泣きたいときに泣けないって
悲しいね
なぜなのかと
心のなかをまさぐっても
応えの用意もない
空っぽのセンチメンタルなんだなぁと
オトナになったんだなぁ
いや
オトコだからかなぁと
そうして
なにもみつからないから
とりあえず
今日は笑顔でいようと
思うのだけれど
そんなことを繰り返し
分からない心を置き去りにして
日々が過ぎてゆく
或るとき
膨大な記憶のなかから
ひとつの懐かしい映像が流れて
僕等は
暖かい春の野辺にいて
一面に広がるよもぎを
ひとつひとつ摘んでいて
僕の危なっかしいナイフ使いを見守ってくれるあなたは
とても若くて
健康で
その笑顔は
間違いなく幸せだと
そうして
傍らでしゃがんでいる
あなたの子供である僕も
悩みなく
世界は限りなく小さく
あなたに育てられて
とても嬉しいと
僕はその映像を
名画でも観るように
名作でも読むように
じっとみとれていると
途端に
自己欺瞞は崩れ
積み重ねた面倒な構造が露わになり
僕は日常のすべてを忘れ
そうして
涙がこぼれて…
面倒な人間だね
ややこしい性格だねと
誰かが肩に触れてくれると
涙は
余計にとめどなく
流れるのだ
お母様を思う気持ち。この詩のなかに、よく表現されていますね。
>> 「泣きたいときに泣けない」
というのも、よく分かるような気がします。
私も、同じような経験があります。
自分の母が亡くなる2~3日前。母の最後の誕生日でした。
プレンゼントとして、天使の絵が描いてある小さなオルゴールをひとつ買って、残業続きの会社を抜け、静まった夜の病院へ見舞いに行き、プレゼントを渡そうにも、もう母の意識がない。
指で閉じたまぶたを開けると、濁った色の眼球がぐるぐると虚しく回っているだけ。
オルゴールを鳴らしても、それが耳に届いているのかどうか。
「最後の誕生日か」
と、つぶやいても、涙が出ない。
「悲しくはないのか ?」 と自分に問うても、それがわからない。
たぶん、悲しいという気持ちすら掴めない、一種 「不条理」 ともいえる混沌とした状態の中に自分がいたのではないかと思います。
「涙」 というのは、浄化作用なんでしょうね。
悲しみの正体がつかめたときに、それを噛み締めて、はじめて泣ける。
微妙な言い方かもしれないけれど、「泣けるとき」 というのは、半分気持ちの整理がついたときなんでしょうね。
母が亡くなってしばらくして、昔、キャンピングカーに母を乗せて、二人だけでデイキャンプに行ったときの写真を眺めていて、はじめて泣きました。
スパンキーさんとおんなじです。
なんだか、そんなことを思い出した、切ない詩であったように思います。
人間の気持ちは、どこかでみな似たような動きをするのかもしれませんね。
町田さん)
ここのところ、医者との話合いを重ね、
一応、腹を括っている私ですが、やはりこうしたものを書くと、
町田さんの言われる混沌とした状態の中の私が存在していることに
気づきます。
やはり、不条理なんでしょうね?
忙しく振る舞っている自分が、ある意味救われます。
暇はいけない、怖いと思います。
元々、ストレートな性格ですが、年を重ね、一応経験を積み、
人の親としても生きてきた訳ですので、若い頃のような
表現はできないにしても、我ながら面倒な性格とは思っていましたが、
町田さんの話を聞いて、得るものがありました。
いまは真に「泣けるとき」がくるのが嫌ですね。
家族に救われています。感謝!
コメント、ありがとうございます。
追伸
この夏のキャンプ&カヌーのドタキャン、スイマセン!
もう、山中湖の夜は冬の寒さになると思います。
近隣デイキャンプなら、いつでもOK!
よろしくです。