マジックアワーの憂鬱

 

 

折り返しも当に過ぎた

いわば人生の終盤とでもいおうか。

ある意味、夕暮れ時に辿り着いて、

ああ明日がある、

そしてその先にバラ色の未来があるなんて、

まずはほぼ思わない。

それは、年齢的なことだけでなく、

回りを取り巻く社会・経済または自然環境が

激変したことも、きっと含まれていると思う。

そのぼんやりとした不安の正体は

いまだ鮮明ではないが、

それは確実に大きく成長しながら、

こちらに徐々に近づいてくる。

 

現実の夕暮れ時の、

あの僅かな時間に世界を覆うオレンジ色は、

それはそれで感動的ですらある。

そして深い吐息と共に、

気持ちを穏やかにしてくれる。

だけどマジックアワーって、

なんだかとても憂鬱になることもあるよなと、

私の仕事の先輩がつぶやいたことがある。

 

人生の黄昏時は、

もうゴールがほのかに見えかかってくる。

戦いも競争も、もう遙か遠い日の出来事のように、

穏やかな時でもある。

同時に、どこか物憂げなあの色を仰ぎ見ると、

とても他人事とは思えない何かが胸に迫ってくる。

 

時間は年を追う毎に何故だか加速するようなのだ。

その瞬きの僅かな間に老いてゆくとは、

それこそ、つい最近知ったばかりだ。

 

若い頃は何かにときめいて、

それこそ何処かをめざして、

無我夢中で疾走していた。

 

さていま、どのあたりにいるのか?

それで一体何を成したのかなんて、

さっぱり分からない。

 

こうなると、

すべての出来事は夢半ばと知る。

それでもなお前進している。

それは納得でなく、まして達観でもない。

 

ようやく人生のアウトラインが、

かすかだが見えてきた頃に、

私たちはまるで通りすがりの旅人のように、

誰もがこの世界から旅立ってゆかねばならない。

 

おおよそのあらすじがみえてしまう黄昏時。

夕暮れ時の美しさと、

その穏やかさの底に沈殿している何かを

ほのかに感じ取ってしまう時、

人は誰も「人生の理不尽」を知り、

深いため息を吐く。

 

 

 

あやしい心理研究所

 

○○心理研究所って看板をみたら、

そしてそのビルがとても古かったりしたら、

その時点でなにかうさん臭いものが漂っています。

負けず、私はその研究所のブザーを鳴らしました。

 

とてもおだやかそうな白衣を着た、

そうですねぇ、年の頃なら40代とおぼしき

横分け頭の研究者らしき男の人があらわれ、

「××さんですね、さっどうぞ中へ」

と促され、中へ足を踏み入れる。

 

古い緑色のソファに座る。

「少し、待っていてくださいね」

やさしそうな笑顔はそんなにあやしそうではなかった。

 

ソファの前の本棚には、やはり心理学とか臨床…とか、

ハードカバーの書籍がずらっと並んでいる。

その部屋には私以外、誰もいない。

 

隣の部屋は、医者でいえば診療室みたいなものらしく、

女性の相談者が延々となにか話している。

話の中身は分からない。

が、とうとうと何かを訴えているようなのだ。

先生とおぼしき人の相づちだけが、規則正しく聞こえてくる。

 

15分ほどして、その患者さんも納得できたようだ。

先生のボソボソっとした声が聞こえ、

女性の笑い声が響いた。

なんかこっちまでほっとしてしまう。

 

ふたりの足音がこちらへ近づいてきた。

終わったようだ。

茶色のロングヘアの女性があらわれた。

やせ型の美しいひとだった。

続けて先生らしき人が、にこにこしながら、

小さな化粧品のボトルのようなものを、

その女性に手渡した。

 

にこっとして「いつものですね?」と言って、

それを受け取る。

とても自然なやりとりにみえた。

 

と、ここまで書いて、

この話はながーくなりそうなことに気づく。

私がなぜこの○○研究所にでかけたか、

という事情はやたらプライバシーにかかわるので、

割愛させてもらう。

いや、のちほど話すけどね。

 

私は、この研究所で出している、

小さな化粧品のボトルに入っている「水」について

書きたかった。

 

「この水は、一見水ではありますが、

私たちの知っている水とは全く違う水です。

味はもちろん無味無臭です。分子構造が全く異なります。

大事に扱ってください。必ず冷暗所に保存してください。」

………

ということなのだ。

 

この水の値段は、一本¥18,000もする。

とても高価なものなのだ。

 

毎食後に数滴なめる。

それだけで、あらゆる症状を軽減させる効果がある。

おっとなめる前にボトルを20回ほど振る、

という儀式があった。

これをやらないと効果があらわれない。

これは、先生とおぼしきひとが言ったことだけど。

 

私は、この水を合計3本購入した。

1本なんかあっという間になくなってしまう。

 

あるとき、この水について考えた。

そのときビールを飲んでいたので、

ボトルをさんざん振り回して

ヤケクソでとくとくとジョッキにたらし、

贅沢に飲み干した。

 

それ以来、その水を買うのをやめた。

そのうち、仕事が忙しくなって、

水のことはすっかり忘れていた。

その研究所のこともすっかり忘れていた。

私の症状はすっかり改善していた。

 

それはとても単純なことで、

辛い貧乏を脱出できたからだった。

簡単にいうとそういうことだと思う。

あんな高価な水の費用を

ひねり出す苦労もなくなった。

 

稼いだお金で、アパートを引っ越した。

今度は、縁起の良さそうな部屋だった。

 

実は、私はてっきり「うつ」だと思って

その研究所を訪ねたのだが、

よくよく思うに貧乏だった、

それしか分からない。

 

うーん、いまでも自らの症状も、

そして突飛な行動も、

全く分析できないでいる。

 

もう30年もむかしのこと。

 

 

ショーケンれくいえむ

 

 

わかい頃、水谷豊が

「兄貴ぃー!」って呼んでいた。

そこからショーケンこと萩原健一は

ずっと我らの兄貴ぃー!でもあった。

 

ヤザワではない。

高倉健でもない。

 

そもそも芸能人に憧れるガラではないし、

まして同性なのに。

が、唯一ショーケンだけにはたそがれた。

 

グループサウンズでおかしな衣装を着て、

あまり上手くもない歌を歌っていたが、

あれは彼の不本意だった。

よって解散を申し出たのもショーケン自身。

 

彼はそれ以前にブルースのバンドを組んでいて、

その道へ行きたかったらしい。

が、彼はブルースを目指さずに、

役者へ転向する。

 

これが良かったんじゃないかと思う。

 

役どころとしては「傷だらけの天使」のおさむ、

「前略おふくろ様」のサブが印象深い。

前者は、ショーケンのアドリブだらけ。

後者は、倉本聰の台詞とあって、

一字一句、台本のままだという。

 

黒沢映画の他、多彩に活躍したが、

やはり妙に素人っぽかった初期の頃に、

彼の地が滲み出ている。

 

倉本聰の作品は、彼らしくないという

意見もあるが、あれもショーケンのある一面と

言えなくもない。

結構ナイーブなところが発端となって、

騒ぎを起こしているし。

 

ショーケンが追求したのは、

ダンディーとか、男の中の男とか

そんなんじゃない。

 

一見、かっこ悪いと思わせる。

ちょっと親しみやすくて憎めない。

しかし、ふとした瞬間に、

寂しそうな表情を浮かべたり、

とてつもなく凶暴だったりする。

そこがヤザワでも健さんでもなく、

独特かつ不思議なオーラを放っていた。

 

実際、彼はそのような性格だと思う。

ずっと悪のイメージがつきまとっていた。

まあ不良といえばそのようにみえなくもない。

しかしその程度。

 

彼をウォッチしていて気づいたのは、

妙な正直さが仇となって、

逆に悪評が広まったり、

その風貌や態度から、

ネガティブな印象をもたれたりと、

随分とバイアスがかかった部分がある。

 

或る人たちにとっては、

良いところを探すのが

なかなか難しい人ではある。

 

こういった人間は、

我らの身の回りにも数人いて、

それは身近に付き合ってみないと、

みえてはこない。

 

たとえば、意外に正直であるとか、

思いやりがある、

誠実であるとか…

 

ガキの頃からの知り合いに

こういうのが割と多い。

みんな結構付き合える。

いや、いまも付き合いは続いている。

 

共通点は、みな一様に偉い人間や

偉そーに振る舞う奴には

徹底的に逆らう、というところ。

 

もうひとつ共通点があった。

心根がやさしいこと。

チンピラと違うところは、

カッコよく言えば、

強きを挫き弱きを助ける。

なのに、どうでもいいことで、

弱音を吐いたり…

 

こんな姿が、ショーケンにも投影される。

彼は何回も捕まったし、

結婚も離婚も数回繰り返した。

けれど、それらを軽々と

飛び越えてしまう魅力が、

彼には備わっていた。

 

ショーケンは実は、

ずっと映画の裏方をやりたかったらしい。

脚本とか、演出とか。

意外。

 

彼が亡くなる8日前の写真が、

「萩原健一最終章」の最期のほうに載っていた。

その写真は、

奥さんが隠し撮りした一枚。

 

そろそろ死期が迫っている。

本人も、死が迫っていることを

うすうす感じている。

 

ほの暗い部屋で机の灯りを点け、

彼の丸まった背中がみえる。

机に向かって、ずっとシナリオを、

声を出して読んでいたという。

 

我らの知る最期の男の背中が、もの悲しい。

 

人生を、

疾風のごとく通り過ぎた男。

やはり、最期までショーケンだった。

 

我ら、こんなに強くはなれないけれど…

 

合掌

 

1969

 

 

最近、深夜に聴いている曲が、みな古いものばかり、

 

ということに遅まきながら気がついた。

 

 

ビートルズ、クリーデンス・クリヤウォーター・リバイバル、

 

メリー・ホプキン、ビージーズ、マービン・ゲイ…

 

 

和ものだと、いしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」とか、

 

はしだのりひことシューベルツの「風」、

 

ヒデとロザンナの「愛の奇跡」とかね。

 

 

で、その頃何があったのか、振り返ってみた。

 

ときは、1969年。

 

私は中学生だった。

 

 

いまからざっと50年前になってしまう。

 

 

翌1970年は、大阪万博だった。

 

そんな時代に流行った音楽。

 

 

なのに、いまだ全然古びていないと思うのは、私だけか?

 

そこがよく分からない。

 

なんせ、こちらは客観性ゼロだから。

 

 

とにかく、もう50年が過ぎた訳だ。

 

思えば、人生、遠くに来たもんだ、とつくづく思う。

 

 

で、ひとつひとつ聴いていく毎に、

 

中学生時代のいろいろなでき事が思いだされるから、

 

いわば、映像付き音楽というところか。

 

 

水泳の部活、クラスメイト、初恋、受験…

 

一つ一つの歌に、私なりの思い出がリンクされている。

 

よって私にとっては、「良い曲」ばかりだ。

 

もちろん、嫌な事も多々あったが、

 

そこは時間の流れが薄めてくれるからありがたい。

 

 

当時、フィフス・ディメンションの「輝く星座」を

 

初めて聴いたとき、

 

その壮大なスケール感に圧倒されたのを覚えている。

 

そしてロック・ミュージカル「ヘアー」って一体何だとか、

 

音楽の事も去ることながら、

 

世の中のいろいろな事に関心が広がり始めていた。

 

勉強そっちのけで、友達と朝まで話し合ったりもしていた。

 

 

ちょっと前まで歌謡曲しかなかった時代だから、

 

思春期のガキには刺激の強すぎる年であったに違いない。

 

 

ゾンビーズの「ふたりのシーズン」には、

 

そのメロディラインに鳥肌が立つような格好良さを覚えたし、

 

おおっ、世界は広い、洒落ているなぁと感嘆しきりだった。

 

 

国内では、タイガースとかブルーコメッツが全盛で、

 

とにかくヒット曲が次から次へと生まれる。

 

小川知子の「初恋の人」、黛ジュンの「雲にのりたい」が

 

ヒットしたのもこの年だった。

 

 

毎夜、テレビの音楽番組をチェックし、

 

夜中は、受験勉強をしながら、

 

ラジオの深夜放送を聴いて、海外の曲を仕入れた。

 

そして音楽雑誌「ガッツ」を買ってギターを練習し、

 

中古のドラムセットも手に入れ、

 

仲間とバンドのまねごとのような事も始めた。

 

 

1969年は、ヒット曲が洪水のように生まれた年だった。

 

 

しかし、冷静に思い起こしてみると、

 

こうした年は、他にいくらでもあったようにも思うのだ。

 

 

それが1968年かも知れないし、

 

1980年代のどこかのような気もするし、

 

1994年のような気もするのだ。

 

 

1969年は、要するに、

 

ひとつの私的な指標のような年のようにも思う。

 

 

まあ、どれも遠い過去の事なので、

 

記憶は脚色され、改編され、

 

自分の都合の良いような話になっている可能性もある。

 

 

それにしても、ずっと遠いムカシを懐かしむことが、

 

最近はとみに増えている。

 

当然、年をとったことも影響しているだろうし、

 

過去の積み重ねが重くなっているからとも言える。

 

 

しかし、それだけではないような気がする。

 

 

私たちは若い頃、常に前を向け、後ろを振り返るなと、

 

教わってきた。

 

それが生きることであり、人生なのだと。

 

そして「いま」を生きるのが正しい生き方であると。

 

 

しかし、最近よく思うのだけれど、

 

果たしてそれは本当かと。

 

 

ひょっとして、思い出だけが人生のような気がする。

 

人に残るのは、思い出だけなんじゃないかと。

 

 

後は灰になっちまう。

 

 

そして、ホントは実は、

 

過去に森羅万象の真実があるのではないか、

 

思い出のなかに未来の種が眠っている…

 

とか、妙な事を考えるようになった。

 

 

―いまここに存在している自分のルーツが、

 

50年前あたりに眠っている。

 

そいつを掘り起こして、もう一度考える―

 

 

そんなひっくり返った思考法。

 

そういうのってありですかね?

 

と、誰かに問うてみたい気がする。

 

 

そして、「君の原始的かつ根源的なものが、

 

手つかずのまま新鮮なまま眠っているのが、

 

遠い過去にあるのだとしたら、

 

君はそれを果たして探しにいくかい」と

 

尋ねてみたい。

 

 

 

 

 

小学生の僕は驚いた。

父がテニスラケットを握り、
慣れた風に球を打っている。

それは初めて見る姿だった。

昭和30年代、
テニスはまだ限られた人のものだった。

僕は父をよく知らなかった。

黄ばんだ古い写真。

軍服姿で軍刀を手に、
こちらを正視している浅黒の父。

ロシアと中国の国境あたりと、
以前ぽつんと話したことがある。

日常の中で父は寡黙だった。
口をきくのもはばかられた。

真夏の緑のなか、
銀ヤンマを素手で捕った父が笑った。

一度きりの笑顔。

よその人のような父だったけど、
その視界にいったい僕はいたのだろうか?

いまは、もう遠い人。

僕は父をいまだよく知らない。

 

 

巡り巡ること

 

 

身内、友人、知人が死んでゆくのは耐えられない。

 

最近、そんな出来事が幾つかあって、

 

気持ちはもうヘトヘトだ。

 

 

ずっと前だけど、

 

知り合いの女性が自死したときも

 

かなり打ちひしがれた。

 

 

ふっと浮かんでは、

 

あのとき…

 

と振り返るたび、自己嫌悪に陥るのだ。

 

 

過ぎ去ったことは、もうどうしようもない。

 

たとえそのときに戻れたとしても、

 

やはり自分には、なにもできないのかも知れない。

 

 

しかし悔いは依然残るのだ。

 

 

悔いるとは一体なんなのだろうと考えた。

 

一向に回答は見つからない。

 

こんなものを幾つも背負って、

 

この先、尚も新たな障壁は生まれる。

 

そうして悔いは、高い山のように積み重なり、

 

後ろばかりを見てしまうのか、と。

 

 

しかし、唯一救われるのは、

 

刻々と過ぎてゆく時間の流れだった。

 

 

虚しさは次第に変化し、傷は少しずつ和らぎ、

 

修復されつつあるようなのだ。

 

 

私たちは、立ち止まったまま、

 

ずっと悔いている訳にはいかない。

 

そんなことを続けているうち、

 

今度は自分が、

 

暗い淵の底に引きずり込まれてしまう。

 

 

いろいろなものを振り払い、拭って、

 

とりあえずは

 

足元に転がっている石ころでも何でもいいから拾う。

 

そうでもしなければ、

 

悪夢のなかの因人にされてしまう。

 

 

僕はあるときから、逃げることを覚えた。

 

卑怯にも逃げることをだ。

 

 

そうして、時は刻まれる。

 

朝がくる。

 

夜がくる。

 

 

陽射しのなかで、星の下で…

 

 

記憶は徐々に観念的となり、

 

世の中のあれこれが気を紛らわし、

 

僕はフツーに飯を食い、

 

働き、そして深く眠る。

 

 

せめて今度こそは精一杯やろう、

 

やってやろう。

 

そんな誓いを立て、

 

自分の立っている場所をしっかりと踏みしめる。

 

 

きっと涙も笑いも悔いも忘却も

 

そして勇気も、

 

この僕にとって

 

どれも欠いてはいけない要素なのだろう。

 

 

そうやって、尽きるまで淡々として生きる。

 

 

巡り巡るって、

 

きっとそういうことなのだと。

 

 

 

新会社、妄想中

 

新しい会社の名前を妄想中である。

別会社だけど、たいそうなことではない。

個人事業でも構わないと考えている。

その場合は屋号というのかな。

 

当初、エジソン・ライトハウスとしたが、

これはすでに存在していたので、却下。

次にレッド・ツェッペリンというのが閃いた。

しかし、ご存じのようにあのツェッペリン号は、

空中で大爆発しているので、なんか縁起が悪い。

そもそもレッド・ツェッペリンとは、

失敗の意味でも使われていたと言う。

で、これも却下。

 

現在最も有力なのが、

バニラファッジという名前である。

バニラファッジは、イギリスの国民的お菓子である。

名前のとおり、甘い食いものである。

 

で、これらの候補は、

気づいた方もいると思うけれど、

いずれも60~70年代に活躍した

世界的ロックグループの名ばかり。

 

バニラファッジのヒット曲、

「キープ・ミー・ハンギング・オン」は、

当時少年だった私には、凄いインパクトだった。

レッドツェッペリンの「天国への階段」も、

エジソンライトハウスの「恋の炎」も相当良かった。

いまもって忘れられない音楽だし、

これらをネーミングにするのは悪くないと考えた。

 

さらには「ホワイトルーム」のCREAMも候補にしたが、

次第に混乱してきて、結局はやめた。

 

で、この新しい会社というか

新組織はなぜ必要か、なのだが、

凄い稼いでやろうとか、

そういうのでは全然ない。

 

むしろ、やることを減らす、

嫌なことはやらないなど、

結構うしろ向き。

 

唯一、好きなことしかやらないとする一点において、

妥協のないよう検討している。

 

仕事としては、取扱品目を極端に絞り、

ライティングのみに集中すること。

ライティングが入り口の仕事であれば、

その後も前も引き受けます、

というスタンスにしたい。

 

なぜなら、ライティングから入る案件は、

それなりにテキスト重視であり、

それを核として組み上げるからこそ、

他とは違ったものが制作できる。

 

重要なのは、広告に文字は不要、

または重要ではないと考える

企業などがあるので

そこを切り離したいと思った。

 

ひと口にライティングといっても

広範な守備が必要となるが、

そこは私的な仲間やネットワークに

多彩な才能が眠っているので、

取扱品目を減らす代わりに、

多彩な案件を受け入れたい。

 

また、ネット上のライターたちとの違いを、

価格と品質においてもバッティングしないよう整備し、

一線を引きたいとも考えている。

 

私たちの仕事は、

クライアントに寄り添って仕事をしている。

これは、ある意味、とてもやりがいのあること。

しかし、なかには意にそぐわない案件もある。

意にそぐわないとは、

広範にわたるからひとことでは言えないが。

 

嫌なことはやらないとする方針は、

新しい組織にとって欠かせない事項である。

さらに、好きなことしかやらないというわがままも、

この際必要不可欠となってきた。

 

あるときから、好きなことしかやらないが、

嫌なことはやらないという心境より優勢となり、

これが基本方針に変わった。

 

好きなことしかやらないとは生意気な、

と言われそうだが、

そして、そんな仕事が成り立つのかとの

疑問も起きるが、

そこは、試しである。

 

実験である。

 

とにかく、好きなことだけやって、

生きていけるか?

この賭けはいまのところ読めない。

こういう場合、果たしてAIは、

この問いにどんな回答をだすのだろう?

 

この世界には、魑魅魍魎が跋扈している。

しかし、勘としての勝算はある。

 

まあ、少しでも仕事が動けば、

生きる自信に繋がるような気がする。

 

17才

 

ついに部活やめてしまった

 

つまらないというより

くだらないと勝手にきめて

誰と喧嘩したわけじゃないけれど

もう自分のなかのなにかが燃え尽きてしまった

 

ハーブ・アルパートみたいなトランぺッターにあこがれて

本気でトランペットを勉強して

おとなになったらプロになろう

そう思ったこともあったのにな

 

自分の吹くトランペットが

飛び抜けているなんて思ったことは一度もないし

現実はやっと演奏についてゆける程度だった

楽譜だってたいして読めないし

 

だけどプロになろうなんて考えていた

 

同じ部活の先輩に

自分の気持ちを話したことがある

そしたら笑っていた

とてもやさしい顔で

 

先輩は学外にも知れたトランペットの名手で

この人こそプロの道へ進むのかと思っていた

 

彼がさとすようにこう言った

「○○君さ、気持ちはわかる

でも世の中にはもっともっと上がいるんだ

だから僕はね

ここを卒業したら大学で経済を勉強する

でね割と大きな東京の会社で働くんだ

トランペットはね趣味。

趣味にすればいい訳さ」

 

そのとき思った

世の中ってよくわからないけど、

きっとこの先なにをやっても

世の中という壁が

僕の前に大きく立ちはだかるんだろうなぁ

ということが

 

部活は夏休みの前にやめた

 

真夏の商店街の午後は

アスファルトの道が

日差しをまともにうけて

ハレーションを起こしていた

遠くから歩いてくる人がすれ違うまで

ずっとその輪郭が揺れていた

 

パチンコ屋のガラス扉を開けると

興奮した金属音と

それをあおるような軍艦マーチの音楽が

刺すように耳に飛び込んでくる

 

妙なだるさが少しだけ回復したような錯覚に陥る

冷えて濁った空気にとても救われたような気がした

 

100円玉の分だけ球を手に受け

まわりをきょろきょろとして

よさげな台を探す

そしてたばこをくわえて時間をつぶした

 

玉の出る台なんてわからない

ただみんなそうやっていたから

 

ショートホープにハイライトに峰にセブンスター

なんでもいいからただの煙でもいいから

自分というものを煙でいぶす行為は

なぜかとても新鮮で救われた

 

球がでればラーメンが食える

でなければ近くのボーリング場に行く

 

部活をやめてからなにも考えなくなった。

 

結局冷えたボーリング場の椅子で

毎日ぐたっとしていた

 

ピンの倒れる音が頭に響く

自動販売機のペプシコーラを買って

それをまずゴクッと飲む

体中が冷えて少しまともになったような気がする

 

ジュークボックスにコインを入れて

マッシュマッカーンを聴く

金なんてたいしてないのに

毎日毎日マッシュ・マッカーンを聴いていた

 

妙な高温のエレクトーンのイントロが頭に響く

それがボーリングのピンのはねる音と混じって

頭にどーんとくる

その毎日の午後の儀式で

ようやく落ち着くようになっていた

 

そして冷えたプラスチックの椅子で

まるくなって毎日寝ていた

 

BVDのTシャツの首まわりが

夕方には薄黒くよれて

そうするととても身体がだるくて熱をもつ

ああこんな時間がこれからずっと続くんだ

それが悪魔なのか誰なのかはよく分からないが

僕の耳元でこうつぶやいていた

 

「お前は永遠になにもしない

できないという罪人として

この先何があっても希望とか

そういう類のものを禁止する

お前にはなにも渡さんぞ

そしてずっとそうしていろ

決して死なせやしないからな」

 

僕の呼吸は浅くなってしまって

身体が苦しくて

胸のあたりが締め付けられた

そして毎日同じように頭痛がはじまった

目ももうろうとしてきて

視界も狭くなっていた

 

ひどく苦しい毎日が続いて

これから先のことなど

到底考えられなかった

 

そもそも自分の存在にも嫌気がさしている頃だった

 

ただ暑い夏

僕という誰も知らない高校生が

はえずっていた夏

 

その夏は

僕が初めて経験する世界を形成していた

 

その夏はもうとても遠い世界で

いまではその記憶さえ断片でしかない

 

しかし確かなことは

その世界に突然として

ひとりの少女が現れたことだった

この記憶は確かなことだ

 

だから

あの夏から抜け出し

いくつもの夏を超えて

いまこの世界に立っている

 

とでも言ったら

とてもキザでおおげさで

そうして

できすぎた話になってしまう

 

 

 

 

 

晩秋のうた

 

 

空を見上げ

鳥になりたいと仰ぐか

その向こうにひろがる宇宙に想念するか、

はて、ロマンチストはどちら…

 

 

 

人の秋と思う。

たわわに実るも腐るも

収穫のうれしさ 逃げてしまった想い

全て己が育てたのだ

 

 

 

冬のイタリア・トスカーナで

全く言葉の通じない少女に話しかけられて。

では真夏の湘南で遭いましょうと

 

 

 

ちょっと腰が重いけれど

人生の再起動だな。

さあ 夢に向かって死に向かって

 

 

 

真っ直ぐな眼で見ていたのは

怨んでいたのか愛しいからか。

それが分からないから

僕はいまでも途方に暮れる

 

 

 

 

彼岸花のころに

 

死んじゃっちゃぁ

話しもできねーじゃねえか

なあ

そんなことってあんのかよぉ

なあ