売会社で働いていた。

 

 

ボクはといえば、なんとか大学を出て、

中堅の出版社へやっとのことで潜り込み、

場末の編集者としてのスタートは切れたものの、

3年半もすると心身ともに擦り切れてしまい、

会社に辞表を出していた。

 

その頃、ボクはすでに結婚していたが、

編集者からコピーライターへ、

出版社から広告制作会社へと、

職種と会社の同時転向を考えていた。

 

当然、経済的な基盤などできるはずもない。

 

毎日毎日、新聞の求人欄とのにらめっこが続く。

 

ようやく決まった会社もなかにはあったが、

徹夜ばかりとか、告知した給与に全く達しないとか、

そんな会社を幾つか渡り歩いて、

やっとのことで普通の広告会社に落ち着く。

 

そんなさなかに、長男が生まれる。

(このことはボクの人生において、

とても大きな出来事だった)

なぜなら、自分以外の人の為に働くという意識など、

それまでのボクには考えつかない行為だったのだから。

 

彼はとても元気におっぱいもミルクも飲んでくれた。

それはとても嬉しい風景だった。

 

夫婦ふたりで暮らしていたそれまでのアパートは

当然手狭になり、

広いアパートへと引っ越すことになるのだが、

お金のやりくりはいつも大変だった。

 

預金残高は、いつも危険な状態だった。

(いや、いつも誰かに借金をして

その場その場をしのいでいた)

 

そしてコピーライターとして働き始め、

広告会社を渡り歩くうちに、

気の合った数人のデザイナーと、

赤坂で会社を立ち上げることとなる。

が、一年も経たないうちに、

社内がもめはじめてしまう。

 

嫌気が差したボクは、そんなとき、

ふとフリーランスという新たな道を

みつけてしまった。

そしてせっかく立ち上げた会社をふらっと辞めた。

まあその決断が、

後に地獄のような貧乏生活を招くのだけれど…

 

 

沖縄への船旅で何かに気づいたボクらは、

それからの新たな目標をみつけることができた。

それは、ボクの人生にとっても彼の人生にとっても、

なかなか画期的な出来事だったと思う。

 

しかし、やはり現実は厳しかった。

若かったふたりが描いた将来像とは、

全く違った生活を送っていたのだから。

 

しかし結婚をしても子供ができても、

ボクらは相変わらず飲みに出かけていた。

 

結局、ボクたちはどこか似たもの同士だったのだ。

それは、社会や企業というシステム的なものに対して、

全くついていけない質である、ということ。

 

生来のへそ曲がりという性格も加わっていたので、

まわりに合わせることもできないで、

頑として自分のなかの何かを変えようとはしなかったことだ。

 

それは、幼い頃に持っていた理想の何かを、

潔く捨て切れなかったことだと思う。

 

飲み屋でビールを飲む合間に口を付いて出るのは、

「世の中とか会社というところはホントに面倒だなぁ」

 

(続く)

 

 

「19才の旅」No.8

 

与論島を離れるさいごの日、

ボクと親友の丸山は、

サトウキビ畑のなかを歩いた。

 

唄にあるように、確かにサトウキビ畑は、

風に吹かれて「ざわわ」と言った。

 

サトウキビ畑の向こうから波の音が聞こえる。

 

背の高いサトウキビの葉を、

手で必死で払いながら歩き進むと、

突如として目にまぶしい

白い砂浜が広がった。

 

そこにはもちろん誰もいなかった。

いや、ずっと昔から誰もいなかった。

そう思えるような、

とても静かで時間さえも止まっている、

そんな白い小さな浜だった。

 

朽ちた廃船が、

白い砂に半分ほど埋まって、斜めに傾いている。

破れたボロボロの幌だけが、

海からの強風でバタバタと暴れている。

 

遠く珊瑚礁のリーフのあたりで、

白い波が踊っているようにみえた。

その波の砕ける音が、

遙か遠くから聞こえる。

 

サンゴのリーフの向こうは、

まるで別世界の海であるかのように、

深いブルーをたたえている。

 

空と海のそれぞれに意味ありげな、

ブルーの境界線が、

水平線としてスッときれいに引かれている。

 

そこをなぞるように、

まるで水面から少し浮いているように、

一隻の小さな漁船が、

ポンポンという音をたててボクらの視界に入り、

そしてゆっくりと消えていった。

 

この旅で最後の一本となってしまった、

貴重なタバコであるセブンスターを、

ポケットから取り出して一服することにした。

そして遠くを眺めながら、ぼぉーっとする。

 

こんな時間が存在している。

ボクの知らない空間は、

この地上にそれこそ無数に存在している…

 

ボクは、この旅に出かけた自分と丸山に、

とても感謝した。

 

そしてふと手についた白い砂を眺める。

そのうちの幾つかの白い砂が、

星の形をしていることを発見した。

(ああ、これがあの星砂だ!)

 

とっさにボクたちは、

空っぽでクシャクシャになってしまった

セブンスターのパッケージを再び元の形に戻し、

その白い星砂を必死で探してはより分け、

丁寧にパラパラとはたいて、

セブンスターの空き箱へ入れた。

 

そんな地道な作業を、

一体どのくらいやっていたのだろう。

 

時間の感覚は失せていた。

 

それはまるで、

偶然にも砂金をみつけてしまった旅人が

興奮をあえて抑えながら、用心深く息を止め、

そっと金を採っては集めるという行為に

似ていなくもなかった。

 

その星砂を、

ボクは横浜へ帰ったら、

一度は別れてしまった女性になんとかして渡そう…

そんなことを考えていた。

 

なぜなら、そのときのボクにとっての宝物が、

その星砂であり、その人だったからなのだ。

 

しかしその星砂は数年間にわたり、

ボクの机の引き出しに眠り続け、

日の目をみることはなかった。

 

その後、その女性とは一切会うこともなく、

ボクの人生の軌道修正は叶わなかった。

 

机のなかで眠っていた星砂も、

いつの間にか記憶もないまま、

どこかへ消えてしまった。

 

 

(続く)

 

 

「19才の旅」No.7

 

話は再び、1973年の、

ボクと丸山の沖縄の旅へと戻る。

 

那覇空港の近くでハブとマングースの戦いを

見世ものとしてやっていた。

ボクは興味津々だったけれど、

料金が割と高いので、しぶしぶ諦めた。

 

観た人の話によると、「かなり凄い!

迫力がある。マングースはああ見えて、

なかなか強いからな」とのこと。

 

ハブは沖縄だけど、マングースは

一体どこから連れてこられたのだろう。

妙な疑問が生まれた。

 

その近くでは、

小さいワニの頭部をバックルにしたベルトが、

露天の店頭にずらっと並べて売られている。

 

その光景はかなり異様だった。

 

こうしたイベントやおみやげものは、

その後に開催された「沖縄海洋博」を前に、

すべて打ち切られたとのこと。

 

これは日本だけでなく、世の中の外面は、

だいたいそのようなことが切っ掛けで、

キレイになっていった。

 

が、それらが消滅してしまっのか否かは、

ボクには分からない。

ただ一旦隠れてしまったものは、

もう誰にも文句は言われないので、

制御の働きをするものは取り払われ、

本性だけがむき出しになる。

ハブとマングースの戦いは、

いまもどこかで開催されているのかも知れない。

それももっと高い料金で、

さらに残酷な見世物として。

小さいワニの頭部をバックルにしたベルトは、

その拠点を外国にでも移したのかも知れない。

 

それから数日間、ボクたちは首里城周辺を巡り、

そこから北部へ向かい、

コザのまちを経て再び那覇に戻り、

セスナ機で西表島へ飛ぶため、

空港でキャンセル待ちをしていた。

 

ちょうどお盆休みの時期だったので、

空港もごった返していた。

西表島行きは、何時間待っても駄目だった。

 

いい加減に待ち疲れたボクたちは、

小さな客船が与論島まで行くので、

数時間後に出航するという情報を得た。

 

目的地は違ったがその船に乗ることにした。

そこは船底で窓もなく、

ゴロゴロするしかないスペースだったが、

仮眠している間に隣の与論島へ着いてしまった。

 

 

与論島は、当時はまだ未開発の島だった。

民宿をみつけて、そこでようやくひと息ついていると、

ご主人がわざわざ部屋まで挨拶にきてくれた。

そして食堂にきてくれとのこと。

 

そこで地元の酒である泡盛を飲み干すこととなった。

というより、飲まされたというのが正しい。

 

泡盛を飲み干すのは、

島の歓迎に応えての感謝の意、とのこと。

よって飲み干すのが客の礼儀であった。

 

ここの泡盛はとても強い酒だった。

がしかし、途中で飲むのをやめるとか、

そんなことは礼儀に反する。

 

ボクと丸山は、茶碗に並々と継がれた

その泡盛を一気に飲み干した。

 

着いた草々にアルコール度数の強い

泡盛を飲み干し、

たちまち酔ってしまったボクたちは、

前後のみさかいもないまま、

夜の島をほっつき歩きはじめた。

 

途中、暗闇の先にネオンのあかりをみつけた。

(酔っ払いはネオンに弱い)

ディスコという文字が光っている。

近づくとそこはログハウス造りの建物で、

結構しゃれた店にみえた。

 

ドアを開けると、客がポツポツいる程度で空いている。

誰も踊っていない。

 

島で初のディスコということで、

もの珍しさがウリだったようだ。

 

音楽のボリュームがとにかく異常に高く、

まるで大都会の地下鉄の騒音にも似ていた。

 

会話はできない状態。

 

ボクらはそこでさらに飲んだくれ、

朝方までソウルミュージックにあわせて、

踊り狂っていた。

 

民宿に着くと、倒れ込むように寝た。

が、飲み過ぎと暑さのせいで喉が渇いて、

水を飲むためにたびたび起きてしまう。

結局、よく眠れないまま

夜明け近くになってしまった。

 

船で知り合った、東京から来たという大学生は、

民宿の外の砂浜で寝ていた。

確かに浜で寝た方が海風が涼しい。

 

二日酔いのまま丸山と浜辺を歩いていると、

雲間から朝日が昇る瞬間に出会えた。

 

ボクたちはその突然の風景にみとれていた。

めまいも吐き気も不思議と消え失せていた。

 

遠くの砂浜でヒッピーの男がひとり、

太陽に向かって祈りのような仕草をしている。

 

それから数日の間、ボクらは浜で泳いだり、

島の各所を自転車で巡ったりして過ごした。

宿の天井から落ちてくる大きなイモリに恐怖し、

夜は必ず強い泡盛を飲み、

この異国を巡るような旅に時を忘れた。

 

ふたりの横浜での鬱屈した日々は、

このとき何の跡形もなく、

すでに綺麗に消滅していた。

 

(続く)

 

「19才の旅」No.6

 

南太平洋の島々を、まるで各駅停車のように巡る

コンチネンタル航空機は、ようやく最終目的地である、

パラオ空港に到着した。

 

太陽の陽を受けて白く照り返す、滑走路。

前に降りたヤップ島の空港となんら変わりない。

 

ちなみにボクがパラオ諸島へ行った1981年、

この地は「ベラウ共和国」という国名だった。

不確かだが、ベラウ共和国の頭には

アメリカ領とあったと記憶している。

要はアメリカが統治権をもっていて、

完全な独立国ではなかったのだ。

 

国旗は、海のブルーをバックに、満月。

とてもロマンチックなデザインだ。

これは聞いた話だが、パラオの人たちの評判も

上々とのことだった。

 

この国旗は、ちょっと日本の日の丸に似ていると思った。

日の丸が昼なら、ベラウの国旗は夜を表している。

そこに、不思議な繋がりのようなものを感じた。

 

ボクは、この国旗のデザインがとても気に入ってしまい、

Tシャツの他、この国旗のデザインのおみやげを、

かなり買い込んでしまった。

 

この旅の目的地であるパラオ諸島では、

ボクはいかなる事件も起こさなかった。

慎重な行動を心がけた。

 

自ら起こしたトラブルがきっかけで、

自分を疑うようにもなっていたし。

振る舞いや行動に用心深さも加わり、

それは自分という人間を客観視するための、

良いトリガーとなった。

 

パラオ本島であるコロールには、

スーパーもガソリンスタンドもあり、

ミクロネシアの島々のなかでは、発展しているように思えた。

 

スーパーの棚には、アメリカ製のスナック菓子コーラ類も、

ズラッと並んでいる。

レジの若い女の子は英語または現地のことばしか話さない。

通貨はドルだ。

 

が、そのスーパーを出て歩いていると、

現地のおばあさんと偶然目が合ってしまった。

英語でこんにちわと挨拶をすると、

深いシワの顔をさらにクシャクシャにして、

「日本からかい?」と流暢な日本語で返された。

聞くと、ここは日本の統治が長かったので、

島の年寄りは皆日本語が話せるとのこと。

 

島の人々は、ボクのような日本人に

とても優しく親切に接してくれる。

人の名前も、キンサクとかフミコとか、

日本名の人がたくさんいるとのこと。

これには驚いた。

 

ボクたちが学んだ歴史の教科書には、

戦争中の日本軍に対しては、

ほぼネガティブな記述しかなかった。

よって良い待遇などあるはずもない。

 

が、他の島の人たちにもそのことを聞いて歩いたが、

一様に、日本が統治していた頃の感想は良いものだった。

 

ここで戦った先人たちは、何をめざしていたのか?

この戦争の真相は一体どこにあるのか?

 

この島の方たちのボクたちへの接し方をつぶさに振り返ると、

ボクは解明できない歴史の難問にぶつかったと感じた。

 

 

本島と隣の島バベルダオブ島にかかる橋は、

ピカピカの出来たてで大きくとても立派だが、

ジャングルが深いこのあたりでは、返って異様さを放っている。

 

ボクが滞在したホテル・ニッコー・パラオは、

そのバベルダオブ島にあった。

バベルダオブ島には店が一軒もないので、

ボクはこのふたつの島の行き来を、

島の若者から借りたバイクで済ますことにした。

 

バイクはホンダ製。

ボクが東京でも乗り回しているバイクもトレール車だったので、

不満も不自由さもなかった。

 

レンタルの金額はとても安かった。

ボクが提示した金額と彼が提示した金額が、

ほぼ同じだったことで、

よけいこの島に住む人に親近感を覚えた。

 

パラオの先駆的なホテルともいえるホテル・ニッコー・パラオは、

以前はコンチネンタル・ホテルという名だった。

従業員も米国人と現地のひとたちで構成されている。

 

ホテルはおのおの2階建てヴィラのような形態で、

湾を望む丘陵のヤシの木々の間に

ほどよい間隔を保って建てられている。

 

室内に入ると、南の島にふさわしく、

天井付近で大きなプロペラが回っている。

籐でつくられたベッドに、更紗のベッドカバー。

ベランダに出ると、ミントブルーの内海が望めた。

 

3日後、この島でスコールというものを初体験した。

暑さが極まると、あたりが暗くなり、

そして突然の豪雨になる。

が、数分で止むと、

また何もなかったように再び快晴になり、

カラフルな鳥が鳴き出すのだ。

 

 

ボクは、赤道を越え、南半球にいる。

日付変更線を越え、いまは電話も通じないこの島にいる。

 

ホテルのフロントの人の説明によると、

海底ケーブルはサメにでもかじられたんだろうとのこと。

そんな事情もあってか、ボクはかつてないほどの

リラックスというものを体験した。

もちろん異国であるとの緊張と用心はあるのだが、

東京での毎日の暮らしを思うと、

全く次元の違う、いわば幸福感のようなものに包まれた。

 

 

ホテルの裏山を歩いていると、

錆びて端はしが崩れている大砲が鎮座していた。

旧日本軍の大砲だ。

 

それは、当初ボクがイメージしていた南の島の平和な風景を

打ち砕くのに、充分過ぎる効果があった。

戦後の風雨に耐え、そして朽ちながらも、

ボクについ数十年前に起きた戦争のリアルを、

突きつけてきた。

 

サンゴの島々を巡り、海に潜り、

海を眺めながら新鮮なシャコ貝も平らげたし、

ホテルでは大きくて真っ赤なロブスターも食した。

 

100パーセントの楽しみがあるのなら、

ボクはその100パーセントをまるごと楽しんだような、

気がするのだ。

 

が、夜になって、現地のビールを飲みながら、

テラスへ出て夜空を眺めるとき、

日本では見ることのできない南十字星がみえると教えられ、

毎夜、それを仰ぎ見ていた。

そんなとき、どうも気持ちが淀んでいる自分に気づくのだ。

 

南十字星のことは、戦争映画を観てボクも知っていた。

先の戦争で南方に行った兵隊は、

皆、この星をみて大半が死んでしまったのだ。

 

このあたりの島々には、

ボクたちの先人の悲しい痕跡が多すぎた。

 

あるとき、ホンダのバイクで島を走っていると、

上下真っ白い服を着てお札を下げた一団をみかけた。

この人たちは、日本から来た遺骨収集団とのこと。

これからセスナ機でペリリュー島まで遺骨収集に行くのだと言う。

皆、年を召した方々で、

思うに、一緒にこの島で戦った仲間なのかも知れないし、

または戦死した家族の遺骨を探しに来たのかも知れない。

 

また後日、海上をボートで走っていると、

サンゴの海の浅瀬に横たわっているゼロ戦があった。

このとき初めて、ボクはあのゼロ戦の実際の姿をみた。

水がきれいなので、機体がすべて見通せる。

機体からは誰かが立てたのであろう、

竹の棒がスッと立っていて、

そこに千羽鶴が海面の上にびっしりと結わかれ、

海風に大きくなびいている。

 

これをみたとき、ボクは遂に耐えられなくなった。

そしてボクは再び混乱してしまった。

 

この旅の帰路、ボクは飛行機のなかで、

ここ数週間に起きたこと、見たことを、

まるで走馬灯のように、アタマのなかで巡らしていた。

そして、ボクは沖縄のひめゆりの塔のことを

再び思い出していた。

 

あのお年寄りが語ってくれた実話が、

ひしひしと身に迫ってくるようになるまで、

ボクには時間がかかり過ぎた感がある。

 

島のあのおばあさんが話してくれたこと

あの悲しみの一部始終の一端が、

少しづつ見え始めてきた。

それは染み入るように、

身体を通して、

徐々に理解できるようになっていた。

 

いかほどの時間をかけ、

それは偶然を装い、

実は誰かの巧みな計算によって仕掛けられた物事のように、

ボクの心に刻み込まれたのだ。

ボクが戦争というものを、

また改めて、歴史も含めて遡るようになったのは、

こうした経験を経てからだった。

 

 

―やはり世界は常に緊張している。

戦争は実はいつもどこかで起きている。

そしていつもどこかで起きようとしていた。

それは皮肉なことに、

いまも変わらないまま続いている―

 

 

(続く)

 

 

「19才の旅」No.4

 

船旅で、念願の沖縄へ到着したボクたちは、

2日目にひめゆりの塔へ出かけ、

島のおばあさんから、悲惨な戦争の話を聞かされた。

 

なのに、それは申し訳のないほどに、

聞けば聞くほど非日常的な気がした。

話はとても悲惨な出来事ばかりなのに、

どこか自分の体験や生活からかけ離れすぎていて、

どうしても身体に馴染んでこないのだ。

 

その驚くほどのリアリティーのなさが、

かえって後々の記憶として残った。

それは、後年になって自分なりに

いろいろなものごとを知り、触れるにつれ、

不思議なほど妙なリアリティーをもって、

我が身に迫ってきたのだから。

 

そんな予兆のかけらを、

ボクは後年、グアム島とトラック諸島のヤップ島で、

体験することとなる。

 

(ここまでは前号に掲載)

 

沖縄の旅から5.6年後だったろうか、

南の島好きのボクはパラオをめざしていた。

途中、グアムに行く手前で、

ボクの乗る727はサイパンへ降り立った。

機内にあったパンフレットをパラパラとやると、

バンザイクリフという場所が目に入った。

 

「バンザイクリフ?」

 

バンザイはあの万歳なのか?

実はボクの思考はそこまでだった。

その時分、ボクはあまりにも無学に過ぎた。

何も知らないことは、罪である。

 

戦争の末期、アメリカ軍に追い詰められた

日本軍及び島に住む民間人約1万人が、

アメリカ軍の投降に応じることなく

「バンザイ」と叫びながら

この島の崖から海に身を投げた。

 

あたりの海は赤く染まったという。

 

そこがバンザイクリフなのだ。

 

ボクは時間の都合で、

バンザイクリフへは行かなかった。

いや、そもそも興味がなかった。

戦争の歴史さえ、ボクは知らなかったのだ。

 

後、パラオでその話を知ったとき、

ボクの思考は、観光という目的を見失い、

しばらく混乱に陥ってしまった。

 

話を戻すと、

サイパンの次の目的地であるグアム島で、

その事件は起こった。

 

レンタカーを借りて島中を走り回ったとき、

ボクは道に迷ってしまい、適当な道を左折した。

すると大きなゲートに出くわした。

 

そこは米軍基地で、のんきなボクはクルマから降りて、

道を聞こうとゲートに近づいた。

と、ゲートの横から軍服に濃いサングラスをかけた

大柄の女性兵士がこちらに歩いてきた。

 

なんと、この兵士はボクに自動小銃を向けている。

何かがおかしいと思ったボクは、

無意識にホールド・アップをしていた。

 

女性兵士は全く笑っていないし、

とても厳しい表情をしている。

近づくに従い、

兵士は自動小銃を下げるどころか、

こちらにピタリと銃口の照準を定めたように思えた。

 

急に動悸がして、嫌な汗が噴き出した。

 

「すいません、道に迷ってしまって」

ボクが片言の英語で笑顔を絶やさずに話す。

 

すると

「クルマに戻ってバックしろ、さっさと消えろ!」

 

ヒステリーとも思える剣幕で、

この兵士はこちらに銃口を向けて、怒鳴っているのだ。

 

ボクはクルマに戻って、とにかく必死でクルマをUターンさせる。

バックミラーで確かめると、この兵士はボクが元の道に戻るまで、

ずっと銃口を向けていた。

 

一体、何ごとが起きたのか、

ボクはしばらくの間、

理解することができなかった。

 

なんとかホテルにたどり着くと、ボクはベッドに転がり込んで、

しばらくグッタリとしてしまった。

 

ようやく落ち着いてきたところで、

自体が徐々にみえてきた。

 

要するに、ボクやボク以外の誰でもいいけれど…

 

のんきで平和に暮らしていると思える、

そのすぐ隣で、

自体はボクたちの想像の域を超え、

生死にかかわるであろう、

いろいろな出来事が起きている、ということ。

 

世界のどこかで、緊張はずっと続いていたのだ。

 

ボクは自分の無知さに呆れ果てた。

 

―バカな日本人―

 

その代表のような人間が当時のボクだった。

 

戦争は実はいつもどこかで起きていた。

いつもどこかで起きようとしていた。

それは皮肉なことに、

いまも変わらないまま続いている。

 

ボクの繰り出す愚かな行為は、

その後も続いた。

 

(続く)

 

 

「19才の旅」No.3

 

船上の旅から3日目の朝だったと思う。

船内にアナウンスが流れた。

そろそろ目的地じゃないかと丸山がつぶやく。

 

船室からまあるい窓をのぞくと、

そこにはいままで見たこともない、

吸い込まれるようなきらきらとした海と空が、

まるで映画のワンシーンのように映し出されていた。

 

窓いっぱいに広がる、うまれて初めて見る

サファイア・ブルー。

それはボクたちがいままでみたこともない、

異国のような夏の海辺の景色だった。

 

沖縄がアメリカから返還された翌年、

僕たちはいち早く沖縄にでかけた訳だ。

 

車の通行はまだアメリカと同じ右側通行で、

街の中心にある国際通りを歩いていると、

聞き取れない言葉が飛び交っていた。

 

後年になって気づいたことだが、

この頃の沖縄は、タイのバンコクに

とても似ているような気がした。

 

当時のホテルといえば、

那覇の「都ホテル」くらいしかなかったように

記憶している。

そしてその「都ホテル」がボクらの宿だった。

船旅で一緒だった彼らも、

同じホテルに宿泊している。

 

ライトアップされたプール。

その四隅にはたいまつが焚かれ、

海からの強い風に大きな炎が揺れていた。

 

1973年、夏。

 

沖縄到着の第一日目は、

オリオンビールで南国の夜を満喫した。

 

翌日はひめゆりの塔へ出かけ、

島のおばあさんから戦争の話を聞かされる。

 

それは、申し訳のないほどに、

聞けば聞くほど非日常的な気がした。

話はとても悲惨な出来事ばかりなのに、

どこか自分の体験や生活からかけ離れすぎていて、

どうしても身体に馴染んでこないのだ。

 

おばあさんが話すことは、

ここ沖縄の人たちの肉親や知り合いや、

皆が実際に体験した事柄だ。

なのに、リアリティーがない。

その驚くほどのリアリティーのなさが、

かえって後々の記憶として残る。

 

それは、後年になって自分なりに

いろいろなものごとを知り、触れるにつれ、

不思議なほど妙なリアリティーをもって、

我が身に迫ってきたのだから。

 

そんな予兆のかけらを、

ボクは後年、グアム島とトラック諸島のヤップ島で、

体験することとなる。

 

(続く)

 

 

「19才の旅」No.2

 

やっと掴んだ「旅という逃げ場」で、

ボクらは出ばなをくじかれていた。

 

5,500トンという当時では大型の客船、新・さくら丸。

この船に意気揚々と乗り込んだのはいいが、

ボクらはのっけからその客室A-Bという

ごくスタンダードな部屋のベッドで、

頭痛と吐き気に耐えることとなった。

 

人生初の船酔いは、思ったより重症だった。

ボクは考えることをあきらめた。

(将来のことなど知ったことか!)

 

ひどい目眩がしてきたので、

ここはやはり寝るしかなさそうだ。

布団を被って、目をつむる。

 

時間はどのくらい過ぎたのか。

いつしかボクは寝ることに成功していた。

 

結局ボクらは、朝まで全く何も話せなかった。

そんな余裕などあるハズもなかったのだが。

 

翌朝、なんとか立ち直ったふたりは、

昨日の反省から決めごとをつくった。

 

・アルコール禁止

・デッキに出たらとにかく近くの波を見ない

・船の揺れに逆らわない

・遠くの景色や空だけを眺める

 

浅知恵にしては、以後、酔うこともなく、

この船旅は快適なものとなった。

 

同じ船旅をしている幾つかのグループとも仲良くなれた。

東京から参加した年上の男性ふたり組。

そして東京から来たという同年代とおぼしき3人の女性グループ。

横浜組のボクたちも加わり、なかなか面白いグループができた。

 

7人は不思議と気が合う人ばかりで、

船内ではよく行動を共にした。

 

デッキでバカ騒ぎをしたり、

ラウンジではカップヌードルを食べながら、

みんなでコーラで乾杯をして、

どうでもいい話題で盛り上がっていた。

 

後、東京から参加した年上の男性ふたり組とは、

何年か手紙のやり取りをした。

特に、「イガちゃん」と呼ばれていた人とボクは懇意になり、

船上で、人生の先輩としていろいろな話をしてくれた。

 

彼は長距離トラックのドライバーで、

角刈りでいつも真っ白いBVDのTシャツを着ていた。

日焼けして顔の彫りが深く、口数は少ない。

が、笑うととてもかっこいい笑顔になった。

 

ボクが何気なく、

ちょっと将来に不安があるようなことを

口走ったことがきっかけで、

彼はポツポツと自らの青春を話してくれた。

 

ボクは、イガちゃんが聞かせてくれた

幾つかの体験話に心を惹かれた。

そしていつの間にか、

自分が深く悩んでいたことさえ、

忘れかけようとしていた。

 

彼はとても知的で、

深い洞察をする人だった。

ただ高学歴だけのつまらないインテリとは違い、

ことばに、体験した重みと説得力のようなものがあった。

 

彼はよく気難しい表情で遠くを眺めていた。

それはとても印象的なショットとして、

ボクのアタマのなかで映像化された。

 

イガちゃんのもう一人の相棒は、

身体がでかくて色白でぽっちゃりとした好男子。

アパレル関連で働き、連日帰宅は深夜で、

いい加減疲れたとよくこぼしていた。

彼の名はもう忘れたが、女性あさりはなかなかのもので、

まあそういう人だったが、

このふたりがなぜ親友なのかは謎だった。

 

それにしても旅は不思議なことの連続だと思った。

あの夏、7人はあの船に偶然乗り合わせた。

そして思いがけなくも、皆は波長が合い、

かけがえのない時間を共有することができたのだから。

 

あれから永い年月が経過したが、

あの船上での輝くような時間は、

もう二度と訪れない。

 

旅って、きっとそういうものなのだろう。

 

旅は、偶然がもたらす化学変化だ。

だから、人はときとして旅立つのだ。

 

暑いあの夏。

ボクらはつい数日前まで、

夢をなくして路頭に迷っていた。

が、なんとか旅へでかけるという行動に出た。

 

そしてボクのなかの、丸山のなかの何かが、

めまぐるしく活動を開始したのだ。

(続く)