お地蔵さんは、子供が大好きだ。
昭和30年代のこと。
小学校低学年の私は、その頃耳鼻科と歯医者に通っていた。
当時はみんな鼻水なんか平気で垂らしていたし、
私は歯も数本抜けていた。
しかし耳鼻科で診てもらうと、蓄膿症とのこと。
放っておいては悪化するということで、耳鼻科通いが始まった。
同じ頃、歯も虫歯だらけということで、耳鼻科の近くの歯医者へも
通う羽目になった。
耳鼻科では、先生なんか診てくれない。5円玉を持っていくと、
いきなり中に通され、現在の耳鼻科がやっているのと変わらない、
例の二股に分かれたガラス管を鼻にあて、蒸気を通す治療を
繰り返すだけだった。
怖いのは歯医者だ。
昔はどこの歯医者も、入り口に赤い電球を点けていた。
中では、誰かの泣き声、いや、叫び声が聞こえることもあった。
当時の歯医者は、戦場帰りの軍医上がりが多かったらしく、
痛くて泣くと、必ず「泣くな!」と怒鳴られ、同時に頭を叩かれた。
で、余計に泣くと、そのまま治療を放棄する先生もいた。
とても偉かったのだ。そして、怖い。
私は、そんな痛い思いをした帰りや、耳鼻科の帰りに、
急に腹が減るのだった。
当時のおやつは、良くてかりんとうに砂糖水だ。
いまでは信じられないだろうが、少なくとも貧乏な私の家のおやつは
そんなものだった。
いつものように治療が終わり、とぼとぼと歩いていると、
途中の道端に、細い目をしたお地蔵さんが立っていた。
木でつくられた小さな家の形をした中で、そのお地蔵さんは
いつも笑っているようにみえた。
見ると、お地蔵さんの前に、お魚の形をした煎餅が皿に乗せられ、
山盛りになっている。
私は、その煎餅をじっと眺めていると、すっと私の手が伸びて
その煎餅を食べていた。ちょっと気が引ける感じがしたが、
しまいにはお地蔵さんの横に座り込んで、全部食べてしまった。
次の日も鼻の治療だったので、帰りにその前を通ると、
前の日と同じように、お魚煎餅が山盛りになって置いてあった。
私は当時、それが誰かが置いたものとは知らず、
不思議なお皿だなっと思っていたことを、いまでも覚えている。
ポリポリ食べながら、お地蔵さんをじっと見ていると、
お地蔵さんは笑っているようにみえた。
そんな日が何日か続き、何かの用で母親と歯医者へ行くことになった。
歯医者で泣いている間中、母は何かの用足しに行っていた。
私の治療が終わって涙をいっぱい溜めていると、
母親が「男が泣くんじゃないよ!」と笑っていたのを覚えている。
帰り道、私と母の前に、例のお地蔵さんが現れた。
私はお地蔵さんに駆け寄り、またその煎餅を食べ始めていた。
すると振り返り様、いきなり母親に殴られた。
私は訳が分からず、
「なにすんだよ、お地蔵さんがボクにくれたんだぞ!」
と泣いて母親に抗議した。
「バカ野郎!このばち当たりが!」と言って、また頭をひっぱたかれた。
母親は、通りがかりの人にぺこぺこ頭を下げて何かを口走りながら、
必死に謝っていた。
幾度となく叩かれながら、私は引きづられるように、家に帰った。
そして、延々と説教された後、
我が家の伝統でもあるお灸を手の甲にすえられた。
後にいろいろなことが分かった私だが、
あのときは「お地蔵さんって凄いな」と思っていたし、
お地蔵さんはやさしいな、というのが私の偽らざる思いだった。
あのやさしい目。
毎日私のためにお煎餅を用意してくれていたお地蔵さん。
いまでも、時折、お地蔵さんにお目にかかることがあると、
私は、手を合わせて頭を下げてしまう。
いやぁ、面白い!
不思議な話ですね。
昔の歯医者の怖さ。そしてお地蔵様の優しさ。
その対比が、まるで 「童話」 を読んでいるみたいでした。
そのお魚煎餅は、きっとお地蔵様がスパンキーさんにくれたものなんでしょうね。
そうとしか考えられない。
いい話だなぁ。
この世の話なんだけど、ちょっと 「現世」 の切れ間から、異次元の世界が忍び寄ってきている雰囲気もあって。
素敵な 「物語」 でした。
町田さん)
ちょっと異次元、みえました?
当時の私はホントになにも知らなくて、こんな事もありました。
小学校の校庭で遊んでいて、夕日がみえたとき、友達と一緒に、西の方へ歩いていったんですよ。で、迷子になって、当時でもめずらしい親戚のクルマが交番に迎えにきたことがあります。
太陽が、山の向こうにあるから見に行こうというのが、私と友達のとった行動なのですが、いま思うと幼稚すぎますね?
かように、昭和30年代は私の宝物がギッシリ詰まっております。
それにしても、昔の歯医者は怖かったですね?
コメント、ありがとうございます!