
ときどきだけど、方位・方角が気になることがある。
いつもではなく、ときどき。
旅行に行く前に、気になるとそうしたものを調べたりする。
8月の初旬に信州・諏訪あたりへ出かけるので、
吉方とか凶方位とかチェックしてみたら、
あまり良くないので、ではということで、
寒川神社へ出かけた。

真夏の神社はなんというか
幼い頃を思い出す仕掛けがいくつもあって、
まず蝉の声があたりに響き渡る。
どこかで鈴の音がシャンシャンと聞こえてくる。
濃く黒く伸びる社殿の陰。
夏祭りの頃なのだろう。
僕は小学生で、近所のクリーニング屋さんに丁稚奉公にきた
おにいさんと一緒に一之宮の階段をのぼっている。
集団就職の16才の坊主頭のおにいさんは、
当時8才の僕にとても良くしてくれた。


おもちゃの出店で小さな鉄砲を買ってくれた。
金属製で重い。
甘い水飴の梅も食べさせてくれた。
おにいさんはきっとわずかな給金しかもらっていない。
それはいまだからわかる。
実家に仕送りもしていたのでないか。
もう名前も思い出せない。
僕はあのおにいさんのやさしさに、気づいていたのだろうか。
心からありがとうって言えたのだろうか。

なんだか、消えてしまった灰のなかから
ふたたび火がついた記憶なんていうものもあるのだ。
寒川神社の帰路、そんなことを思いながら走っていると、
自分はあれからとても遠いところへ来てしまったのだと、
改めて自覚する。
夕暮れの丹沢山塊が陽を浴びて光っている。
圏央道のインターのクルマの渋滞がみえる。
僕は、あの日からとても遠いところへ来てしまった。
その時間軸の方向、
過ぎ去った日々の方角はと、訪ねる自分がいた。
―すべからく、そんなことはすべて、実はどうでもいいこと―
行きたいときに好きなところへ。
やりたいことに時間を使う。
そういうことではあるまいかと



