五木寛之「不安の力」

 

本棚をまさぐってたら、

五木寛之の「不安の力」が出てきた。

奥付をみると2005年となっている。

中身はすっかり忘れている。

ちょっと読んでみようかと、

ベッドに寝転んでパラパラと読み始める。

 

なんだか、このコロナの時代にフィットしているなと、

改めて思う。

不安はいつでもだれの心にもあるのだが、

いまこの事態に「不安」は顕在化しているから、

タイミング的にピタリではないか。

再販、イケルと思う。

編集者気分になる。

 

五木寛之という作家は、軽いのに重い。

重いのに軽い。

何と表現したら良いのか分からないくらい、

光のあて方でどうとも解釈できてしまう。

 

「青年は荒野をめざす」「風に吹かれて」などから、

数十年を経て、仏教に傾倒し、

その深淵を追求したりと、

年代によって作風がみるみる変化している。

 

なにはともあれ、この人は風のようであり、

旅人であり、不定住のようであり、

生来孤独を愛する人なのでないか。

 

私の若い頃からの文章の手本として、

永年高いところにいる人であり続ける。

 

文章は基本的に平易かつ分かりやすい。

映像のようで美しい表現を何気に使う。

さらにこの作家の生き方の複雑さが、

作品のここかしこに宿っている故に、

それが全体として重くのしかかる。

 

一度死んだ人は強いとは、

この人のことだと思う。

それはこの人の若い頃のことを知ればしるほど、

この作家の背負ったものが如何ほどのものか、

考え込んでしまう。

 

この「不安の力」という本のなかに、

シェークスピアの「リア王」の台詞が、

五木流の訳で紹介されている。

 

『「…この世に生まれてくる赤ん坊は

みずから選んで誕生したのでない。

また、生まれてきたこの世界は、

花が咲き鳥が歌うというようなパラダイスではない。

反対に弱肉強食の修羅の巷であったり、

また卑俗で滑稽で愚かしい劇の舞台であったりする」

赤ん坊が泣くのは、

そうしたことを予感した不安と恐怖の叫び声なのだ。

産声なんていうのは必ずしもめでたいものではないのだよ、

という辛辣な台詞です。

嵐の吹き荒ぶヒースの野で、老いたリア王が

「人は泣きながら生まれてくるのだ」と叫ぶ。

これは、人生のある真実をついた言葉だと思います。』

 

五木寛之という作家は、

要するにこうした志向に傾く、

そこは若い頃からどうにも変化しない、

風に吹かれたりもしない、

不動の悲観論者なのである。

 

「不安の力」はこうしたネガティブな人間の一面を

賞賛する本でもある。

いや、市井の人間に真の希望とは何かを教えてくれる。

 

それがこの人の持ち味であるし、

この作家の魅力なのである。

 

この時代にぜひ読んでおきたい一冊と思う。

 

寛斎さんのこと

 

山本寛斎さんが逝ってしまわれた。

オールバックのヘアスタイル。

大胆なファッションを難なく着こなす立ち姿、

笑顔を絶やさず、しかしふとした瞬間にみせる

神経質かつ気難しい表情が、格好よかった。

 

訃報に接し、或る記憶が鮮明に甦ってきた。

私は過去に一度、寛斎さんを取材したことがある。

当時、私は大手出版社の制作を専門としている

編集系の制作会社に在籍していた。

一応、前職の内容を買われての転職だった。

 

しかし、入社早々から戸惑うこととなる。

まず、大手出版社のやり方がさっぱり分からない。

そして、社内の人間さえ把握していない時期に、

いきなりディレクターとしての活躍を期待されてしまった。

一応、部下と呼べる人が4人ばかりいたが、

彼らのほうが数段レベルが高いと思われた。

 

私の担当は、或る出版社が企画している、

科学から文化など多岐に渡る分野の近未来の

ビジュアル事典なるものの巻頭の特集ページだった。

 

しかし、そのころ私自身悩みを抱えていて、

こうした世界にいること自体に疑問を抱いていた。

不安定な収入、家へ帰れないほどの仕事量、

〆切に追い立てられる日々。

この世界は、どこも同じような職場環境だった。

 

当時は、飲食業とかトラックの運転手とか、

学生時代に慣れ親しんだ仕事でもしようか、

と内心では転職を考えていた。

要するに、全く違う業界へ救いを抱いていた。

さらに、奥さんが最初の子を身ごもっていたので、

そちらへも気が散っていたのかも知れない。

 

しかし、とりあえずは働かなくては食べていけない。

そして目の前にある仕事に飛びついてしまったのだが、

こうした業界には、すでに幻滅を感じていた。

 

よって、毎日が激務なのに気はノラない、

すべてがうわの空なのに、

日に日に責任が覆いかぶさってくる。

〆切のページ項目がみるみる増えるなど、

猛烈なストレスの日々だった。

 

或る日、出版社の局長がぷらっと訪ねてきて、

「未来のファッション」を企画している旨を、

私たちの前でボソボソと話し始めた。

そしてこの人が、「寛斎さんはどうですかね」

と、なぜか私に話を振ってきた。

「いいんじゃないでしょうか」と

適当に答えた。

すると局長が、

「だよね、では君がすべての段取りつけて

本人のインタビューをとってきてください。

予算は大丈夫ですよ」と

あっけなく話がまとまってしまった。

後日談では、寛斎さんの件は

すでに決定していたとのことだった。

私はのせられた、試されたようなのだ。

それが何の為だかは、

いまだに謎ではあるのだが。

 

単独取材は、表参道にある寛斎さんの事務所で行われた。

そのビルの最上階にある真っ白い一室は、

防音が施されていると思えるような、

おそろしいほど静かな部屋だった。

 

私は寛斎さんとふたり、

白い机を挟んで向き合っていた。

 

寛斎さんはとても礼儀正しい方だった。

幼年時代の苦労した話は知っていたが、

そこは避けることにした。

寛斎さんの話している仕草や内容から、

異常とも思える忙しさが伝わってくる。

なのに快活でエネルギッシュな生き方が、

それを上回っていた。

「元気」「ゲンキ」をコンセプトとした、

ファッションという枠に捕らわれない、

複合的なイベントのことを盛んに話された。

 

私はとにかく終始気後れしていた。

なのに無謀にも、ノートとペンのみで取材に臨んでいた。

テープレコーダーの持参も頭に浮かんではいたが、

当時はメモの取れない奴が録音をあてにする、

などの風潮もあってか、メモのみとした。

 

さらに、肝心の下調べと質問事項などの

下準備を怠っていたのだ。

時間は刻々と過ぎてゆく。

世間話ばかりしていてもたいした材料にはならない。

 

事前の準備を怠っていたのは、

他の作業がすでにもうどうにもならないほど日程が遅れていて、

そちらの火消しをしているうちに、

気づいたら取材前日の夜になっていて、

まあ、半ばやけくそな気にもなっていたことだった。

 

取材が終わると、寛斎さんが

何か物足りないというような表情をみせた。

それは不審を覚えたような目でもあった。

私は当然と思った。

 

赤坂への帰りの地下鉄にへたり込み、

私は憂鬱かつ脱力した心持ちで、

車輪が発する騒音さえ遠くに聞こえるほど、

放心していた。

社に帰ってメモを見返すと、

とてもいい記事になるとは思えない、

どうでもいい走り書きばかりが目についた。

当たり前のことだった。

 

そして、とてもまずい事態がそのあと次々に起こる。

私の書いた原稿が突っ返される日々が続いた。

これは私も承知していた。

というより、書いた本人が一番分かっているように、

とても世間に発表できるほどの内容ではなかった。

それでも記事を書き直す日々は続いた。

それはとてもキツい毎日だった。

 

要するに、取材失敗である。

さらに善後策が皆無であり、

無策の私は、社内で全く身動きがとれなくなっていた。

いっそ逃げることも考えたが、

それではどうにも納得がゆかない。

後々、自分が許せなくなるだろう。

 

そうした状況が2週間も続いた或る日、

途方に暮れている私のところへ、

社内の編集者やライターなどを取りまとめている、

Aさんが近づいてきた。

この人がどういう人なのか、

私は話したこともなく、よく知らなかった。

 

Aさんはとても落ち着いた声で

「話は聞いています」

と切り出した。

「ご迷惑をおかけしています」

私は他に言葉がみつからなかった。

そしてこの人は余裕があるのか、

笑みさえ浮かべて

「事情をききましょうか?」

と少し身をかがめてきた。

私は、自分の仕出かしたことが、

まわりに多大な悪影響を及ぼしていること、

時間もチャンスも

すべて取り返しのつかないところまできていること、

そして事前準備を怠ったいきさつなどを、

包み隠さず話した。

 

彼は、かなりながい時間、

オフィスの天井あたりをじっと眺めていた。

そしてこう言った。

「そのメモを私にみせてください。あとは

あなたからみた寛斎さんの印象を私に教えてください。

そしてですね、後から調べた寛斎さんに関するもの

すべてを私に提出してくれませんか」

「はい…」

そしてこう言ったのだ。

「私は寛斎さんに関してはかなりの情報をもっているので、

後は私が何とかしましょう」

 

胸につかえていた苦しいものが、

ポトっと取れた気がした。

 

後で聞いたのだが、

Aさんは制作会社の社長に頼まれて、

出向で社内を統括している方らしく、

元大手出版社の優秀な社員であり、

企画、編集、執筆、さらには対外の折衝もこなし、

創作の世界においても

かなり名の知れた人とのことだった。

 

私は、このプロジェクトが終わると同時に、

この会社を辞めた。

なのに飲食をやることもなく、

トラック・ドライバーに戻ることもなく、

さらに制作会社を転々とした。

 

いま思い返してみても、

その転職理由はただただ悔しかったのだろうと、

自分では推測している。

そしてこの業界から逃げることは、

自分の性格からして、

後々後悔することは目にみえていた。

それより自分が巻き起こしたトラブルを

難なく解決してくれたあの人のようになりたい、

とも考えるようになっていた。

 

後、私は広告業界に転職したが、

スタンスの違いこそあれ、

感覚的にいえば前職となんら変わりはないと感じた。

 

その転職した広告会社は表参道にあった。

そしてそのビルが、偶然というべきか、

寛斎さんの会社が入っているビルだったことに、

私は心底に驚いてしまった。

 

(寛斎さんのご冥福をお祈りいたします)

 

 

湘南クラシック・ホテル

 

湘南ホテル

 

以前、鵠沼海岸沿いに湘南ホテルというのがあった。

新しくはないが、結構、建物が洒落ていたので、

私はかなり気に入っていた。

外観は洋風で、重厚。

しかし、威圧感のようなものがない。

薄い緑色の外観が美しかった。

窓からは、海沿いの国道134号線を隔てて、海が見える。

静かな夏の早朝には、波の音も聞こえた。

小振りだが、地下には室内プールもあって、

真夏のカラダを冷やすのに最適だった。

実は、

この海岸沿いの道を学生時代からずっと通っていて、

ホテルの存在を、私は全く知らなかった。

中年になってふとしたきっかけで知ったのだが、

そのときはすでに閉館が決まっていた。

そこそこ繁盛していたように思うが、

このホテルは個人オーナーのものだったので、

閉鎖は相続の問題も絡んでいたらしい。

とても残念だった。

現在、この跡地には瀟洒なマンションが並らぶ。

いまでも時折、この前を通ると、

あの夏の日の、家族の笑顔が思い浮かぶ。

 

 

なぎさホテル

 

逗子のなぎさホテルの外観は小振りで、

見るからに古い洋館の造りだった。

海沿いを走っていると、こんもりとした緑の中に

ポツネンと佇んでいる。

若いひとから見ると、単なる古い洋館だ。

一見、時代に取り残されたように建っている。

しかし、一端中へ入ると、

黒光りする柱や漆喰の美しい壁が、

訪れたひとを魅了する。

私はここを、編集者時代に企画を出して、

取材と称して泊まったことがある。

しかし、取材の件は一切口には出さないで、

個人名で宿泊した。

カメラマンと男同士の宿泊は、

少し奇妙に映ったのかも知れないが、

まあ、それでも一般客として途中まで通した。

結果的に、ホテルのスタッフの方々の対応も、

そして食事もとても満足のゆくものだった。

結局、取材と撮影は最終日にホテルに切り出し、

慌ただしい仕事となってしまったが、

自ら納得したホテルを紹介することで、

自分も満足することができた。

もうだいぶ前に取り壊されたが、

作家の伊集院静さんが若い頃、

このホテルの居候をしたことがあるという。

そして後年、「なぎさホテル」という本を出版している。

彼にして、それほど思い出深く、

居候になるほど癒やされる、

素敵なホテルだったのだと知った。

 

 

パシフィックホテル

 

パシフィックホテルは、

茅ヶ崎の海沿いに忽然と姿を現すホテルだった。

古いホテルにしてはタワー型で、

当時としては画期的な建築物だったように思う。

このホテルを知ったのは学生時代で、

近くに波乗りのポイントがあり、

そこに通うようになってからだった。

高級ホテルだったので、

私は最上階の喫茶しか利用したことはないが、

ここからは、湘南の海が一望できた。

海を見下ろすという感覚は、

ここが初めてだったように思う。

一時、あの加山雄三さんのもちものであったし、

また、サザンの桑田さんも歌っているように、

そして大好きなブレッド&バターも、

このホテルの曲をかいているように、

皆に思い出深い、存在感のあるホテルだった。

 

 

湘南から姿を消した名ホテルは、

ときを経て、私のなかでより美しさを増す。

現存しているホテルでいまでも気になるのは、

大磯プリンスホテルと鎌倉プリンスホテルだ。

 

 

大磯プリンスホテルはクラシックホテルになれず、

ただ建物ばかりが古びていた。

まわりにこれといった観光地もない。

しかし、広い敷地がとても贅沢に使われていて、

空と海の広がりを堪能できる。

ここからの海の眺めは、湘南随一。

ホテルの前の西湘バイパスがなければ、

とても静かなのだが…

数年前にリニューアル・オープンしたので、

3回ほど足を運んだ。

ラウンジを吹き抜けにして、かなり派手な印象。

フロント付近では、外国からの観光客ばかりが目につく。

のんびりとした温泉施設も大幅に改造されて、

ハイカラなスパに生まれ変わっていた。

残念だったのは、

小高い庭に建っていたガラス張りの教会が、

すっかりなくなっていたことだった。

海辺に建つあの美しい教会を壊すとは…

思うに、このホテルのリニューアルを企画した人間は、

実は大磯プリンスホテルのホントの意味での良さを、

何も分かっていないのではないか?

 

 

鎌倉プリンスホテルは、

七里ヶ浜の丘の上の高級住宅地に建っている。

プリンス系列のホテルにしては、こじんまりしている。

プリンスホテルは、どこも高台が好きなようで、

いまはもうない横浜・磯子のプリンスホテルも、

横浜の海を見下ろす高台にあった。

シーズン・オフに宿泊したことがあるが、

横浜の海が見渡せる上階の部屋を希望したにもかかわらず、

一階の奥まった景色の悪い部屋に通された、

個人的に苦い思い出がある。

以来、一度も足を運ばなかったので、

ここの魅力は不明なのだが。

 

鎌倉プリンスホテルは、各部屋がビラのように、

丘の上に長く延びる3階建て。

正面の部屋は、海を真向かいに見て、

他は江ノ島方向を向いている。

どの部屋もハズレがなく、

山側という部屋がないので、たいした格差がないのが良い。

最近、ホテルをまるごとリニューアルして、

全室禁煙にしたので、もう私は行かないが、

あのホテルはなんというか、

隠れ家のような魅力があった。

 

 

いまはもうないホテルも含めて、

湘南の海辺に建つホテルは、

どれも個性的で美しい。

美しかった。

 

 

海沿いの134号線を走るたび、

それは潮の薫りに乗っては再び甦る、

蜃気楼のようなものになりつつある。

 

 

 

今夜も妄想

 

そんなに楽しいもんじゃないなぁ、

人生って…

最近何故かそう思ってしまうのだ。

 

毎日がパーティーのような、

宴会のような…

 

そんな人生ありえない。

そもそもそういうのって

くだらないけれどね。

 

イマドキの世間をよくみてごらんって、

冷静な私が疲れた私に諭す訳さ。

若い頃は甘い未来予想図を、

少しは描いてはみたけれど、

これは人生をなめているなと。

 

一転して、

「荷を背負い山を登るが如く」と、

改める。

 

仕事に追いかけられたり、

金が途切れたり、

体がだるかったり、

それでも頑張って無理に笑顔で接してみたり…

まあ、苦労が絶えない。

 

が、生きるってだいたいそんなもんでしょと、

最近になって気がついた。

 

寝不足の夜更けの僅かな時間に、

往年の女優、グレタ・ガルボを観る。

ハービーマンのフルートを聴く。

 

仕事の合間をみて、河原へ焚き火にでかける。

写真を撮りにあちこち歩き回わる。

夕飯においしい肴にありついたりすると、

まんざら捨てたもんじゃない、

生きているって、なかなかいいじゃんとなる。

 

人生って実はとても単純そう、

がなかなか入り組んでいて、

一見浅いようで、

どこまでも深遠。

 

遂には、対極にある死についてさえ、

考えざるを得ない状況に出くわす。

 

生と死は一見、

こちら側、あちら側と分けることができそうだが、

これらが実は混在していて、

同じ世界の表裏に同時に、

いやそれさえ曖昧なまま、

すでに在るのではないか。

そう思うようになった。

 

最近、親しい友人ふたりがいなくなってから、

そうした想いがよりつのる。

 

あいつ等、どこかにいそうだ。

ホントは電話にも出そうだと。

 

まだ解決していない話がいくつもあるじゃないか。

しかしそれにしてもあいつ等、

最近何しているのだろうか?

手を尽くせばなんとか話せそうだ。

 

死して、相変わらず生きている。

そう感じて仕方がない。

 

 

さて今夜はデードリッヒの歌でも聴こうか。

そのうちグレタ・ガルボとも話せそうだし。

 

分かってくれると嬉しい。

生きているって、実は妄想なんだってことが…

 

 

 

 

 

さよならだけが人生だ

 

4月になって、友人がふたり逝ってしまった。

 

若い頃、同じ広告会社に同時に転職したiは、

年齢こそ私より下だが、

すでにキャリアを相当積んでいて、

後にふたりがそれぞれ独立したとき、

私はiの作品を拝借して、

プロダクションに売り込みに回ったこともあった。

これにはかなり助けられた。

ありがとう。

奴の渋谷・松濤の古いマンションの一室で、

一緒に小難しいコピーに悩んだ頃を思い出す。

よく中目黒の安い寿司屋にいったなぁ。

 

そして後、iは社員30人くらいの社長となり、

麻布十番にオフィスを置き、

時代に先駆けていち早くネットを手がけ、

業界内ではかなりの知名度だった。

 

おととし、自由が丘の酒場で

久しぶりに再会したとき、

iはすでに病に冒されていた。

そして奴は一切の抗ガン治療を拒否して、

東京の会社や自宅すべてを引き払い、

沖縄に移住した。

その直前、わざわざ私の家まで来てくれた。

 

ついこないだまで、

ずっとLINEでやりとりはしていたが、

会うのは、そのときが最期だった。

 

一緒にライターのネットワークをつくろう、

そんな話もしていたのにな…

 

安らかな死だったそうだ。

 

 

 

もうひとりは、中学からの友人で、

こちらは突然の訃報だった。

ここ数年会っていなかったので、

気にはなっていた。

 

nは、或る電子部品大手企業の

系列会社の代表をしていた。

 

元々俳優志望だった奴はかなりの男前で、

若い頃は、町で彼のことを知らない人はいなかった。

そんな男前だったけれど、役者の卵をしていたとき、

とある監督からこう言われたそうだ。

「君はね、すげぇ二枚目なんだよ。どこから見ても

誰がみてもさ。だけどそれだけなんだよな。

君ってそう見られてしまうから、この先難しいよ」と。

 

nは、役者の道を諦めて、10回くらい転職を繰り返して、

いまの会社に辿り着いたのだった。

 

19のとき、ふたりで竹芝桟橋から船に乗って、

沖縄をめざした。

沖縄が、米国から返還された翌年だった。

そこには、いまの沖縄とは全く違う、

異国の島があった。

数日後、小さな船で与論島に渡り、

島のサトウキビ畑を分け入ったら、

誰もいない白いビーチに出た。

濡れた手を砂に付けると、

星砂がいくつか混じっている。

ポンポンポンと蒸気をはいて

沖をいく古い漁船を眺めながら、

ふたり何も話さずに、ただたばこをふかしていた。

波の寄せては返す音。

サトウキビ畑から、あのザワワが聞こえていた。

 

いま思うと、あれほど贅沢な時間は、

その後そうそうなかった。

 

訃報を受け取った翌日、彼の家に電話をした。

電話の向こうの奥さんが、気丈そうな声で話してくれた。

nは、機嫌がいいときなどに、

私と行った沖縄の写真を部屋のどこからか出してきて、

それを奥さんに見せ、楽しそうに話していたと。

 

nよ、まだ話してないこと山ほどある。

悔いが残って仕方がないけれど、

本当にさよならだな…

 

 

 

iが好きだったグループ。
ふたりで仕事を放りだしてライブを観に行ったっけ…

 

nとふたりで、よくこの歌をギターで弾いた

 

安らかに眠ってください

 

合掌

丁寧に生きる。

 

まずコロナにうつらないように

あれこれ注意はしていますが、

一日の行動を振り返ると、

やはり万全とはいかないようです。

買い物にでかけて、人と距離をとるとか、

あまりモノに触らない等…

といってもやはりどこかに落ち度はある。

 

マイカーに戻ってひと息つく。

アルコールで手を拭く。

が、ドアの取っ手とかキーとかスマホとか、

いちいち気にするとなると何が何だか分からなくなる。

もしこうした「完璧清潔ゲーム」があったとしたら、

私はすぐはじかれてしまうでしょう。

 

むかし、潔癖症らしき人をみてたら、

トイレでずっと手を洗っている。

全然やめない。で、腕まで真っ赤になっているのに、

まだ洗い続けている。

首をかしげてなお眺めていると、

顔は真剣そのもの。

というより、何か邪悪なものでも取り払うためのような、

とても嫌な表情をしていました。

邪悪なもの、罪深いものが、手に付着しているとしたら、

私も真剣に手洗いをしなくてはならない。

しっかり手洗い―そんな事を思いました。

 

ウィルス感染の恐れと同時に、

経済の失速がひどくなってきました。

ウチの税理士さんは新宿区にオフィスがあるのですが、

先週の時点でコロナによる緊急支援策が、

顧客企業からの要請ですでに満杯だそうです。

しかしいくら急いでも実際に融資等が下りるのは、

初夏ということです。

これでは、とりわけ飲食などの業種は、

まずもたない。

政府及び財務官僚というのは、

街の経営者の事をどのくらい把握しているのでしょう?

溺れている人が沈んでから、浮き輪を投げる。

そんなものが助けになるのか。

とても疑問です。

 

私自身、1991年頃のバブル崩壊を経験しています。

このとき、やはり緊急融資のようなものが発表され、

私は、銀行・役所など各所をバイクで駆けずり回って、

書類の束を何日か徹夜して必死で仕上げて、

もちろん仕事をする時間も削って、

心身ともにボロボロになって

ようやく銀行に書類を提出したことがあります。

 

結果は、助けてもらえませんでした。

1円も助けてもらえませんでした。

これは事前に銀行の窓口で知ったことですが、

私の会社の書類を受け取った銀行員が言うには、

「書類を提出しても、きっと何も出ないでしょう。

カタチだけなんです。今回のこの支援策は、

そういうものなんですよ」

エリート然としたその男は、

私のすべてを見透かしたように、

うっすら笑みのような表情さえ浮かべていました。

 

これから失業者も相当な数で増える。

日本の自殺率と失業者のグラフをみると、

ほぼシンクロしている。

こういうのを経済死というのか。

とても嫌な未来を想定してしまいます。

 

とにかく世界は一変しました。

いや、さらに悪化の一途を辿っています。

 

朝、私は枕元に置いたiPhoneで、

だいたいイーグルスを聴いてから起きます。

朝は、たっぷりのカフェオレを、

ゆっくり味わうように飲む。

一日を通して、テレビはあまり観ません。

仕事の合間に、

筋トレまたはウォーキングは必ず。

夜は、気に入った映画をひとつ。

風呂ではひたすら水の音に集中します。

そして就寝前は、好きな作家の描いた世界へ。

 

なめべくまわりに振り回されないように、

マイペースを保つ。

自分の中に、日常とは違う別の世界をいくつかもつ。

 

誰かに教えられたことがあります。

丁寧に生きなさい。

ゆっくり考えなさい。

 

いまこそ実行しようと思います。

 

 

山を買う

 

このところの一連の騒ぎで、いろいろ考えた。

コロナの正体と状況。

仕事のこと、生活のこと。

もう元の世界に戻ることもないだろう、

というのが私の予測。

これは、政治も含め、いろいろな意味で。

 

いまは先がみえない。

このままだと経済も壊滅的だ。

失業者、倒産などが続出するだろう。

日経平均も乱高下しているが、

元々怪しい株価だったので、

実態はさらに酷くなるだろう。

 

私的にこの春から、

いろいろと出かける予定だった。

その予定も潰れた。

近い所では、東京の下町へとか、

高尾山登山へ、富士五湖へキャンプとか、

古い友人たちを尋ねて日本各地へ、

従兄弟に会いに群馬県へ、

親父のふるさと知多半島の菩提寺へとか、

観光で北海道か沖縄へとかね。

このままだと全部なしです、ハイ。

 

で、この先のことをいろいろ考えて

辿り着いた結論は、山を買おうかなぁと。

 

なんかね、持続的社会の構築とか、

環境に関してだとか、

豊かな経済めざしてとか

いろいろ言われてましたが、

要はサスティナビリティとかいうキーワードは、

もう死語のような気がします。

そういうものは、自らが築くものなのですかね。

 

「自然にかえれ」って、ルソーが呼んでいる。

で、とにかく都会を離れる。

自給自足体制を確立する。

中古のユンボを買って、山を整地して、

そこにトレーラーハウスをもってゆく。

で、全国で売り出している山を調べることにした。

 

ググってみて驚いたのは、

いやぁ、山って結構売りに出されている。

それも驚くほど安い。

例えば、神奈川県大磯の海が見える山で、

4000平米で400万。

日当たり良好。雑木林。謎の祠(ほこら)あり。

水道、電気他インフラはなにもないけどね。

 

横浜生まれ、ずっと文化系、いや出版・広告系で

生きてきたこちらとしては、

この土地を開墾するのは、相当ハードルが高い。

それにもう年だし。

が、せめて畑ぐらいはつくりたい。

トレーラーハウスを置く。

エアガンの免許を取る。

兎くらいサバけるようになりたい。

あとは、水源の確保。

 

あのあたりは、以前ちょくちょく行っていた。

ところどころで水が染み出ていたので、

なんとかなるだろう。

あと、Wi-Fi。これは欠かせない。

仕事でも必須だし。

近くに温泉がないかな?

これは、大磯プリンスホテルにある。

あと、いざというときのために、

近くにコンビニがあればなぁ。

ある。確認済み。

あっ、コーヒーはカルディのに限る。

これは未確認。

たまにユニクロにでかけて下着とか仕入れよう。

?

おっと、オレって完全に文明に毒されているなぁ。

 

最初から考え直そう。

 

 

ならず者のうた

デスペラード

ならず者という意味らしい

 

19才も終わろうとする頃

カーラジオで初めて聴いた

この歌の虜になった

 

当時は意味なんて分からなかったけれど

デスペラードだけ聞き取れた

とてもやさしいメロディー

悲しげな歌

運転しながら

寂しさだけが押し寄せてきた

ある事情でみんなとはぐれていたから

話す相手もいなかったし

ガールフレンドとも遠ざかっていったし

この歌も、そんな歌なのだろうと

勝手に解釈することにした

 

ひとり国道246を西へ

どこかへ辿り着こうとか

そういうものはなかった

雑音だらけのラジオの音にすがるように

宛てもなく走った

 

ひとりが寂しいんじゃなくて

回りに壁をつくってしまった自分が

とても辛かった

 

デスペラードの歌詞は

だいたいこうだ

 

「…おい、そろそろまともに戻ったらどうだい?

…お前の、その気難しさやプライドが
お前自身を傷つけているんだよ

(中略)

…時の流れに誰もが逆らえない
なのにお前はたったひとりで
深い闇のなかをただ歩いているじゃないか
それも、もがきながら

(中略)

…ならず者よ、さあ目を開けて
怖がらないで

…雨降りだって
いつか虹がかかることもあるから

…まだ間に合う

この手を掴めよ
まだ間に合うから」

 

10代の終わりのあの遠い日々が

その後の推進力になったことに

いまは感謝しているけれど…

 

 

 

 

みんなも逃げたほうがいい!

  

 

最近は、屋外で写真ばかり撮っている。

天気がいい日は、朝から落ち着かない。

日差しが僕を呼んでいるとでもいうのかな。

今年は台風でキャンプにも行けなかったし、

約束の河原での焚火もまだ行っていないし。

最近は仕事もほどほどにして、

何かと理由をつけて表に出る。

そうしないことにはすぐ年をとってしまう。

そのように錯覚している。

しかし錯覚ではないようにも思っている。

一日中仕事をしていると、寝るときに後悔の念が襲う。

これは旧人類として、とても良い兆候だと思っている。

何とも思わないようになったら、

それは進化という名の退化なのだと、

自分を疑ってしまうから。

それにしても、

デスクワークっていい加減に飽きます。

座っているのはしんどい。

体に良い訳もなく、最近とみにいらいらする。

企画とかライティングを生業としているのに、

これはマズイぞとか、

もう危機とも思わなくなってきた。

きっと生来の自分が、

うん十年の眠りから目覚めたのだろう。

野山を走り回っていた頃、

僕は本当にいきいきしていた。

妙な体調不良も一切なかった。

秋は、少し山に入ると栗がゴロゴロ落ちていて、

それを必死で剥いて、生のまま食べていた。

柿も食べ放題だった。

まさか八百屋さんで買うものとは

思ってもみなかった。

冬も鼻を垂らして遊びまわっていた。

春は、一日中田んぼでカエルの卵を採っていた。

夏になると、

葉山の海によくでかけた。

岩にウニがびっしりと生息していて、

よく焚火のなかに放り込んで食べた。

そうした思い出のなかには、

いつも大きな空が広がっていた。

青い空、雲の怪獣、

夕暮れにあらわれる影絵の世界。

僕は今頃になって、

無意識的にだが、

現代の危機から逃れようとしている

のかもしれない。

 

 

 

 

 

 

都会とイナカ

 

田園都市線、新玉川線の二子玉川は、

いつも通過地点でしかなかったので、

変貌するこの街が、

日ごろから気にはなっていた。

 

 

先日、小用があり、

久しぶりに改札を抜ける。

ムカシと全く違う街の印象。

二子玉ライズとかいう名前で、

商業テナントとオフィスの複合ビルの他、

近未来的な遊歩道と多摩川沿いにそびえる、

高層マンション群。

 

 

人が異常に多い。

悲しいほどに隙がないくらい、

整っている街並み。

 

この日は、中央のパティオに、

メルセデスの新車が6~7台展示されていて、

人目を惹いていた。

 

ライズにいての第一印象は、

皆、歩くのがとても速いこと。

誰もが忙しそうにみえる。

 

国道246を挟んだライズの対面は高島屋。

ここは古くからある。

館内は高級ブランド店が並んでいる。

店員さんは暇そう。

混んでいるのは飲食店くらい。

 

或るブランド店に古い友人がいて、

寄ってみた。

そのことを彼に聞いてみると、

まあまあ売れているようなのだ。

ちょっと見では分からないものだ。

やはり東京なんだ、

都会なんだなぁと感心する。

 

 

数十年前、

ここから2駅の等々力という所に、

住んだことがある。

とても静かな町で、夏は蛇もカエルも出た。

休日はよく二子玉川まで歩いた。

まだ玉川高島屋と東急ハンズしかなく、

街は閑散としていて、

東京の外れという雰囲気だった。

多摩川の河原に降りると、

掘っ立て小屋の売店もあったし。

その郊外という風情は、いまは全くない。

 

さて、ここを訪れる数日前、

仕事の息抜きにと、

大山の麓にでかけていた。

 

 

空がとても大きく感じられた。

時間がゆっくりと流れているのが、

実感できる。

芝生で寝ている少年、

ベンチでまんじりともせずに、

山を眺めている老人。

 

大山に陽が沈む頃、

山麓にたなびく薄い紫色の煙が、

幻想的に映る。

しかし、このあたりは、

車がなくては動けないなぁと、

現実に引き戻される。

 

現在の私の住まいも、車は必需品である。

 

さて、短期間に巡ったこの2個所が、

私のなかで、

どうしても対比されてしまう。

都会と自然、利便性と不便、

ストレス社会とやすらぎの地、

そして若さと老いということに関して…

 

永年の年が過ぎてしまった身として、

残りの時間をどこでどのように過ごすか?

こうした問いは、常につきまとう。

まだ仕事をしている現実。

しかし、心身は日に日に衰退しているのだろう。

残された時間も、そろそろぼんやりとだが、

みえてきたような気がする。

 

一体この先、

何をするために、何処へ。

私的な問いとして、日々頭をかすめる。