紅白雑感

 

明けましておめでとうございます。

今年も当ブログをよろしくお願いします。

さて、元旦は近くの神社へ初詣へでかけ、

2日に、録画しておいた紅白を倍速でみました。

全く興味のないところは3倍速で飛ばす。

 

総じてあまり面白くないね。

知らないひとばかり出てる。

若いひとはどう思うのか? そこが知りたい。

全年代をカバーするのは無理としても、

郷ひろみが長老、福山雅治が大御所、

Perfumeとか嵐がベテラン。

このように整理すると、NiziUとか瑛人とか、

ほほぅ新しいひとたちということで、

一応納得したりする。

無理矢理ね。

 

にしても、NiziUってKポップなのか?

詞は全くアタマに入ってこない。

人形のように踊っている。

ウチの娘より若い。

ウチの孫よりは老けている。

そういう理解で終わり。

 

瑛人の歌が分かりそうで分からない。

とてもいい歌詞のような、

が、感覚としてイマドキの若い子の心理なのだろう、

やはりこちらのズレを感じる。

聞けば、このひとは去年まで横浜で

ハンバーガーを焼いていたと話していた。

ホントか?

シンデレラストーリーいっちょ上がり!

 

強いてあげれば、あいみょんというひとの歌が

まあまあ理解できるというか、

ちょっといい雰囲気を醸し出している。

どこかに古い年代のメロディとかことばを

引きずっているからかな?

そこがいい。

 

ひとつ特異に感じたのが、

坂本冬美の「ブッダのように私は死んだ」。

楽曲の提供が桑田佳祐。

聴いてて「変じゃないか、この歌」って、

私は即思いましたね。

ギャグな歌詞なのに、坂本冬美の表情をみていると、

めちゃ真剣。怖い。

このいうのを、新境地とかいうのかね。

 

情念で歌う石川さゆりの「天城越え」は、

もう凄い。恍惚。

これはもうみう大河小説ですね。

 

YOSHIKIさんて、私はよく知らないのですが、

国際的なおおものアーティストなんですかね?

ここんとこがムカシから分からないんです。

 

私的には「愛をこめて花束を」のSuperflyが良かった。

 

で、この前日にはテレビ神奈川で毎週やっている、

ビルボードトップフォーティをみたが、

こちらは更に混沌としていて、

いまアメリカの音楽がどちらへ行こうとしているのか、

その迷走ぶりが分かると思う。

行き着くところまで行ってしまったようなラップ音楽と、

男女の肉体美とエロを競っているようにしかみえない、

プロモ。

top20までみていてぐったりしてきたので消しました。

 

やはり安心してみれたのは、

同日にやっていたテレビ東京の懐メロ歌番組。

 

若い頃、大晦日になると、

親父とお袋がよく懐メロをみていました。

最近になって、ようやくその謎が解けました。

 

いちいち時流に乗る必要もない。

なんてったって若い頃にきいた音楽が、

生涯の友だからね。

 

↓正月はやはり春の海デス!

 

フリーの現場シリーズその2

 

発作的にフリーになったいきさつ

 

同僚とつくった会社は、当初から順調な滑り出しをみせた。

売り上げは安定し、仕事に必要な備品など難なく買えた。

社員旅行へも行った。伊豆カニ食い放題とかいろいろ。

みんなで流行りの飲み屋へもよく行った。

これらはすべて領収書、経費で落した。

のんきで抑揚のない日が続いた。

 

企画・コピーは私ひとり。

あとの3人はデザイナー。

クライアントは〇〇製作所のみ。

いわば〇〇製作所の宣伝部・制作分室のような位置づけである。

ひと月に幾度か、宣伝部のお偉いさんから飲み会の誘いがあった。

要は、料亭とかクラブへお供して金を払え、

で、帰りはタクシーを呼んでくれというものだ。

 

これには、結構アタマにきた。

その後もひんな人間に何人もであったが、

だいたいタイプは決まっている。

要は、セコイことに精を出して、他はテキトーなのだ。

仕事に於いてそれは顕著に出る。

 

こうした接待のとき、幾度か同僚に付き添ったが、

あまりにもバカバカしくて時間の無駄なので、

後は辞退した。

あるとき仕事の勤務時間に関して、

社長に据えた人間から不満を言われた。

私が他のみんなより働いていないと。

私がみんなより必ず早く帰るからと。

変なことを言う奴だなぁと思っていたところ、

他のデザイナーからも同じようなことを言われた。

 

私は日頃から、昼間は近くのコーヒーショップで仕事をしたり、

神宮外苑を歩いたりと、

確かに見た目は遊んでいるようにみえたかも知れない。

しかし、帰るのが早いとか、

いや昼間にぷらぷらしている件もだが、

そもそも仕事の内容が違うではないか、

と反論した。

 

職種の異なるものを時間で比べるものではない。

外で仕事をするのも、歩くのも、

それはそれで結構考えている訳なのだが、

どうもそれがうまく説明できない。

 

思えば、デザイナーの仕事は、

デスクに張り付いていなければできない仕事であり、

絶対時間は彼らのほうが圧倒的に長い。

そこまで彼らに合わせることもなかろうと、高をくくっていた。

 

加えて、その頃、

私が他の領域の営業を始めようと提案したところ、

みんなの反対にあった。

これが私のいらいらに拍車をかけた。

彼ら曰く、順当に仕事が入ってきているのだから、

余計なことをするな、ということらしい。

 

私は毎日まいにち、

同じ広告主から依頼される同じようなコンセプト、

似た寄ったりのポスターやパンフレットづくりに、

いい加減にうんざりしていた。

だから街をプラプラしていたし、

外で仕事をしていた節も、確かにある。

それに、あの陽の当たらない陰鬱なビルにいるのが、

どうしても嫌だった。

 

あるとき、4人で話し合いをすることとなり、

私はこうした領域の仕事は、

そもそも時間ではかっても意味がない、

というような話をした。

こうした考えは、私のなかでは当たり前と思っていたが、

デザイナー連中は納得しなかった。

ではと、私がなぜあなたたちは

他の分野の仕事を伸ばそうとしないのかと問い詰めると、

そのなかのひとりが「それは楽だからでしょ」とつぶやいた、

未知の仕事はちょっと自信がないともほざいたので、

私はいきなりぶち切れてしまった。

 

「○○さん、そんなこと言っていると、

いまに他のことを全くできない

どうしようもないデザイナーになっちゃうぜ」

と私は吐き捨てるように言った。

 

思えば、私は組む相手を間違えていた。

彼らは、ただ収入が安定すれば良かったのだ。

これじゃ、志望動機が不純な公務員となんら変わらない。

潰れてしまった以前の会社のほうがスリリングで面白かった。

仕事の幅は広かったし、営業は新鮮な仕事をよくもってきた。

よってやるときは徹夜してでもやったし、

寝たいときは昼間からデスクで寝ていたけれど、

仕事に関しては真摯だった。

 

後で判明したことだが、私が嫌われた本当の原因は、

徹底的にクライアントの接待を嫌ったことだったらしい。

まあ、それは認めざるを得ないのだが。

(これは難しい話ではあるのだが)

 

こうして私は自らつくった会社を発作的に辞めることとなった。

このとき、会社の預金は4桁の万単位の金があったらしい。

(私はこのときもそれ以前も通帳をみていないので断言はできないが)

 

よって、私はこの会社から一銭も受け取らずに辞めてしまった。

一応「ハシタ金はいらねぇよ」と啖呵を切った。

社長に据えた人間が「当然でしょ」とほざいたのを、

いまでもずっと覚えている。

忘れないなぁ。

(結局この会社は数年後に内紛で解散した)

 

※教訓:共同経営を長続きさせるって至難の業だと思うよ!

 

 

フリーの現場シリーズ

 

その1  フリーへの道

 

きっかけはいろいろあるだろうけれど、
最近はフリーになる人が多いと聞いた。

社会構造の変化とか働き方の多様性とか、
そうしたものがフリーへ向かわせるのかも知れない。

ムカシはフリーへの敷居が高かった、というと語弊がある。

正社員でいたほうがいろいろといい時代だったから、
フリーになる必要性があまりなかった。
そもそもフリーの土壌がまだできていなかった。

敷居が高いというよりフリーの需要がなかったとしたほうが
正確な表現かも知れない。

しかし、働き方に関してなにか思うところがある、
独自の労働哲学をもっている。
特別のスキルをもっていて独りで稼ぐ自信がある。

こうした人たちは早々とフリーで働いていた。

さて、一念発起してフリーになる人がいる。
なんとなく成り行きでフリーになった人もいる。
資金等、準備万端でなる人。
あらかじめクライアントを確保してから、
という運のいい人もいる。

私的なことだが、
私の場合はスタートは成り行だった。

当時、勤めていた広告会社の経営が傾き、
ひとりふたりと会社を去るひとが出てきた。
「うーん困ったなぁ。子供もいるし、
家賃も払わにゃならんし…」
そんなのんきなことを思いながら数ヶ月が過ぎたころ、
いきなり会社の全体会議が開かれ、
そこで社長が「会社の危機的状況」を初めて直に口にした。
彼は涙を浮かべていた。

いきなり焦った。
不安が現実のものとなった。
身の振り方を考えねばと、
とりあえず家には真っ直ぐに帰らず、
会社の近くにある地下のバーでビールを飲みながら、
今後のプランを考えることにした。

家に直行すると奥さんにバレる、
そして子供たちの屈託のない笑顔なんかみたら、
泣きそうと思ったからだ。

地下のバーに出入りしていることを
会社の仲間に話すと、次第に未来の落ちこぼれが
集まった。

誰かが、いやこの私だったのかもしれない。
よく覚えていないが、
「この際、ここにいる俺たちで会社つくっちゃおうか?」
となった。

いい加減な提案だったが、なんだか希望の光がみえてきた。
それはみんなも同じだった。

「会社っていったいどうやってつくるんだ?」
「そこからだな。まずスタートに立とう」
「なんとかなる」
「なんとかなるかねぇ…」

そんなこんなで、約3ヶ月後に、
私たちは青山一丁目にあるきったないビルの一室を借り、
登記を済ませ、会社をオープンした。

そして倒産しかけている私たちの会社の社長と数回話し合いをもち、
クライアントを引き継ぐ、という形でスタートを切ることができた。
交換条件としてそれまでの給料の未払いなどは不問とすることとした。

これは、恵まれた独立の一例といえるだろう。

職場となった青山一丁目のそのきったないビルの一室は、
ときたま馬鹿でかい気味の悪いネズミが走っていたのを
何度かみかけた。

以上の私の例は、フリーというより会社設立の話だが、
ホントのフリーの話は次回にする。

後に、私はここを辞めてホントのフリーとなったのだが、
それはフリーの種類からいえば発作的フリーというもの。

これは、間違いなく例外なく茨の道が待っているので、
まずおすすめはしないフリーだ。
これはのちほど書くとして、
フリーって「Free」なのだから、直訳すれば自由のはずだ。

フリーになるとホントに自由になれるのか?
フリーという自由な働き方とは?
そのあたりもおいおい書く。

で話を元に戻す。

フリーは誰でもすぐになることができる。
免許も資格も何もいらない。

ただフリー宣言すればいい。

それだけのことなのだが…

(つづく)

 

次回は

・発作的にフリーになった惨めな話

・フリーになるとホントに自由になれるのか?

・フリーという自由な働き方とは?

などを予定しています。

 

宮ケ瀬スケッチ

 

 

 

下手な絵。

なのにやめない止まらない。

なんといってもおもしろい。

夢中になれる。

絵の基礎を習うひともその気もないので、

ほぼ上達しない。

写真もどうよう。

露出のベンキョーをしたことがあるが、

ぜんぜん面白くない。

デッサンの本も数冊読んでみたが、

ほほうと思うだけで身に付かないんだなぁ。

習うと途端におもしろくなくなる。

みんなおんなじような絵になる。

 

楽しいことってなにか?

勝手気ままにやることである。

夢中になれることってなにか?

好きなことを続けること。

 

焚き火もキャンプも面白い。

何でだ?

予定どおりいかない。

メンドー。

だけどなんだか生きているんだって、

とてもリアルに迫ってくるんだよね。

それは、絵も写真にもいえるなぁ。

 

 

 

 

 

 

秋は陽射しとススキだなぁ

 

 

 

ウチからの身近な観光地は、
北上すると丹沢の東あたり。
南下すると茅ヶ崎の海岸というところか。

どちらにしようかと思案するも、
やはり紅葉がみたいということで、
宮ヶ瀬湖に出かけてみた。

ここは例年、夏にバーベキューで来ていたが、
コロナ禍で今年は2回中止となった。

平日の午後だし
誰もいないんじゃないかと思っていたが、
そんなことはない。
結構の人出だった。

クルマは横浜・湘南・品川のナンバープレートが目についた。

小春日和だったが、ここはやはり寒い。
風も強い。
推定だが、東京や横浜よりまず5℃は低いと思う。
丹沢山塊の中腹だし、冷えるのはしょうがない。

 

 

視界がとても広いのがいい。
気が休まる。

夏の陽射しと較べると、
夕方とはいえかなり差し込む角度が低い。
陽射しがオレンジ色に映る。

みんな寝転んだり佇んでいたりと、
とってもゆったりとしているようにみえる。
(日頃は結構ハードで疲れているんだろうなぁ)

景色をみながら、
この一年があっという間に過ぎてしまったことに気づく。
みんなどうしているんだろうとかと、
久しぶりに改めて考えた。

いまのこの世の中、
何かがおかしい何かが変なのだけれど、
その正解が分からないでいる。

外界とのコミュニケーションが減ったことだけは、
確かなことだ。

「時代なんかパッと変わる」というコピーを思い出す。
確か、80年代のサントリーウィスキーのコピーだ。

ホントに時代がパッと変わってしまった。

このコピーの作者は、予言者か?
いや哲学者かも知れない。

優れたコピーって、商品や時代を飛び越えて、
スタンダードな一行として後世に残ることがある。

そんな一行をつくりたくて、この業界に入ったんだけどなぁ。

とにかく、この景色のお陰で、
普段は考えないいろいろなことに目が向けることができた。

貴重な時間だった。

 

 

 

iPadで絵を描いてみた

 

 

いままで絵ごころも習ったこともないけれど、

数年前に突然、絵を描いてみたくなった。

 

もともと絵を観るのが好きで、

あちこちの美術館にでかけたりしていた。

テレビも「美の巨人たち」や「日曜美術館」などは、

毎週録画して、みている。

 

仕事柄、デザイナーさんたちに企画意図などを説明する際、

どうしても言葉とかテキストだけでは伝わらない場面に出っくわす。

過去、こうした問題にぶつかるたび、

私なりにとても下手なサムネイル(とても小さいデザインラフのようなもの)で

対応していた。

が、あるときあるデザイナーさんのイラストをみて、

「おお、オレも絵が描けたらなぁ」って強く思った訳。

 

雑誌「一枚の繪」なんかをペラペラとめくっていると、

写実で精緻な絵とか、印象派風の絵とかが、

ゾロゾロと出てくる。

絵の上手なひとはいくらでもいるということだ。

 

私の好きなアーティストにデイヴィッド・ホックニーがいる。

とてもカジュアルなものを描くのに、

いま世界で一番人気のあるアーティストではないのかな。

彼が数年前からiPadで描いているのを知って、

私も画用紙をやめ、iPadで挑戦してみることにした。

 

旧型のiPadに対応しているアップルペンシルは、

一万円強で買える。

最新型のiPadとアップルペンシルは、描き味も微妙な色合いも

描き手のイメージを相当リアルに表現するらしいのだが、

そんな精巧なものは、当然私には必要ない。

という訳で、今回は鶴を描いてみた。

 

ときは夕暮れどき。

遠景が夕陽に染まりだして、

その色が水面にも反射して、

まだ空の青さは残っているものの、

鶴は黒のシルエットとして映る。

観る側としてみれば、かなり雑にみえると思うが、

そうです、描いている本人が結構アバウトなので、

やはりそういうものは、描いているものに反映されてしまいますね。

 

旧型は、まだ色数もすくなく、色の交りあいの具合も、

重ね塗りなどをする場合においても、

その特性みたいなものを把握しないと、

結果としてかなりイメージと違うものができ上がってしまいます。

今回の鶴の絵の場合は、哀愁が出せればいいかなと、

それだけでした。

 

これでも鶴の輪郭にはとても苦労していて、

鳩にしか見えなかったり、足の具合が不自然だったりと、

かなり修正しているのです。

やはり絵は相当に難しいです。

しかし、下手でもいいから評論家よりプレーヤーになりたい。

私はムカシから評論家というひとたちがあまり好きではないし、

プレイするひとになりたかった。

 

下手でも描く。

好きなように描く。

そう自分で決めてしまうと、ガッツが出てきます。

 

他人の評価より、自分の気もちに素直に…

これが最近の私の信条です。

 

 

たき火とバーベキューは似て非なるもの


アウトドア、人気がありますね。

都会の方々がどんどん河原に集結しております。

コロナうんざりということで、いなかへ。

が、みんな考えることは一緒で、

郊外に集結してしまいました。

 

残念!

 

私は、いなか暮らしなので、

平日の夕方にちょいちょいこのあたりで、

たき火をします。

 

ほぼ誰もいない。

ここの近所の方が散歩しているくらいです。

水の流れる音が遠くからでも聞こえる静けさ。

西の山が燃えるような夕陽に染まると、

手元はもう暗くなっていて、

たき火の炎が赤々と揺らいで、

ふっと心身の力が抜けるのが分かります。

 

バーベキューとたき火って、

まあ似て非なるものだと思います。

最近になって分かったことですが。

 

 

五木寛之「不安の力」

 

本棚をまさぐってたら、

五木寛之の「不安の力」が出てきた。

奥付をみると2005年となっている。

中身はすっかり忘れている。

ちょっと読んでみようかと、

ベッドに寝転んでパラパラと読み始める。

 

なんだか、このコロナの時代にフィットしているなと、

改めて思う。

不安はいつでもだれの心にもあるのだが、

いまこの事態に「不安」は顕在化しているから、

タイミング的にピタリではないか。

再販、イケルと思う。

編集者気分になる。

 

五木寛之という作家は、軽いのに重い。

重いのに軽い。

何と表現したら良いのか分からないくらい、

光のあて方でどうとも解釈できてしまう。

 

「青年は荒野をめざす」「風に吹かれて」などから、

数十年を経て、仏教に傾倒し、

その深淵を追求したりと、

年代によって作風がみるみる変化している。

 

なにはともあれ、この人は風のようであり、

旅人であり、不定住のようであり、

生来孤独を愛する人なのでないか。

 

私の若い頃からの文章の手本として、

永年高いところにいる人であり続ける。

 

文章は基本的に平易かつ分かりやすい。

映像のようで美しい表現を何気に使う。

さらにこの作家の生き方の複雑さが、

作品のここかしこに宿っている故に、

それが全体として重くのしかかる。

 

一度死んだ人は強いとは、

この人のことだと思う。

それはこの人の若い頃のことを知ればしるほど、

この作家の背負ったものが如何ほどのものか、

考え込んでしまう。

 

この「不安の力」という本のなかに、

シェークスピアの「リア王」の台詞が、

五木流の訳で紹介されている。

 

『「…この世に生まれてくる赤ん坊は

みずから選んで誕生したのでない。

また、生まれてきたこの世界は、

花が咲き鳥が歌うというようなパラダイスではない。

反対に弱肉強食の修羅の巷であったり、

また卑俗で滑稽で愚かしい劇の舞台であったりする」

赤ん坊が泣くのは、

そうしたことを予感した不安と恐怖の叫び声なのだ。

産声なんていうのは必ずしもめでたいものではないのだよ、

という辛辣な台詞です。

嵐の吹き荒ぶヒースの野で、老いたリア王が

「人は泣きながら生まれてくるのだ」と叫ぶ。

これは、人生のある真実をついた言葉だと思います。』

 

五木寛之という作家は、

要するにこうした志向に傾く、

そこは若い頃からどうにも変化しない、

風に吹かれたりもしない、

不動の悲観論者なのである。

 

「不安の力」はこうしたネガティブな人間の一面を

賞賛する本でもある。

いや、市井の人間に真の希望とは何かを教えてくれる。

 

それがこの人の持ち味であるし、

この作家の魅力なのである。

 

この時代にぜひ読んでおきたい一冊と思う。

 

寛斎さんのこと

 

山本寛斎さんが逝ってしまわれた。

オールバックのヘアスタイル。

大胆なファッションを難なく着こなす立ち姿、

笑顔を絶やさず、しかしふとした瞬間にみせる

神経質かつ気難しい表情が、格好よかった。

 

訃報に接し、或る記憶が鮮明に甦ってきた。

私は過去に一度、寛斎さんを取材したことがある。

当時、私は大手出版社の制作を専門としている

編集系の制作会社に在籍していた。

一応、前職の内容を買われての転職だった。

 

しかし、入社早々から戸惑うこととなる。

まず、大手出版社のやり方がさっぱり分からない。

そして、社内の人間さえ把握していない時期に、

いきなりディレクターとしての活躍を期待されてしまった。

一応、部下と呼べる人が4人ばかりいたが、

彼らのほうが数段レベルが高いと思われた。

 

私の担当は、或る出版社が企画している、

科学から文化など多岐に渡る分野の近未来の

ビジュアル事典なるものの巻頭の特集ページだった。

 

しかし、そのころ私自身悩みを抱えていて、

こうした世界にいること自体に疑問を抱いていた。

不安定な収入、家へ帰れないほどの仕事量、

〆切に追い立てられる日々。

この世界は、どこも同じような職場環境だった。

 

当時は、飲食業とかトラックの運転手とか、

学生時代に慣れ親しんだ仕事でもしようか、

と内心では転職を考えていた。

要するに、全く違う業界へ救いを抱いていた。

さらに、奥さんが最初の子を身ごもっていたので、

そちらへも気が散っていたのかも知れない。

 

しかし、とりあえずは働かなくては食べていけない。

そして目の前にある仕事に飛びついてしまったのだが、

こうした業界には、すでに幻滅を感じていた。

 

よって、毎日が激務なのに気はノラない、

すべてがうわの空なのに、

日に日に責任が覆いかぶさってくる。

〆切のページ項目がみるみる増えるなど、

猛烈なストレスの日々だった。

 

或る日、出版社の局長がぷらっと訪ねてきて、

「未来のファッション」を企画している旨を、

私たちの前でボソボソと話し始めた。

そしてこの人が、「寛斎さんはどうですかね」

と、なぜか私に話を振ってきた。

「いいんじゃないでしょうか」と

適当に答えた。

すると局長が、

「だよね、では君がすべての段取りつけて

本人のインタビューをとってきてください。

予算は大丈夫ですよ」と

あっけなく話がまとまってしまった。

後日談では、寛斎さんの件は

すでに決定していたとのことだった。

私はのせられた、試されたようなのだ。

それが何の為だかは、

いまだに謎ではあるのだが。

 

単独取材は、表参道にある寛斎さんの事務所で行われた。

そのビルの最上階にある真っ白い一室は、

防音が施されていると思えるような、

おそろしいほど静かな部屋だった。

 

私は寛斎さんとふたり、

白い机を挟んで向き合っていた。

 

寛斎さんはとても礼儀正しい方だった。

幼年時代の苦労した話は知っていたが、

そこは避けることにした。

寛斎さんの話している仕草や内容から、

異常とも思える忙しさが伝わってくる。

なのに快活でエネルギッシュな生き方が、

それを上回っていた。

「元気」「ゲンキ」をコンセプトとした、

ファッションという枠に捕らわれない、

複合的なイベントのことを盛んに話された。

 

私はとにかく終始気後れしていた。

なのに無謀にも、ノートとペンのみで取材に臨んでいた。

テープレコーダーの持参も頭に浮かんではいたが、

当時はメモの取れない奴が録音をあてにする、

などの風潮もあってか、メモのみとした。

 

さらに、肝心の下調べと質問事項などの

下準備を怠っていたのだ。

時間は刻々と過ぎてゆく。

世間話ばかりしていてもたいした材料にはならない。

 

事前の準備を怠っていたのは、

他の作業がすでにもうどうにもならないほど日程が遅れていて、

そちらの火消しをしているうちに、

気づいたら取材前日の夜になっていて、

まあ、半ばやけくそな気にもなっていたことだった。

 

取材が終わると、寛斎さんが

何か物足りないというような表情をみせた。

それは不審を覚えたような目でもあった。

私は当然と思った。

 

赤坂への帰りの地下鉄にへたり込み、

私は憂鬱かつ脱力した心持ちで、

車輪が発する騒音さえ遠くに聞こえるほど、

放心していた。

社に帰ってメモを見返すと、

とてもいい記事になるとは思えない、

どうでもいい走り書きばかりが目についた。

当たり前のことだった。

 

そして、とてもまずい事態がそのあと次々に起こる。

私の書いた原稿が突っ返される日々が続いた。

これは私も承知していた。

というより、書いた本人が一番分かっているように、

とても世間に発表できるほどの内容ではなかった。

それでも記事を書き直す日々は続いた。

それはとてもキツい毎日だった。

 

要するに、取材失敗である。

さらに善後策が皆無であり、

無策の私は、社内で全く身動きがとれなくなっていた。

いっそ逃げることも考えたが、

それではどうにも納得がゆかない。

後々、自分が許せなくなるだろう。

 

そうした状況が2週間も続いた或る日、

途方に暮れている私のところへ、

社内の編集者やライターなどを取りまとめている、

Aさんが近づいてきた。

この人がどういう人なのか、

私は話したこともなく、よく知らなかった。

 

Aさんはとても落ち着いた声で

「話は聞いています」

と切り出した。

「ご迷惑をおかけしています」

私は他に言葉がみつからなかった。

そしてこの人は余裕があるのか、

笑みさえ浮かべて

「事情をききましょうか?」

と少し身をかがめてきた。

私は、自分の仕出かしたことが、

まわりに多大な悪影響を及ぼしていること、

時間もチャンスも

すべて取り返しのつかないところまできていること、

そして事前準備を怠ったいきさつなどを、

包み隠さず話した。

 

彼は、かなりながい時間、

オフィスの天井あたりをじっと眺めていた。

そしてこう言った。

「そのメモを私にみせてください。あとは

あなたからみた寛斎さんの印象を私に教えてください。

そしてですね、後から調べた寛斎さんに関するもの

すべてを私に提出してくれませんか」

「はい…」

そしてこう言ったのだ。

「私は寛斎さんに関してはかなりの情報をもっているので、

後は私が何とかしましょう」

 

胸につかえていた苦しいものが、

ポトっと取れた気がした。

 

後で聞いたのだが、

Aさんは制作会社の社長に頼まれて、

出向で社内を統括している方らしく、

元大手出版社の優秀な社員であり、

企画、編集、執筆、さらには対外の折衝もこなし、

創作の世界においても

かなり名の知れた人とのことだった。

 

私は、このプロジェクトが終わると同時に、

この会社を辞めた。

なのに飲食をやることもなく、

トラック・ドライバーに戻ることもなく、

さらに制作会社を転々とした。

 

いま思い返してみても、

その転職理由はただただ悔しかったのだろうと、

自分では推測している。

そしてこの業界から逃げることは、

自分の性格からして、

後々後悔することは目にみえていた。

それより自分が巻き起こしたトラブルを

難なく解決してくれたあの人のようになりたい、

とも考えるようになっていた。

 

後、私は広告業界に転職したが、

スタンスの違いこそあれ、

感覚的にいえば前職となんら変わりはないと感じた。

 

その転職した広告会社は表参道にあった。

そしてそのビルが、偶然というべきか、

寛斎さんの会社が入っているビルだったことに、

私は心底に驚いてしまった。

 

(寛斎さんのご冥福をお祈りいたします)

 

 

湘南クラシック・ホテル

 

湘南ホテル

 

以前、鵠沼海岸沿いに湘南ホテルというのがあった。

新しくはないが、結構、建物が洒落ていたので、

私はかなり気に入っていた。

外観は洋風で、重厚。

しかし、威圧感のようなものがない。

薄い緑色の外観が美しかった。

窓からは、海沿いの国道134号線を隔てて、海が見える。

静かな夏の早朝には、波の音も聞こえた。

小振りだが、地下には室内プールもあって、

真夏のカラダを冷やすのに最適だった。

実は、

この海岸沿いの道を学生時代からずっと通っていて、

ホテルの存在を、私は全く知らなかった。

中年になってふとしたきっかけで知ったのだが、

そのときはすでに閉館が決まっていた。

そこそこ繁盛していたように思うが、

このホテルは個人オーナーのものだったので、

閉鎖は相続の問題も絡んでいたらしい。

とても残念だった。

現在、この跡地には瀟洒なマンションが並らぶ。

いまでも時折、この前を通ると、

あの夏の日の、家族の笑顔が思い浮かぶ。

 

 

なぎさホテル

 

逗子のなぎさホテルの外観は小振りで、

見るからに古い洋館の造りだった。

海沿いを走っていると、こんもりとした緑の中に

ポツネンと佇んでいる。

若いひとから見ると、単なる古い洋館だ。

一見、時代に取り残されたように建っている。

しかし、一端中へ入ると、

黒光りする柱や漆喰の美しい壁が、

訪れたひとを魅了する。

私はここを、編集者時代に企画を出して、

取材と称して泊まったことがある。

しかし、取材の件は一切口には出さないで、

個人名で宿泊した。

カメラマンと男同士の宿泊は、

少し奇妙に映ったのかも知れないが、

まあ、それでも一般客として途中まで通した。

結果的に、ホテルのスタッフの方々の対応も、

そして食事もとても満足のゆくものだった。

結局、取材と撮影は最終日にホテルに切り出し、

慌ただしい仕事となってしまったが、

自ら納得したホテルを紹介することで、

自分も満足することができた。

もうだいぶ前に取り壊されたが、

作家の伊集院静さんが若い頃、

このホテルの居候をしたことがあるという。

そして後年、「なぎさホテル」という本を出版している。

彼にして、それほど思い出深く、

居候になるほど癒やされる、

素敵なホテルだったのだと知った。

 

 

パシフィックホテル

 

パシフィックホテルは、

茅ヶ崎の海沿いに忽然と姿を現すホテルだった。

古いホテルにしてはタワー型で、

当時としては画期的な建築物だったように思う。

このホテルを知ったのは学生時代で、

近くに波乗りのポイントがあり、

そこに通うようになってからだった。

高級ホテルだったので、

私は最上階の喫茶しか利用したことはないが、

ここからは、湘南の海が一望できた。

海を見下ろすという感覚は、

ここが初めてだったように思う。

一時、あの加山雄三さんのもちものであったし、

また、サザンの桑田さんも歌っているように、

そして大好きなブレッド&バターも、

このホテルの曲をかいているように、

皆に思い出深い、存在感のあるホテルだった。

 

 

湘南から姿を消した名ホテルは、

ときを経て、私のなかでより美しさを増す。

現存しているホテルでいまでも気になるのは、

大磯プリンスホテルと鎌倉プリンスホテルだ。

 

 

大磯プリンスホテルはクラシックホテルになれず、

ただ建物ばかりが古びていた。

まわりにこれといった観光地もない。

しかし、広い敷地がとても贅沢に使われていて、

空と海の広がりを堪能できる。

ここからの海の眺めは、湘南随一。

ホテルの前の西湘バイパスがなければ、

とても静かなのだが…

数年前にリニューアル・オープンしたので、

3回ほど足を運んだ。

ラウンジを吹き抜けにして、かなり派手な印象。

フロント付近では、外国からの観光客ばかりが目につく。

のんびりとした温泉施設も大幅に改造されて、

ハイカラなスパに生まれ変わっていた。

残念だったのは、

小高い庭に建っていたガラス張りの教会が、

すっかりなくなっていたことだった。

海辺に建つあの美しい教会を壊すとは…

思うに、このホテルのリニューアルを企画した人間は、

実は大磯プリンスホテルのホントの意味での良さを、

何も分かっていないのではないか?

 

 

鎌倉プリンスホテルは、

七里ヶ浜の丘の上の高級住宅地に建っている。

プリンス系列のホテルにしては、こじんまりしている。

プリンスホテルは、どこも高台が好きなようで、

いまはもうない横浜・磯子のプリンスホテルも、

横浜の海を見下ろす高台にあった。

シーズン・オフに宿泊したことがあるが、

横浜の海が見渡せる上階の部屋を希望したにもかかわらず、

一階の奥まった景色の悪い部屋に通された、

個人的に苦い思い出がある。

以来、一度も足を運ばなかったので、

ここの魅力は不明なのだが。

 

鎌倉プリンスホテルは、各部屋がビラのように、

丘の上に長く延びる3階建て。

正面の部屋は、海を真向かいに見て、

他は江ノ島方向を向いている。

どの部屋もハズレがなく、

山側という部屋がないので、たいした格差がないのが良い。

最近、ホテルをまるごとリニューアルして、

全室禁煙にしたので、もう私は行かないが、

あのホテルはなんというか、

隠れ家のような魅力があった。

 

 

いまはもうないホテルも含めて、

湘南の海辺に建つホテルは、

どれも個性的で美しい。

美しかった。

 

 

海沿いの134号線を走るたび、

それは潮の薫りに乗っては再び甦る、

蜃気楼のようなものになりつつある。