平山みき71歳

 

ユーチューブでナツメロを聴いていたら、

関連曲つながりで、

「真夏の出来事」が出てきた。

我、高校生のときのヒット曲である。

いい歌だなぁ。

 

歌詞のなかでこういう一節がある。

♪悲しい出来事が起こらないように♪

当時はテキトーに聴いていたので、

理解していなかったが、

この歌って、わかれの歌なんですね。

いまさら、いい加減な自分に驚きました。

雰囲気だけで聴いていました。

 

歌詞を理解すると、さらに好感度アップ。

これを歌っている平山みきさんは、とても人気がありました。

当時ガキだった私からすると、年上のお姉さん。

ガキにはとても手におえそうにありません。

はすっぱという言葉にビタッとおさまる雰囲気が

またよかった。

 

ところで、はすっぱという言葉の意味を

コトバンクで調べたらこう書いてある。

「女性の態度や動作が下品で慎みのないこと、

また浮気で色めいてみだらな女性をいう。

「はすっぱ女」ともいう。」

 

ヒドイことが書いてあります。

私のなかで元祖はすっぱは、

加賀まりこさんなのだが、

なんだか私の思っていたのと、

どうも意味合いが違う。

これは私の間違いなのか。

 

私のなかで、はすっぱというのは、

とてもいい響きであり、褒め言葉なのだ。

なんだか垢抜けていて、ミステリアスで、

全然こちらの言うことを聞いてくれない、

わがままなかっこいい女性。

それがはすっぱなのだ。

 

本来はコトバンクにあるように、

女性を卑下する言葉なのだろうけれど、

当時の私たちはそういう意味合いでは

使っていなかった。

それはひょっとして方言と同じで、

地方により意味合いも変化するとか?

 

まあ、どうでもいいや。

で、はすっぱな女性にはいまでもかなわない。

振り回されそうな気がします。

なにしろはすっぱは、小悪魔ですからね。

そのはすっぱな平山みきさん、

現在71歳だそうです。

 

ンー、あれから半世紀が経ちましたか。

平山みきさん、どうか現在でも

はすっぱなかっこいいおばあちゃんで

いてくださいね!

 

 

 

 

 

あやしいバイト

70年代の中頃だったか、
僕は沖仲仕という仕事をしたことがある。

沖仲仕とは、港湾労働者のこと。

港で荷役をする肉体労働者だ。

いまは、荷物はだいたいコンテナなので、
大型クレーンでそれを吊り上げれば、
事足りる。

僕の若いころは、
それを人力でやっていたのだ。

岸壁に直接接岸できない大型の船だと、
荷を受け取って港におろすため、
小さな船が間に入らなければならない。

その荷物をひとつひとつ人力で
作業するのが、沖仲仕だ。

陸と海の間を取り持つ仕事なので、
沖仲仕。

船に揺られながら、一日中荷役をする。
波の荒い日は、吐く人間も出る。
真夏の暑い日などは、昼飯ものどを通らない。

僕がなぜそんな仕事にしたのかだが、
趣味のクルマに入れ込んでしまい、
借金がかさんだのと、
あとは遊びすぎてしまい、
それらの返済に追い詰められていたからだ。

当時のバイトの相場は、
一日3000円くらいだった。

普通のバイトでは、全く返済に追いつかないと
悟った僕は、突飛なバイトばかり探していた。

当時はベトナム戦争が激しかったので、
金に困っているある知り合いは、
戦死した米兵の死体洗いを真剣に考えていた。

そのバイトの噂は、
若い僕らの間を駆け巡ったが、
では一体どこへ行けば
そのバイトをさせてくれるのか、
まず入口のようなものが、
結局誰も分からなかった。

バイトは、日当3万円~5万円くらいだったと
聞いた。

あれは都市伝説だったのか、
それはいまでも分からない。

バイトの内容はこうだ。

プールのようなところに死体が
いくつか浮いているので、
一体ごとに回収して、
身体じゅうの穴という穴に脱脂綿を詰め込み、
死体をきれいに拭いて、棺におさめる。

そのような内容だった。

僕は臆病なので、
そうした恐ろしいことには
とても耐えられない。

次にバイト代が良かったのが、
一日1万円もらえる沖仲仕だった。

この仕事も、ひとから聞いた話からだった。

まず、朝の7時だったか8時だったかに、
横浜の仲木戸駅の付近をプラプラする。
それも何かを探しているように。

すると、手配師と呼ばれる
人集めがやってきて声をかけてくる。
そこで仕事の概要とギャラを提示する。

合意すると、紙っきれの簡単な文面の下に
朱肉で親指の拇印を着く。

そして10人くらい集まると
マイクロバスに揺られて、
岸壁に着く。
で、小型の船に乗り込む次第。

そんな仕事にやってくる人間は、
やはりと言うべきか、
皆一様に訳ありというか、
一癖も二癖もありそうというか、
外見からしてフツーな感じがしない。

これは後に気づいたのだが、
どのひとも家のないのは当たり前で、
木賃宿でその日暮らしが多かった。
公園とかで寝ているひともいた。

が、お互いにどんな人間なのかなんて、
誰も話したり触れたりしない。

酒焼けと日焼けが混じって、
どの顔もどす黒くて、
やたらとシワが深い。
歯が抜けているひとも、
かなりいた。

仕事は殺伐としていた。

すぐケンカが始まる。
それがひんぱんだった。

あるとき
血だらけのふたりが殴り合っていた。
現場監督がそれを見つけると、
平然とヘルメットでふたりを殴って、
そのケンカはおさまった。

それが日常茶飯事。
普段の風景なのだ。

あるとき、頭上数十メートルから、
クレーンに積んだ荷が船に落ちてきた。

僕のすぐそば、
50センチから1メートル近くで、
ドスンとすごい音がした。
当たっていたら確実に死んでいた。

驚いてまわりを見渡すと、
誰も顔色ひとつ変えない。

恐ろしい仕事だと思った。

この激しい労働の後は、
心身ともにズタズタになる。

どうしてもまともではいられない。

酒場、キャバレーと渡り歩く。
でグダグダに酔って、
やっと正気に戻れる。
そうでもしなければやってられない。
そんな仕事だった。

極度の疲労とストレスと恐怖。

それを紛らわすのに
すべて使い果たしてしまう。

そんな仕事は数週間でやめた。

金が貯まらないどころか、
命があやうい。

借金なんか減る訳もない。
明日のことも考えられない。
夢も希望もない。

ただ心身の疲労だけが、
いつまでも残っていた。

が、ふと思ったのは、
僕にはやめることのできる選択肢があった。
他で新たなバイトを探せば、
なんとかなる。

では、あのひとたちはどうだろう?
あの仕事の毎日は、残酷過ぎる。
考える余裕も体力の回復もないまま、
日々が過ぎていってしまうのではないか。
その先はみえている。

それを思うと、極度に憂鬱になった。

このバイトでの経験は、
僕にいろいろなことを教えてくれた。
それは経済的なことだけでなく、
これからどう生きていくか、
ということも含めて。

それからしばらく、
僕は時給の安いコーヒーショップで働いた。

それはとても穏やかな日々だった。

 

 

真夜中の訪問者

 

最近、寝るときの

妙な習慣について書きます。

 

本を閉じてさあ寝ますというとき、

下になった一方の手を

反対の肩に乗せてからでないと、

どうも落ち着いて寝られない。

 

この動作、分かりますか。

ややこしいですかね。

 

では。

右肩が下なら、

右手を左の肩にのせる。

これでどうでしょう、

分かりましたか?

 

この動作って変ですよね。

でもそうするとなぜか安心できる。

すっと眠ることができるのだ。

いつからそうなのか忘れたが、

自分でも妙な癖がついたと思っている。

 

まだ寒いので、

冷えた方の肩に手を添えると、

手がとても暖かいので、

ホッとする。

このあたりまでは、物理的な話なんですが。

 

が、それだけではない。

自分の手なのに、

誰かの手のように感じる訳です。

その誰かが、しばらく分からなかった。

なんというか、

とても大きななにかに守られているような。

その感覚に包まれると、

心身ともにやすらぎさえ覚える。

 

数ヶ月が過ぎたころ、

それがとても遠い日の感触だと、

突然気づいたのだ。

 

母が亡くなってから数年後、

私は不思議な体験をしたことがある。

夜中になぜかふと目が覚めた。

2時か3時ごろだったと思う。

部屋の入口にひとの気配がした。

うん?と思い振り向こうとしたが、

首を動かそうにも、全く動かない。

畳を踏む音がして、

僕のベッドに近づいてくる。

 

不思議なことに、

このとき恐怖心などというものはなく、

脱力するような安堵感さえ感じられた。

その気配は僕の枕元でじっとしている。

僕は全く動くことができないでいた。

 

どのくらいの時間が経過したのかは、

全く分からない。

数十秒だったような気がする。

数分だったようにも思う。

 

「おふくろだろ?」

僕は心中で、その気配に話しかけた。

その問いに、気配は笑っているように思えた。

 

なぜ母だと思ったのか、

それは分析できない。

いまでも分からない。

ただ、とても懐かしい感じがしたのだ。

そして母だという確信は、

僕の記憶の底に眠っていた。

 

幼いころ、

母は僕を寝かしつけるのに、

いつも僕の肩に手を添えてくれていた。

僕の最近の変な癖について、

突如として思い出したのは、

その遠い記憶だった。

 

それが自らが作り上げた

こじつけなのか否かは、

自分でもどうもうまく解決できない。

説明がつかない話は、

世の中に幾らでも転がっている。

いまでは、そう思うことにしている。

 

それにしても、

僕がいくら年老いても、

母は依然として母であり続ける。

それは、永遠に変わらない。

妙なことに、それが事実なのだ。

 

そしてそう思うほどに、

生きている限り、頑張らねばならない。

真夜中の訪問者はいまだ変わることなく、

僕にやさしくて厳しい。

 

そういう訳で、

僕の寝しなの妙な儀式のようなものは、

当分続きそうな気がするのだ。

 

たき火のススメ

乾いたマキをクルマに積んで
さあでかけよう

水辺は冷えるので少し厚着をする

化繊は燃えやすいので
綿100㌫のパーカーは必須

夕方から始めるとなかなかいい雰囲気になる

 

 

たき火ってひとりっきりでもOK

疲れたらとにかく火がいい

 

 

 

それはたとえば
風呂に入るようなもの
とてもいい気分になる

誰にも安息は欠かせない

 

 

火があって
炎のゆらめきに惑わされて
催眠術にかかったような夢をみる

 

夕暮れの川辺では
ときおりシルエットの鳥が鳴く
川のせせらぎも遠くに響いて
やがて夜のとばりが降りる

こうして時間は消滅する

まわりをみると真っ暗だった

ロードショーが終わったときのように
やれやれと立ち上がりさっさと片付け
火の始末は怠らない

再び時間が動き出す

日頃の煩わしさは
いつもついてまわるから
やはり安息は必要だ

その日の夜は
とても穏やかな気分になる

 

 

 

海がみたくなった。突然…

ときおり、いや突然かな、
イチゴのショートケーキを無性に
食いたくなったりするときがある。
アイスクリームも同様。
あの衝動って何なんでしょう。

海がみたくなった…というのも、
同じく定期的に起こる衝動です。
間隔としては、3ヶ月に一度くらいか。

上記ふたつの衝動には何の共通点もないし、
脈絡も不明なのだが、
ショートケーキを食すととても幸せな気持ちになる。
海をみた帰り道も、満足感でいっぱいになる。

あえて分析するならば、人類にとって糖分は、
生きる上で欠かせない原動力であるし、
海は人類の記憶が眠っているふるさとである。

これはとても嘘くさい分析ではあるが。

鎌倉・藤沢あたりの湘南は人が多そうなので、
「湘南」と呼ばれる発祥の地である大磯へ
でかける。

 

大磯は市ではなく町。
よって人口もそれほど多くないし、
町全体がのんびりしている。
国道1号線沿いに商店が並んではいるが、
繁華街というにはほど遠い。

大磯港、大磯プリンスホテルがある他、
見どころは、大磯城山公園、旧吉田茂邸、
高麗山、六所神社、旧島崎藤村邸。

一見地味であるし、他の湘南地域に較べると
若さも活気もない。
けれど、とても落ち着けるいいところだ。

大磯には「隠れ処」という言葉がふさわしい。

難をいえば、海沿いを走る西湘バイパスの騒音。
音は結構遠くまで轟く。
この道路を突っ走る飛ばし屋のバイクや高性能カーは、
どうも常連が多いように思う。
対策として、小田原厚木道路に異常に多い覆面パトカーを、
もっとこちらの道路に移動させてみてはどうか。

で目的である「海がみたくなった」なのだが、
今回は遠目にしかみることができなかった。
大磯城山公園、旧吉田茂邸と巡る途中、
陽光で海が光っているのがみえてワクワクしたが、
如何せん木々が多くて景色に広がりがない。

そこで大磯プリンスホテルへ寄ってみたが、
あいにくコロナのためホテルは閉まっていた。

ここのホテルの庭からの景色は絶景なのだ。
水平線だけでなく、遠くは伊豆半島まで見渡せる。
残念。
ここのおいしいコーヒーも飲めなかったし。

帰りはセブンに寄って100円コーヒーをいただく。
がしかし、己の気分を分析したところ、
かなりの充足感で満たされている。

ショートケーキに例えると、
専門店ではなくスーパーで買った
ショートケーキを食ったというところか。

いずれにせよ、思い立ったら吉日なのである。
仕事もコロナも関係ないのである。

 

風の時代その2

 

不要不急の外出は避けています。

それが、現在の社会を構成するひとりとしての、

最低限のマナーでもあります。

しかし、先日のことなのですが、

私は特急で有用な要件ができ、

あちこちに写真を撮りにでかけました。

 

 

これがなぜ不要不急でないのか?

家でジッとしていたら、

ちょっとイライラがMAXになったからであります。

 

 

「風の時代」の到来と前回のこのブログで、

己で勝手に書き、なおかつ

自らフラフラと出かけてしまうのでありました。

 

 

イライラを解決するポイントは、

自らの欲する方向へ場所へ赴くことを

決して拒絶しないことでした。

結果、高い山間部とか景色のよいところ、

夕陽の眺められる箇所をめざしておりました。

 

 

 

撮影ポイントにおいて、

夕方にはさっさと0度くらいの低温になっていました。

そこに、北からの風が吹き付ける訳です。

すげぇ寒い。

 

まさに風の時代の到来を、

身をもって感じた次第です。

 

 

 

紅白雑感

 

明けましておめでとうございます。

今年も当ブログをよろしくお願いします。

さて、元旦は近くの神社へ初詣へでかけ、

2日に、録画しておいた紅白を倍速でみました。

全く興味のないところは3倍速で飛ばす。

 

総じてあまり面白くないね。

知らないひとばかり出てる。

若いひとはどう思うのか? そこが知りたい。

全年代をカバーするのは無理としても、

郷ひろみが長老、福山雅治が大御所、

Perfumeとか嵐がベテラン。

このように整理すると、NiziUとか瑛人とか、

ほほぅ新しいひとたちということで、

一応納得したりする。

無理矢理ね。

 

にしても、NiziUってKポップなのか?

詞は全くアタマに入ってこない。

人形のように踊っている。

ウチの娘より若い。

ウチの孫よりは老けている。

そういう理解で終わり。

 

瑛人の歌が分かりそうで分からない。

とてもいい歌詞のような、

が、感覚としてイマドキの若い子の心理なのだろう、

やはりこちらのズレを感じる。

聞けば、このひとは去年まで横浜で

ハンバーガーを焼いていたと話していた。

ホントか?

シンデレラストーリーいっちょ上がり!

 

強いてあげれば、あいみょんというひとの歌が

まあまあ理解できるというか、

ちょっといい雰囲気を醸し出している。

どこかに古い年代のメロディとかことばを

引きずっているからかな?

そこがいい。

 

ひとつ特異に感じたのが、

坂本冬美の「ブッダのように私は死んだ」。

楽曲の提供が桑田佳祐。

聴いてて「変じゃないか、この歌」って、

私は即思いましたね。

ギャグな歌詞なのに、坂本冬美の表情をみていると、

めちゃ真剣。怖い。

このいうのを、新境地とかいうのかね。

 

情念で歌う石川さゆりの「天城越え」は、

もう凄い。恍惚。

これはもうみう大河小説ですね。

 

YOSHIKIさんて、私はよく知らないのですが、

国際的なおおものアーティストなんですかね?

ここんとこがムカシから分からないんです。

 

私的には「愛をこめて花束を」のSuperflyが良かった。

 

で、この前日にはテレビ神奈川で毎週やっている、

ビルボードトップフォーティをみたが、

こちらは更に混沌としていて、

いまアメリカの音楽がどちらへ行こうとしているのか、

その迷走ぶりが分かると思う。

行き着くところまで行ってしまったようなラップ音楽と、

男女の肉体美とエロを競っているようにしかみえない、

プロモ。

top20までみていてぐったりしてきたので消しました。

 

やはり安心してみれたのは、

同日にやっていたテレビ東京の懐メロ歌番組。

 

若い頃、大晦日になると、

親父とお袋がよく懐メロをみていました。

最近になって、ようやくその謎が解けました。

 

いちいち時流に乗る必要もない。

なんてったって若い頃にきいた音楽が、

生涯の友だからね。

 

↓正月はやはり春の海デス!

 

フリーの現場シリーズその2

 

発作的にフリーになったいきさつ

 

同僚とつくった会社は、当初から順調な滑り出しをみせた。

売り上げは安定し、仕事に必要な備品など難なく買えた。

社員旅行へも行った。伊豆カニ食い放題とかいろいろ。

みんなで流行りの飲み屋へもよく行った。

これらはすべて領収書、経費で落した。

のんきで抑揚のない日が続いた。

 

企画・コピーは私ひとり。

あとの3人はデザイナー。

クライアントは〇〇製作所のみ。

いわば〇〇製作所の宣伝部・制作分室のような位置づけである。

ひと月に幾度か、宣伝部のお偉いさんから飲み会の誘いがあった。

要は、料亭とかクラブへお供して金を払え、

で、帰りはタクシーを呼んでくれというものだ。

 

これには、結構アタマにきた。

その後もひんな人間に何人もであったが、

だいたいタイプは決まっている。

要は、セコイことに精を出して、他はテキトーなのだ。

仕事に於いてそれは顕著に出る。

 

こうした接待のとき、幾度か同僚に付き添ったが、

あまりにもバカバカしくて時間の無駄なので、

後は辞退した。

あるとき仕事の勤務時間に関して、

社長に据えた人間から不満を言われた。

私が他のみんなより働いていないと。

私がみんなより必ず早く帰るからと。

変なことを言う奴だなぁと思っていたところ、

他のデザイナーからも同じようなことを言われた。

 

私は日頃から、昼間は近くのコーヒーショップで仕事をしたり、

神宮外苑を歩いたりと、

確かに見た目は遊んでいるようにみえたかも知れない。

しかし、帰るのが早いとか、

いや昼間にぷらぷらしている件もだが、

そもそも仕事の内容が違うではないか、

と反論した。

 

職種の異なるものを時間で比べるものではない。

外で仕事をするのも、歩くのも、

それはそれで結構考えている訳なのだが、

どうもそれがうまく説明できない。

 

思えば、デザイナーの仕事は、

デスクに張り付いていなければできない仕事であり、

絶対時間は彼らのほうが圧倒的に長い。

そこまで彼らに合わせることもなかろうと、高をくくっていた。

 

加えて、その頃、

私が他の領域の営業を始めようと提案したところ、

みんなの反対にあった。

これが私のいらいらに拍車をかけた。

彼ら曰く、順当に仕事が入ってきているのだから、

余計なことをするな、ということらしい。

 

私は毎日まいにち、

同じ広告主から依頼される同じようなコンセプト、

似た寄ったりのポスターやパンフレットづくりに、

いい加減にうんざりしていた。

だから街をプラプラしていたし、

外で仕事をしていた節も、確かにある。

それに、あの陽の当たらない陰鬱なビルにいるのが、

どうしても嫌だった。

 

あるとき、4人で話し合いをすることとなり、

私はこうした領域の仕事は、

そもそも時間ではかっても意味がない、

というような話をした。

こうした考えは、私のなかでは当たり前と思っていたが、

デザイナー連中は納得しなかった。

ではと、私がなぜあなたたちは

他の分野の仕事を伸ばそうとしないのかと問い詰めると、

そのなかのひとりが「それは楽だからでしょ」とつぶやいた、

未知の仕事はちょっと自信がないともほざいたので、

私はいきなりぶち切れてしまった。

 

「○○さん、そんなこと言っていると、

いまに他のことを全くできない

どうしようもないデザイナーになっちゃうぜ」

と私は吐き捨てるように言った。

 

思えば、私は組む相手を間違えていた。

彼らは、ただ収入が安定すれば良かったのだ。

これじゃ、志望動機が不純な公務員となんら変わらない。

潰れてしまった以前の会社のほうがスリリングで面白かった。

仕事の幅は広かったし、営業は新鮮な仕事をよくもってきた。

よってやるときは徹夜してでもやったし、

寝たいときは昼間からデスクで寝ていたけれど、

仕事に関しては真摯だった。

 

後で判明したことだが、私が嫌われた本当の原因は、

徹底的にクライアントの接待を嫌ったことだったらしい。

まあ、それは認めざるを得ないのだが。

(これは難しい話ではあるのだが)

 

こうして私は自らつくった会社を発作的に辞めることとなった。

このとき、会社の預金は4桁の万単位の金があったらしい。

(私はこのときもそれ以前も通帳をみていないので断言はできないが)

 

よって、私はこの会社から一銭も受け取らずに辞めてしまった。

一応「ハシタ金はいらねぇよ」と啖呵を切った。

社長に据えた人間が「当然でしょ」とほざいたのを、

いまでもずっと覚えている。

忘れないなぁ。

(結局この会社は数年後に内紛で解散した)

 

※教訓:共同経営を長続きさせるって至難の業だと思うよ!

 

 

フリーの現場シリーズ

 

その1  フリーへの道

 

きっかけはいろいろあるだろうけれど、
最近はフリーになる人が多いと聞いた。

社会構造の変化とか働き方の多様性とか、
そうしたものがフリーへ向かわせるのかも知れない。

ムカシはフリーへの敷居が高かった、というと語弊がある。

正社員でいたほうがいろいろといい時代だったから、
フリーになる必要性があまりなかった。
そもそもフリーの土壌がまだできていなかった。

敷居が高いというよりフリーの需要がなかったとしたほうが
正確な表現かも知れない。

しかし、働き方に関してなにか思うところがある、
独自の労働哲学をもっている。
特別のスキルをもっていて独りで稼ぐ自信がある。

こうした人たちは早々とフリーで働いていた。

さて、一念発起してフリーになる人がいる。
なんとなく成り行きでフリーになった人もいる。
資金等、準備万端でなる人。
あらかじめクライアントを確保してから、
という運のいい人もいる。

私的なことだが、
私の場合はスタートは成り行だった。

当時、勤めていた広告会社の経営が傾き、
ひとりふたりと会社を去るひとが出てきた。
「うーん困ったなぁ。子供もいるし、
家賃も払わにゃならんし…」
そんなのんきなことを思いながら数ヶ月が過ぎたころ、
いきなり会社の全体会議が開かれ、
そこで社長が「会社の危機的状況」を初めて直に口にした。
彼は涙を浮かべていた。

いきなり焦った。
不安が現実のものとなった。
身の振り方を考えねばと、
とりあえず家には真っ直ぐに帰らず、
会社の近くにある地下のバーでビールを飲みながら、
今後のプランを考えることにした。

家に直行すると奥さんにバレる、
そして子供たちの屈託のない笑顔なんかみたら、
泣きそうと思ったからだ。

地下のバーに出入りしていることを
会社の仲間に話すと、次第に未来の落ちこぼれが
集まった。

誰かが、いやこの私だったのかもしれない。
よく覚えていないが、
「この際、ここにいる俺たちで会社つくっちゃおうか?」
となった。

いい加減な提案だったが、なんだか希望の光がみえてきた。
それはみんなも同じだった。

「会社っていったいどうやってつくるんだ?」
「そこからだな。まずスタートに立とう」
「なんとかなる」
「なんとかなるかねぇ…」

そんなこんなで、約3ヶ月後に、
私たちは青山一丁目にあるきったないビルの一室を借り、
登記を済ませ、会社をオープンした。

そして倒産しかけている私たちの会社の社長と数回話し合いをもち、
クライアントを引き継ぐ、という形でスタートを切ることができた。
交換条件としてそれまでの給料の未払いなどは不問とすることとした。

これは、恵まれた独立の一例といえるだろう。

職場となった青山一丁目のそのきったないビルの一室は、
ときたま馬鹿でかい気味の悪いネズミが走っていたのを
何度かみかけた。

以上の私の例は、フリーというより会社設立の話だが、
ホントのフリーの話は次回にする。

後に、私はここを辞めてホントのフリーとなったのだが、
それはフリーの種類からいえば発作的フリーというもの。

これは、間違いなく例外なく茨の道が待っているので、
まずおすすめはしないフリーだ。
これはのちほど書くとして、
フリーって「Free」なのだから、直訳すれば自由のはずだ。

フリーになるとホントに自由になれるのか?
フリーという自由な働き方とは?
そのあたりもおいおい書く。

で話を元に戻す。

フリーは誰でもすぐになることができる。
免許も資格も何もいらない。

ただフリー宣言すればいい。

それだけのことなのだが…

(つづく)

 

次回は

・発作的にフリーになった惨めな話

・フリーになるとホントに自由になれるのか?

・フリーという自由な働き方とは?

などを予定しています。

 

宮ケ瀬スケッチ

 

 

 

下手な絵。

なのにやめない止まらない。

なんといってもおもしろい。

夢中になれる。

絵の基礎を習うひともその気もないので、

ほぼ上達しない。

写真もどうよう。

露出のベンキョーをしたことがあるが、

ぜんぜん面白くない。

デッサンの本も数冊読んでみたが、

ほほうと思うだけで身に付かないんだなぁ。

習うと途端におもしろくなくなる。

みんなおんなじような絵になる。

 

楽しいことってなにか?

勝手気ままにやることである。

夢中になれることってなにか?

好きなことを続けること。

 

焚き火もキャンプも面白い。

何でだ?

予定どおりいかない。

メンドー。

だけどなんだか生きているんだって、

とてもリアルに迫ってくるんだよね。

それは、絵も写真にもいえるなぁ。