宮ケ瀬スケッチ

 

 

 

下手な絵。

なのにやめない止まらない。

なんといってもおもしろい。

夢中になれる。

絵の基礎を習うひともその気もないので、

ほぼ上達しない。

写真もどうよう。

露出のベンキョーをしたことがあるが、

ぜんぜん面白くない。

デッサンの本も数冊読んでみたが、

ほほうと思うだけで身に付かないんだなぁ。

習うと途端におもしろくなくなる。

みんなおんなじような絵になる。

 

楽しいことってなにか?

勝手気ままにやることである。

夢中になれることってなにか?

好きなことを続けること。

 

焚き火もキャンプも面白い。

何でだ?

予定どおりいかない。

メンドー。

だけどなんだか生きているんだって、

とてもリアルに迫ってくるんだよね。

それは、絵も写真にもいえるなぁ。

 

 

 

 

 

 

秋は陽射しとススキだなぁ

 

 

 

ウチからの身近な観光地は、
北上すると丹沢の東あたり。
南下すると茅ヶ崎の海岸というところか。

どちらにしようかと思案するも、
やはり紅葉がみたいということで、
宮ヶ瀬湖に出かけてみた。

ここは例年、夏にバーベキューで来ていたが、
コロナ禍で今年は2回中止となった。

平日の午後だし
誰もいないんじゃないかと思っていたが、
そんなことはない。
結構の人出だった。

クルマは横浜・湘南・品川のナンバープレートが目についた。

小春日和だったが、ここはやはり寒い。
風も強い。
推定だが、東京や横浜よりまず5℃は低いと思う。
丹沢山塊の中腹だし、冷えるのはしょうがない。

 

 

視界がとても広いのがいい。
気が休まる。

夏の陽射しと較べると、
夕方とはいえかなり差し込む角度が低い。
陽射しがオレンジ色に映る。

みんな寝転んだり佇んでいたりと、
とってもゆったりとしているようにみえる。
(日頃は結構ハードで疲れているんだろうなぁ)

景色をみながら、
この一年があっという間に過ぎてしまったことに気づく。
みんなどうしているんだろうとかと、
久しぶりに改めて考えた。

いまのこの世の中、
何かがおかしい何かが変なのだけれど、
その正解が分からないでいる。

外界とのコミュニケーションが減ったことだけは、
確かなことだ。

「時代なんかパッと変わる」というコピーを思い出す。
確か、80年代のサントリーウィスキーのコピーだ。

ホントに時代がパッと変わってしまった。

このコピーの作者は、予言者か?
いや哲学者かも知れない。

優れたコピーって、商品や時代を飛び越えて、
スタンダードな一行として後世に残ることがある。

そんな一行をつくりたくて、この業界に入ったんだけどなぁ。

とにかく、この景色のお陰で、
普段は考えないいろいろなことに目が向けることができた。

貴重な時間だった。

 

 

 

風のテラス

 

遠いあの山の向こうの

遙か彼方にあるという

風のテラス

紺碧の空に包まれて

木々は囁き

蜜蜂に愛され

誰もいない波間に漂うという

風のテラス

 

水平線に浮かび

潮に洗われ

トビウオの休む所

いにしえの場所

そこに

椎の木のテーブルと

二脚の真鍮の椅子

 

風は歌い

微笑み

風は嫉妬し

うつむき

そして通り過ぎる

 

向き合ったふたりに

椎の木は黙って

テーブルに一房の葡萄と

恋物語

 

ひとりが去れば

ひとり訪れ

ふたり去れば

ふたりが訪れる

 

風のテラスは

空を見下ろし

風のテラスは

水底を見通し

風のテラスは

人を惑わせ

そこには只

椎の木のテーブルと

二脚の真鍮の椅子

 

陽を浴びて

星が降り

ジリジリと焼け

凍てついて

蘇る

可笑しくて

悲しくて

悔しくて

恨んで

愛おしい

 

風のテラスは

誰もが

一度は訪れる

 

考えるほどに

思いだすほどに

彼方に消えてしまう

 

そこは

風のテラス

幻の忘れ物

恋の記憶

 

 

iPadで絵を描いてみた

 

 

いままで絵ごころも習ったこともないけれど、

数年前に突然、絵を描いてみたくなった。

 

もともと絵を観るのが好きで、

あちこちの美術館にでかけたりしていた。

テレビも「美の巨人たち」や「日曜美術館」などは、

毎週録画して、みている。

 

仕事柄、デザイナーさんたちに企画意図などを説明する際、

どうしても言葉とかテキストだけでは伝わらない場面に出っくわす。

過去、こうした問題にぶつかるたび、

私なりにとても下手なサムネイル(とても小さいデザインラフのようなもの)で

対応していた。

が、あるときあるデザイナーさんのイラストをみて、

「おお、オレも絵が描けたらなぁ」って強く思った訳。

 

雑誌「一枚の繪」なんかをペラペラとめくっていると、

写実で精緻な絵とか、印象派風の絵とかが、

ゾロゾロと出てくる。

絵の上手なひとはいくらでもいるということだ。

 

私の好きなアーティストにデイヴィッド・ホックニーがいる。

とてもカジュアルなものを描くのに、

いま世界で一番人気のあるアーティストではないのかな。

彼が数年前からiPadで描いているのを知って、

私も画用紙をやめ、iPadで挑戦してみることにした。

 

旧型のiPadに対応しているアップルペンシルは、

一万円強で買える。

最新型のiPadとアップルペンシルは、描き味も微妙な色合いも

描き手のイメージを相当リアルに表現するらしいのだが、

そんな精巧なものは、当然私には必要ない。

という訳で、今回は鶴を描いてみた。

 

ときは夕暮れどき。

遠景が夕陽に染まりだして、

その色が水面にも反射して、

まだ空の青さは残っているものの、

鶴は黒のシルエットとして映る。

観る側としてみれば、かなり雑にみえると思うが、

そうです、描いている本人が結構アバウトなので、

やはりそういうものは、描いているものに反映されてしまいますね。

 

旧型は、まだ色数もすくなく、色の交りあいの具合も、

重ね塗りなどをする場合においても、

その特性みたいなものを把握しないと、

結果としてかなりイメージと違うものができ上がってしまいます。

今回の鶴の絵の場合は、哀愁が出せればいいかなと、

それだけでした。

 

これでも鶴の輪郭にはとても苦労していて、

鳩にしか見えなかったり、足の具合が不自然だったりと、

かなり修正しているのです。

やはり絵は相当に難しいです。

しかし、下手でもいいから評論家よりプレーヤーになりたい。

私はムカシから評論家というひとたちがあまり好きではないし、

プレイするひとになりたかった。

 

下手でも描く。

好きなように描く。

そう自分で決めてしまうと、ガッツが出てきます。

 

他人の評価より、自分の気もちに素直に…

これが最近の私の信条です。

 

 

花束をあげよう

 

花束って、

もらうととてもうれしい

あげてもやはりうれしい

 

そこにはきもちっていう

不思議なものを伝える

電気とか空気振動にも似た

見えない伝達機能のようなものが存在していて

ちょっとした感動がうまれたりする

 

赤いバラの花、カーネーション、真っ白なユリのはな

黄色いスィートピー、すがすがしいキキョウの紫

そしてカスミソウ、麦の穂やら

 

いろいろな花でにぎわって

いろいろな色が交りあって

想いが込められて

花束はあたらしい生命に生まれ変わる

 

とても幸せないっしゅんは

きもちを伝える方も

受けとる側も

 

花の命はみじかいけれど

とてもしあわせな命

 

 

たき火とバーベキューは似て非なるもの


アウトドア、人気がありますね。

都会の方々がどんどん河原に集結しております。

コロナうんざりということで、いなかへ。

が、みんな考えることは一緒で、

郊外に集結してしまいました。

 

残念!

 

私は、いなか暮らしなので、

平日の夕方にちょいちょいこのあたりで、

たき火をします。

 

ほぼ誰もいない。

ここの近所の方が散歩しているくらいです。

水の流れる音が遠くからでも聞こえる静けさ。

西の山が燃えるような夕陽に染まると、

手元はもう暗くなっていて、

たき火の炎が赤々と揺らいで、

ふっと心身の力が抜けるのが分かります。

 

バーベキューとたき火って、

まあ似て非なるものだと思います。

最近になって分かったことですが。

 

 

厚木は、いなかの景色がいっぱいです。

 

 

 

 

空がでっかい、雲はながれてゆく。

はるか向こう、丹沢の峰々が、

シルエットでどんと鎮座します。

河川敷ぞいを歩きまわりました。

ついでに田んぼもウロウロ。

あちこちの草花に顔を近づけてみる。

じっと凝視すると、

どこもかしこもいきものでいっぱいです。

花も虫もむせかえるほどにあふれている。

もう夏はピークが過ぎたけれど、

まだまだ生命のほとばしる季節です。

それはまるで里山のおまつり。

大きなパーティーのように賑やかで、

なぜか騒々しくさえ感じます。

 

ふと我が青春のときが甦りました。

 

 

 

 

 

 

夏の絵

 

 

 

こんな夕ぐれが訪れる部屋があったらな。
それは日本かも知れないし、
どこか外国のアパートの一室かも知れないし。
なにはともあれ、花瓶に花をさして、
夕暮れを眺めるという贅沢を、
一度は試してみたいと考えている。

 

 

 

 

10代で初めてでかけた沖縄の与論島。
ホントにこんな海でした。
絵ハガキのような浜辺。
満ち潮になると島が隠れそうになり、
真っ白い砂浜が海に消えて、あとは何事もなかったように…
漁船が一艘、私たちの前を横切っていきました。
ぽんぽんぽんという音を立てて。

 

 

グラスの向こうの夏

 

「月と太陽ってお互いを知らないみたい」

「おのおの昼と夜の主役。

だけど、すれ違いの毎日だしね」

 

「スタンダールの『赤と黒』って

確か軍人と聖職者の話だったよね」

「そう、対照的な職業」

 

「南の海のエンジェルフィッシュと

北の海のスケソウダラが一緒に泳ぐ、

なんてことがあり得ないのと同じ」

「そうね、いずれ相容れない何かがありそうだね」

「なんだか私たちと同じ」

「そういうことになる」

 

仲のいい友人、夫婦、親子、兄弟、姉妹でも、

あらゆる面で相反するというのは、

多々ある事なのかも知れない。

私たちもそのような関係と思える。

 

それはお互いの思惑の違いから、

(それは恒例ではあるのだけれど)

たとえば夏の旅行の計画などの話になると、

途端に方向性が異なる。

相容れない。

行きたいところだけでなく、

趣味が全く違うのだ。

そしてお互いに譲らない。

そこは同じなのにね…と彼女は思う。

 

片方が海といえば、

相手は山へ行きたいと言い張る。

話は平行線のまま。

決して交わることはない。

やがて意地の張り合いになり、

ひどい喧嘩となって、

結局いつものように沈黙が続く。

 

やはり月と太陽

赤と黒か

エンジェルフィッシュとスケソウダラみたいに

相容れない。

 

しかし「今年こそは」とふたりは願っている。

そこは似ているなと、

ふたりはつい最近になって気づいた。

 

グラスの氷がカタンと鳴って、

そして静かに沈む。

トニックウォーターが震えるように揺れる。

ふたりはため息のあとでそれを口に含む。

庭の木で蝉が鳴いている。

とても暑い鳴き方をするミンミン蝉だ、

とふたりは同時に思った。

 

果たしてグラスの中の氷は彼女の熱を冷ませ、

それは相手も同様だった。

想いが冷めては元も子もないと、

ふたりに囁く誰かが、

この部屋に降りてきて…

 

「とにかく出かけようぜ!」

「そうね、私支度してくる」

やはり似たもの同士なのかも知れない。

 

ようやくお互い、笑みが浮かんだ。

 

 

五木寛之「不安の力」

 

本棚をまさぐってたら、

五木寛之の「不安の力」が出てきた。

奥付をみると2005年となっている。

中身はすっかり忘れている。

ちょっと読んでみようかと、

ベッドに寝転んでパラパラと読み始める。

 

なんだか、このコロナの時代にフィットしているなと、

改めて思う。

不安はいつでもだれの心にもあるのだが、

いまこの事態に「不安」は顕在化しているから、

タイミング的にピタリではないか。

再販、イケルと思う。

編集者気分になる。

 

五木寛之という作家は、軽いのに重い。

重いのに軽い。

何と表現したら良いのか分からないくらい、

光のあて方でどうとも解釈できてしまう。

 

「青年は荒野をめざす」「風に吹かれて」などから、

数十年を経て、仏教に傾倒し、

その深淵を追求したりと、

年代によって作風がみるみる変化している。

 

なにはともあれ、この人は風のようであり、

旅人であり、不定住のようであり、

生来孤独を愛する人なのでないか。

 

私の若い頃からの文章の手本として、

永年高いところにいる人であり続ける。

 

文章は基本的に平易かつ分かりやすい。

映像のようで美しい表現を何気に使う。

さらにこの作家の生き方の複雑さが、

作品のここかしこに宿っている故に、

それが全体として重くのしかかる。

 

一度死んだ人は強いとは、

この人のことだと思う。

それはこの人の若い頃のことを知ればしるほど、

この作家の背負ったものが如何ほどのものか、

考え込んでしまう。

 

この「不安の力」という本のなかに、

シェークスピアの「リア王」の台詞が、

五木流の訳で紹介されている。

 

『「…この世に生まれてくる赤ん坊は

みずから選んで誕生したのでない。

また、生まれてきたこの世界は、

花が咲き鳥が歌うというようなパラダイスではない。

反対に弱肉強食の修羅の巷であったり、

また卑俗で滑稽で愚かしい劇の舞台であったりする」

赤ん坊が泣くのは、

そうしたことを予感した不安と恐怖の叫び声なのだ。

産声なんていうのは必ずしもめでたいものではないのだよ、

という辛辣な台詞です。

嵐の吹き荒ぶヒースの野で、老いたリア王が

「人は泣きながら生まれてくるのだ」と叫ぶ。

これは、人生のある真実をついた言葉だと思います。』

 

五木寛之という作家は、

要するにこうした志向に傾く、

そこは若い頃からどうにも変化しない、

風に吹かれたりもしない、

不動の悲観論者なのである。

 

「不安の力」はこうしたネガティブな人間の一面を

賞賛する本でもある。

いや、市井の人間に真の希望とは何かを教えてくれる。

 

それがこの人の持ち味であるし、

この作家の魅力なのである。

 

この時代にぜひ読んでおきたい一冊と思う。