村上龍の「69」という小説を読んでいたら、
当時の自分は何をしていたのか気になった。
「69」とは1969年の意。
かなりムカシの話だ。
私はまだ幼い中学生だったが、
1969年という年はよく覚えている。
確か大きな事柄がふたつあった。
万博、そしてベトナム戦争である。
1969年。
翌年に大阪万博を控えた日本は高度経済成長真っ盛り。
誰もが「平和」を享受していた。
日本中のみんなが大阪万博を盛り上げていた、
そんな感じだった。
翌年、大阪万博が開催され、
学年の金持ちの同級生はみんな家族と大阪へとでかけた。
貧乏な友達に悔しがる奴もいたが、
だいたいこういうものは下らないと即断した僕は、
毎日水泳部の練習に明け暮れた。
しかし、家へ帰っても誰もいない。
我が家は共働きだったので、当然お袋もいない。
いつものように即席ラーメンをふた袋分まとめて鍋にぶっ込み、
それを平らげると、居間で独り汗だくで寝た。
テレビをつけると「長崎は今日も雨だった」と
「ブルー・ライト・ヨコハマ」ばかりが流れていた。
しかし、ウンザリした覚えがない。
幾ら見ても聴いても、退屈しない。
当時のテレビの魔力は相当なものであったと思う。
その頃
海の向こうのベトナムは戦争のさなかだったが、
日本にその危機感は薄かったように思う。
グローバル以前の時代の感覚のなかで、
戦争はまだ対岸の火事のように感じられた。
その5年後、ようやくベトナム戦争が終結する。
この戦いは旧ソ連とアメリカの代理戦争であり、
ベトナムという国が割を喰ってしまう。
ベトナムは焦土と化した。
この戦争は結局、
ベトナムにとって約15年という大切な時間と、
多くの命を無残に葬っただけの、
大国のエゴの犠牲でしかなかった。
世界中で反戦運動が一気に広がったのも、
このベトナム戦争がきっかけだった。
平和な日本も例外ではなかった。
ベトナム戦争が始まった頃といえば、
私はまだ小学生だった。
授業では、この戦争の話を幾度となく教えられたが、
担任がバカで、幼ごころに下らないと、
その腹立たしさを抑えるために、
そっぽを向いて窓の外を眺めていた覚えがある。
要するにバカ担任はどっちが勝つとか負けるとか、
そんな話ばかりをしていた。
戦争の本質を何も語らない、
そこが腹立たしかったのだ。
ビートルズが「カム・トゥゲザー」をヒットさせたのが、1969年。
同じ年、ローリング・ストーンズが
「ホンキー・トンク・ウィメン」をリリース。
横浜にもフーテンと呼ばれる若い奴等がウロウロしていた。
皆ラリっているので恐かった覚えがある。
お姉さん方は皆、ミニスカートかパンタロンという出で立ちで、
街を颯爽と歩いていた。
VANに代表されるアイビールックが流行ったのも、この頃だ。
映画「イージー・ライダー」は、
病めるアメリカの一端を映し出していた。
僕の大好きだったロックグループ、C・C・Rは、
「雨を見たかい」でベトナム戦争の悲惨さを告発したと、
私は解釈している。
村上龍は「69」のなかで、
佐世保という地方都市の高校生ながら、
学校でバリケードを築いた首謀者であったことを告白している。
すでに時代の風をいち早く感じていたのだと思う。
まあ、較べるべくも無いことだが、
その頃の僕は、
横浜のどこにでもいる平凡な中学生で、
毎日が平和だと信じ、
いや何も知らぬまま、何も感じることなく、
毎日毎日泳いでいるだけだった。
しかし、1969年という年は、
何故かよく覚えているのだ。