「君たちはどう生きるか」を観て思ったこと

 

きっと宮崎駿監督の最後の作品だろうと思い、

映画館へでかけた。

平日の夜にもかかわらず、席はそこそこ埋まっている。

関心の高さがうかがえる。

 

感想は、ひとことで言うと良かった。

月並みだけれども。

 

今回、この映画の宣伝はなかった。

噂はいまや瞬時に拡散する。

ジブリの新作、宮崎駿監督作品とあれば、

これだけで十分でしょ?

しっかり集客できている。

但し、ネームバリューとかブランド力がないと、

全く使えない方法。

当たり前だけれどもね。

 

さて、この映画を紹介しよう。

あらすじを話してもしょうがないと思う。

途中からは、ほぼ伝わらないだろうなと、

という自信がある。

 

では、内容を小分けにし、

それを系統立てて伝えようとも思ったが、

それにはまず時系列のメモをつくり、

それらを幾つかのカテゴリーにまとめ、

それを再び組み立てて…

なんて、ボクにそんな技などない。

 

ということでとりあえずは、

出だしと登場人物についての紹介。

 

主人公は眞人という少年。

火事で母親を亡くしている。

戦時中ということもあり、

父親と町を離れて地方に疎開する。

が、そこは父親の再婚相手の家。

さらに、引っ越した家がとても古くて

バカでかいお屋敷で威厳があって、

なんだか怖い。

 

眞人は、

当然のことながらこの義母を好んではいない。

転校先の学校ではいじめられる。

眞人にとっては最悪な状況だ。

そして、もちろん孤独である。

 

彼はあるとき、

屋敷のまわりをうろつく青サギが気になる。

青サギが彼にちょっかいを出すからだ。

眞人は青サギに敵意のようなものを抱く。

その妙なひきよせが、彼を行動にかきたてる。

そして屋敷の裏には、

誰も近寄らない朽ちた塔が建っている。

ここから話はいっきに加速することとなるのだが…

 

この映画のなかで、

映画と同名のタイトルの本が登場する。

「君たちはどう生きるか」(吉田源三郎)だ。

 

意味深かつ難しい問いを投げかける本である。

ストーリーはおのおの違うのだけれど、

その問いかけは同じだと思う。

 

どう生きるか?

これはおとなになっても、

かなり難しい問題ではある。

ちなみにボクは、

未だにこのこたえを知らないのかも知れない。

いい年をして。

 

けれど、学生の頃は一応、

悔いのない人生を送ろうなどと、

決意した覚えがある。

結果、サラリーマンは続かず、

既定路線をドロップアウト。

自分の希望する職に就いたのはいいが、

独立して仕事を興せば、

おおよそ理想とはかけ離れた生活が待っていた…

 

そんな訳で、

どう生きるかと問われれば、

そのこたえは、

―死んでみなくては分からない―

である。

 

だけど人は或る時期、

この難問にぶち当たるらしいのだ。

思うに、きっと遺伝子レベルで組み込まれているのが、

君たちはどう生きるか?

なのだろう。

 

でこの映画は、

いにしえよりのいい伝えや、

人の生き死にに対する厳格さ、

罪悪感や愛、

そして世界のなりたちなど、

結構考えさせられる話が、

ちりばめられている。

 

良くも悪くも宗教的でさえある。

 

例えばこの映画は青サギだけでなく

ペリカンもインコもさかんに登場する。

そしてしゃべる。

擬人化されている。

 

鳥は、あの世とこの世を繋ぐといわれるいきもの、

といわれる。

 

また、死者が渡るといわれる三途の川らしきものを

眞人が眺めているシーンがある。

その川の遠方を無音で通り過ぎる帆船。

帆船には無数の死者が乗っている。

 

そして映画「十戒」のように、

海が割れるシーンもあるし。

 

ストーリーは絶えず現世と来世が交差し、

入り交じり、同居しながら進行してゆく。

そんな時間軸の違う、

異世界、異次元の人物たちが、

なんの違和感もなく次々に登場する。

 

とりわけ日本的であると思うのは、

江戸時代の上田秋成の作品などにもみられるように、

死者がまるで生きているかのように、

自然に描かれていることだ。

 

私事だけど、

他界したボクのおふくろはときどき、

40才くらいのはつらつとした姿で、

夢のなかにあらわれることがある。

(これはあまり関係ないか)

 

ストーリーの続きだけれど、

主人公の眞人は青サギに導かれるようにして、

こんな時間軸と次元の違う、

まるで夢と現実の入り交じった世界を、

めくるめく旅することとなる。

 

さて、人には誰でも歴史というものがある。

さかのぼれば、それは過去へと延々と続いている。

その繋がった世界にはもはや生と死の境はなく、

すべてが同時に同居しているのか?

 

そして主人公の眞人は、

このめくるめくような旅を通して、

なにかを知り、

何を学び得たのか?

 

それは人にとって一番だいじな事なのだろうと、

つくり手はそれをなんとか伝えようとして、

この映画を制作したのだろうと、

ボクは思うのだが…

 

さて異次元、異世界、いにしえ、

無意識の意識とうとう、

こういうものを一切うけ付けない人は、

この映画を観ないほうが良いのかな、

とも思った。

だって訳が分からなくなるし、

それだけで時間とお金の無駄になるし…

 

がしかし、「不思議の国のアリス」でも

鑑賞するように、好奇心満載で

観たらどうかとも思う訳だ。

 

「君たちはどう生きるか」という

冒険ストーリーだと思えば、

文句なく楽しめる。

 

そしていつか何かのきっかけで、

この映画を思い出すかも知れない。

そうしたらこんどは君の番。

 

君の新しい冒険が待っているハズ。

それがこの映画のめざすところではないか?

 

 

 

新年明けましておめでとうございます

 

新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

最近は、古い映画や音楽ばかり観たり聴いたりしています。

やはり感度のいい時期に接したものは忘れませんね。

 

映画では、クリント・イーストウッドの「許されざる者」が

良かったですね。

彼の当たり役である「ダーティーハリー」シリーズより

もっと古いけれど、まだ観ていない方にはおすすめです。

筋はシンプルだけど、見応えがあります。

 

音楽は、歌謡曲、フォークソングからグループサウンズ、

ソウルミュージック、ジャズ、フュージョンと、

テキトーというかデタラメに聴いています。

 

ここ数日は映画「フットルース」の主題曲にはまってます。

フットルースってどういう意味なのか気になって調べてみたら、

まあ「足のおもむくまま気ままな」でした。

あえて肉付けするなら、

 

―夢ばかり追いかけている風来坊―

―気ままな旅行者―

―好きな所へ行けて好きなことができて…―

 

というような英語の例文が出ていました。

なんかいいですね。

若かりし頃、まさに自身が描いた理想です。

この映画、余計に好きになりました。

 

と言うわけで、

みなさまにとっても良い年でありますように!

 

 

オススメ映画「ブランカとギター弾き」

ただで映画を観るのは、要するに時間の無駄だった。

某テレビの午後のロードショーを録画して観ていたが、

いい映画がホントに少ない。

週に一本あるかないか。

その程度の確率だから、映画が終わってうなだれてしまう日が続いた。

寝る時間が遅くなるだけで何にもいいことがない。

 

ひとつ分かったことがある。

ハリウッド映画といっても、実は数打てば当たる、

というつくり方をしている。

ヒット作の下には無数の駄作がうごめいている。

それを流す午後ロードは、予算の問題なんだろう。

地上波初登場なんて宣伝されている映画は、

通常では流せないというレベルのものだ。

あと、気づいたこと。

どれもスパイもの、陰謀もの、殴り合う、銃を撃ちまくる…

そんなものばかりなのだ。

それがスカッとするかというとそんなことはない。

心がすさんでしまうのであった。

おかげで夢にまで悪党が出てきて、こちらの眠りを脅かすありさま。

 

ではということで、アマゾンプライムでアドベンチャーという

キーワードで検索すると出てくる出てくる。

映画ってホントに無数にあるんですね。

で、ずっとスクロールをしていると、

アドベンチャーとはほど遠い映画に出くわした。

偶然の出会い

非ハリウッド映画で、フィリピン、日本、イタリアの合作映画が、

表題の映画だったのである。

映画の舞台はマニラのスモーキーマウンテンだと思う。

かなりひどい貧民街である。

ちなみにスモーキーマウンテンの名は、

街に溢れているゴミが自然発火して、

いつも煙に包まれているかららしい。

 

ここで暮らす?ブランカは、8~9歳くらいの女の子。

親がいない。ストリートチルドレン。

盗みとかいろいろ悪いこともやっている。

夜は公園とかで寝ている。

街を歩く親子を、彼女はいつもじっとみつめている。

或る日、公園で目の見えないギター弾きの老人と知り合いになる。

ピーターというその老人はブランカにちょっと歌ってみないかと誘う。

ブランカが恥ずかしそうにして歌い始めると、

まわりの人たちが徐々に彼女に注目し始める。

ブランカの歌がなかなかいいのだ。

 

シンプルなギターとメロディ、素朴で透き通る歌声。

それをたまたま聴いていたクラブの経営者に、

ウチで歌わないかとスカウトされる。

ピーター老人とブランカは、ひさしぶりにシャワーを浴び、

初めてベッドでぐっすりと眠ることができた。

 

まあ、これから観る方のためにストーリーははしょるけれど、

或るシーンで、彼女がニワトリを掴んで、

走るトラックから飛べ飛べとはしゃぐシーンがある。

 

鳥なのになぜ飛ばないのかと彼女は疑問に思う。

乗り合わせた大人がこう言う。

飛ばなくても良くなったから。

それは人間に飼い慣らされたからという皮肉でもあると私は理解した。

 

登場人物は、役者というより素人に近い。

映る街並みはどこもゴミだらけでひどいありさまだ。

僕は、生まれ育ったずっとずっとムカシ、

昭和30年代の横浜の外れの、

灰色の空の下に広がる雑然とした町を、

不意に思いだしていた。

ブランカとピーター老人のストーリーはこの先も全然甘くない。

下手をすれば死と隣り合わせの毎日。

が、悲劇のようでもない。

ハッピーエンドでもないのだ。

けれど、このふたりの必死に生きてゆく姿をみて、

僕は忘れていた何かを思い起こしていた。

 

考えてみればこの街の誰もが悪い奴のようでもあり、

実は誰も悪くはないようにも思えてくる。

ピーター老人の奏でるギターの音と、

ブランカの透き通る声が、

公園に吹く風に乗って街を過ぎるとき、

人の原点は実はシンプルなんだと知らされる。

もしそこに、信頼とか愛とかがあれば、

(実はここが肝心なのだが)

それに勝るものはなにもないのではないか。

それは実に当たり前のことなのだが…

 

ひとの気持ちというものはときどき洗濯をしないと

どんどんと汚れていくものなのだ。

そうした忘れかけていた大切なひとつひとつを、

押しつけがましくもなく

凝ったりひねったりのストーリーがある訳でもなく、

さりとて過剰な演出などとは無縁なのに、

こちらにしっかりと伝わる映画なのだ。

 

こういう映画にいまハリウッドは勝てない。

むしろ日本映画のほうがいい。

「ブランカとギター弾き」はその先を行く。

 

 

映画「この世界の片隅に」そして…

8月9日はとても暑い日だった。

長崎に原爆が落とされた日だ。

親父の命日でもある。

 

朝、仏壇に線香をあげ手を合わせる。

逝ってしまって、もう16年たつ。

たどたどしくも、いちおう般若心経を読む。

これがウチの習慣のようなものになっている。

親父もこちらも救われる。

なんだかそんな気がする。

「世の中はいま激変しているよ」と、

話しかける。

そして日課の筋トレを始める。

汗がとめどなくしたたる。

 

日中、簡単な仕事をいくつか片付け、

運動公園を歩き、買い物をして帰る。

 

夜、録画しておいた

「この世界の片隅に」を観る。

2度目だけれど、

とても気になる作品だった。

初回では見逃していた、

新たな発見もあった。

 

しかし、それにしても

この映画は辛いなと思った。

やるせない。

切ない。

呉という港町へいってみたくなった。

そして、丘から港を見下ろし、

時代をさかのぼるのだ。

 

愛おしい日常

死んでいくひと

死んでしまったひと

生きてゆくひと

生きなくてはならないひと

運命のようなものがどうあろうと、

実はたいして変わりはしない…

そんな思考の麻痺がおこるほど、

考えさせられる内容だった。

 

戦争って、のちの平凡な日々、

そして未来のすべての事象を、

おおきく歪めてしまう。

 

映画を観ていてふと気づいた。

終戦の日の8月15日といえば、

親父は確か満州にいたはずだ。

ソ連はすでに日ソ不可侵条約を破棄して、

満州に侵攻していたので、

この頃、親父はもうダメだと思っていた、

のではないか。

 

それでもシベリアでの壮絶といわれた

抑留から、親父は生きて帰ってきた。

昭和23年、終戦から3年経っていたという。

そしてふる里を捨て、

もともと遠縁だった母と結婚し、

横浜の親戚の家に間借りし、

公務員として務めることとなる。

そして姉と私が生まれた。

そこにいったいどういう意味があるのか、

親父が生きて帰ってきたというのは、

ただの偶然なのか。

そんなことをいくら考えても、

いつもいつも分からない。

 

ただ自分が存在することで、

家族ができて、

こんなことをぐだぐたと書いている。

ただ、それだけなのかもしれない。

 

親父が晩年に建てたさいごの家が、

どんどん朽ちてゆく。

そして年々あなたの顔が表情がしぐさが、

記憶のなかでだんだん薄らいでいく。

私は老いてゆく。

 

ただ、時が過ぎてゆくばかり。