寒い寒い冬の真夜中に
コーヒーをのみながら
ふっと考えてしまったよ
生きていることに意味はないんじゃないのかい、と
ただ生きていれば、カラダのあらゆる器官が
いろいろ動いてくれて考えてくれる
泣いたりもするしケラケラ笑ったりもする
嫉妬という複雑系の動きもするし
思索となるともっとこんがらかり系だな
恐怖にかられる、夢を見る
そしてユメミル!
過去を思い出し
先を考え
現在を生きている
そのことにきっと意味はない
隣で飼われている犬だって
ときどき哲学者風に気むずかしい顔をしている
夕べ、魚を焼いて食べたが
鰺という魚に生きている意味があった
それは「美味い」と言ったら失礼か?
幼いときに雨蛙を飼ったことがあるが
カエルさんの表情にボクはドキドキしたな
意味ありげに座り込む彼は
喉のあたりを頻繁に動かしながら
やっと生きていたのを
現在でもクッキリと覚えている
みんな生きているんだなぁ!
死んじゃったらお終いだよ
生きていることに意味はないが
死んじゃったらお終いだよ
なんで?
死んじゃったらお終いじゃないよ
僕らは生き続けるんだぜ
僕らは生き続けて
他の世界に行くんだ
もうここにはいないけれど
生き続けているんだぜ
それはいろいろな人の
沢山の人の胸のなか
想い出のなかでも生きている
生きていることに意味はない?
でも生きている
生きているってなんだろう?
考えてみても別に意味はない
ただ、こう思わないと
とても悲しいんだよ
なんの偶然か知らないけれど
みんな生まれてきたんだ
そこに意味はないのかい?
生きていることに意味がある?
うん
君もボクも何で生きているのか
それを探す日々が
きっと
生きていくってことなのかな
死んでも無にならないって思いたいことが
生きていることなのかな?
生きている
生きてきたって
きっと
こんなことなんだろうな
もうすぐ夜明けがきて
辺りも明るくなる
コートを羽織っておもてにでも出てみようか
今朝も寒そうだ
きっと庭の花水木の木も
強い風に冬の枝が揺さぶられて
最後の赤く枯れた葉が
枝を離れてふわっと飛んでゆくよ
阿知山にまた陽が昇る
いろいろなことを考えさせてもらえる記事でした。
スパンキーさんの思索の深さと、それに少し自らテレたような、とぼけた味わい。
そして、文章が終わった後の静かな深みのある余韻。
「ライタースパンキー」 の真骨頂ですね。
「生きていることの意味」 。それは誰もが答を探し、ある時それを発見し、しばらく経って裏切られ、また答を探してさまよう…というようなことを繰り返していくこと、そのものにあるのでしょうね。
自分が死んでも、命の営みは、残された人たちの思い出として受け継がれていく。
スパンキーさんが書かれているとおり、その確信さえあれば、寂しくはない。
そのとおりですね。
物を書くというのも、もしかしたら、それと同じ営みなのかもしれませんね。
誰かが、書いたものに何かを感じ、心にとどめてくれる。
それこそ 「心のDNA」 ともいうべきものなのかもしれません。
個体のDNAは、自分の子孫に受け継がれていくのでしょうけれど、「心のDNA」 は “人類” に受け継がれていく。
そんなことを考えさせてくれる作品でした。
ようこそ町田さん
あまり触れない方が無難なテーマですが、ちょっと斜に構えて書いてみました。
真っ正面からだと堅い話で辛いし、偉そうに語るのもね(笑)、イマイチ答えの見えないテーマらしく、ふらふらしたものになってしまいました。
ただ、町田さんも私も執着するものは同じなのでしょうかね?「無」ではない、というメッセージ。
無という概念は、私のなかではイメージできません。市井の人間でも必ず何かを残す。
人生はホントに意味深ですね!
コメント、ありがとうございます。