病床に伏している老人がいる。病院だろうか。
クリーム色のワゴンの上に、一輪の花が差してある。
家族らしき人たちが、その老人の傍らで先生と話を交わす。
「もうね、いいでょ。やることはやりましたしね」
長髪の先生が、白い髭に手をやり、落ち着いた口調で話す。
そして、そうですねと、
奥さんとおぼしき老婦人が、ぽつんとつぶやく。
娘だろうか、彼女の手がベッドの老人の手を撫でる。
息子はずっと窓の先の景色をみつめている。
海の見える病院だった。
俺は、その後ろに立っていた。
あぁっ、と溜息をつく。
俺は、絶対に見てはいけないものを見てしまった。
が、遅かった。
病室でのやりとりを見た俺は、後ずさりし、
冷や汗をかきながら、廊下を突っ走る。
誰かが「走らないでください!」と怒鳴る。
「うるさい、俺はいま、自分の最後を見てしまったんだぞ!」
そうわめきながら階段を駆け下り、
そして俺は、アタマが真っ白になってしまい、
ふわっとした感覚とともに、
気がつくと、2012年のその日へ戻っていた。
ひえぇっ、
冷や汗をぬぐい、俺は水道の水をゴクゴク飲む。
…あの場面って!
一体あれは、西暦何年頃なんだろうかと考え、
いや、とかぶりを振った。
「そんなことは知らなくていいんだ」
冷静になるまでに1時間30分はかかったろう。
「やはり未来なんてところへは、特に自分の死に際なんて
絶対に行くもんじゃないな…」
少し冷静になって、改めてあの場面を思い出すと、
まあ日本という国も、この先あるらしいということが分かった。
息子も娘も元気だった。
それにしても、ウチの奥さんの老けぶりは凄いな。
そしてである。
自分も当たり前に死んでゆく姿を確認した訳である。
いまは信じられないが、である。
そうだ、人は死ぬんだ!
ビタミン剤を飲もうが、毎日身体を動かして頑張ろうが、
すべての人は例外なく、富も貧乏もすべて、
死に向かってきょうも生きているのだ。
俺は、数日前から控えめにしていたタバコをぷかりとやる。
その日は仕事が手につかず、ずっと考え込んでしまった。
そして、自分の禁じ手である未来へ行ったことを、
俺はひたすら後悔した。
死に際、というキーワードは今後一切御法度だな…
その日の晩、俺は古い友人と街の居酒屋へ繰り出し、
へべれけになるまで酔っぱらってしまった。
友人に、この病室で見たできごとを話すと、
彼は俺の話を悪いジョークでも聞くように軽くいなし、
次々と話題を変えてゆく。
店を出て自宅に辿りつくまで、
俺は2度ほどクルマに轢かれそうになった。
次の日の朝方早く起きた俺は、
延々と遅れた我が社のスケジュールに目をやり、
この先どうしたものかと考えていた。
そしてええぃと捨て鉢になっていたとき、
あることを思いついた。
そもそも、
いまの俺のスケジュールを圧迫しているのは、
あの日、適当な見積もりと締め切りを申し出た俺が、
すべての原因だったことを思い出した。
酔い覚めに飲んでいたコーヒー味の豆乳パックを放り投げ、
俺は例のパソコンのアプリを立ち上げる。
「タイムトラベラーVr.3プレミアム版」
ブラウザに美しいデザインのサイトが立ち上がり、
要求されたIDとパスワードを入れると、
幾つかのキーワードがある。
俺は、すかさずあなたのご希望の年月日、
と書かれたページへとジャンプする。
そして、約3ヶ月前の日時を入れる。
パソコンの画面に幾何学模様があらわれ、
インドの寺院で聴けるような不思議なメロディーが流れる。
しばらく経つと俺はウトウトし始め、
ハッと気がついたときには、A社の宣伝部のドアの前にいた。
俺は背広を着て、事前に送信した見積もり書を手にしている。
切れモノと名高い、A社宣伝部の青井さんがあらわれた。
そして、にやにやしながら、彼が第一声こう切り出したのだ。
「ホントにお宅、この見積もり安いね、
仕事も早そうだしね。
でさぁ、この値段と期日でホントに大丈夫?」
3ヶ月前、俺はこの日ここでこの青井さんに、
「もちろん、全然OKです!」
とへらへらしながら言い放ってしまったのだ。
相変わらずの俺の軽薄さが、現在の我が社の混乱の元なのだ。
で、俺はキリッとした顔で背広の襟を直し、
こう切り出す。
「見積もりはこの通りです。
間違いはございません。
でですね、締め切りのほうなんですが、
その後いろいろ考えまして
スケジュールを綿密に組みましたらですね、
ええ、もう2週間頂けると、
かなり完成度の高いサイトに仕上げることができるかと…
ううん、これはあくまでご提案ですが…」
青井さんの眉がピクッと上がった。
「ほほぅ、2週間延ばしか。
完成度ね。
出来が、あの打合せのレベルから更にアップしちゃう訳ね?」
「そそっ、そうですね、ハイ!」
俺はハイだけ、キッパリと言い放った。
気難しい時間が流れる。
そして青井さんが切り出す。
「いいよ、いいよ。ウチもその完成度に期待しましょ!
ウチはさ、そもそも下手なものは世間に出せないしね。
なんてったって業界一のリーディングカンパニーだから。
じゃあ、
世界一のいいものつくってよ。 期待しているからさ!」
俺はモーレツなプレッシャーを感じたが、
この際締め切りが延びるのならどうでもいいだろうと思い
「ありがとうございます!」と
深々とアタマを下げる。
そして俺は、
膝の上に出していたタブレットに映し出されている
「タイムトラベラー」のアプリ画面に、そっと目をやる。
赤く大きく書かれている「リターン」の文字に触れると、
突然景色が回り出し、耳がキーンと鳴った。
次の瞬間、今度は身体がふわっとして、
気がつくと俺は、
自宅の居間でタバコを吹かしていたのだ。
おや、あそうか、
青井さんとこの仕事、
2週間延びたんだっけ…
ヒヒヒヒッ!
手帳に、青井さんの会社のサイト制作の締め切りが、
2週間も延びたことを記す。
はい、これで余裕です。
俺は小躍りをし、この秘密の最新アプリに感心した。
なんと言っても、未来はいかん。未来へ行ってはいけないな。
そう、このアプリは、過去へ行って初めて価値が上がる。
ようしと、少し時間の余裕ができた俺に、
次のアイデアがひらめいた。
見覚えのある教室で、俺は席に座り、授業を受けていた。
あっ、清水先生だ!
思わず声を発した俺に、教室のみんなが振り返る。
オオオっっっ、みんな知っている顔顔顔。
久しぶりじゃん!
俺がニタニタしてみんなに愛嬌を振りまくと、
英語の清水先生が黒板を叩いて
「ビー・クワイアット!」と叫んだ。
いっけねぇ
みんながゲラゲラと笑い、
そしてし~んとなって、授業が進む。
俺はななめ前の飯塚さんをうっとりと眺めた。
やはりな、この女性だよな。
永い人生を歩んできた俺だが、やはりこの人が、
俺の人生史上の最高の女性に違いない。
俺は過去、このひとに振られてから、
常々人生が狂ったような気がしていた。
この敗北感は、中年になったいまでも引きづっていて、
なにか良くないことがあると、
どうせさ…と愚痴るのが俺の癖だった。
その元凶がいまここにいる。
この場面さえひっくり返せばと、
俺はつい力んでしまった。
「タイムトラベラーの有効時間は30分、
んんんんん、
あと15分で一世一代のアタックをしなくては…」
学生服の喉のところのプラスチックのカラーが、
ぐっしょりと濡れている。
手に異常な汗をかいている。
息が苦しい。
俺は思わず咳き込み、げぇっーと声を発してしまった。
と、そのとき、
人生最大のあこがれである飯塚さんがこちらをちらっと見て、
小さく、他の人には分からないように「チッ!」と言い、
軽くそっぽを向いて、なんと教室を出て行ってしまったのだ。
清水先生が飯塚さん、フェア?と訪ねる。
そのとき、チャイムが鳴った。
「あああっ」と俺。
時間がない!
みんながパラパラと席を立つ。
俺は教室を飛び出し、またまた廊下を突っ走る。
遠くに飯塚さんの清楚な後ろ姿がみえる。
と、俺はドスンと柔らかい壁のようなものとぶつかり、
その場に倒れた。
「馬鹿野郎!」
見上げると片山のドデカい図体がそびえている。
「謝れ!」
片山はこの学校の番長だ。
相変わらず怖いな…
俺が息を切らして小さく
「ススス、スイマセン」とつぶやく。
「気をつけろよな、このイタチ野郎!」
このコトバに、俺は割とカチンときてしまい、
いま現在の自分目線で反応してしまい、
こう言ってしまったのだ。
「君さ、口を慎みなさい。
人には言っていいことと悪いことがあるのは、
君も分かっているよね。
そこんとこ、どうよ」
「なんだと!」
片山君がいきなり殴りかかってきた。
ひぇぇぇぇ。
そのとき、
廊下の先から、飯塚さんが振り返り、
ちらっと見ていたのは記憶している。
確か、少し笑みを浮かべていたような気がする。
次に目覚めたとき、
俺は保健室に寝かされていて、
懐かしい顔が、私に絆創膏を貼ってくれている。
おおっ、この美しい人は、
当学校のマドンナの早百合先生!
それにしても、目尻のあたりがヅキヅキとうずく。
鼻血も垂れている。
「バカね、片山君なんかと喧嘩して。
まあ、ちょっと腫れるかもしれないけれど、
大丈夫よ!」
「ええ、スイマセン。いや、
ありがとうございます」
先生の冷たく細い指が額に触れる。
ああ、この女性でもいいのかな?
そんなことを考えているうちに、
俺は飯塚さんのことはどうでもよくなってしまい、
もう彼女を追いかける気力も体力も
失せていた。
「早百合先生、僕、あの~」
そう言いかけた次の瞬間、
俺の身体はふわっとなり、
気がつくと俺は、自宅の居間で、
イチゴ味の豆乳を飲んでいた。
痛てててっっ。
チクショーと何度も言いながら、
俺はティッシュを鼻に突っ込む。
洗面所へ行って鏡を覗き込むと、
不思議と俺の顔に異常はない。
あれっ、顔が腫れてないな?
それにしても
やはり飯塚さんを追いかけるべきだったなと
後悔する。
早百合先生に気をとられ、
我が人生の痛恨のミスを犯してしまった。
がしかし、なんてったって、制限時間が短すぎるよな。
で、あの片山の奴は迷惑なんだよな。
あいつ今頃どこでなにしているのかな?
そんことを考えながら、
俺は、タイムトラベラーのマニュアルに目をやり、
メルアドをさがす。
そして、この制作者宛に、
制限時間の延長を要求する文面を延々と書いた。
へへへっ、俺の次のタイムトラベルは、
競馬場なんです。
もう、これですね、
ここしかないでしょ!
優勝馬が分かれば、遡って、
俺は馬券をガンガン買っちゃうからね!
そう、目標一億円!
俺、大金持ちになります!
俺の志は、どんどん下世話になってゆく。
そして、或る日、タイムトラベラーのアプリの制作者から、
謹啓と書かれた一通のメールが届いた。
メールを開いて、俺は驚いた。
そこには、こう書かれていたのだ。
謹啓。
この度は、弊社のアプリ
「タイムトラベラーVr.3プレミアム版」をダウンロードして頂き、
誠にありがとうございます。
さて、このアプリの時間延長のご要望に関してですが、
環境設定のバナーをクリックして頂くと、
制限時間は如何様にも設定可能となっております。
もう一度マニュアルをお確かめの上、使用されるようお願い致します。
さて、ダウンロード時の注意事項にも記しましたが、
このアプリは、あくまでゲームですので、
現実社会及び時空を移動するとは、
あくまでゲーム使用者本人の脳内で起こる変化によるものであり、
よって、現実社会及び時空の変化はみじんもありません。
上記注意事項を今一度ご確認の上、
当アプリを楽しんで頂けると、
私どもと致しましても嬉しい限りです。
今後、尚一層の精進を致すべく
新バージョンの開発を致しますので、
末永いご愛顧をよろしくお願い致します。
株式会社 MABOROSI
代表取締役 INCHIKI TAROU
(完)