激動の時代に

 

自分の身に起こるアレコレ。

それがたとえばケガとか病気、

はたまた宝くじが当たったとか…

 

何でもいい。

 

個々に程度の差こそあれ、

それをどう受け取るかは、

けっきょくその人の個性による。

 

人は感受性で生きている。

 

もろもろの思いが積み重なり、

幸不幸の判断材料とするのだろう。

 

 

人はせいぜい長生きしても、

100年の命。

そのわずかな、

いや永い時の流れのなかで、

日々心の在り方を培っている。

 

楽しいことも苦しみも、

ひっくるめて生きている。

 

決して他人にみえないなにかが、

その人を幸せにも不幸にも導いている。

 

 

―おもしろき こともなき世を おもしろく

すみなしものは 心なりけり―

 

幕末の志士、高杉晋作のことばだ。

「面白くもない世の中なら、

オレが面白くしてやろうではないか!

こころひとつでどうにでもなる」

そんな意味合いだと思う。

 

いま、心の在りようが問われている、

まさにそんな時代のような気がする。

 

難問を突きつけられているのは、

紛れもない私たちだ。

「こんな時代」と吐き捨てるか、

いや、と奮起してみるか。

 

それが、

これからの未来を左右する

鍵となるのだろう。

 

新年明けましておめでとうございます

 

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

ここ数年、世の中がかき回されています。

私は、これにはけっこうアタマにきています。

コロナとか戦争…

いろいろな意味でです。

 

加えて、今年は金融もあやしいです。

どうあやしいのか?

 

ひとつの目安は、逆イールドカーブです。

これをひとことで説明すると、

日本国債の長期金利が短期金利を下回っている。

歴史を振り返っても恐慌の前には、

この逆イールド現象が起きているそうです。

 

よって私は、今年の株価の暴落も視野に入れています (怖)

(そもそも投資なんてやってませんが 笑)

 

さらには物不足。

物の価格もインフレ気味に上がっていますが、

いまのところは、欧米よりマシなようです。

が、食料不足が深刻化すると自給率の低い日本は、

かなり深刻になると予想されます。

 

こうしてアレコレと並べると、

嫌な予想ばかりになってしまいました。

(テレビのニュースとは違うなぁ)

 

新年そうそう、縁起でもないですね。

ぜんぜんおめでたくありませんね。

 

このくだらない予想が、どうか当たらないように、

この私自身も願っております。

 

では引き続き

今年もよろしくお願いします!!

 

byスパンキー

 

センチメンタル・ジャーニー

 

先だって富士におもむき、

初冬の紅葉を見に出かけたことを書いたが、

思えば、あれはあれで綺麗で美しいが、

ちょっと寂しくも感じるのは、

己の行く先を暗示しているようでもあるからだ。

 

 

いきものは、滅する前にもういちど華開くという。

紅葉は、きっとそのようなものなのだ。

 

冬は、万物が眠りにつくとき。

または、いきものの死を意味する。

だからこの季節は美しくも、もの悲しい。

 

永く生きていると、

或るときから死を意識する。

残された時間をどのように過ごすか?

その問いは果てしなく哲学的でもあり、

宗教的でもあるように思う。

 

いきいきと生きている先輩諸氏がいて、

さっさとあの世に行ってしまう

友人や後輩がいたりする。

 

死は知らず知らずのうち、

身近なものとして、

いつも私のまわりをうろついている。

 

若ぶるか、しっかり老け込むか…

分岐点に立つ人間は、そんなことさえ問題なのだ。

 

滅する前にひと花咲かせるとは、

まさに色づく老木の紅葉の如き。

なかなか粋な演出とも思えるけれど。

 

だから、紅葉には死のにおいがする。

紅葉があれほど美しいのは、

「生」というものに対する賛歌でもある。

 

こんなことを考えてしまう私はいま、

まさに生と死の分岐点に立ち尽くす

迷った旅人なのか。

 

いや、

未知の道を行く無名の冒険者として、

考えあぐねている最中なのだと、

肝に銘じている。

 

 

朝のうた

 

それはいつも

突然のできごとのように

つい思ってしまう

 

ベッドでボクが目を覚ますと

まず読みかけの本が目に入った

 

夕べ開いた

その本の内容を思い浮かべる

けれどそれは

すべて消えてしまって

なんにも覚えていない

 

徐々にだが

置時計のカチカチ音が聞こえてくる

手に触れるシーツの感触

うっすらと見えてくる白い壁紙

耳を澄ますと

外に人の歩く気配までしてきた

 

ああ新しい朝だと

いつもボクはそこで気づく

 

覚醒は進行し

ボクは起き上がって

戸を開ける

 

カーテンに飛び込んでくるあさひ

冬のキンと引き締まった冷気

 

それらがまるで

初めての体験のように

そのたびごとに

ボクは驚いてしまうのだ

 

枕元のペットボトルに気づいて

それを一気に飲み干す

 

朝はやはりというか

確実にボクの元に訪れたのだった

 

夕べ

ベッドで本を読みながら

そのまま消えてしまったボクは

気がつくと

この世界をふかんするように

遠いところから眺めていた

 

そこはなんというか

とても高いところのようであり

どこか別の空間のような気もする

そこは釈然としないのだが…

 

だから

新しい朝に生まれかわり

よみがえり

しかし予想どおりというか

一抹の不安のなか

この小さく些細なボクの朝に

ふたたび舞い降りることができたと

つい思ってしまう

 

毎日毎日くりかえす

なんの変哲もないこの朝に

だからボクは

深く感謝するのだ

 

横浜みなとみらい探訪

   

 

山岳部に住んでいると

時に海が見たくなる。

それも都会の海。

 

ボクが生まれ育ったところも、

横浜の工場地帯で海が近く、

しかしその海は

とても汚れていた。

 

今回はその対岸である

みなとみらい地区。

 

海をのぞくと澄んで底がみえる。

ここも以前はゴミが結構浮かんでいたのに、

最近はきれいになった。

 

みなとみらいは、

ボクが若い頃に突然あらわれた。

ここは以前、造船所だったので、

その印象が消えない。

 

当時、このあたりをクルマで通ると、

ものすごい金属をたたく音が、

鳴り響いていた。

 

日本が造船大国として、

世界に名をとどろかせていた、

そんな時代。

 

よって、みなとみらい地区は、

ボクにとっては、

新しいヨコハマである。

 

 

 

 

山下公園あたりの古い建物も、

まだ幾分残ってはいる。

が、保存する価値のある建物は、

手厚く守られているようだが、

それ以外は、スクラップ&ビルドの

憂き目に遭っている。

 

 

 

横浜公園は横浜スタジアムになり、

元町商店街は古びてかなりさみしくなり、

伊勢佐木町もなんだか勢いがない。

 

横浜駅の東口の海沿いから、

ここみなとみらい地区にかけては、

ほぼ未来都市の様相を施している。

夜に通るとそれは顕著だ。

 

 

で中華街で店をさがすときの話。

 

ボクは必ず裏通りをほっつき歩く。

毎回そうしている。

 

なるべく質素なたたずまいの店。

観光客がのぞこうともしない店。

セットメニューなどないし、

年寄りがのんびりとやっていると、

なおいい。

 

そこで適当なものを頼んで

のんびりと食う。

どれも必ずうまい。

なのに安いから、つい頼みすぎてしまうけれど、

ほぼハズレはない。

 

食後は、

伊勢佐木町の片隅にある小さなお店

アローザでコーヒー。

学生時代によく通った店だ。

 

ここは中華街からはちょっと離れている。

がこうしたコースを辿っていると、

懐かしい古い友人たちのことを思い出す。

 

だからと言う訳ではないけれど、

この新しい地区、みなとみらいは、

ボクのなかでは依然、実態の掴めない

幻のような地区であり、

それはそのまま東京のお台場や、

浦安のディズニーランドと一体を成す、

仮想都市のように思えて、

違和感のようなものが残ってしまうのだ。

 

多分、年のせいだとは思うけれど…

 

焚き火へGO!

 

前回の富士付近の旅行あたりから遊び癖がついてしまい、

今度は河原で焚き火です。

 

 

相方は、システム・エンジニアのF君。

シティーボーイながら、頑張って火起こしに挑戦。

(プログラムとは全く違うスキルなのですが)

 

薪も良いのを揃えたので、なかなかの炎になりました。

 

 

場所は、神奈川県の愛川町、中津川の河原です。

ここはよく来ます。

 

横浜の友人によく聞かれるのですが、

バーベキューと焚き火と何が違うのかと。

 

「焚き火ってなんか面白いの?」とも。

 

そうですね、バーベキューがエンタメだとしたら、

焚き火は、ちょっとキザですが「思索」です。

 

よってあの炎を眺めながら、

日頃は埋もれていた自分の内面の気づきとか、

アタマのどこかに隠れていた本能を呼び起こす作用とか。

 

まあ、アウトドア系の瞑想のようなものでしょうか。

 

話が盛り上がるならお互い饒舌にもなるし、

何にも話すことがなくても、炎をみているだけで、

何ら気まずいこともない。

 

焚き火ってなんだか不思議です。

 

単なる外遊びのような、カジュアルな儀式のような…

 

それでいてまた行きたくなる魅力がある。

 

けれど、やはり初冬の河原は冷えます。

陽が落ちると、気温がグングンとつるべ落としのように下がる。

 

 

 

 

この日は愛川町の気温が、夕刻7℃だったので、

おそらく水辺は3℃くらいだったかと思います。

 

河原には、泊まりとおぼしき本格派もいて、

キャンピングカーやジープやバンで来ている。

夕飯の支度に取りかかっている様子です。

 

アマチュア焚き火愛好家のボクたちは、

さっさと火の始末をして、

クルマのヒーターを最強にセット。

 

早々に家路につきました。

 

また来よう!!

 

↑シラサギが集まっていました

 

↑国産の広葉樹の薪が良い炎をみせてくれます

 

↑初冬の水面には沈黙という言葉が似合うような

 

 

富士をめざして

久しぶりに東名高速をかっ飛ばして、富士山をめざした。

 

山中湖畔に着いた頃から、陽ざしが出てきて、

なかなかの旅行日和になる。

 

紅葉が目にしみる。

湖面が光っている。

 

 

いつも夏しか来たことがなかったので、

紅葉の季節もなかなかいいなぁと思った。

 

 

湖畔から山へクルマを走らせると、

三島由紀夫文学館があった。

ここの存在をボクは知らなかった。

この日、宿で読むつもりで持参してきたのが、

偶然にも三島由紀夫の文庫本だったので、

ちょっと驚いた。

 

山中湖は標高が高いところにあるので、

昼間でもかなり寒い。

 

翌朝の気温は3℃だった。

 

 

河口湖をめざす。

新しい道路が複雑怪奇に増え、

ナビをみるのもメンドーになってきたので、

道路標識に従ってテキトーに走る。

 

早朝にもかかわらず、すでに湖畔の駐車場は、

クルマがほぼ満杯。

聞けば、紅葉まつりとか。

 

平日にもかかわらず人出が凄いことに。

ボクら夫婦は人混みと渋滞を避け、

湖畔の反対側へと移動。

富士を真正面にしたポイントに出会う。

ちょっとした横道に逸れただけなのだけどね。

 

 

「あっ、忍野八海に行くのを忘れていた」、

ということで、再びクルマを山中湖方面へ。

 

富士の絶景は、やはり忍野からでないと。

 

 

八海は陽ざしでまぶしく、

ちらちらと魚影がみえる。

 

 

見上げると空がでかい。

そしてやはり富士山はいつみても、

高く雄大だ。

 

山頂にわずかだが白いものがみえる。

 

が、ここも観光バスがひっきりなしに来ては、

人々を排出して、ひとひとひとだ。

バスから降りてくるのは、

ほぼ外人さんばかり。

 

インバウンド再開。

コロナはどうなったっけ?

この日はアメリカの中間選挙。

ウクライナは収まらず。

連日、北朝鮮からミサイルも飛んでいる。

地震も最近多いような。

 

おそらく来年は日本も、突然円高に振れるだろう。

インフレはさらに加速するだろうし、

ボクたちはさらに厳しい生活を強いられる。

 

という訳で、

そんな諸々を忘れるために出かけました。

 

夢のような一時はまさにアワの如く…

 

 

シャガールの夢

 

 

世界にはいろいろな絵があるけれど、

ボクがいつも思い浮かべるのは、

シャガールのあの夢の世界のような絵だ。

 

キャンバスをほぼ独特の深い青で染め、

花束を抱えた男の人が空を飛んでいる。

その横になぜか牛の横顔が大きく描かれ、

虹のような色彩をしている。

 

キャンバスの下方には地上と思われる

黒い台地が描かれていて、

そこに白のドレスの女性が空を見上げている。

 

シャガールの作品のどれもが、

正しい遠近感とかパースのような技法は

一切ない。

 

適当に描かれているかと問われれば、

「いや、そうではない」と素人のボクでも否定できる、

妙に納得させられてしまう、そんな配置なのだ。

 

ぼんやりとした背景はこの世の風景とは異なる、

異世界のような深いブルーが、こちらを引き込もうとする。

 

色合いは、

濃いブルーのなかに浮かび上がるカラフルな花束とか、

暗闇に咲く黄色い花だったりとか、

ちょっと意表を突く唐突さがあって、

それでいて改めて全体を眺めると、

やはりそれは夢のなかの世界のように、

メルヘン的な美しさがある。

 

シャガールは、

当時のロシア帝国(現ベラルーシ)出身のユダヤ人だが、

パリで活動していたときに第二次世界大戦が勃発し、

ナチスの迫害を逃れてアメリカへ亡命した。

 

戦後、再びパリに戻って活動を再開したが、

その頃、最愛の奥さんを亡くした。

 

後、60代になって再婚したが、

結局彼は生涯、

最初の奥さんの絵ばかりを描いていた。

 

それが一連の彼の作品だ。

 

作品のどれもがリアリティーがない。

ディティールが描かれていない。

 

代わりに幻想が漂う。

 

それは、彼の記憶の中に眠っている

奥さんとの思い出を描いているから、

結果、記憶を辿るような、

夢のような絵となって結実している。

 

シャガールの作品はどれも、

文章に例えると、散文であり、詩である。

 

最愛の奥さんとの思い出を、

シャガールはことばでなく、

詩を書く代わりに、

割れたガラスの破片を集めるように、

絵を描いた。

 

そこにゆるぎのない愛を込めて

 

 

ヒッピー、そして旅人のこと

 

―旅するように生きる―

こうした生き方をする人を

ライフトラベラーと呼ぶらしい。

 

ちょっと難しい。

具体的に書いてゆく。

 

●心の旅

これは例えば机上でもできるから、

物理的移動はないにしても、

もはや精神はそこにはないかも知れない。

 

心は、旅に出かけているので。

遙か宇宙にいるのかも知れないし、

アフリカ沿岸の深海に潜って、

シーラカンスでも眺めているのかも知れない。

 

いや、ひょっとすると未来人と交信中かも…

 

心の旅はまた、

毎日の何気ない生活の中でも続けられている。

 

 

日々の旅

常に動いている心という無形のいきもの。

 

刻一刻と移りゆくのでなかなか休む暇もない。

唯一、夢さえみない夜に眠りにつく。

そして日々、旅は続く。

 

見る、聴く、話す、そして何かを感ずると、

心が動く。

それが嬉しいことだろうと辛いことだろうと、

美しいものだろうと醜いものだろうとも。

 

そんなことを繰り返し、ときは流れ、

心は時間の経過とともに旅を続ける。

 

 

先人の旅

私たちの知る、

「旅」のプロフェッショナルを思い浮かべると、

古くは芭蕉や山頭火あたりだろうか。

 

―月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿―

と芭蕉は詠んだ。

 

山頭火は、

―けふもいちにち風を歩いてきた―

と詠んだ。

 

感じるものが尋常でないので、

やはり熟練した旅人のような気がする。

 

 

海外では、詩人・ランボーも旅にはまっていた。

ヨーロッパ中を放浪し、

道中では商売に精を出したり、

旅芸人一座と寝食を共にしていたともいう。

 

人は旅に憧れを抱く。

旅はなぜか万人を魅了する。

 

 

ヒッピーの旅

ところは1960年代後半のアメリカでの旅の話。

 

この頃、ベトナム戦争の痛手から、

ヒッピーが大量に発生した。

 

彼らはそもそも目の前の現実に嫌気が差していた。

それは当然、戦争であり、

戦争が起きれば兵役の義務が生じ、

若者は銃を担いで海を渡り、

そこでは見知らぬ兵士を殺し、

または自分が殺されるという悲劇しか待っていない。

 

彼らは、巨大な体制と戦うことを諦めたようにみえる。

が、彼らがつくりだした「反戦」のムーブメントは、

世界に拡散されることとなる。

 

そして彼らは、仏教的東洋思想に惹かれる。

それはキリスト教的な神と悪魔、天国と地獄、

一神教という「絶対」ではなく、

東洋の多神・寛容という宗教的な思想に、

心のやすらぎを感じたに違いない。

 

 

時系列に自信がないのだが、

ビートルズのジョン・レノンが、

まずインド巡礼へと旅立ったのではなかったかと

記憶している。

ヒッピーがその後に続く。(いや、その逆もありえるけれど)

 

仏教が捉える世界観は宇宙をも内包する。

(それは曼荼羅図をみれば一目瞭然だ)

 

少なくとも西洋にはない東洋の、

静けさの漂う宗教観に、

彼らは傾倒したのだろう。

 

ヒッピーの信条は、自然回帰と愛と平和。

 

それは彼らの新たな旅の始まりだった。

旅の常備品はマリファナやLSDである。

 

マリファナやLSDをやることを「トリップ」とも言う。

彼らは逃避的な旅を模索していたのだろう。

 

これも一種のライフトラベラーだ。

 

 

同時代の旅人たち

そもそも私たちが旅に憧れるのは何故なのだろう。

例え「旅行」などという非日常性などなくても、

私たちは常に旅を続けていると考えると、

人といういきものの不思議にたどり着いてしまう。

 

私たちは物質的な意味合いだけでなく、

この心身のどこかの片隅に、

あらかじめ組み込まれた、

「旅のプログラム」などというものがあるから、

なのだろうか?

 

 

誰も皆、立ち止まることなく旅をする。

私たちは皆、同時代を生きる旅人である。

そこにどんな繋がりがあるのか

検証する術(すべ)などないけれど、

せめて行き交う人に「良い旅を」と伝えたい。

 

そして、

この世を通り過ぎるのもまた、

旅と思うと、

少しは心が軽くなる。

 

 

東京脱出計画

 

かつて、那須に土地を買ったことがある。

お金が溜まったら、そこにログハウスを建てる。

庭で畑を耕し、裏の那珂川で魚を釣り、

その日暮らしをする。

 

そんなことを考えていたと思う。

 

那須の土地を買うかどうか、

現地に出向いたのは夏のとても暑い日だった。

 

東京から東北自動車道をひた走り、

那須インターを降りてめざす販売地に着いたが、

やはりそのあたりも東京都と変わらず暑かった。

 

めざす土地は別荘地区域とはいえ、

かなり山奥でその付近だけが整地されている。

背後は木々が密集して、

恐ろしくうっそうとしていた。

雑木林が、明るい陽ざしをキッチリと遮っている。

 

東京より気温は低いらしいのだが、

湿度が異常に高いと感じた。

空気は重くむっとしている。

 

「なんだかここ、暑いですね?」

私が、立ち会いに来た不動産屋のおっさんに話しかけた。

「そうですか、私はそんな暑くないですね。

ここは高原ですので、かなり涼しい筈なんですがね…」

 

そして

「でも今日は異常な暑さですね、

○○さん。悪いときに来ちゃいましたね」

 

敷地は、長方形で地形(土地のかたち)は良かった。

前の道路は4㍍程で狭いがこんなもんだろうと思った。

 

奥さんが「この辺は買い物はどこへ行くのですか?」

と切り出した。

(言い方にトゲがあるなぁ)

 

不動産屋のおっさんがしきりに顔の汗を拭いている。

で突然ニカッと笑って、先ほど私たちが来た道を指さして、

「いま来た道を15分程戻った所にスーパーがありますよ。

気がつきませんでした?」

 

私たちは顔を見合わせた。

家族全員(夫婦と子供ふたり)知らないという顔になった。

 

この不動産屋のおっさんはかなり焦ったようだ。

店の看板が小さかったから見過ごしたとか、

店が道路から奥まっているとか、

いろいろな言い訳をはじめた。

 

後にして思えばだんぜんあやしいおっさんなのだが、

当時の私には不動産を見る目がないどころか、

気持ちに焦りがあった。

 

自然がいっぱいのところで暮らすことが最良と考えていた私は、

早々に引っ越す土地を確保する気持ちばかりが先走っていた。

 

来る日も来る日もスケジュールに追われ、

徹夜など当たり前なのに報われない…

そんな東京での生活に早くピリオドを打とうと、

私は私なりに必死の土地探しだった。

 

ひととおりその土地のセールストークを披露すると、

へらへらの白いシャツを着た不動産屋のおっさんは、

汗をふきふき愛想を振りまいて、

とても忙しそうにして先に帰っていった。

 

不動産屋のボロボロのカローラが印象的だった。

 

私たちは現地で即答はしなかった。

買うとも買わないとも意思表示はしていない。

 

残された私たち一家はさしてやることもなく、

またじっとその土地を見ていても

なにも新しい発見もないので、

別荘地のまわりを歩いてウロウロしていた。

 

そこで小さな川をみつけ、架かる小さな橋から、

考えるでもなく川の流れを眺めていた。

 

突然、小学生の長男が私を呼ぶ。

橋の下で休んでいるアオダイショウをみつけたのだ。

 

おおっとみんなで叫ぶと、今度は私と長男とでその蛇に

石を投げはじめていた。

アオダイショウは逃げた。

 

思えばアオダイショウは私たちより先にあの川岸にいて、

しかものったりと休憩でもしているかのようにうかがえた。

私たちに敵意などをみせた様子もないし、

仮に敵意をみせたとしても、

それは当然のことなのだが。

 

なんであんなことをしたのか?

それがいま振り返っても全く分からないのだ。

(アオダイショウさん、いまさらだけどごめんなさい)

 

さて、私はあそこにログハウスを建て、

どのようにして生計を立てようとしていたのか?

そこが全く抜けていることを薄々知っていたのに、

当時の私はそこをあえて全く考えないようにしていた。

なんとかなるとも、ならないとも検討しない。

 

 

そんな精神状態は、東京から逃げる、

という言葉がふさわしかった。

きっとそれほど疲れていたのだろう。

 

奥さんは、この計画が実行されることはないと踏んでいた。

後に聞いたが、私が余りに疲れていたので、

計画に口を挟む余地がなかったと話してくれた。

 

しかし、この土地を買ってから私に変化が起こった。

(結局、買ってしまった訳)

いつでも逃げられる態勢だけは整えたので、

なにかゆとりのようなものが芽生え、

それが私を楽にしてくれた。

 

しかしそれから数年も経ち、

その土地を持っているという気も薄れ、

相変わらず仕事に没頭している自分がいた。

 

が、そろそろ他の要因で限界が来た。

年老いた親の事情も絡んできた。

 

急遽、私たち一家は神奈川の実家へ引っ越すこととなった。

 

結局、那須の土地は6年後ぐらいに手放した。

実家行きは、いろいろな事情が絡んでいたので、

めざす所ではなかった筈なのだが…

 

那須ほどではないが、転居先はやはり

いなかであることに変わりはなかった。

当初は不便を感じて、

生活や仕事の不満ばかりが溜まっていたが、

そのうち慣れてくると、

やはりいなかのほうが自分の性に合っているなぁと、

実感するようになった。

 

肝心の仕事は運も重なり、

なんとか生きながらえることができた。

(最も、行き先も違うし、

ログハウスも建てられなかったけれど)

 

結果的に私の東京脱出は成功したことになる。

 

いや、正確に記すと、実は私は東京を脱出したのではない。

 

追い出されたと表現したほうが嘘がないように思う。

いまでもそのほうが我ながらしっくりくるから、

きっとそれが本当なのだろう。