「パイレーツ・オブ・カリビアン」の映画のなかで、
絶対に死ねない刑を受けた男が出てくる。
その男が死ねない辛さを話すシーンがある。
ジョニー・デップ分するキャプテン・ジャック・スパロウは、
その男の告白を相変わらずへらへらとして聞くのだが、
死ねない刑の辛さをまるで分かってあげようとしない。
それは想像の域を超えているとでも言いたいように。
この映画を観ていて、あるくだらない記憶が蘇った。
勉強などするハズもない高校生の頃の或る夏休み。
その年はえらく暑かった。
気力を失っていたその頃の私は、
いま思えばちょっとどこか患っていたのかも知れない。
部活を辞めた後の毎日は、
生活から何か大事なものが抜け落ちたように、
ポカンと穴のあいた空虚さだけが残った。
とにかく何もしない。したくない。
一日中だるい。
辛うじて毎日昼過ぎに起き、
パチンコ屋に通い、
ひたすらパチンコを打ち続ける。
玉が出ようが出まいが、実はどうでもよかった。
他に何もすることがない。
パチンコには全く集中していない。
が、玉がなくなると、
これはもうどうしていいか分からないほど、
心身が消耗していた。
店を出て炎天下のなかをふらふらと歩く。
で、今度はボーリング場へと行く。
他に行くところが見当たらない。
が、ボーリングなどしない。
あんな重い球を持つのが嫌なので、
ペプシコーラを買ってベンチへへたり込む。
で、夜までまんじりともしないで、
誰かが投げる球の先をぼんやりと見ていた。
いま思えば、
ほとんど思考すらしていなかったのではないか。
ああ、こんな時間が延々と続くのか―
それが永遠に続くように思ったとき、
人生は退屈で憂鬱なものと思ったし、
時間は残酷だなと…
こうして部活を辞めた初めての夏休みは、
私は途方に暮れていた。
いま振り返ると馬鹿者の典型だと自戒できる。
翻って、日々の時間が足りない現在。
あの頃の自分に戻って時間を持ち返りたくなる。
そしてその頃には全く意識もしなかった「死」というものもまた、
最近はぐっと身近な存在として、
私のまわりをうろうろしている。
オヤジは、或る朝、突然逝ってしまったし、
おふくろは施設、病院の入退院を繰り返し、
数年患っていなくなってしまった。
後、自分も目を患い、
一時期危険な状態が続いたことがある。
加えて、この数年の間に、友人・知人の死が続いた。
さて、時間に弄ばれていた、
いや、人生というある種の退屈さを味わったあの夏だが、
どうにも自分というものの存在自体に嫌気が差し、
思い切って友人を誘い、
東海汽船で伊豆大島へ渡った。
泊まる所は砂浜と決めていたので、
テント、飯ごうなどのキャンプ用品を詰め込み、
心機一転を狙った。
そして砂だらけになって一週間を過ごした。
飯は自分でつくらなければならない。
誰もつくってくれないので、
いつもメシと飲み水のことばかりを考えていた。
生きてゆくため、毎日が忙しい。
手応えがあった。
あとは適当に浜に寝て、適当に泳ぐ。
そして時々魚を釣ってメシの足しにした。
かなりひどいキャンプ生活だったが、
こんな些細なことで、
その後の自分が大きく変化したのだから、
我ながら不思議だった。
帰える前日の夜、浜にたたずんでずっと海を見ていると、
月に照らされた波間が自分の足元まで届くように、
ポチャンポチャンと心地良い音を立てていた。
久しぶりに生きている気がした。
そして人生ってそうそう悪くもないなと、思い直した。
それから後、パチンコ生活とは一切縁を切った。
好きだった女の子に思い切ってラブレターを書こうと思った。
それが一生懸命過ぎて、散々書き散らした紙くずが、
たちまち山のようになった。
そうしてなんとか付き合い始めた女の子との時間は、
驚くほど早く過ぎていった。
そう、時間は瞬く間に過ぎていったのである。
時の長さと質、その観念について
相対するこの不思議は、
私がいまもって分からないもののひとつである。