私の職業を友人たちに尋ねられた娘が、
「コピーライターよ」というと、
一同口々に「知らないなぁ」と言ったとか。
時代遅れだよと言わんばかりの娘に向かって、
私は、「そいつらはみんなバカか」と言い放った。
しかし、そうは言ったものの、
そうかもなぁと思う自分もいる。
よくよく考えるに、コピーライターって職業は裏方。
そうそう表に出るものでもないのに、
なぜかムカシ騒がれたことがあって、
そのブームが去った後というか、
日本が不景気になって久しく、
それでもコピーライターの残党が、
息も絶え絶えに生き抜いて現在に至っている―
といったイメージなのかなぁと、
我ながらしみじみ思うのだが、
たとえば江戸の提灯を細々とつくっている職人がまだいる、
というテレビを観たりすると、
いいなぁあの頑固さと、不気味に笑う自分が
いまの職業にピタリとくるように思うので、
やはりこれで良しと考えている。
さて、いまから約30年前の名コピーで、
サントリーのバレンタインギフトの広告はこんな感じでした。
―ハートをあげる。ダイヤをちょうだい―
ちょっといい。
ちゃっかりしているけれど、
しっかりハートをあげると宣言しているあたり、
いまでも通用する。
さて、ダイヤを買う金はないけれど、
俺はまごころで返します…と。
だって若い頃って、金もないしね。
ハートをあげる。ダイヤをちょうだいって、
ひょっとしたら、結婚もOKとも受け取れる。
かなり意味深な威力も秘めている。
蛇足はともかく、コピーライターって言葉を駆使して生活している。
なので、一発必中の矢を放つことにかけては、比類無い力を発揮する。
次は、新潮社の新潮文庫のコピー。
― 一冊、同じ本を読んでいれば、 会話することができると思うの。 ―
さりげない女性の話し言葉の美しさ。
気になる女性にこんなことを言われたら、
たとえ百科事典でも岩波の国語辞典でも完読しますね。
1027ページの花の写真はキレイだったね、とか、
○○の五段活用について、君の意見を聞きたいとか…
上記のコピーも80年代と記憶しているが、
いまだ色褪せない。
一瞬のブンガクというか、
一行小説と言っても過言ではない。
で現在では、こうしたコピーはほぼ見かけない。
テレビもネットもこうしたコピーは、
もはや威力がないと考えているのか。
もてはやされているのは、
かなり幼稚で言葉尻だけ捉えたコピーづくりとか、
ヤンキー言葉なんかを使ったりして、
そこはとても自然のようなのだけれど、
後に何も残らない。
そして少し嫌な気分だけが残る。
他は安いのみの強調とか、
奇抜な映像のみでガンガン押してくるから、
押しつけがましい事この上ない。
だからつまらない。
果てはコマーシャルがウザいとなる。
そしてまた、いまはテレビのコンテンツも面白くないから、
問題は一層根深いものとなっている。
こうした負のラビリンスって、
もはや止めることのできない時代の流れでもある。
よって、コピーライターの力量が発揮される出番がない。
いや、受け手がそれを欲していない、または理解しない。
そこに曖昧さが残っているのも事実ではある。
自分の実感として、
まず先方の要望が言葉より他をめざしている場合がある。
たとえばカッコイイデザイン第一主義。
これはこれでアリの場合もあるにはある。
デザインでモノは売れる時代ではあるが、
言葉の強さを信じていない、という点で、
現在の風潮はちょっと寂しい気がする。
総じて皆忙しいから文字なんか読まないんだよなぁ、
という思い込みが蔓延している。
これは一部正解で、他方大きく間違っている。
私は一発で相手を射貫くようなコピーはつくれない。
が、どんな仕事でも最大限それに近づくよう、
努力をしている。
まあ、仕事を受けた時点で、総合的な判断、
次に企画の概要、デザインのアウトライン、
そしてコピーも同時に考えるのが我々の仕事なのだが、
いろいろとサンプルテストを繰り返して分かる事がある。
それは、やはりコピーの出来不出来により、
反響に大きな差が出ること。
これは事実。
目立たないポジションではあるが、
やはりコピーライターの仕事って、
かなり重要だと自覚している。
そしてやがてまた、
言葉なりコピーの時代が来るように思う。
何故って、結局時代は常に巡っているからです。