紅白雑感

 

明けましておめでとうございます。

今年も当ブログをよろしくお願いします。

さて、元旦は近くの神社へ初詣へでかけ、

2日に、録画しておいた紅白を倍速でみました。

全く興味のないところは3倍速で飛ばす。

 

総じてあまり面白くないね。

知らないひとばかり出てる。

若いひとはどう思うのか? そこが知りたい。

全年代をカバーするのは無理としても、

郷ひろみが長老、福山雅治が大御所、

Perfumeとか嵐がベテラン。

このように整理すると、NiziUとか瑛人とか、

ほほぅ新しいひとたちということで、

一応納得したりする。

無理矢理ね。

 

にしても、NiziUってKポップなのか?

詞は全くアタマに入ってこない。

人形のように踊っている。

ウチの娘より若い。

ウチの孫よりは老けている。

そういう理解で終わり。

 

瑛人の歌が分かりそうで分からない。

とてもいい歌詞のような、

が、感覚としてイマドキの若い子の心理なのだろう、

やはりこちらのズレを感じる。

聞けば、このひとは去年まで横浜で

ハンバーガーを焼いていたと話していた。

ホントか?

シンデレラストーリーいっちょ上がり!

 

強いてあげれば、あいみょんというひとの歌が

まあまあ理解できるというか、

ちょっといい雰囲気を醸し出している。

どこかに古い年代のメロディとかことばを

引きずっているからかな?

そこがいい。

 

ひとつ特異に感じたのが、

坂本冬美の「ブッダのように私は死んだ」。

楽曲の提供が桑田佳祐。

聴いてて「変じゃないか、この歌」って、

私は即思いましたね。

ギャグな歌詞なのに、坂本冬美の表情をみていると、

めちゃ真剣。怖い。

このいうのを、新境地とかいうのかね。

 

情念で歌う石川さゆりの「天城越え」は、

もう凄い。恍惚。

これはもうみう大河小説ですね。

 

YOSHIKIさんて、私はよく知らないのですが、

国際的なおおものアーティストなんですかね?

ここんとこがムカシから分からないんです。

 

私的には「愛をこめて花束を」のSuperflyが良かった。

 

で、この前日にはテレビ神奈川で毎週やっている、

ビルボードトップフォーティをみたが、

こちらは更に混沌としていて、

いまアメリカの音楽がどちらへ行こうとしているのか、

その迷走ぶりが分かると思う。

行き着くところまで行ってしまったようなラップ音楽と、

男女の肉体美とエロを競っているようにしかみえない、

プロモ。

top20までみていてぐったりしてきたので消しました。

 

やはり安心してみれたのは、

同日にやっていたテレビ東京の懐メロ歌番組。

 

若い頃、大晦日になると、

親父とお袋がよく懐メロをみていました。

最近になって、ようやくその謎が解けました。

 

いちいち時流に乗る必要もない。

なんてったって若い頃にきいた音楽が、

生涯の友だからね。

 

↓正月はやはり春の海デス!

 

メリークリスマス!!

 

 

 

仏教徒だけど、とりあえずメリークリスマス!!

コロナ、クソクラエ!!

あしなが育英会をサポートしよう!!

フリーランサー、頑張れよ!!

弊社を来年もヨロシク!!

 

 

 

今夜も妄想

 

そんなに楽しいもんじゃないなぁ、

人生って…

最近何故かそう思ってしまうのだ。

 

毎日がパーティーのような、

宴会のような…

 

そんな人生ありえない。

そもそもそういうのって

くだらないけれどね。

 

イマドキの世間をよくみてごらんって、

冷静な私が疲れた私に諭す訳さ。

若い頃は甘い未来予想図を、

少しは描いてはみたけれど、

これは人生をなめているなと。

 

一転して、

「荷を背負い山を登るが如く」と、

改める。

 

仕事に追いかけられたり、

金が途切れたり、

体がだるかったり、

それでも頑張って無理に笑顔で接してみたり…

まあ、苦労が絶えない。

 

が、生きるってだいたいそんなもんでしょと、

最近になって気がついた。

 

寝不足の夜更けの僅かな時間に、

往年の女優、グレタ・ガルボを観る。

ハービーマンのフルートを聴く。

 

仕事の合間をみて、河原へ焚き火にでかける。

写真を撮りにあちこち歩き回わる。

夕飯においしい肴にありついたりすると、

まんざら捨てたもんじゃない、

生きているって、なかなかいいじゃんとなる。

 

人生って実はとても単純そう、

がなかなか入り組んでいて、

一見浅いようで、

どこまでも深遠。

 

遂には、対極にある死についてさえ、

考えざるを得ない状況に出くわす。

 

生と死は一見、

こちら側、あちら側と分けることができそうだが、

これらが実は混在していて、

同じ世界の表裏に同時に、

いやそれさえ曖昧なまま、

すでに在るのではないか。

そう思うようになった。

 

最近、親しい友人ふたりがいなくなってから、

そうした想いがよりつのる。

 

あいつ等、どこかにいそうだ。

ホントは電話にも出そうだと。

 

まだ解決していない話がいくつもあるじゃないか。

しかしそれにしてもあいつ等、

最近何しているのだろうか?

手を尽くせばなんとか話せそうだ。

 

死して、相変わらず生きている。

そう感じて仕方がない。

 

 

さて今夜はデードリッヒの歌でも聴こうか。

そのうちグレタ・ガルボとも話せそうだし。

 

分かってくれると嬉しい。

生きているって、実は妄想なんだってことが…

 

 

 

 

 

ここではない、どこかへ

 

人恋しくなると、

街へ出て雑踏にまぎれる。

すると、理由は不明だが、

とても落ち着くことがある。

 

小さいとき、

木の傍らにしゃがんで、

アリの行列をじっと眺めていた。

おのおの個性や違いなどというものは、

ほぼないようにみえる。

ある一匹が、取り立てて目立つことは

ほぼないに等しい。

 

雑踏にまぎれる行為も、アリの行列も、

どちらもその他大勢という括りで、

一応、アタマの中では整理がつく。

 

思うに、アリも一匹でフラフラするのは、

不安なのではないか。

人恋しいではなく、アリ恋しいか。

 

こちらも、きっとそんな深層心理から、

たまに雑踏へ出てゆくのかなぁ、

と思ったりする。

 

であるならば、

渋谷のスクランブル交差点の人混みも、

週末の新宿の混雑も悪くはない。

がしかし、それが通勤とかで

毎日となると話は全く違ってくる。

たちまち拒否反応が出てしまう。

雑踏うんざり、また街中嫌いとなる。

 

都心勤め5年で嫌気がさし、

のち出勤なしのフリーになった私が思うに、

何事も程々が良いのである。

そのあたりのさじ加減というのが

また結構難しい。

 

よって住むところ、

働くスタイルや場所というのは、

現役にとっては重要項目である。

いや、引退してからもつきまとう。

 

新宿のど真ん中のマンションも、

山の中の一軒家もゴメンである。

 

だってライフスタイルの問題であるからして。

 

いつも静かで広い空が見渡せる。

で、たまに街中に直行できて、

雑踏の人になれる、

そんな程々の場所が一体どこにあるのか?

そうした理想の地こそが、

私の終の棲家に違いないと

最近になって分かった訳。

 

首都圏のいなか。

地方都市の静かな住宅地。

具体的に、伊豆半島とか軽井沢、

八ヶ岳山麓というような都会風の別荘地。

はたまた、

瀬戸内海に面した陽当たりの良いところ、

沖縄県南城市(ここに友人が移住したから)、

札幌郊外とか、金沢とか…

いやぁ夢は広がりますなぁ。

 

とここまで書いておいて、

ふとあることに気がついた。

 

生まれてから、

約十数回引っ越している身として、

いまの場所に飽きているのではないかという、

自己に対する疑念ですな。

実は、ここではない、どこかへ、

を探しているのかも知れない。

 

都会とかいなかとか、

あれこれと御託を並べたが、

もっと根深い問題が潜んでいるような…

 

学生時代に書いたもののなかに、

えんぴつとノートとカメラを持って

世界をまわる、というのが幾度も出てくる。

 

ああ、そういうことかと気づいた次第。