武蔵小山の商店街でパキラを買った。
その大きな鉢を抱えて、奥さんと、
まだ幼かった長男を連れて電車に乗った。
葉をぶつけないように、じっとドア近くに立つ。
(幸せになれるかな…)
横に座っている奥さんと長男が、
揺れるパキラの葉をじっとみつめている。
ふたりで、いや3人で、
この観葉植物が育つことに、
将来の想いを込めた。
幸福の樹とか金のなる樹とか、
そのものズバリのものもあったが、
ふたりして、パキラを選んだ。
あのかよわそうな葉が、
私たちの現実に則しているようで、
親近感を感じたからなのか。
住まいはかなり古いマンションで、
朝日と夕陽だけがあたった。
風の抜けが悪い。
東急ハンズで買った白いカモメが、
台所の天井からふわりとぶら下がる。
独立記念にと、
代官山の工房でオーダーした黒いテーブルに座ると、
気が引き締まる。
後ろのサイドボードの上に、
浜辺に無人の椅子があるだけの、
わたせせいぞうのポスターを飾った。
リクライニングになった椅子の布が、
浜風になびいているその絵が気に入っていた。
家賃69000円。
当時としても、破格の賃料のマンションだった。
しかし、初月に稼いだギャラは33333円。
こんな日が続くと、つい新聞の求人欄に、
目がいってしまう。
そしてどういう訳か、何かに願をかけたくなる。
それがふたりの選んだパキラだった。
根元にきれいなビー玉が敷いてある。
水やりは多すぎず少なすぎず。
直射日光は厳禁とした。
こうしてパキラの葉が伸びてきた頃、
少しづつ仕事も増えてきた。
が、どうしても生活費が足りない。
息子のおむつ代の捻出さえ苦しい。
とうとう実家に泣きつくと、
私たちの計画のなさ、無謀な独立に、
さんざんな言われ方をした。
私は無言で頭を下げるしかなかった。
先の新聞の求人欄には、
外注求む、というのも時折あったので、
とにかく電話でアポをとり、
毎日毎日、
嫌というほど東京中を歩き回った。
息子は日に日に大きくなる。
服代も馬鹿にならない。
こんなときに、よく深いため息を吐いた。
が、いま思えば、
こんな愛おしい時間はなかった。
3人で、よく近くにある洗足池を歩いた。
桜の季節になると、夜桜を見に行った。
いつも家族一緒だった。
私は、パキラを大切に育てた。
この先、独りでどこまで行けるのだろう。
果たして、この3人に豊かなときは来るのか。
仕事が軌道に乗った頃、
私たちは住まいの狭いのに耐えられなくなり、
新しい街へ引っ越した。
そのアパートの一室を、仕事部屋にした。
和室の畳の上に例のデスクを置き、
窓に黒いブラインドを付け、
その部屋の隅に、更に大きくなったパキラを置いた。
やがて娘が産まれると、
家の中は更ににぎやかになり、
ついつい仕事を放りだして遊ぶこともあった。
背ばかりが伸び、
青々とした葉がダランとしたパキラに、
或る日気がついた。
が、もう私は、
パキラのジンクスを気にする風もなかった。
やがて新築のマンションに引っ越すと、
もうあのパキラの姿はなかった。
自分の人生を、
観葉植物なんかに左右されてはいけない。
少なくとも私は、そう思った。
しかし、やがて東京を離れるときは来た。
そのときも、やはり私と奥さんは、
新天地で新しいパキラを買っていた。
そうやって何度もパキラを買っては、
大事に育て、
それを枯らしては、やはりうなだれるのだ。
年が明け、
近所の花屋をうろうろしていた私たちは、
無言のうちに、
また新たにパキラを買ってしまった。
この単なる植物に対する私の気持ちを、
先日奥さんに初めてまともに話したところ、
彼女も全く同じ気持ちだったと、
深く同感の意を示した。
そんなジンクスなんか、
お互いに、
一度もちゃんと話したことなんかなかったのに…
パキラはいま、
居間のテレビの横で深い緑の葉をピンと張り、
新芽を吹いては、ちいさな幼子のような葉を
次々に開いている。