明けましておめでとうございます!

 

明けましておめでとうございます!

するっと年が明けてしまいました。

朝から快晴です。
早朝、庭の榊(さかき)の葉を採り、
米と酒と塩とを神棚に供え、
今年一年の祈願をしました。

仏壇に線香をたき、
ご先祖様に新年の挨拶。

こう書くと、堅苦しいようですが、
両親がやっていたことを見よう見まねで、
続けているだけです。

そしてお屠蘇(おとそ)とお雑煮をいただき、
LINEで新年のやりとりとか、
年賀状に目をとおして、
合わずじまいの友人を懐かしんだり、
近況報告をいただいたりと、
いつもとちょっと違う時間です。

午後は近所の鎮守さまにお札をもらいに。

ついでに陽射しの川沿いを歩いて、
サギが飛ぶすがたやカモが泳ぐ池をのぞいて、
やれやれと帰ってきました。

若い頃は家に居たくなくて、
年越しはいろいろなところへ出かけました。

新宿や渋谷での年越し。
横浜港近くのクラシックホテルで
汽笛をききながらの年越し。
歩いての年またぎ箱根越え。
富士の麓で極寒に耐える年越し。
東名高速を走り続けての年越え…
(なんかスケールが小さいですね)

そうこうしているうちに年をとってしまい、
家がいちばん良いと思うようになりました。

で、両親がやっていたことがいつのまにか習慣になり、
それは正月だけでなく、日常のいろいろな場面でも
同様のことを続けるようになりました。

ボクは生まれてから十数回引っ越しをしていて、
いつの間にかふるさとと呼べるところも、
遂になくなってしまいました。

よって浮き草のような旅人のような人生観が、
いつの間にか身についたようです。

だからなのか。
何か確かなものを欲していて、
それが先の慣習なのかも知れない…

アイディンティティーの拠り所となっているようなのです。

さて、いま日本の人口はどんどん減り続けているそうです。

現時点で山積する諸々の社会問題も、
今後はさらに加速すると予想されています。

たとえば、近所の荒れた休耕田をみるにつけ、
農業も危機ではといらぬことも考えるようになりました。

と知ったところで、ボクたちにできることは限られている。
守りたいものすら見過ごしてしまっている状態です。

待ったなしの状態ですが、大きな視点からの問題は、
彼ら(政治家や行政なんですがね)に期待するしかない。

彼らが鳥の視点なら、
ボクたちは虫の視点で、
盲点に気づくように、
目を凝らすしかありません。

できることからひとつひとつ。

些細なものでも積み重ねれば、
いずれは歴史となります。

これってとても大事なことのように思います。

自分がたまたま生まれ育った国ですが、
実はたまたまとか偶然なんてない。

そこには100㌫の必然しか存在しない。

それがボクたちの存在理由だと思いたいのです。

 

 

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