○○恐怖症がつくりだす妄想がヤバい!

 

視界のひらける場所に悪いところはない。

個人的な見解だけどね。

山のてっぺん、大海原をのぞむ見晴台。

飛行機の窓から眺めるサンセット。

ね、なんかいいでしょ?

 

反対に、谷底とか窪地とか洞穴とか地下施設とか、

そういう場所が僕はぜんぜん好きじゃない。

まあ嫌いですね。

いや、恐怖さえ感じることもある。

 

最近、あそこだけは通りたくないなと感じたところは、

東京湾アクアライン&海ほたる。

ま、ひとことで言うと信用ならないトンネル&パーキングだ。

一応、自分がクルマでアクアラインを走る想定で、

リアルにイメージしてみた。

 

うん、クルマがどんどん進むにつれ、下り勾配になってゆく。

おお、海の深いところを走っているらしい。

まわりを見るとキレイな照明がキラキラと輝いている。

トンネルの中は明るくて地上の真昼のようだ。

なかなかいいじゃないか。

快適なドライブだなぁ。

 

ある箇所を通過するとき、トンネルの壁にシミのようなものが、

ふと目にとまった。

なんだろうなぁ、こんなピカピカのトンネルなのに…

まあいいや。

時速70キロで僕のクーペは快適に走っているし。

 

あれっ、またシミのようなものをみつけた。

そのシミは徐々に数を増し、

やがてトンネルの天井あたりから、

ポツポツと水滴が落ちてくるようになった。

 

その水滴は徐々に頻繁となり、

僕はやがてワイパーを動かすことにした。

おや、前方でクルマが渋滞しているぞ。

減速して近づくと、数人がクルマから降りて、

右往左往しているではないか。

僕もクルマを止めて表にでる。

 

と、誰かの叫んでいる声が聞こえた。

「この先でトンネルが崩落しているらしい、

緊急電話はどこだ!」

「なんだって!」

突然、僕の背中が硬直するのがわかった。

さらに、その後ろから走ってきたご婦人ドライバーが、

甲高い声でこう叫んだのだ。

「もうこの先は完全に水没しているわよ。

水がどんどんこっちに押しよせてきているのよ」

そのご婦人の足下は、すでに水に浸っていた。

僕とうしろを走っていたドライバーは

反射的にいまきたトンルネを戻って走り始めた。

大勢の人間たちもわあわあ言いながら、

いま来たトンネルを走り始めたのだ。

 

しかし、そちらからも轟音が響いている。

そして勢いづいた怒濤のような水が…

 

わあ…

○○恐怖症の僕が考えると、

あの楽しいであろうアクアライン&海ほたるも、

こんな悲惨な結末になってしまう訳。

 

さて次回は、

僕もたまに必死で乗っている地下鉄新宿線の

壮絶パニックストーリーについてお話しますね。

はぁ、いい加減にしろってとこですかね。

 

話は冒頭に戻るけれど、

視界のひらける場所に悪いところはないと

僕は常々思っている。

山のてっぺん、大海原を望む見晴台。

飛行機の窓から眺めるサンセット。

 

ね、○○恐怖症の妄想だけど、

こうした話の後だと、

視界の良いところって

なんかいいイメージでしょ?

 

今夜も妄想

 

そんなに楽しいもんじゃないなぁ、

人生って…

最近何故かそう思ってしまうのだ。

 

毎日がパーティーのような、

宴会のような…

 

そんな人生ありえない。

そもそもそういうのって

くだらないけれどね。

 

イマドキの世間をよくみてごらんって、

冷静な私が疲れた私に諭す訳さ。

若い頃は甘い未来予想図を、

少しは描いてはみたけれど、

これは人生をなめているなと。

 

一転して、

「荷を背負い山を登るが如く」と、

改める。

 

仕事に追いかけられたり、

金が途切れたり、

体がだるかったり、

それでも頑張って無理に笑顔で接してみたり…

まあ、苦労が絶えない。

 

が、生きるってだいたいそんなもんでしょと、

最近になって気がついた。

 

寝不足の夜更けの僅かな時間に、

往年の女優、グレタ・ガルボを観る。

ハービーマンのフルートを聴く。

 

仕事の合間をみて、河原へ焚き火にでかける。

写真を撮りにあちこち歩き回わる。

夕飯においしい肴にありついたりすると、

まんざら捨てたもんじゃない、

生きているって、なかなかいいじゃんとなる。

 

人生って実はとても単純そう、

がなかなか入り組んでいて、

一見浅いようで、

どこまでも深遠。

 

遂には、対極にある死についてさえ、

考えざるを得ない状況に出くわす。

 

生と死は一見、

こちら側、あちら側と分けることができそうだが、

これらが実は混在していて、

同じ世界の表裏に同時に、

いやそれさえ曖昧なまま、

すでに在るのではないか。

そう思うようになった。

 

最近、親しい友人ふたりがいなくなってから、

そうした想いがよりつのる。

 

あいつ等、どこかにいそうだ。

ホントは電話にも出そうだと。

 

まだ解決していない話がいくつもあるじゃないか。

しかしそれにしてもあいつ等、

最近何しているのだろうか?

手を尽くせばなんとか話せそうだ。

 

死して、相変わらず生きている。

そう感じて仕方がない。

 

 

さて今夜はデードリッヒの歌でも聴こうか。

そのうちグレタ・ガルボとも話せそうだし。

 

分かってくれると嬉しい。

生きているって、実は妄想なんだってことが…