そろそろ話してもいいだろう。
今年の夏。
蒸し暑い或る夜のこと。
私は奥さんと小田急線某駅から10分ほどのところにある、
格安のイタリアンレストランで、
ピザとかスパゲティとかサラダとかをたらふく食い、
幸福な気分で車を止めておいたコインパーキングまでを
だらだらと歩いていた。
赤信号の交差点に立っていると、
いつの間にか後ろに人の気配を感じた。
まあ、交差点なので当たり前なのだが、
異様に至近距離にいる気配を感じた。
イヤーな感じがしたので、奥さんにひと声かけて、
速足で歩くことにした。
安心するのもつかの間、
後ろの気配も速足でついてくるではないか。
まだ、私たちは後ろを振り向いてはいない。
何者が後ろにいるのか振り向くほどでもなかったからだ。
しかし、ずっと至近距離でピタリとついてくるので、
いい加減に私たちは足を止め、
とぼけて脇にあった自動車展示場の車を眺めることにした。
と、驚くことにそのイヤーな気配もピタッと足を止め、
私たちの後ろにくっ付いて立っているではないか。
振り向くと、背の低い老婆とおぼしき影。
「何かご用でしょうか?」
私が話しかけると、その影が言うには、
「私は足が悪いんですよ。それでね、
誰かの後について歩こうと思ってね」
「うん?」
どうも理解しかねる返答だった。
この影をよくよく観察すると、
真夏だというのに、黒い頭巾を被り、
長袖の黒い衣服を身にまとい、
引きずるような丈のスカートに、
黒い手袋をはめている。
口をマスクで隠している。
そして雨も降っていないのに、黒い傘をさしていた。
夜だというのに大きなサングラスをかけたその奥に、
得体の知れない不気味なものを感じた。
先ほどからの事を振り返えってみた。
この人は途中から、相当の速足で私たちについてきたのだ。
話しながら老女らしき人は膝をさすっている。
上目づかいで、こちらの様子を伺っているのが分かった。
(この人って本当に老婆なのか?)
得体が知れないと思った。
はっきりしているのは、この人は多分女性で、
背が低い、ということ。
それしか認識できない。
日曜の夜の10時過ぎ。
繁華街の一本裏通りである。
人通りはまばらだった。
この至近距離でついてくること自体、
最初から不自然とは思ってはいたが。
私はとっさに手を振って、
「なんだかよく分からないけど、
どうぞお先に!」とジェスチャーをする。
「そうですか?」
この黒づくめ、不満そうなのだ。
少し間があく。
重い空気が張り詰めている。
黒づくめはようやく諦めたらしく、
しぶしぶと歩き出した。
歩く後ろ姿をみると、普通に歩いているではないか。
この場合、目が悪いのであれば、
私も少しは納得したのかも知れない。
いやしかし、いろいろと首をかしげるような印象から、
やはり不気味なことに変わりはない。
黒づくめの後ろ姿が徐々に遠くなり、
ようやくその姿が小さくなるまで、
私たちはなにかよく分からない恐怖感にさいなまれた。
あの人は一体何が目的で私たちの後ろについてきたのか、
歩きながら考えを巡らすも、全く分からない。
もし、あの老婆が、万一何か悪いことを企んでいたと考えると、
私たちは二人でいるので、相手も分が悪い。
それなら一人で歩いている人間を狙うのではないか。
やはりあの老婆の目的が分からない。
たださみしいのではないかとも考えたのだが、
であれば、人の嫌がるような行動をとるだろうか。
幸福な満腹感が、息苦しさに変わっていた。
車が止めてあるコインパーキングは、
鉄道の高架下のかなりの暗がりにあった。
あたりは人家はなく、田園が広がるのどかな一帯だ。
丸1日止めてもたいした料金ではないので、
そこにしたのだが…
汗を拭きながらパーキングに入ろうとすると、
高架下のずっと遠くから
小さな影が小走りでこちらに近づいてくるのがみえた。
目を凝らすと、なんとあの黒づくめババアではないか。
とっさの事で頭が混乱する。
私たちはコインを入れる余裕もなく、
低くしゃがんで車に滑り込んだ。
心臓がひどく鼓動しているのが自分でも分かるほど、
私たちは気が動転していた。
その恐怖の正体は、
相手の目的が不明だからなのか、
いや、あの姿なのかは、
いまでもよく分からない。
シートに深く沈み込んで、
恐る恐る外をちらっとみると、
あの背の低い黒ずくめが
私たちの車のすぐ横の道をゆっくりと歩いている。
まわりを伺うように用心深く歩いているのが
その姿からすぐ分かった。
一体あいつはなんなんだ。
本当に人間か?
ひどい汗をかいている。
息づかいが荒くなる。
時間がどのくらい経過したのか、
それさえよく把握できなくなっていた。
勇気を振り絞って上体を起こし、
ガラス超しに恐る恐る外の様子を伺う。
黒づくめは高架下に沿って続く道を
きょろきょろしながら歩いている。
「いまだ!」
外に飛び出した私は精算機まで走り、
なんとかコインを投入した。
もう高架下の不気味な姿はあえて確認しなかった。
車のストッパーが下がると同時にキーを回し、
エンジンをかけ、窓を閉める。
冷房を最強にする。
車内がむせるように暑いのを、
このときやっと認識する。
黒づくめは、私の車のライトに照らされ、
遠くからちらっとこちらを振り向いた。
わずかながら、あのサングラスが一瞬反射した。
その映像を、いまでも私は忘れることができない。