父母生誕100年の件

 

親父とお袋が生きていれば、

今年でちょうど100歳になっていた。

まあ、たらればの話だけれど…

 

ただ祝・生誕100年というフレーズが、

今年の初めから、

私のアタマに渦巻いていた。

 

当初、お寺さんに話をして

縁起の良いお経などをと考えていた。

そんなお経があるのかどうか、

いまでもよく分からないけれど。

 

が、何かが変だと思ったのが、

今年の春頃だったか。

 

もうこの世にいない人の生誕100年を祝ってのお経?

うん、何かがおかしい。

 

お経と既にこの世を去った人というのは、

相性がいい。

が、生誕100年という節目を祝うという行為と、

お経が相容れないのではないか。

 

で、いろいろ考えた末、

アタマに浮かんだのが神社だった。

けっこう安易な発想だなぁと自分に呆れたが、

これが俗世間に生きる者の限界だった。

 

で、近所の宮司さんに相談に行く前に、

まずネットで調べることにした。

で、うーんと唸ってしまった。

 

神社で生誕100年のお祝い事をやった話は、

いろいろなブログで散見されたが、

ウチの場合はすでにこの世にいないので、

こうしたケースは希有だった。

 

まあ、スタンダードではない祝い事と、

その時点で認識した。

 

で、アタマを冷やすべくその件から一端離れ、

ずっと猥雑な日常に埋没していたのだが、

先日、ふとその件がまたまたアタマをもたげてきたのだ。

 

そもそもこの件は、

生誕100年の祝い事なので、

ちょうど100年の節目である今年中に

是が非でも解決しなければならない。

よって夏も過ぎた今ごろは、

何かしらの具体策に入らねばならない…

 

そのように誰かが私にささやくのだ。

 

妙なプレッシャーが降りかかる。

 

ある夜の夕飯時に、この悩み事を奥さんに話した。

実はなんにも期待してはいなかったのだが、

彼女が面白いアイデアを出してきた。

 

この人はいわゆる「千三つ」のような人で、

千回に一回くらいの割合で

すげぇアイデアを私に授けてくれる。

 

「あのね、紅白饅頭がいいわよ。

大きい紅白饅頭を和菓子店に頼んで

それを墓前に置きましょうよ。

それがいいわよ」

 

おおっ、それだよそれ!!

このご時世だ。

人を集める訳にもいかないし、

少々安直だが、いいアイデアだと私は小躍りした。

 

和菓子店もだいたい目星がついた。

が、2.3日が過ぎた頃、

私のアタマに浮かんだのは、

腐ってくずれた饅頭にハエが集っている

我が家のお墓の姿だった。

 

この話を奥さんにすると、

もう話は行き詰まってしまった。

 

沈黙が続く。

 

が、次に彼女のアイデアが炸裂した。

 

「バームクーヘンにしましょ。

向こう(西洋)ではバームクーヘンは、

長寿のお祝いによくプレゼントするらしいわ」

 

おおっ、それだよそれ!!

なんにもアイデアのない私は、

その意見に激しく同意した。

 

千三つの彼女がヒットを2回連続で飛ばしのだ。

すげぇと思った。

 

バームクーヘンは、「ユーハイム」で手配することに決めた。

ウチと息子家族と東京の娘のところに配ろうということも決めた。

ただしバームクーヘンは墓前に置くのではなく、

我が家の仏壇に供えるのがいい…

これは私の意見として取り入れた。

 

この複雑怪奇な案件は、

こうしてようやく結論が出た訳だ。

 

やれやれである。

 

しかしだ、

なぜ両親が生きている間、

親思いでもなかった自分が

そんなことをしようと思いついたのかだが、

それがいまだに自分でも説明がつかない。

 

よく分からないのだ。

 

ただ、強引な結びつけとなるが、

それは、自分の死生観に関係しているような、

そんな気がしていた。

 

人はずっと生き続けている、

というのが私の死生観である。

それだけであるような気がした。

 

がしかしだ、最近になって、

新たな理屈が浮上してきてしまったのだ。

 

思えば、この一件に対する己の執拗な執着は、

実のところ、私の単なる罪ほろぼしではないのか?

という疑惑である。

 

これには自分でも思い当たる節が多々あるので、

前説より十分な説得力がある。

よって罪ほろぼし説に軍配を上げることとした。

 

もうひとつ、最近になって気づいたことがある。

それは、めでたい供物を墓前ではなく、

我が家の仏壇に供えると変更したこと以外、

紅白饅頭がバームクーヘンに変わっただけじゃねーか、

という事実である。

 

ある男のはなし

 

屋根裏から古い段ボール箱をおろして、

中身を確認してから捨てようとしたが、

古く重なり合った手紙の束を1つひとつ開いて、

滲んだインクの文字を追いかけているうちに、

すとんと時がトリップして、私は時代を遡っていた。

 

若い私への手紙はアメリカのサンディエゴからだった。

彼が、アメリカのいとこに会いに行ったときに、

私によこしたものだ。

 

ハンバーガーもマックシェイクも異常にバカでかいから、

そんなもの完食できない。

そして、おまえが横浜で乗り回している改造ビートルなんか、

こっち(カリフォルニア)へもってきたらフツー過ぎて、

誰も振り返らないだろう、

そんな内容だった。

 

すり切れて折れ曲がったエアメールを丁寧にたたんで、

再び封筒に収めた。

 

いままでこの手紙のことはすっかり忘れていた。

 

彼はずっとアメリカ行きに憧れていた。

目的は不明確だったが、

向こうで生活したいとよく話していた。

が、彼のアメリカへの旅はそれ一度きりだった。

 

彼はこっち(日本)で役者への道をめざした。

が、結局その道も数年であきらめることとなった。

生活していくとなると、おのずと限界はあるものだ。

 

役者で売れるというのは、

いわば宝くじに当たるようなものだと、

彼はよく話していた。

端からみていた私にもそう思えた。

 

それから彼はいろいろな職業を渡り歩いた。

得意の英語を活かして

ツアーコンダクターをやっていたこともあったが、

あまりに過酷なのでそれも辞めざるをえなかった。

 

後年、彼はある大手半導体関係の系列会社の社長になっていた。

もがき苦しみながら、彼が手にしたひとつの成果だ。

 

お互いに忙しくてなかなか会えない時が続いた。

 

或る日、彼の訃報が届いたとき、

私は途方に暮れてしまった。

忙しさにかまけていたことを深く後悔した。

 

彼の奥さんからお墓が決まりました、

との連絡を受けたとき、

私はなぜかほっとした。

 

さっそく彼の墓を訪ねた。

その墓園は、若い頃二人でよく走った、

なじみの国道の近くだった。

 

彼の墓石にこんな言葉が刻まれていた。

Memories Live on (思い出は生きている)

 

遠くから国道を走るクルマの騒音が聞こえる。

私の胸が詰まった。

 

○○恐怖症がつくりだす妄想がヤバい!

 

視界のひらける場所に悪いところはない。

個人的な見解だけどね。

山のてっぺん、大海原をのぞむ見晴台。

飛行機の窓から眺めるサンセット。

ね、なんかいいでしょ?

 

反対に、谷底とか窪地とか洞穴とか地下施設とか、

そういう場所が僕はぜんぜん好きじゃない。

まあ嫌いですね。

いや、恐怖さえ感じることもある。

 

最近、あそこだけは通りたくないなと感じたところは、

東京湾アクアライン&海ほたる。

ま、ひとことで言うと信用ならないトンネル&パーキングだ。

一応、自分がクルマでアクアラインを走る想定で、

リアルにイメージしてみた。

 

うん、クルマがどんどん進むにつれ、下り勾配になってゆく。

おお、海の深いところを走っているらしい。

まわりを見るとキレイな照明がキラキラと輝いている。

トンネルの中は明るくて地上の真昼のようだ。

なかなかいいじゃないか。

快適なドライブだなぁ。

 

ある箇所を通過するとき、トンネルの壁にシミのようなものが、

ふと目にとまった。

なんだろうなぁ、こんなピカピカのトンネルなのに…

まあいいや。

時速70キロで僕のクーペは快適に走っているし。

 

あれっ、またシミのようなものをみつけた。

そのシミは徐々に数を増し、

やがてトンネルの天井あたりから、

ポツポツと水滴が落ちてくるようになった。

 

その水滴は徐々に頻繁となり、

僕はやがてワイパーを動かすことにした。

おや、前方でクルマが渋滞しているぞ。

減速して近づくと、数人がクルマから降りて、

右往左往しているではないか。

僕もクルマを止めて表にでる。

 

と、誰かの叫んでいる声が聞こえた。

「この先でトンネルが崩落しているらしい、

緊急電話はどこだ!」

「なんだって!」

突然、僕の背中が硬直するのがわかった。

さらに、その後ろから走ってきたご婦人ドライバーが、

甲高い声でこう叫んだのだ。

「もうこの先は完全に水没しているわよ。

水がどんどんこっちに押しよせてきているのよ」

そのご婦人の足下は、すでに水に浸っていた。

僕とうしろを走っていたドライバーは

反射的にいまきたトンルネを戻って走り始めた。

大勢の人間たちもわあわあ言いながら、

いま来たトンネルを走り始めたのだ。

 

しかし、そちらからも轟音が響いている。

そして勢いづいた怒濤のような水が…

 

わあ…

○○恐怖症の僕が考えると、

あの楽しいであろうアクアライン&海ほたるも、

こんな悲惨な結末になってしまう訳。

 

さて次回は、

僕もたまに必死で乗っている地下鉄新宿線の

壮絶パニックストーリーについてお話しますね。

はぁ、いい加減にしろってとこですかね。

 

話は冒頭に戻るけれど、

視界のひらける場所に悪いところはないと

僕は常々思っている。

山のてっぺん、大海原を望む見晴台。

飛行機の窓から眺めるサンセット。

 

ね、○○恐怖症の妄想だけど、

こうした話の後だと、

視界の良いところって

なんかいいイメージでしょ?

 

オスカー・ワイルドに学ぶこと

 

本で溢れてしまった部屋を片付けようと決断するも、

結局、座り込んでアレコレと読みふけってしまった。

 

さっさと整理して、ブック・オフに売りに行くつもりだったが…

 

この調子だと当分片付きそうにないが、

いくつか気になる本がみつかった。

 

ということで、今回はそのなかの一冊を紹介する。

 

「オスカー・ワイルドに学ぶ人生の教訓」(サンマーク出版)。

教訓などというとちょっと引くが、読むとそうでもない。

まあまあ面白い。

 

教訓というより、結構ひねくれた表現ばかりが目につく。

オスカー・ワイルドの人となりが色濃く出ている。

 

この人は、18×4年の10月××日にこの世に生を受けた。

なんでここを強調するかというと、実は私と誕生日が同じだからだ。

それもキッチリ100年違う。

100年後の同年同月に、私が生まれた訳だ。

それがこの本を買った理由なのだ。

きっかけはそれだけ。

イージーといえばイージーだけど、

本との出会いなんてそんなもんだと思う。

 

さて、オスカー・ワイルドは詩人であり作家・劇作家なのだが、

服装の奇抜さとか妙な言動とか同性愛者であるとか、

そんなことばかりが噂として流布する人物だったようだ。

 

文学的傾向としては、耽美的・退廃的・懐疑的など、

なんだか後ろ向きかつネガティブな印象。

 

作品は「サロメ」「ラヴェンナ」をはじめ著名なものが多い。

日本では森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎など、

そうそうたる作家に影響を与えたとも言われている。

この人物を知るほど複雑な気分になるのも確かだ。

 

オスカー・ワイルドは46歳の若さで亡くなっている。

死因は、梅毒による髄膜炎。

葬式には、友人が数人集まっただけだったというから、

客観的にみれば寂しい最後だった。

 

で、この本には彼の放ったとする教訓のようなものが

最初から最後までびっしりと記されている。

たとえば、こんなのがある。

 

「実年齢を教えてくれる女を信用してはならない。

実年齢を言ってしまうような女性は何でも話してしまうのだ」

で、対抗ページの解説にはこう記されている。

 

「聞いてもいないのに自分から実年齢を言ってしまう女性には、

口外してほしくないことを話すのはやめたほうが無難である。

彼女たちに秘密を話すときは、宣伝して欲しい秘密や、

作り話に限る。男でも女でも、年齢をかたくなにごまかす人間は、

秘密は守れるかもしれないが、個人的なつきあいにおいては、

あまり誠実でない可能性が高い。もったいぶっていくつにみえる?

などという女性は、面倒なのでつきあわないほうがよい」

 

これは誰の意見なのだろうと思うも、著者のグレース宮田という

方のオスカー・ワイルドに対する深読みだろうと想像する。

さらにその文の横に解説のようなものが記されている。

 

「彼自身が、当初は2歳若く年齢を公表していました。

彼の母親の年齢詐称も有名な話です」

 

以上を読んで、うーんと唸ってしまいましたね。

 

結局この本の内容が教訓なのかどうか、よく分からない。

ときとしてなるほどと思えたりもするが、皮肉が効き過ぎていたり、

誇大解釈ではないかと推測したり、用心が過ぎるなぁと引いたり、

しまいにはコイツは少し変なのではと思ったり、

とにかく複雑な気持ちにさせられる。

 

そうした意味に於いては飽きがこない一冊ではある。

 

で、この本をペラペラと読んでの私なりの教訓なのだが、

誕生日が同じだとか、星座が一緒だとか、同郷だとか、

同姓同名であるとかの理由などで、

自分と著名人を重ね合わせても何もみつからない、

という仮説を得たことだ。

 

それが今回の大発見と言えるだろう。

 

という訳で一応の収穫はあったのだが、

いい加減に読むのをやめてさっさと片付けないと、

この先ろくな事はないと思ったね。

なにしろやらぬばならない事は、

他にも山積している訳だし…

 

 

青春レーベル「男の世界」

 

高校の頃に流行った歌といえば、

まず思い出すのが「男の世界」。

男性化粧品のCMから火がついた。

商品ブランドは「マンダム」。

歌うのはジェリー・ウォレス。

 

このヒットで丹頂株式会社は

社名をマンダムに変更した。

それくらいヒットした。

だって、みんなマンダム使ってましたからね。

一方、ジェリー・ウォレスは、

その後のヒットはなかったと思う。

一発屋だった。

 

マンダムも歌も売れに売れた。

その要因だが、これはひとえに

CMに出ていたチャールズ・ブロンソンが、

カッコ良すぎたから。

そう言い切れる。

イマドキはいない渋い役者。

男臭さが全身から漂っていた。

二枚目のアラン・ドロンとは

全く違う方向性をみせてくれた。

 

ちなみに私たちの時代はというのは

男らしさに重きが置かれていた。

喧嘩して殴られても「泣くな!」なんです。

男は黙って…の時代だった。

 

よって高校時代は私もまわりも

ほぼみんななんだか殺気立っていたっけ。

それが青春というものだったのかどうか、

いまでもよく分からないけれどね。

思い出せば、

町田の商店街でよく他校の奴ともめた。

横浜駅近くでもよく殴られた。

殴り返したら、向こうに

刃物を出されたこともある。

理由は些細で実にくだらない。

イマドキはダサいとなる。

 

まあそんな時代だったが

街にはかわいい子もいっぱいいたし

海もディスコも楽しかったし、

なかなかいい時代だった。

 

そういえば、女の子は女の子で、

まだ女性らしさというものが求められていた。

このらしさというのがなかなか難しい。

いまだによく理解できていないけれど、

それはこちらの鈍さか…

 

とにかく「らしさ」が求められる時代でした。

そんな時代です。

それに合わせるように、

あの渋いオトコの中のオトコ、チャールズ・ブロンソンが

「男の世界」の音楽に合わせて登場、

顎に手をあてて、「うーん、マンダム」と言う訳だ。

コレ、売れない訳がない。

 

イマと違ってヒットの方程式は、

意外と簡単につくれた。

 

でですね、この「男の世界」という歌とか、

チャールズ・ブロンソンという役者とかだが、

イマドキだと全く世間に相手にされない訳です。

干されてもおかしくないベクトルをもっている。

イマは誰もそんなものは求めていない。

というか、差別とかいう単語がちらつきます。

 

そんな世の中になりました、ハイ!

 

 

ユニクロで村上春樹に出会う

      ユニクロの店内をぷらぷらしていて、
このTシャツをみつけた。

他のTシャツに較べていくぶん地味なデザインだが、
その絵柄が旧ソ連が人類最初に打ち上げたロケット
「スプートニク」なので気に入って買った。

人類最初のロケットってとてもシンプルだったんですね。

ちなみにスプートニクは、1号から5号まである。
この図柄は1号だ。

2号では、犬が搭乗した。
が、帰ってはこなかった。

今だったら、動物虐待になる。

この打ち上げの成功がおおいにアメリカを刺激した。
アメリカは、かのニューディール政策より大きな予算をかけた。
威信をかけてアポロ計画を推し進めたのだ。

アポロ11号が月面に降り立ったのが、
私が中学生だったから、
スプートニクはそれに先立つ。
私の生まれた頃なのかも知れない。
とても古い話だ。

小説「スプートニクの恋人」は読んだけれど、
内容がいまひとつ思い出せない。
彼の小説はそういうのが多い。

彼の作品はどれも明快かつ分かりやすいものがない。
精神世界とか時間や場所、生死さえも超えてなお
ストーリーを紡いでいこうとする作家だ。

そこにあるのはおおいなる矛盾であったり、
人知の及ばないような壮大さであったり、
その回答は明確にならないものばかり。

表面的には現代的な衣装をまといつつ、
芯に日本の古典的要素を土台としたような作風も、
理解しづらい要因になっている。

そうした諸々が複雑に絡み合い、
着地点をますます不明確なものにする。

それがどういう訳か、読者に余韻として残るのだ。
そうした仕組みを知って振り返るも、
やはり話の細部が霧で隠れてしまうのだ。

これはある種の高度なマジックのようなものに似ている。

さて、彼の小説のタイトルはなかなか魅力的なものが多い。

私的に印象的なのは「中国行きのスロー・ボート」。
彼の処女作品だが、これはちょっと思いつかないタイトルだ。

がしかし、彼の小説のタイトルは、
どこからかの拝借が多い。

「中国行きのスロー・ボート」はソニー・ロリンズの楽曲
「オン・ナ・スロウ・ボート・トゥ・チャイナ」から、
「ノルウェーの森」はみんな知っているビートルズから。
「1Q84」はジョージ・オーウェルの「1984」からヒントを得ている。

「1Q84」は小説の中身もちょっと拝借した感がある。
がしかし、9がQに変化しただけあって、
かなり迫力のある話になっている。

おっと、横道へ外れた。
Tシャツの話でしたね。

私のはLサイズ。着るとちょうどいい。
着てかっこいいかどうかは不明だけれども。

 

奥さんにはスヌーピーのTシャツSサイズを買った。
これはこれで特別な印象的なものはなにもないけれど、
ほどほどに良いような気がする。

他、ニューヨークアートのリキテンシュタインとか、
アメコミ風のもあったが、いかんせん派手で着れない。

で、こうしたコラボTシャツが売れているのかどうか、
私は全く知らないし、興味もないけれど、
改めて考えると、あまり売れていないと思う。

それはユニクロというポジションだと思う。
ユニクロは現在、おおいなるスタンダードの位置を獲得している。
よってスタンダードファッションに異色・奇抜とかってそぐわない。
ミスマッチを狙わない限り、そういうものを目的に、
そもそもお客さんが来ている訳じゃないから、
というのがその理由の根拠。

ホントのところは分からないけれどね。

そういえば、このTシャツのタグに「村上RADIO」とある。
コラボは正確には「村上RADIO」なのだ。

FM東京で毎週日曜日に放送している。

生の村上春樹がしゃべる。
ちょっと硬い口調が真面目そうで好印象。
セレクトする曲もかなりマニアックで、
他では聴けないものが多いから、聴く価値は十分にある。

にしても、彼はビーチボーイズとかドアーズが
ホントに好きなんだなぁ。

こういうのって、Tシャツにもピタリとフィットするし。

 

 

フェイク旅行記

 

遠いむかしだが、

私は出版社で編集者として働いていた。

それ以前はちょっと気張っていて

独立してノンフィクションの分野をめざそうと、

ルポルタージュの教室へ通ったこともあった。

 

が、これはやめることにした。

己の力量がないことが徐々に判明したからだ。

で、早々に進路を変更し、

まずは無難な出版社に潜り込むことにした。

 

出版社といってもいろいろある。

総合出版社は別として、

各社には得意分野というものがある。

また、硬派、軟派系でも分類できる。

 

私の場合はたまたま趣味・娯楽系で、

当然、硬派であるハズもなく、

取り扱う内容も肩の凝らないものが多かった。

 

だからといって楽な仕事である訳ではない。

この業界の仕事はかなりどこもハードである。

いずれ、例外というものはなかった。

 

さて、私がその出版社で働くようになって、

想定外のことが次々に起こった。

まだ新人だった私への指令というか命令というか、

その一連の内容がいちいち無理難題なものばかりで、

理不尽さを感じた。

 

たとえば、こんなことがあった。

夜の10時頃になって、

やれやれと帰宅しようとすると、

「明日の朝までに××の取材予定の現地が

撮影に適しているか、これから行ってみてこい」

 

また、こんなこともよくあった。

印刷前の校正の大詰めの時期に、

或る事情から記事の差し替えとなり、

徹夜で新しい記事を書いたり写真を探したり…

 

毎日が予測不能の連続。

 

あるときは、評論家さんの原稿が届かず、

雑誌2ページ分の穴がぽっかりとあいてしまった。

これは嫌な予感がした。

私はデスクに座っていてその事情を知り、

下を向いて調べものをしているフリをしていると、

「おっ○○君、ちょっと!」と呼ばれたので、

これはまずいと思った。

「はい」とこたえて部長に顔を向けると、

「お前さ、いまから八重洲に行って、

世界中の観光局まわってね、

ここいいなぁっていうとこ決めて記事書け」

「はぁ」

 

私はうんざりとして山の手線に乗り、

当時は八重洲にあった世界各国の観光局に出向き、

観光パンフレットを山ほど集めた。

そして八重洲の地下街の喫茶店でぐったりしながら、

各国のパンフを猛烈なスピードで目を通した。

 

会社に戻ると部長が獲物を捕らえたように、

ニコニコしているではないか。

「○○君、ただの観光ガイドじゃ駄目だぞ。

本当に行ってきたような記事にしろ。

体験記だよ。分かる?

要するにリアリティだよリアリティ!

面白くな、頼むよ」

 

「旅行記ですか?」

 

「そう、決まっているだろ。

単なる観光案内じゃつまらんしな」

「………」

 

結局、私が書いたフェイク紀行文は、

ギリシャのミコノス島だった。

私はミコノス島なんて、

当然行ったこともみたことさえない。

ただ、パンフレットに載っていた

青い海と島の白い建物の写真が

とても美しかったからなのだが。

 

そのフェイク紀行文は2時間でできあがった。

が、どこか嘘くさい。なにかが不足している。

それは自分がフェイクと知っているからなのか、

客観的に読んでも嘘くさいのか、

そこが判然としなかった。

 

そこで、近くにいた出来る先輩に

その原稿を読んでもらうことにした。

先輩が難しい顔をして、

そして「ふむ」と呟いた。

で私にこう告げたのだ。

「これ、嘘くせぇな、

現地へ行って書いていないのがバレバレだぞ」

先輩の目が意地悪く笑っていた。

 

結局、締め切りの時間は刻々と迫り、

その記事は多少の手直しで掲載されてしまった。

 

一応ではあるが、

高潔な夢を抱いてこの世界に入った若者(私)は、

こうしてフェイク記事に手を染めてしまった訳だ。

 

私は次第にこうした世界に、

私のような奴がごまんといるような気がしてきた。

それはこの業界に長居しているうちに、

徐々に分かってきたことだが。

 

悪意という点に於いて、

政治・経済系のフェイク記事は、

より多くの読者をあらぬ方向へと導いてしまう。

偉そうなことを言える身ではないが、

真実を伝えるのはそれ相当の努力と覚悟がいると悟ったのは、

その頃からだった。

 

後、ことの大小はあるにせよ、

数々のフェイクを経験した私は、

広告業界へと進路を変更した。

 

この頃、ノンフィクションは当然ながら諦めていた。

不誠実な自分にはとても務まりそうもない分野だと

十分思い知ったからだ。

 

そして自分の素養が「つくりごと」に向いている、

そんなことに気づいたのもこの頃だった。

広告がそのひとつのような気がした。

 

広告というのは、まず「これは広告です」と宣言する。

ニュース記事などとは違いますと読者に分かるような扱いにする。

そして広告なのだから、

「内容はとうぜん広告主の我田引水ばかりですよ」と謳う。

事前にこれだけでも伝えることで、

以前の私のフェイクよりは罪が軽減される。

そう思ったからだ。

 

そして、この広告の世界で心底思い知らされたのは、

今度は皮肉なことに、つくりごとの難しさだった。

広告の制作過程は星の数ほどあるけれど、

結局ハイレベルなつくりごとを競う場である。

広告作品の出来不出来、評判というのは、

ひとことではあらわせない複雑さが関与するが、

それが広告におけるつくりごとの難しさだった。

 

広告業界の誰もが日々悩んでいるのは、

結局つくりごとのレベルであり、

狙いどころであり、

時代性なのではあるまいか。

端的にクリエイティブの差とは、

そういう諸々の要素が複雑に絡んだ結果、

なのかも知れない。

 

出版と広告は、とても近いようにみえるが、

実はまるで内容そのものが違う。

それはカワウソとイタチの違いを、

遠目で見分けるような難しさに似ている。

 

 

平山みき71歳

 

ユーチューブでナツメロを聴いていたら、

関連曲つながりで、

「真夏の出来事」が出てきた。

我、高校生のときのヒット曲である。

いい歌だなぁ。

 

歌詞のなかでこういう一節がある。

♪悲しい出来事が起こらないように♪

当時はテキトーに聴いていたので、

理解していなかったが、

この歌って、わかれの歌なんですね。

いまさら、いい加減な自分に驚きました。

雰囲気だけで聴いていました。

 

歌詞を理解すると、さらに好感度アップ。

これを歌っている平山みきさんは、とても人気がありました。

当時ガキだった私からすると、年上のお姉さん。

ガキにはとても手におえそうにありません。

はすっぱという言葉にビタッとおさまる雰囲気が

またよかった。

 

ところで、はすっぱという言葉の意味を

コトバンクで調べたらこう書いてある。

「女性の態度や動作が下品で慎みのないこと、

また浮気で色めいてみだらな女性をいう。

「はすっぱ女」ともいう。」

 

ヒドイことが書いてあります。

私のなかで元祖はすっぱは、

加賀まりこさんなのだが、

なんだか私の思っていたのと、

どうも意味合いが違う。

これは私の間違いなのか。

 

私のなかで、はすっぱというのは、

とてもいい響きであり、褒め言葉なのだ。

なんだか垢抜けていて、ミステリアスで、

全然こちらの言うことを聞いてくれない、

わがままなかっこいい女性。

それがはすっぱなのだ。

 

本来はコトバンクにあるように、

女性を卑下する言葉なのだろうけれど、

当時の私たちはそういう意味合いでは

使っていなかった。

それはひょっとして方言と同じで、

地方により意味合いも変化するとか?

 

まあ、どうでもいいや。

で、はすっぱな女性にはいまでもかなわない。

振り回されそうな気がします。

なにしろはすっぱは、小悪魔ですからね。

そのはすっぱな平山みきさん、

現在71歳だそうです。

 

ンー、あれから半世紀が経ちましたか。

平山みきさん、どうか現在でも

はすっぱなかっこいいおばあちゃんで

いてくださいね!

 

 

 

 

 

あやしいバイト

70年代の中頃だったか、
僕は沖仲仕という仕事をしたことがある。

沖仲仕とは、港湾労働者のこと。

港で荷役をする肉体労働者だ。

いまは、荷物はだいたいコンテナなので、
大型クレーンでそれを吊り上げれば、
事足りる。

僕の若いころは、
それを人力でやっていたのだ。

岸壁に直接接岸できない大型の船だと、
荷を受け取って港におろすため、
小さな船が間に入らなければならない。

その荷物をひとつひとつ人力で
作業するのが、沖仲仕だ。

陸と海の間を取り持つ仕事なので、
沖仲仕。

船に揺られながら、一日中荷役をする。
波の荒い日は、吐く人間も出る。
真夏の暑い日などは、昼飯ものどを通らない。

僕がなぜそんな仕事にしたのかだが、
趣味のクルマに入れ込んでしまい、
借金がかさんだのと、
あとは遊びすぎてしまい、
それらの返済に追い詰められていたからだ。

当時のバイトの相場は、
一日3000円くらいだった。

普通のバイトでは、全く返済に追いつかないと
悟った僕は、突飛なバイトばかり探していた。

当時はベトナム戦争が激しかったので、
金に困っているある知り合いは、
戦死した米兵の死体洗いを真剣に考えていた。

そのバイトの噂は、
若い僕らの間を駆け巡ったが、
では一体どこへ行けば
そのバイトをさせてくれるのか、
まず入口のようなものが、
結局誰も分からなかった。

バイトは、日当3万円~5万円くらいだったと
聞いた。

あれは都市伝説だったのか、
それはいまでも分からない。

バイトの内容はこうだ。

プールのようなところに死体が
いくつか浮いているので、
一体ごとに回収して、
身体じゅうの穴という穴に脱脂綿を詰め込み、
死体をきれいに拭いて、棺におさめる。

そのような内容だった。

僕は臆病なので、
そうした恐ろしいことには
とても耐えられない。

次にバイト代が良かったのが、
一日1万円もらえる沖仲仕だった。

この仕事も、ひとから聞いた話からだった。

まず、朝の7時だったか8時だったかに、
横浜の仲木戸駅の付近をプラプラする。
それも何かを探しているように。

すると、手配師と呼ばれる
人集めがやってきて声をかけてくる。
そこで仕事の概要とギャラを提示する。

合意すると、紙っきれの簡単な文面の下に
朱肉で親指の拇印を着く。

そして10人くらい集まると
マイクロバスに揺られて、
岸壁に着く。
で、小型の船に乗り込む次第。

そんな仕事にやってくる人間は、
やはりと言うべきか、
皆一様に訳ありというか、
一癖も二癖もありそうというか、
外見からしてフツーな感じがしない。

これは後に気づいたのだが、
どのひとも家のないのは当たり前で、
木賃宿でその日暮らしが多かった。
公園とかで寝ているひともいた。

が、お互いにどんな人間なのかなんて、
誰も話したり触れたりしない。

酒焼けと日焼けが混じって、
どの顔もどす黒くて、
やたらとシワが深い。
歯が抜けているひとも、
かなりいた。

仕事は殺伐としていた。

すぐケンカが始まる。
それがひんぱんだった。

あるとき
血だらけのふたりが殴り合っていた。
現場監督がそれを見つけると、
平然とヘルメットでふたりを殴って、
そのケンカはおさまった。

それが日常茶飯事。
普段の風景なのだ。

あるとき、頭上数十メートルから、
クレーンに積んだ荷が船に落ちてきた。

僕のすぐそば、
50センチから1メートル近くで、
ドスンとすごい音がした。
当たっていたら確実に死んでいた。

驚いてまわりを見渡すと、
誰も顔色ひとつ変えない。

恐ろしい仕事だと思った。

この激しい労働の後は、
心身ともにズタズタになる。

どうしてもまともではいられない。

酒場、キャバレーと渡り歩く。
でグダグダに酔って、
やっと正気に戻れる。
そうでもしなければやってられない。
そんな仕事だった。

極度の疲労とストレスと恐怖。

それを紛らわすのに
すべて使い果たしてしまう。

そんな仕事は数週間でやめた。

金が貯まらないどころか、
命があやうい。

借金なんか減る訳もない。
明日のことも考えられない。
夢も希望もない。

ただ心身の疲労だけが、
いつまでも残っていた。

が、ふと思ったのは、
僕にはやめることのできる選択肢があった。
他で新たなバイトを探せば、
なんとかなる。

では、あのひとたちはどうだろう?
あの仕事の毎日は、残酷過ぎる。
考える余裕も体力の回復もないまま、
日々が過ぎていってしまうのではないか。
その先はみえている。

それを思うと、極度に憂鬱になった。

このバイトでの経験は、
僕にいろいろなことを教えてくれた。
それは経済的なことだけでなく、
これからどう生きていくか、
ということも含めて。

それからしばらく、
僕は時給の安いコーヒーショップで働いた。

それはとても穏やかな日々だった。

 

 

真夜中の訪問者

 

最近、寝るときの

妙な習慣について書きます。

 

本を閉じてさあ寝ますというとき、

下になった一方の手を

反対の肩に乗せてからでないと、

どうも落ち着いて寝られない。

 

この動作、分かりますか。

ややこしいですかね。

 

では。

右肩が下なら、

右手を左の肩にのせる。

これでどうでしょう、

分かりましたか?

 

この動作って変ですよね。

でもそうするとなぜか安心できる。

すっと眠ることができるのだ。

いつからそうなのか忘れたが、

自分でも妙な癖がついたと思っている。

 

まだ寒いので、

冷えた方の肩に手を添えると、

手がとても暖かいので、

ホッとする。

このあたりまでは、物理的な話なんですが。

 

が、それだけではない。

自分の手なのに、

誰かの手のように感じる訳です。

その誰かが、しばらく分からなかった。

なんというか、

とても大きななにかに守られているような。

その感覚に包まれると、

心身ともにやすらぎさえ覚える。

 

数ヶ月が過ぎたころ、

それがとても遠い日の感触だと、

突然気づいたのだ。

 

母が亡くなってから数年後、

私は不思議な体験をしたことがある。

夜中になぜかふと目が覚めた。

2時か3時ごろだったと思う。

部屋の入口にひとの気配がした。

うん?と思い振り向こうとしたが、

首を動かそうにも、全く動かない。

畳を踏む音がして、

僕のベッドに近づいてくる。

 

不思議なことに、

このとき恐怖心などというものはなく、

脱力するような安堵感さえ感じられた。

その気配は僕の枕元でじっとしている。

僕は全く動くことができないでいた。

 

どのくらいの時間が経過したのかは、

全く分からない。

数十秒だったような気がする。

数分だったようにも思う。

 

「おふくろだろ?」

僕は心中で、その気配に話しかけた。

その問いに、気配は笑っているように思えた。

 

なぜ母だと思ったのか、

それは分析できない。

いまでも分からない。

ただ、とても懐かしい感じがしたのだ。

そして母だという確信は、

僕の記憶の底に眠っていた。

 

幼いころ、

母は僕を寝かしつけるのに、

いつも僕の肩に手を添えてくれていた。

僕の最近の変な癖について、

突如として思い出したのは、

その遠い記憶だった。

 

それが自らが作り上げた

こじつけなのか否かは、

自分でもどうもうまく解決できない。

説明がつかない話は、

世の中に幾らでも転がっている。

いまでは、そう思うことにしている。

 

それにしても、

僕がいくら年老いても、

母は依然として母であり続ける。

それは、永遠に変わらない。

妙なことに、それが事実なのだ。

 

そしてそう思うほどに、

生きている限り、頑張らねばならない。

真夜中の訪問者はいまだ変わることなく、

僕にやさしくて厳しい。

 

そういう訳で、

僕の寝しなの妙な儀式のようなものは、

当分続きそうな気がするのだ。