もう、親父がいなくなって20年くらい経つ。
暑い夏になると、その日のことを思い出す。
喪主の私が親父の骨壺を抱えて、車に乗る。
その日もピーカンの天気で、軽く30℃を越えていた。
骨壺が熱くて抱えていられない。
運転手に頼んでクーラーを最強にしてもらう。
口数の少なかった親父がこの日ばかりは、
「熱い熱い」と饒舌だったような気がする。
学生時代、私は左翼がかった本ばかり読んでいた。
とにかく親父が軍国主義の塊のようにみえた。
親父は戦争中、満州で戦っていた。
そしてソ連の捕虜になり、シベリアで強制労働をさせられた。
戦争が終わって3年くらい経ってから帰国した。
親父は極端に口数の少ない男だった。
私との会話は一生のうちで、一ヶ月もなかったような短さだ。
それが戦争のせいなのか、生来の性格なのか、
ホントのところはよく分からない。
一度、母にそのことを聞くと不満そうな顔で
「知らないよ」と切り捨てられた。
或る休日の午後、親父に向かって、
「人を殺したことがあるだろ?」と心ないことを聞いた。
親父は一瞬目を細めてとても難しい表情をした。
次の瞬間、唇をかみしめてため息をひとつ吐いて、
ステテコ姿で立ち上がり、
もう一度こちらをチラッと振り返って、
庭に出て行った。
それから親父とは一切口をきかなくなった。
先の大戦の歴史は、
私も後年になって少しづつ理解するようになった。
歴史を紐解くことは、新しい真実を知る手がかりとなる。
果たして歴史観は修正され、以前に較べ、
違った方向から政経を解釈することとなった。
戦争を生きた親父の青春はほぼなかったに等しいと思う。
親父はソ連に抑留されていたので、
帰国してから就職しようとしても、
共産主義者のレッテルを貼られ、
どの会社からも断られたと聞いた。
ふるさとの愛知県の村では、
戦争のただ一人の生き残りとして、
近所のやっかみが酷くてそこにいられず、
意を決して横浜に出てきた。
そして、就職難だ。
ようやく公務員になれた親父は、
お袋と結婚し、
毎日毎日、同じ時間に家を出て、
毎日毎日寸分変わらぬ時刻に帰宅した。
生前、幾度か親父に謝らなくてはと思ってはいたが、
そもそもその会話を親父が覚えているのか、
いぶかしがる自分がいた。
(忘れる訳などないのに)
その後悔が年ごとに、重くのしかかる。
拝啓
父上さま
今年の夏も猛暑でした。
親父、
ホントはあなたともっと話したかった。
もっとあなたの笑顔がみたかった。
肩車なんかしてほしかったし、
そんな父親が欲しかったのですが…
私もあなたの死んだ年齢に年々近づいています。
最近、ようやくあなたのこころの内が
みえるようになってきました。
戦争って、やるせないことしか残しませんね。
あと、人ってなかなか理解されないものですね。
最近つくづく思います。
親父、ホントにごめんなさい。
いまあなたと無性に話したいです。