風の街  (小説)

5時を知らせるチャイムが鳴る。

いつものように、

いち早く職場の連中に軽く手を挙げ、

上着を掴んでビルの外へ出る。

「相変わらず息が詰まるな…」

いま自分が出てきたビルを見上げる。

古いイギリス様式のエントランスと、

その様式で飾った外観だが、

高く伸びたそのビルは、

県の機能をひとまとめにした

インテリジェントビルだ。

こんな一等地に派手なものを建てるから、

税金泥棒などとみんなから非難を浴びるんだ…

気がつくと、いつもの癖で、

私は苦虫を潰したような顔になっている。

ガス灯を模した灯りが並ぶ通りの雑踏を一歩脇に逸れ、

海方面へ向かって歩き出す。

今日はいつになく、浜風が強いな…

私は襟を立て、早足で歩く。

やがて人もまばらになり 

その店の灯りが見えると

私はポケットの煙草をまさぐる。

重い木のドアの真鍮の飾り物が

その店のオーナーの趣味だと聞いた。

龍が首をもたげているその姿から、

きっと縁起の良い昇り龍だと察する。

入口のドアを開けると、

囁くようなテナーサックスと

控えめなドラムの音が心地よい。

煙草をくわえ、店内を見渡す。

長く延びる床板の向こうは

客がまばらだった。

皆くつろいだ様子でソファに深く沈み込み、

グラスを手に、この店でのひとときを楽しんでいるようだった。

私は、年季の入ったアメ色の木のカウンターに座り、

ラムとトニックウォーターを頼んで

煙草に火を点ける。

海岸通り2丁目にあるこの店は、

ふと思い出すように、仕事の帰りに立ち寄る。

特別ジャズが好きな訳ではないが、

この店は気に入っていた。

本で少し調べると、どうもこの店で演奏されているものは、

スムースジャズというものらしい。

いつも静かに落ち着く音楽が流れている。

以前から居酒屋の煩さには辟易していたし、

そうかといって

勤め帰りに独りで飲む喫茶店のコーヒーも味気ない。

そんなときは此処へくる。

独り身の暇潰しには、恰好の店だった。

通い始めて半年後の夏、

私はこの店で、或る女性と知り合った。

その女性は若くて

私と不釣り合いとは思うが、

何故か気が合い、ここで逢うようになった。

彼女は栄子という名で、

近くの繁華街の片隅で

宝石とアクセサリーのお店をやっていた。

或る時、いつものように

私がカウンターでラム&トニックウォーターを飲んでいると、

入り口のドアが開き、

独りの女性が私の横に座った。

それが栄子だった。

彼女は座るなり、私と同じものを頼むと、

煙草を吸いながら

じっと音に聞き入っていた。

そして突然私に話しかけてきたのだ。

「このお店の名前、なんていう名前か知っています?」

「いや、そういえばなんという店だったかな」

「やっばりね、知らない人が多いんですよ」

彼女の話し方には屈託がなかった。

私は店の入り口を改めて思い浮かべたが、

看板のようなものは見当たらなかった。

そして気にもしなかった。

「名無しのお店でしたかね」

「いいえ、ちゃんとあるのよ」

「そう、なんていう名前かな」

「東風」

「トンフウ?」

「そう、東の風と書いて、東風」

彼女は、ここから東の方向は

海なのよね。そして、

海の向こうにはアメリカ大陸があるのよ、

と言った。

「しかし、東風って中国語の名前だね」

「そうよ、この店のマスターは

華僑、二世なのよ。

で、ジャズに溺れたってことらしいの」

「詳しいね」

「ええ、私ここのマスターの奥さんに

占いを教えてもらっているの」

「占い」

「この店の奥さんってね、大陸生まれで、

北京大学卒の超エリート。なのにお役人にもならず

ビジネスのチャンスも捨てて、

中国に古く伝わる占いの勉強ばかりしていたらしいのよ」

ところで、占いはお好きと、

彼女が突然尋ねたので、

まあとだけ応えて、

私は暇な時間を潰した筈だったが、

話はとても興味をそそるものだった。

栄子の話によると、

私の存在は、会う以前から知っていたと言う。

栄子がここのオーナーの奥さんから借りた

「華源」という鏡にある呪文を唱えると、

近く出会える人として、私がその鏡に

映し出された、と言うのだ。

「ほう、それは驚きだね?

その鏡に映った私というのは、

どんな恰好をしていたのかな?」

栄子が上体を引いて、

改めて私を眺めて笑った。

「だから、この恰好よ。

ちょっと冴えないグレーのスーツに、

紺のレジメンタル、

で、このカバンでしょ。

全く同じなのよ」

「では、なぜ私が

この店に居ることが分かったのかな」

「入り口の龍の真鍮が見えたわ。

それに、このアメ色のカウンターも。

ね、ここに間違いないのよ」

「まるで、FBIの透視捜査官だな」

「まあね、そういう訳で、あなたの隣に座ったの」

屈託なく、栄子が笑う。

私は、うなずくしかなかった。

その日、店を出ると、

店の横の橋げたに降り、

海に続く運河を独りで眺めてた。

風は相変わらず強く、

水面も揺れ、

映し出すビルの灯りがゆらゆらと

蝋燭のように揺れていた。

10月の風は、涼しく、

酔い覚ましにはもってこいの心地よさだった。

公務員を長く続けていると、

仕事の中身も、職場への行き帰りも、

すべてがパターン化されていた。

幾度か転職を考えた時期もあったが、

特別になにがやりたいというものもない。

一度、貿易というものに興味をもち、

幾つか資料を探しに本屋や図書館にでかけてはみたが、

覚えるものが多すぎて、

自分の手には負えないなと思った。

去年別れた妻は、

いま同じこの街で働いている。

私たちに子供はいなかったので、

2匹のミニダックスフンドを可愛がっていた。

その犬も妻に連れて行かれ、

現在私のマンションは、がらんと静まりかえっている。

私たちが別れた理由は、

いわゆる性格の不一致だろう。

彼女は、なにもかもが派手で、

一緒にでかけるときなど、

いちいち私の服装にケチをつけ、

それを直さない私に呆れ、

ついに離れて歩くようになった。

しまいには二人してでかけることもなくなり、

彼女はより派手さを増していた。

しかし、元々そうした女性ではなかった。

どちらかというと、

家に閉じ籠もり、

のんびり家事をこなしているのが好きな性格だった。

そんな彼女を表に出させたのは、

私がつまらない人間だったことに起因する。

なんの趣味もない、会話もロクにしない男が、

毎日毎日、朝8時に家を出て、狂いなく5時半に家に帰ってくる。

そして、楽しい話題を口にするでもなく、

食事を摂る他は、寝るまでテレビを観ていた。

こんな生活を15年も繰り返していて、

遂に彼女が反旗を翻したのだ。

積もり積もったうっぷんが一気に噴き出したのだろう。

いま思えば、

彼女は平穏な生活を望んでいたのは確かだが、

そこには、何か満たされたものがなければならなかったのだろう。

私には、その才覚ががなかったということだ。

メロウなピアノの音が退けると、

店内のどこからともなく静かな拍手が起こり、

BGMが流れて、少し明かりの数が増した。

振り向くと、一番奥の席で、

栄子が中腰でこちらに手招きをしている。

近づくと、

「先に来ていたのよ」

と私の鞄をとってお疲れ様と言う。

見ると、テーブルの上にずらっと石が置かれている。

「なに、これ?」

私が石をとって眺めていると、

栄子はジン・ライムの氷をかき混ぜながら、

「あなたのこれからを、今夜占おうと思って、

わざわざ店から持ってきたの」

「そう」

栄子の説明によると、

この石の占いは‘最後の判定’と呼ばれ、

一生に3回しか当たらないということだった。

私が職場のことで悩んでいたことを、

気にかけてくれての決断だったらしい。

どうする、という栄子のことばに、

私はすぐさま反応した。

「いいよ、観てくれよ。

その通りにするよ」

「本当にいいの?」

「いいよ」

タバコの火を消して、

私はその占いとやらを眺めることにした。

そして、他人事のように眺めてはいるが、

私はその結果に従うつもりでいた。

複雑な模様柄が彫られた銀製の皿に、

サファイヤ、トルコ石、メノウ、

水晶、ルビーの他、

名の知らない石も幾つか置かれている。

栄子が呪文のようなものを唱える。

私がぼんやり見入っていると、

心なしか、水晶がわずかに動いた気がした。

いや、酔ったかなと思う。

が、今度は透き通って光るルビーの小粒が、

心なしか動いているように見える。

そして、次第に皿の中のすべての石が動き出した。

呪文が終わる頃、

サファイアがジッジッと音を立てて、

それはハッキリと分かるほどに移動した。

気がつくと、

栄子の顔から流れるほどの汗が光っている。

それは不思議な感覚だった。

そして、栄子が銀の皿をみつめて、

話し始めた。

「あなた辞めたら、会社。

元々お役人が性に合っていないのよ。

本当はね、そういう人。

あなたは本来、とても自由なの。

自由な生活と自由な仕事が合っているの。

仕事でずっと辛かったのは知っていたけど、

あなたがこのままいまの所にいると、

そうね…

ハッキリ言うわ。

あなた、あと数年で、

あのインテリジェントビルから飛び降りることになるわよ」

あのことがあってから一ヶ月後に、

私は役所を早期退職した。

いまは、あのマンションも引き払い、

栄子のマンションに居候をしている。

この結末が後にどう出るか私にはよく分からないが、

いまは気が楽になり、笑い顔も増えたと栄子が言う。

そして、最近分かったことだが、

栄子は見た目ほど派手ではなく、

どちらかというと、暮らしは地味だった。

そしてなにより、

私といると心が落ち着き、

更に私といると楽しい、と言ってくれたことで、

私は救われた。

私も栄子と暮らすようになって、

少しづつ楽しみが増え、

また宝石やアクセサリーというものを知るようになり、

いまでは石の判別やその価値、

デザイン性なども分かるようになってきた。

年が明けたら、私も栄子に同行して

ふたりでネパールへ行き、

現地での石の初買い付けを経験することになっている。

自分の生活が、あの日から一転し、

すべてが移り変わってゆく。

このことがどうであるのかはさておいて、

自分の人生の転がり様が、自分でもおかしかった。

生まれて初めて、

ジャケットの下にピンクのシャツを着て、

昼間に、あのインテリジェントビルの横を通り過ぎた。

昼時とあって、あのエントランスからゾロゾロと人が吐き出される。

私はその風景を眺めながら、あの人たちが皆何を考えているのかが、

すでにさっぱり分からないようになってしまった。

そして、久しぶりに苦虫を潰したような、

かつての自分の表情を思い出し、

それがなんとも懐かしく思われた。

この道から、

いつも歩いていたように、

海風が吹いている海岸通り2丁目を過ぎて、

今日はその先のとあるビルの一室で、

インドから来た青年実業家と、

宝石の商談がある。

タバコをくわえ

ジャケットの襟を立てて歩いていると、

いつもの「東風」の店内から、

甘くやさしいジャズの音が、漏れ聞こえてくる。

橋のたもとの、

突堤に横付けされたボートが揺れているのを眺めながら、

私は生まれてからずっと海の近くにいたことに、

ふと気がついた。

沖に浮かぶ豪華客船の鮮やかな船体にはじける、

潮の動きの美しさを、

私は初めて見た気がした。

(完)

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