フリーの現場シリーズその2

 

発作的にフリーになったいきさつ

 

同僚とつくった会社は、当初から順調な滑り出しをみせた。

売り上げは安定し、仕事に必要な備品など難なく買えた。

社員旅行へも行った。伊豆カニ食い放題とかいろいろ。

みんなで流行りの飲み屋へもよく行った。

これらはすべて領収書、経費で落した。

のんきで抑揚のない日が続いた。

 

企画・コピーは私ひとり。

あとの3人はデザイナー。

クライアントは〇〇製作所のみ。

いわば〇〇製作所の宣伝部・制作分室のような位置づけである。

ひと月に幾度か、宣伝部のお偉いさんから飲み会の誘いがあった。

要は、料亭とかクラブへお供して金を払え、

で、帰りはタクシーを呼んでくれというものだ。

 

これには、結構アタマにきた。

その後もひんな人間に何人もであったが、

だいたいタイプは決まっている。

要は、セコイことに精を出して、他はテキトーなのだ。

仕事に於いてそれは顕著に出る。

 

こうした接待のとき、幾度か同僚に付き添ったが、

あまりにもバカバカしくて時間の無駄なので、

後は辞退した。

あるとき仕事の勤務時間に関して、

社長に据えた人間から不満を言われた。

私が他のみんなより働いていないと。

私がみんなより必ず早く帰るからと。

変なことを言う奴だなぁと思っていたところ、

他のデザイナーからも同じようなことを言われた。

 

私は日頃から、昼間は近くのコーヒーショップで仕事をしたり、

神宮外苑を歩いたりと、

確かに見た目は遊んでいるようにみえたかも知れない。

しかし、帰るのが早いとか、

いや昼間にぷらぷらしている件もだが、

そもそも仕事の内容が違うではないか、

と反論した。

 

職種の異なるものを時間で比べるものではない。

外で仕事をするのも、歩くのも、

それはそれで結構考えている訳なのだが、

どうもそれがうまく説明できない。

 

思えば、デザイナーの仕事は、

デスクに張り付いていなければできない仕事であり、

絶対時間は彼らのほうが圧倒的に長い。

そこまで彼らに合わせることもなかろうと、高をくくっていた。

 

加えて、その頃、

私が他の領域の営業を始めようと提案したところ、

みんなの反対にあった。

これが私のいらいらに拍車をかけた。

彼ら曰く、順当に仕事が入ってきているのだから、

余計なことをするな、ということらしい。

 

私は毎日まいにち、

同じ広告主から依頼される同じようなコンセプト、

似た寄ったりのポスターやパンフレットづくりに、

いい加減にうんざりしていた。

だから街をプラプラしていたし、

外で仕事をしていた節も、確かにある。

それに、あの陽の当たらない陰鬱なビルにいるのが、

どうしても嫌だった。

 

あるとき、4人で話し合いをすることとなり、

私はこうした領域の仕事は、

そもそも時間ではかっても意味がない、

というような話をした。

こうした考えは、私のなかでは当たり前と思っていたが、

デザイナー連中は納得しなかった。

ではと、私がなぜあなたたちは

他の分野の仕事を伸ばそうとしないのかと問い詰めると、

そのなかのひとりが「それは楽だからでしょ」とつぶやいた、

未知の仕事はちょっと自信がないともほざいたので、

私はいきなりぶち切れてしまった。

 

「○○さん、そんなこと言っていると、

いまに他のことを全くできない

どうしようもないデザイナーになっちゃうぜ」

と私は吐き捨てるように言った。

 

思えば、私は組む相手を間違えていた。

彼らは、ただ収入が安定すれば良かったのだ。

これじゃ、志望動機が不純な公務員となんら変わらない。

潰れてしまった以前の会社のほうがスリリングで面白かった。

仕事の幅は広かったし、営業は新鮮な仕事をよくもってきた。

よってやるときは徹夜してでもやったし、

寝たいときは昼間からデスクで寝ていたけれど、

仕事に関しては真摯だった。

 

後で判明したことだが、私が嫌われた本当の原因は、

徹底的にクライアントの接待を嫌ったことだったらしい。

まあ、それは認めざるを得ないのだが。

(これは難しい話ではあるのだが)

 

こうして私は自らつくった会社を発作的に辞めることとなった。

このとき、会社の預金は4桁の万単位の金があったらしい。

(私はこのときもそれ以前も通帳をみていないので断言はできないが)

 

よって、私はこの会社から一銭も受け取らずに辞めてしまった。

一応「ハシタ金はいらねぇよ」と啖呵を切った。

社長に据えた人間が「当然でしょ」とほざいたのを、

いまでもずっと覚えている。

忘れないなぁ。

(結局この会社は数年後に内紛で解散した)

 

※教訓:共同経営を長続きさせるって至難の業だと思うよ!

 

 

陰翳礼讃

 

 

 

今年は妙な年でした。

「時代なんかパッと変わる。」

そんな一年でした。

来年はどんな年になるのでしょう。

別に期待もしていませんが、それほど憂鬱でもない。

自らすすんで、ものごとの陰のようなものに

あえて光をあててみる。

そんなことを考えています。

陰に咲く花って割と美しいものが多い。

そうしたものごとが脚光を浴びる一年になるかもしれません。

これもひとつの視点ですが…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秋は陽射しとススキだなぁ

 

 

 

ウチからの身近な観光地は、
北上すると丹沢の東あたり。
南下すると茅ヶ崎の海岸というところか。

どちらにしようかと思案するも、
やはり紅葉がみたいということで、
宮ヶ瀬湖に出かけてみた。

ここは例年、夏にバーベキューで来ていたが、
コロナ禍で今年は2回中止となった。

平日の午後だし
誰もいないんじゃないかと思っていたが、
そんなことはない。
結構の人出だった。

クルマは横浜・湘南・品川のナンバープレートが目についた。

小春日和だったが、ここはやはり寒い。
風も強い。
推定だが、東京や横浜よりまず5℃は低いと思う。
丹沢山塊の中腹だし、冷えるのはしょうがない。

 

 

視界がとても広いのがいい。
気が休まる。

夏の陽射しと較べると、
夕方とはいえかなり差し込む角度が低い。
陽射しがオレンジ色に映る。

みんな寝転んだり佇んでいたりと、
とってもゆったりとしているようにみえる。
(日頃は結構ハードで疲れているんだろうなぁ)

景色をみながら、
この一年があっという間に過ぎてしまったことに気づく。
みんなどうしているんだろうとかと、
久しぶりに改めて考えた。

いまのこの世の中、
何かがおかしい何かが変なのだけれど、
その正解が分からないでいる。

外界とのコミュニケーションが減ったことだけは、
確かなことだ。

「時代なんかパッと変わる」というコピーを思い出す。
確か、80年代のサントリーウィスキーのコピーだ。

ホントに時代がパッと変わってしまった。

このコピーの作者は、予言者か?
いや哲学者かも知れない。

優れたコピーって、商品や時代を飛び越えて、
スタンダードな一行として後世に残ることがある。

そんな一行をつくりたくて、この業界に入ったんだけどなぁ。

とにかく、この景色のお陰で、
普段は考えないいろいろなことに目が向けることができた。

貴重な時間だった。

 

 

 

夏の絵

 

 

 

こんな夕ぐれが訪れる部屋があったらな。
それは日本かも知れないし、
どこか外国のアパートの一室かも知れないし。
なにはともあれ、花瓶に花をさして、
夕暮れを眺めるという贅沢を、
一度は試してみたいと考えている。

 

 

 

 

10代で初めてでかけた沖縄の与論島。
ホントにこんな海でした。
絵ハガキのような浜辺。
満ち潮になると島が隠れそうになり、
真っ白い砂浜が海に消えて、あとは何事もなかったように…
漁船が一艘、私たちの前を横切っていきました。
ぽんぽんぽんという音を立てて。

 

 

春景色7題

雪柳

春に小さい白い花を咲かせる雪柳。

暖かい陽ざしに決して溶けたりはしない、ユキヤナギ。

 

 

雲は流れる、時も流れてゆく。

ああと感嘆詞の瞬間さえ、遠くへ遠くへと消えてゆく。

 

 

水辺

水辺は季節を映す鏡。木々を空を水鳥を描く。

けれど、君の考えていることは、まず映さないからね。

 

 

不吉

とても美しい日暮れに身体を抜ける心地よい風。

出来過ぎた一日…つい良くないことの前触れかと勘繰ってしまった。

 

 

朝もや

朝もやのなかを、テクテクと歩いている酔っ払いがいる。

そこには、爽やかなズレのような空気が生じている。

 

 

お祭りに使う造花なんじゃないかと思うほど、過剰なきらびやかさ。

ソメイヨシノって、自然な不自然で咲いている自然の造花物。

 

 

桜山

満開なのに誰も見に来ない。無風。鳥の声も止んで。

この桜山は、有史以来ずっと孤独でした。

 

 

ハズキルーペって何がすごいのか?

 

ハズキルーペが人気だ。

勢いが止まらない。

それはコマーシャルの出稿数からも判断できるし、

豪華なキャスティングからも分かることだ。

売り上げは急激な右肩上がり、だろう。

 

火が付いたのは、渡辺謙と菊川怜のコマーシャルあたりからか。

菊川がきゃっと言ってハズキルーペをお尻で踏んづけるも、

メイドインジャパンの堅牢なハズキルーペである。

何ともない。

丈夫にできている。

で、菊川のヒップが評判になった。

堅牢なルーペに、さらに色気を付けた訳。

 

かくしてコマーシャルは成功。

最近ではバージョンアップ版に変わった。

 

銀座にでもありそうなクラブに小泉孝太郎が入店する。

おしぼりを顔に当て、

パソコンで相当目が疲れている、という設定。

すかさず、ママ役の武井咲が、

ハズキルーペがいいわよ、とがち押し。

「字が小さくて読めない」と言っておしぼりを投げ、

謙さんの真似をする小泉。

そして「謙さんには内緒だよ」と、

ちょっとしたギャグを飛ばす。

常連にありがちだなぁ。

 

武井ママも新製品を見せびらかす。

と隣の席にまたまたハズキの新製品である

サングラス仕様をかけた気取ったミドルがいて、

かなりすかしているではないか。

適役、舘ひろしである。

でなんか、気が付くと、

店の女の子も全員がハズキを装着している。

 

で、ここで絶対に逃せないのが、

店の女の子が、ハズキを置いてある椅子に、

次々に座るシーン。

悩ましいヒップのクローズアップ。

このシーンを2回繰り返す念のいれようなのである。

前回から色気も数倍バージョンアップした訳。

 

おっと何のコマーシャルだったっけ?

と我にかえる。

まるで、通販の臨場感を意識したつくりなのだ。

 

制作者は、このシーンを最初に思い浮かべた。

これがやりたくてこのコマーシャルを考えたとしか、

私には思えません。

世間がうるさいイマドキ、勝負に出た感がある。

ハラスメント?

エンターテインメントに徹したので、

なんとか納まっている感はある。

 

こうなるとだ、ハズキルーペの勢いは止まらない。

物事には勢いというものがある。

そこをハズキは逃さない。

いままさに、黄金期。

観ているほうも、

「ワシもそろそろハズキルーペ買おう」と、

無意識に購買を予定しているおっさんがいっぱいいると、

私は踏んでいる。

ちなみにおばさんは、

かなりの不信を抱いているように思うがね。

 

そもそもハズキルーペって、

中高年を中心に、こまかいものを大きくして見るための

虫眼鏡じゃなかったっけ。

むしめがね…だよなぁ

そこにファッション性と堅牢と色気をふりかけると、

摩訶不思議にヒットした。

 

こうしたエグいコマーシャルって結構多い。

私も割とノってしまう性格なので、

過去にかなり不要なものを買いためている。

家中にすでに使わないものが溢れている。

冷静に考えると、

金は使うは、家はどんどん狭くなるわ、

なんで買ったんだろうと反省する訳です。

そんな事をさんざん繰り返していると、

いい加減、いろいろと気づくものです。

財布の紐も堅くなる。

 

コマーシャルとか通販って要するに、

仕掛けが透けて見えるようになってしまったら、

終焉を迎えます。

ながらく続いた消費文化の限界も見えるようです。

そして人はますます手堅くなる。

 

しかし、広告のスタイルは尚も進化するのだろう。

広告って雑草のように強いから。

 

とりあえず、罪な広告ではある。

 

 

改編・時代とコピーと普遍性について

 

かつて日本が繁栄を極めた1980年代、

「おいしい生活」というコピーが巷に溢れた。

 

「おいしい生活」?

いまきくとピンとこないが、

その時代にライブで知った身としては、

当然ピンときた。

 

ロジックで語るには面倒なコピーだ。

おいしい、という何の変哲もない言葉に、

生活というやはり何の変哲もない言葉をつなげると、

とても新鮮なコピーに仕上がった。

 

このコピーが、当時の空気を的確に表していた。

都会も地方も皆元気で、更なる繁栄を信じ、

仕事に精を出していた時代。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という、

アメリカの社会学者が書いた本も、

世界でバカ売れした。

 

日本に、そんな時代があったのだ。

 

で、このコピーの広告主は、西武セゾングループ。

バブルと共に頂点に達した企業である。

コピーライターは、やはりあの糸井重里さんだった。

 

いま「おいしい生活」というコピーを、

大々的に発信したとしても失敗するだろう。

「おいしい生活」という語感から想像する生活は、

ちょっと怪しい気配すら漂う。

何かを誤魔化す、ちょろまかす…

そうした行為の上に成り立つ生活とでも言おうか。

しかし、当時のこのコピーの響きは、

希望に満ちたよりよい明日への提案として、

皆に受け入れられたのだ。

あなたの素敵な生活はすぐそこにあります、

とでも言わんばかりに。

 

商品の向こうにあるライフスタイルを提案する―

そうした企業が現れた点で、

この広告は最先端に位置していた。

 

経済的背景、語感からくる意味合い、市場の成熟度など、

いまと全く違う日本が、そこにあった。

それが「おいしい生活」だったのだ。

 

同じ80年代の同時期に、

とても美しいコピーがヒットした。

サントリーが発信したウィスキーの広告で、

 

「恋は遠い日の花火ではない」

 

このコピーは、当時の中年のおじさんの心を、

わしづかみにした。

世はバブルである。

おじさんたちは、右肩上がりの成績を更に伸ばすべく

奮闘していたのだが、

やはり、ふと気がつくともの寂しかったのだろうか。

 

忘れかけていた恋というキーワードが蘇る。

もうひと花咲かせようと…

それは不倫なのかも知れないし、

遠い昔好きだった人に、

もう一回アタックしてみようか、などと。

 

しかし、例えばいまどこかの広告主が、

恋は遠い日の花火ではない、と謳ったとしても、

いまひとつ響かない。

受け手に伝わらない。

いわゆる不発である。

 

なんせ、コピーが美し過ぎるし。

時代は移り変わっているのだ。

 

では、このコピーを少しいじって

「戦争は遠い日の花火ではない」とか

「テロは…」とすると、

いきなり迫真めいてくる。

いまという時代にフィットしてしまうから、

皮肉な事ではある。

 

更に時代を遡ると、もっと分かり易い事例がある。

「隣のクルマが小さく見えます」

というコピーが流行ったのが、

バブル期よりずっと以前の70年代初頭。

広告主はトヨタ、クルマはカローラだった。

 

最大のライバルである日産サニーに対抗すべく、

できたのがこのコピーだった。

日本に、いや世界のどこにもエコなんていう発想もなく、

でかいクルマ=裕福という図式が世界のスタンダードだった。

 

とても分かり易い例。

 

もうひとつ。

この時代に流行ったコピーに、

「いつかはクラウン」というのがある。

当時のクラウンは、いわば成功者の証しであったし、

いま思えば、幼稚で下らない自己実現法とも思うが、

この程度で、皆が満足できる時代でもあったのだ。

 

このように、過去のコピーを検証すると、

それは、時代とともに変化する、

いわばナマモノであることが分かる。

 

ヒットしたコピーというのは、

そうした時代を的確に捉えている。

相反するように、時代とズレたコピーはまずヒットしない。

 

しかし、例外的に時代を問わず普遍的であり、

いまでも魅力的に響くコピーがある。

 

「時代なんてぱっと変わる」(サントリーのウイスキー)

 

「少し愛して長く愛して」(サントリーのウイスキー)

 

「君が好きだと言うかわりに、シャッターを押した」(キャノン)

 

「恋を何年、休んでますか。」(伊勢丹)

 

 

これらのコピーは、広告という概念を離れ、

時代に左右されない力をもっている。

使い方次第では、いまでも人の心をすっと射貫く。

 

死ぬまで言葉と格闘した詩人の寺山修司に言わせると、

こうしていつまでも古びないコピー(言葉)には、

時代を超越した「実存」が眠っている、

という解説が成り立つらしいのだが。

 

 

 

コピーライターって何?

私の職業を友人たちに尋ねられた娘が、

「コピーライターよ」というと、

一同口々に「知らないなぁ」と言ったとか。

時代遅れだよと言わんばかりの娘に向かって、

私は、「そいつらはみんなバカか」と言い放った。

しかし、そうは言ったものの、

そうかもなぁと思う自分もいる。

よくよく考えるに、コピーライターって職業は裏方。

そうそう表に出るものでもないのに、

なぜかムカシ騒がれたことがあって、

そのブームが去った後というか、

日本が不景気になって久しく、

それでもコピーライターの残党が、

息も絶え絶えに生き抜いて現在に至っている―

といったイメージなのかなぁと、

我ながらしみじみ思うのだが、

たとえば江戸の提灯を細々とつくっている職人がまだいる、

というテレビを観たりすると、

いいなぁあの頑固さと、不気味に笑う自分が

いまの職業にピタリとくるように思うので、

やはりこれで良しと考えている。

さて、いまから約30年前の名コピーで、

サントリーのバレンタインギフトの広告はこんな感じでした。

―ハートをあげる。ダイヤをちょうだい―

ちょっといい。

ちゃっかりしているけれど、

しっかりハートをあげると宣言しているあたり、

いまでも通用する。

さて、ダイヤを買う金はないけれど、

俺はまごころで返します…と。

だって若い頃って、金もないしね。

ハートをあげる。ダイヤをちょうだいって、

ひょっとしたら、結婚もOKとも受け取れる。

かなり意味深な威力も秘めている。

蛇足はともかく、コピーライターって言葉を駆使して生活している。

なので、一発必中の矢を放つことにかけては、比類無い力を発揮する。

次は、新潮社の新潮文庫のコピー。

― 一冊、同じ本を読んでいれば、 会話することができると思うの。 ―

さりげない女性の話し言葉の美しさ。

気になる女性にこんなことを言われたら、

たとえ百科事典でも岩波の国語辞典でも完読しますね。

1027ページの花の写真はキレイだったね、とか、

○○の五段活用について、君の意見を聞きたいとか…

上記のコピーも80年代と記憶しているが、

いまだ色褪せない。

一瞬のブンガクというか、

一行小説と言っても過言ではない。

で現在では、こうしたコピーはほぼ見かけない。

テレビもネットもこうしたコピーは、

もはや威力がないと考えているのか。

もてはやされているのは、

かなり幼稚で言葉尻だけ捉えたコピーづくりとか、

ヤンキー言葉なんかを使ったりして、

そこはとても自然のようなのだけれど、

後に何も残らない。

そして少し嫌な気分だけが残る。

他は安いのみの強調とか、

奇抜な映像のみでガンガン押してくるから、

押しつけがましい事この上ない。

だからつまらない。

果てはコマーシャルがウザいとなる。

そしてまた、いまはテレビのコンテンツも面白くないから、

問題は一層根深いものとなっている。

こうした負のラビリンスって、

もはや止めることのできない時代の流れでもある。

よって、コピーライターの力量が発揮される出番がない。

いや、受け手がそれを欲していない、または理解しない。

そこに曖昧さが残っているのも事実ではある。

自分の実感として、

まず先方の要望が言葉より他をめざしている場合がある。

たとえばカッコイイデザイン第一主義。

これはこれでアリの場合もあるにはある。

デザインでモノは売れる時代ではあるが、

言葉の強さを信じていない、という点で、

現在の風潮はちょっと寂しい気がする。

総じて皆忙しいから文字なんか読まないんだよなぁ、

という思い込みが蔓延している。

これは一部正解で、他方大きく間違っている。

私は一発で相手を射貫くようなコピーはつくれない。

が、どんな仕事でも最大限それに近づくよう、

努力をしている。

まあ、仕事を受けた時点で、総合的な判断、

次に企画の概要、デザインのアウトライン、

そしてコピーも同時に考えるのが我々の仕事なのだが、

いろいろとサンプルテストを繰り返して分かる事がある。

それは、やはりコピーの出来不出来により、

反響に大きな差が出ること。

これは事実。

目立たないポジションではあるが、

やはりコピーライターの仕事って、

かなり重要だと自覚している。

そしてやがてまた、

言葉なりコピーの時代が来るように思う。

何故って、結局時代は常に巡っているからです。

勝手にコピー制作しました!

頼まれもしないのに、コピーをつくる。

これってなかなか面白いんですね。

私たちは、普段の仕事では、がんじがらめです。

当然、バテます。

が、こいつは、プレッシャーも成約も締め切りもないし、

自分で好き勝手にやっても、誰にも文句言われません。

自己満足の世界なんですが、どういう訳か、

スカッとします!

が、ギャラも当然ない。

寂しいのは、実はそこなんですけれどね…

初恋

生まれ変われるものなら

もの言わぬカタツムリになって

温かい雨に包まれ

庭先からあなたをいつまでも

みつめていたい

by サンヨーレインコート

本性

そのむかし

天使と悪魔が

酒を酌み交わし

意気投合してつくったのが

人間といういきもの

…だろうね

by サントリー角瓶

駅の改札でキミを待っていたら

いつもはジーパンなのに

あれっ

久しぶりのフレアスカート

裾が風に揺れて

僕の心が揺れて

by ISHOO

告白

例えば僕だったら

口うるさい雀になって

軒先から好きです好きですと

あなたに

ずっとうたい続けるって

迷惑かな…

by iTunes

自分を楽しんでいますか?…の真意

まずは、これを観ていただきたい。↓

夕飯のあと、ほおづえをついて

ぼぉーっとテレビを観ていると、

いきなり「自分を楽しんでいますか?」との問いかけだ。

コマーシャルタイムなので気を抜いていたが、

どうだろうと、思わず自らを振り返ってしまった。

楽しんでいるといえば、そのような気もするし、

面白くもなんともないような気もする。

観れば、髙須クリニックの医院長が、

ヘりでドバイらしき上空を、

自ら操縦桿を握って飛んでいる。

サングラス姿が少しカッコイイ。

乗員は、明らかに向こうのセレブとおぼしき

ターバンを巻いたイケメンと、

あれっ、野村沙知代さんことサッチー?

どうしてそんな所にいるのかなと…

まあそんなことはどうでもいい。

そういえば以前、

髙須さんを特集している番組をちらっと観たことがある。

彼の生い立ちと少年時代からの歴史、

豪華な別荘と仲間たち。

そして印象的なのは、彼のフェイク腹筋だった。

裸になった彼の腹が、格好良く割れている。

その番組から察するに、

生家没落から這い上がった彼の努力と根性は、

賞賛に値する。

で、場所は忘れたが、高級ログハウス風の別荘の庭で、

彼とその仲間たちが、分厚いステーキを旨そうに食っていたが、

それは成功の証として当然だろう。

で、フェイク腹筋だ。

フェイクなので、当然つくりものの腹筋。

一見、彼の全身とのバランスを考えると不自然なのだが、

まあ、中年の出っ腹よりはカッコイイとしておこう。

これが、髙須クリニックの技術だ!

という事なのだろう。

自らを実験台として世間に披露する彼の姿に、

私は感動した(?)

という訳で、髙須さんははなんでもできちゃうのだ。

まあ、美容整形というと、

高そう、痛そうというのが私の感想だが、

世の中、そんな甘いことをほざいている場合じゃない人たちも、

いっぱいいると思われる。

だから、美容整形することで、

冒頭のコピーが活きてくる。

―自分を楽しんでいますか?―

これは、言い換えれば、

自分のことが好きですか?

とも受け取れるし、

自分の容姿に満足していますか?

ともとれる。

美容整形して生まれ変わり、

どんどんポジティブになってください。

そんでもって成功なんかした暁には、

ドバイでも何処へでも行って、

金を垂れ流すような人間になってください。

まずは、自分を楽しんでいるかどうか?

そこを問うているのだろうと。

このメンタリティは私とは相容れないが、

こうした価値観を指示するひとたちも、

この世界にはきっといっぱいいるのだろうと、

想像できる。

あぁ、

それにしても、つまらないことを、

また書いてしまったなぁ。

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