ささやかだけど…(しあわせの定義って?)

ろくなもんじゃねぇ、なんて言いたくもなる今日この頃。

仕事、家庭、その他せっこい事柄も織り交ぜると、

生きてゆくとはかなりしんどい事だなぁと感じる訳で…

毎日が楽しくて楽しくて仕方がない、なんていう方が羨ましい。

恋でもしておられるのでしょうか。

健康そのもの。

自動的に大金が舞い込んでくる。

こんな感じか?

どうか一度、楽しく生きるコツを聞いてみたいものである。

でもホントはね、

こういう方たちに対し、私は懐疑的なんです。

何故なら、神さまは私たち人間に、

そんな楽な生き方は与えないから…

ただ、なんというか、死んだら終わりだから、

それならいっそのこと楽しくと、

享楽に走るのも良いかと考えてもみる。

しかし、よくよく思索するに、

こうした場合は享楽でなく、哲学だな。

哲学。

例えば、

貧乏ながら楽しく生きる知恵

愛がなくたって大丈夫という孤独の哲学

人の死にも己の死にも正面から向き合える強さ

己の生い立ちの悪さ、環境をすべて許す寛容さ

そして

―生きるとは何かを悟っている―

こういう方がたまにいらっしゃいます。

いや、

世界情勢も経済も収入も、そんなのカンケーねぇー

働こうが道端で寝ていようが、そんなの気にならねぇー

はたまた、

絵を描いていればそれだけで幸せ

電車に乗っていればそれだけで幸せ

世間にはいろいろな方がいらっしゃるもんだ。

うーん、コツはね、

己のハードルを低くする?

いや、開き直る事?

この話を進めると、いつも泥沼にはまってしまいそうなので、

やはりこの辺でヤメにします。

少し分かったことがあります。

楽な人生はどのみちないってこと、

どのみち苦労はついて回るってこと。

やはりキーワードは

「ささやかな何か」なのだと思います。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

ありふれた恋

約3年前

あの砂浜に落とした

18金の涙のカタチをしたごく小さなペンダントを

最近になってやはり探しに行こうか

そんな事を考え

久しぶりに海へと出かける

その砂浜は扇形に遠くまで広がって

向こうの端が遠く霞んでいる

風の強い日だ

流れついた木の枝を適当な長さに折り

砂を突っつきながらボチボチと探し始める

うつむき加減に独り砂浜を歩く僕の姿を

他人の目にはどう映るのだろう

もうすぐクリスマスだというのに

僕に祝う相手はいない

集まる仲間はいるけれど

やはり今年は独りでいよう

コートの襟を立てても

首筋を通り過ぎる浜風の痛さが

身に沁みて

その冷たさに悔恨の念が少しづつ膨らみ

そんなペンダントはとっくのムカシに

他の誰かに拾われたか

潮がさっさと持ってったと

やはり浜風が笑いながら

そして耳元で囁くのだ

子供のようだった僕は

よく人を傷つけ

それに気づくこともなく

ただ通り過ぎてゆく人間だったのだろう

それは悪意のない分

余計に質の良くない事なのだが…

そしてそのありふれた恋も

結局相手の意を汲むことなく

僕のなかではひとつのゲームとして

それなりに楽しめたのだが

やはりゲームセットが近づくと

僕はいつもの通り

次のゲームに夢中になっていたのだから

この砂浜のなかのペンダントは

きっともうみつからないだろう

そしてこうして夕暮れまで探し続けて

夜は冷え切った躰を

どこかの店の安いコーヒーとハンバーガーで

癒やすのだろう

ひとつづつ

少しづつ

オトナになってゆく

失ってゆく

忘れがたいものに変わってゆく

年をとる

そしてどうでも良くなって

すべてを忘れて死んでゆく

夜の海の沖の遠く

黒い空と混じり合うあたりに

きらりと光る灯りが見えて

それが果てしなく遠く思うのは

思えば

あのありふれた恋のひとつと

なんら変わらない事なのに…

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

記憶の風景―1969

村上龍の「69」という小説を読んでいたら、

当時の自分は何をしていたのか気になった。

「69」とは1969年の意。

かなりムカシの話だ。

私はまだ幼い中学生だったが、

1969年という年はよく覚えている。

確か大きな事柄がふたつあった。

万博、そしてベトナム戦争である。

1969年。

翌年に大阪万博を控えた日本は高度経済成長真っ盛り。

誰もが「平和」を享受していた。

日本中のみんなが大阪万博を盛り上げていた、

そんな感じだった。

翌年、大阪万博が開催され、

学年の金持ちの同級生はみんな家族と大阪へとでかけた。

貧乏な友達に悔しがる奴もいたが、

だいたいこういうものは下らないと即断した僕は、

毎日水泳部の練習に明け暮れた。

しかし、家へ帰っても誰もいない。

我が家は共働きだったので、当然お袋もいない。

いつものように即席ラーメンをふた袋分まとめて鍋にぶっ込み、

それを平らげると、居間で独り汗だくで寝た。

テレビをつけると「長崎は今日も雨だった」と

「ブルー・ライト・ヨコハマ」ばかりが流れていた。

しかし、ウンザリした覚えがない。

幾ら見ても聴いても、退屈しない。

当時のテレビの魔力は相当なものであったと思う。

その頃

海の向こうのベトナムは戦争のさなかだったが、

日本にその危機感は薄かったように思う。

グローバル以前の時代の感覚のなかで、

戦争はまだ対岸の火事のように感じられた。

その5年後、ようやくベトナム戦争が終結する。

この戦いは旧ソ連とアメリカの代理戦争であり、

ベトナムという国が割を喰ってしまう。

ベトナムは焦土と化した。

この戦争は結局、

ベトナムにとって約15年という大切な時間と、

多くの命を無残に葬っただけの、

大国のエゴの犠牲でしかなかった。

世界中で反戦運動が一気に広がったのも、

このベトナム戦争がきっかけだった。

平和な日本も例外ではなかった。

ベトナム戦争が始まった頃といえば、

私はまだ小学生だった。

授業では、この戦争の話を幾度となく教えられたが、

担任がバカで、幼ごころに下らないと、

その腹立たしさを抑えるために、

そっぽを向いて窓の外を眺めていた覚えがある。

要するにバカ担任はどっちが勝つとか負けるとか、

そんな話ばかりをしていた。

戦争の本質を何も語らない、

そこが腹立たしかったのだ。

ビートルズが「カム・トゥゲザー」をヒットさせたのが、1969年。

同じ年、ローリング・ストーンズが

「ホンキー・トンク・ウィメン」をリリース。

横浜にもフーテンと呼ばれる若い奴等がウロウロしていた。

皆ラリっているので恐かった覚えがある。

お姉さん方は皆、ミニスカートかパンタロンという出で立ちで、

街を颯爽と歩いていた。

VANに代表されるアイビールックが流行ったのも、この頃だ。

映画「イージー・ライダー」は、

病めるアメリカの一端を映し出していた。

僕の大好きだったロックグループ、C・C・Rは、

「雨を見たかい」でベトナム戦争の悲惨さを告発したと、

私は解釈している。

村上龍は「69」のなかで、

佐世保という地方都市の高校生ながら、

学校でバリケードを築いた首謀者であったことを告白している。

すでに時代の風をいち早く感じていたのだと思う。

まあ、較べるべくも無いことだが、

その頃の僕は、

横浜のどこにでもいる平凡な中学生で、

毎日が平和だと信じ、

いや何も知らぬまま、何も感じることなく、

毎日毎日泳いでいるだけだった。

しかし、1969年という年は、

何故かよく覚えているのだ。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

ヘタヘタ画廊

仕事柄、サムネイルは良く描きますが、

コピーライターが描くラフって、

誰もムカシから皆下手です。

デザイナーさんたちに企画意図を伝えたい、

要は理解して頂ければ良いのです。

ヤシ最終

学生時代何を思ったのか、

彼女をモデルにクロッキーで描いたことがあります。

仕上がりを見て、私も彼女も驚きました。

全くの別人の横顔が出来上がりまして。

月

最近、100均で画用紙を買ったのを機に、

やっすい絵の具とか色鉛筆でいろいろな絵に挑戦。

出来上がりはともかくとして、楽しいったらありゃしない。

葉

私はよくまわりから、

性格的にテキトーなところがあると指摘されることがありまして、

そうゆういい加減さが、これらの絵にも反映されています。

構想3分、制作30分。

いやぁ、大作揃いです! (汗)

風車

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

夕焼け

こうして、夕焼けの空の下を歩いていると

母を想い出す

遊び疲れ

泥で汚れた服を叩きながら家路へ着くと

薄暗い台所で、いつも煮物を煮ていた

腹が減って疲れてゴロゴロしていると

母は振り返っていつもこう言うのだ

「楽しかった?」

夕げは粗末なものばかりだったが

僕は腹いっぱい喰った

恐いけれどやさしくて丈夫で

剛気な母だった

その頃の母の辛さや苦労を

僕は知る由もないから

ただ毎日が平和で幸せで

それが永遠に続くように思えた

夜中に

父と母が別れ話をしているのを聞いてしまった僕は

ひどく動揺した

布団の中で微動だにせず

脂汗をびっしょりとかいたのを

いまでも鮮明に覚えている

僕は突然の出来事に情緒不安定になってしまい

それから予定外の変な成長をしたように思う

結局両親はその後も別れることはなかったが

後年ずっと僕を励まし

物心共に支えてくれたのも母だった

秋の空の夕焼けをみると

幼い頃を想い出す

それが懐かしくて悲しくて

結局母へと繋がっている

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

星野源さん!

情報としてはちょっと古いけれど、

単純にこうした耳あたりの良い歌って久しぶりです。

星野源の「SUN」。

このリズムラインがアタマに残るから、ついもう一度と聴いてしまいます。

あえて言えば、

70年代後半にヒットしたエポの「ダウンタウン」にどこか似ていると言えなくもない。

歌詞もメッセージ性は低い。

こうした都会的かつ妙な軽やかさと明るさって、

最近のこねくり回す歌より、よっぽどいい。

星野源って多才な人。

だけど、一度倒れているんだよね。

結構重い症状だったらしい。

そこからの開き直りというか、よほど深く考えた末の、

「SUN」です。

彼の覚悟が見えるようでもある。

マスクが特別いい訳でもない。

スタイル抜群でもない。

背伸びしない。

そして、ユーモアは抜群です。

やはり、センスの勝利。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

創造と追憶のホテル

南洋の幻覚

まだ成田からの直行便がない1970年代の後半。

パラオ・コンチネンタル・ホテルは遠かった。

羽をばたつかせた727が、

グアム、ヤップ、トラック、ポナペの各島を経由、

空の各駅停車で辿り着いたパラオの空港はバラック建てで、

屋根がヤシの葉の平屋。

ここが税関兼ロビーということで、かなり面食らった。

滑走路は珊瑚と貝を砕いたものを敷き詰め、

白くゴツゴツとしていたから、かなり不安だった。

さて、現地のガイドさんが運転する日本製のポンコツで辿り着いた、

イワヤマ湾の絶景を見下ろす丘に建つ同ホテルは、

一応、五つ星ホテルで、すこぶる快適。

フロントとレストランのある大きなメイン棟の他は、

すべて斜面に立ち並ぶコテージで構成され、

インテリアはすべて手作りの籐製。

やたらにデカいベッドとその上を回るシーリングが目を惹いた。

朝のコテージからの眺めは、私としては楽園の感があり、

一度だけワニがひと筋の波を引いて泳ぐのが見えた。

当時、この辺りにくる日本人観光客は希少で、

太平洋戦争で戦死された方たちの遺骨を探すため、

遺骨収集団の方々がここからペレリュー島をめざし、

セスナ機が頭上を飛んで行くのを幾つも確認した。

浅瀬に沈むゼロ戦。

その波間から伸びる竹の棒に、

おびただしい千羽鶴が、南の風に揺れる。

コテージの一室で存分にくつろぐも、

あの鮮やかな折り紙の鶴がアタマを離れない。

そこには空間、そして時代も定まらないような、

酔ったような時が流れていた。

ヨコハマの追想

ホテルニューグランドを右手に、山下公園を左手に、

初夏の気持ちのいい並木道をゆったりと走り抜けると、

正面のみなとの見える丘公園の山裾に張り付くように、

そのホテルはあった。

―バンドホテル―

かなり古めかしいホテル。

なのになんだか敷居が高い。

当時、大学生だった僕は、この通りを好んで使っていた。

その度、このホテルには自分と全く異なる、

いや、凄い金持ちだとか芸能人とか、

そんな人達しか入れないんだと勝手に思っていた。

ある先輩から聞いた話では、

このホテルの中にシェルルームというクラブがあって、

夜ごと有名なミュージシャンが来て派手なパーティーをやっている、

らしい…

そんな先入観があってか、僕は余計に怖じ気づいた覚えがある。

結局、このホテルは90年代の終わりに取り壊され、

現在はMEGAドンキ・ホーテ山下公園店となってる。

(ウンザリ)

最近になって、このホテルが気になり、ちょっと調べてみた。

と、やはり一筋縄ではいかないホテルだったことが判明した。

1.戦争中は、ドイツ軍専用ホテルだった

2.五木ひろしの「よこはま・たそがれ」は、

 このバンドホテルが舞台だった

3.シェルルームには、ブレンダ・リー、プラターズなど、

 世界の名だたるミュージシャンが出演していた

4.いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」のブルーは

 シェルルームのネオンサインからヒントを得たと言う

5.バンドホテルが日活映画「霧笛が俺を呼んでいる」のロケ地だった

6.後年は若手のアーティストの場として、ゴダイゴ、桑田佳祐、

 尾崎豊などが出演していた

ああ、若気の至り、

はたまた勢いだけで行かなくて良かった、

とつくづく胸をなで下ろした。

この頃、バンドホテルとホテルニューグランドの間の

ちょっと引っ込んだ角に、イタリアンレストラン

「ローマステーション」があって、

当時としてはイタリアン・レストランはめずらしく、

結局、バンドホテルより少し敷居が低いこのレストランで、

僕と彼女は飛び切りのピザをいただいた。

文学の妄想

いるかホテルは正式にはドルフィンホテルと言うらしい。

北海道の札幌にある、という設定。

架空のホテルにしては、行ってみようかなと思わせる辺りが、

村上春樹の凄いところだと思う。

小説「ダンス・ダンス・ダンス」は、

このホテルに滞在してしていた「僕」が、

いるかホテルの夢を見るところから始まる。

×××以下「ダンス・ダンス・ダンス」より転載×××

よくいるかホテルの夢を見る。

夢の中で僕はそこに含まれている。

つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに

含まれている。

夢は明らかにそういう継続性を提示している。

夢の中でいるかホテルの形は歪められている。

とても細長いのだ。あまりに細長いので、

それはホテルというよりは屋根のついた長い橋みたいに

みえる。その橋は太古から宇宙の終局まで細長く延びている。

そして僕はそこに含まれている。

そこでは誰かが涙を流している。僕の為に涙を流しているのだ。

ホテルそのものが僕を含んでいる。僕はその鼓動や温もりを

はっきりと感じることができる。

僕は、夢の中では、そのホテルの一部である。

そういう夢だ。

×××以上「ダンス・ダンス・ダンス」より転載×××

いるかホテルがどういうホテルなのか?

最初は表現が観念的に過ぎて、私には全く分からない。

しかし頑張って読み進むと、

かなり具体的にこのホテルの様子が見えてくる。

そして更に読み進むと、

そこにこのホテルの数年後の変貌ぶりが描かれている。

その辺りから作者の意図するところがほんのり理解できてくるのだが、

まだまだ上巻の序の口である。

「ダンス・ダンス・ダンス」は上下刊の大作であるからして、

私も現在進行形にて読書中。

いるかホテルを解明している真っ最中なのである。

村上龍の「ラッフルズ・ホテル」よりは確実に面白そう。

そんな予感がする。

砂漠のかげろう

さて音楽は、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」。

この作品は謎な歌詞が幾つも出てくるので、

そこに多彩な解釈が加わることで、更に魅力が増すこととなる。

ホテルカリフォルニアは、砂漠の中に忽然と現れるホテル。

その正体は、実は刑務所か、精神病院か?

はたまた麻薬の園か?

物質文明への皮肉、

強いてはロック産業への警鐘とも解釈が加わることで、

更に謎は深まる面白い作品。

ギターのアルペジオワークは、かなり聴き応えがある。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

山カフェ

コーヒーの道具もだいぶ揃ってきたので、

外カフェしてきました。

コーヒーだけを飲むためだけに野山や河原にでかける―

以前からね、これを狙っていました。

湖畔2

BBQは、いつでもどこでも誰でもって感じでフツーだったので、

あえて別の理由で戸外へ出かけたいと。

私はさほどのコーヒー通ではないけれど、

どこのコーヒーも結構飽きていまして、

それは味ではなく、屋内の閉塞感とでも言おうか。

自分なりのちょっとした贅沢がこれです。

煎れる

外でいただくコーヒーは格別の味がします。

たとえば、川のせせらぎの音が、

ジョージ・ベンソンの歌声より心地良く聞こえるとか。

頬を通り過ぎる風は、マイホームのエアコンより上質。

鳶がグルリと旋回し、獲物はないかとときどき急降下をしてくる。

ミルを持ち出すほど通ではないが、

一応湯を沸かし、丁寧にドリップするも、

炭焼きの豆になんだか嫌な苦みが混じる。

なのにちょっと薄い味わい。

微妙な味なんだけど、

サンドイッチとチーズパンを頬張りながら、

少しづついただき、周りの景色を眺めるにつけ、

やはり美味いなぁと。

コーヒーセット

雨がポツポツと降り出してきたので、

道具類をさっとトランクへ仕舞い、

帰路は霧雨のなかをドライブ。

こんな時間が、

最近ではなんだかとても貴重に思えて、

心底ほっとするんだなぁ。

湖畔

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

45年目の夏

この夏の高校野球はなかなか面白かった。

本来、野球というものにあまり興味がないので、

地元神奈川の代表校が東海大相模高校で、

甲子園に出場していることさえ、夕方のニュースで知った次第だ。

興味本位で、第2試合あたりから幾つかのゲームをテレビで眺めた。

プロ野球とはまた違うドラマがそこに繰り広げられているなぁ、と思った。

やはりというべきか、高校野球は面白い。

だって、選手一人ひとりが、一生に一度の舞台だものな。

45年前の夏、私は甲子園でトランペットを吹いていた。

この年の夏、母校の東海大相模高校が神奈川県地区大会で優勝し、

甲子園行きが急きょ決まると、

私たち吹奏楽部内もにわかに慌ただしくなった。

吹奏楽部のこの夏の最大の目標は、

秋の神奈川県コンクールで優勝することだった。

私も、課題曲と自由曲の楽譜と格闘しながら毎日練習を繰り返していた。

しかし、唇から血が出るほど練習していたにもかかわらず、

すべてが一端中止となる。

部活のメンバーは急きょ、高速バスで甲子園入りとなった。

そして連日の炎天下のなか、

私たちは甲子園名物のかち割りをかじりながら、

猛烈に演奏した。

かの有名な甲子園での応援演奏であるコンバットマーチは、

私たちが最初に演奏した、らしい。

真偽のほどは定かではないが、

私はそのように先輩から聞いた。

しかし、甲子園に来て一週間ほど経った頃、

心底、家に帰りたいと思った。

まず、家のベッドでゆっくり寝たかった。

そして海かプールで、思いっきりはしゃぎたかった。

気にかかっていたのは、コンクール曲の練習不足だ。

連日粗い吹き方もしていたので、唇がバカになっている。

応援を離れ、基礎からじっくり練習し直さなければ、

という不安もアタマを駆け巡っていた。

帰りたかった理由はまだある。

好きな子に遭いたかったからだ。

甲子園近くの赤電話から一度だけ電話をしたことがある。

10円玉を相当用意したにもかかわらず、

たいした話もしていないのに、

10円玉がジャジャラとなくなってゆく。

「いま甲子園に来ているんだ」

「エッ、ホントに?」

そんなことしか話せなかった。

我が校の野球部は私の意に反し、次々に勝ち進む。

そして遂に、決勝まできてしまった。

こうなったら、もうヤケクソである。

我が校に勝ってもらうしかないと、遅まきながら本気でそう思った。

決勝の相手はPL学園。

噂通りの強豪校だった。

このときの東海大相模のエースは上原投手。

キャプテンは確か津末という選手だった。

客観的にみて、負けると思っていた。

しかし、甲子園ってやはり魔物が棲んでいるとはよく言ったものだ。

運は、東海大相模に向いていた。

結局、私たちは10日以上を甲子園で過ごし、

その夏は燃え尽きてしまっていた。

そして、吹奏楽部の最大の目標であった秋の神奈川県コンクールは、

結局3位だか銅賞だったか、そんな感じで終わった。

いま思えば快挙と思うが、優勝を狙っていた先輩達の悔しい顔が、

いまも思い浮かぶ。

訳あって、私は一年でこの吹奏楽部を退部した。

あれから母校へ顔を出したのは、若い頃にたった一度だけ。

卒業証明書を取りに行っただけである。

大学の付属校にいながら、そこへは進まず、

結果、大学も別のところを選んだ。

あの夏から45年経った今年の夏。

私は母校の校歌を久しぶりに聴いた。

果てしも知らぬ平原に
   
相模の流れせせらぎて
  
天に星座の冴ゆるとこ
   
これ我が母校我が母校

天に星座の冴ゆるとこ、

という表現がとてもロマンチックだなと、

初めて気づいた。

記憶の底に眠っていたものが突然目を覚まし、

アタマの中を忙しく駆け巡る。

意図せず、目頭が熱くなった。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

無印良品的彼女の場合(マーケティングストーリー)

A子の休日は、最近では、とにかく歩くこと、

そしてその帰りは買い物と、

ほぼルートが決まっている。

いつものように河川敷きを小1時間歩いたA子は、

その足で、隣町にあるフェアトレード紅茶をいただける喫茶店「マル」で、

ゆっくりとした時間を過ごす。

店を出ると、マルの並びにある青空市場で、

地元の農家が卸す無農薬野菜を幾つか手にとり、

気に入ったものをセレクト、

今夜のメニューに思いを巡らす。

そして最後に立ち寄るのが、

最寄りの駅ビルに入っている無印良品だ。

女子大を出て4年、現在A子に彼氏はいない。

もとより結婚ももう今更面倒と思うようになり、

現在は自分磨きに精を出していると言った方が的確か。

無印では自然派化粧品を定期的に買う。

特にここのスキンケア類をA子は気に入っている。

冬になると、ディフューザーに入れるアロマオイル類も

ここへ買いにくる。

A子は、ことのほかライムの香りが好きで、

部屋にこの香りが満たされると、

いろいろ鬱屈した嫌な事を忘れることができる。

そういえば、ここのチキンカレーも、

A子のお気に入りだ。

マクロビオテックにはまり出してからは、

肉類を食べることもほぼなくなったが、

たまに良質の鶏肉を買い、

無印のチキンカレーに煮込んで食べるのが、

A子のたまの休日の夕飯でもある。

A子は以前、

男とは2度ほど付き合ったことがあるが、

付き合う度に、

なにかピンとこないことに気づく。

最初の彼は、高校時代の先輩。

その頃はちょっと崩れた感じに惹かれ、

デートではよくドンキへ連れて行ってくれた。

そういえば、先輩のクルマは、

古いクラウンをレストアした年代物。

改造他に数百万円はかかったというが、

A子にはどうもピンとこなかった。

先輩からその話を幾ら話を聞かされても、

そのクラウンの良さがA子には分からなかったのだ。

いい加減、ドンキにも飽きた頃、

A子は先輩に別れ話を持ち出した。

先輩は気のいい人だったが、

いつの間にか、

ピンとくるものが無くなっていたというべきか。

それが証拠に、

お互いの価値観が何から何まで違っていたのだ。

先輩はA子と結婚まで考えていたようだが、

A子はその要望を、申し訳ないと思いながらも絶つことにした。

大学を出ると、A子は都内の大手IT系企業に就職。

そこでニューヨーク・デザインに目覚めた。

その職場の上司だったディレクターが、

2番目の彼だった。

A子は彼のやさしさとアタマの良さに惹かれた。

彼とは、会社からの帰りなど、

よく都内のカフェやレストランに立ち寄り、

デートを重ねた。

彼のスマートさは社内でも有名で、

他の女子社員の憧れでもあったようだ。

或る日、彼とつまらないことから諍(いさか)いになり、

A子も久しぶりにいらいらしていたので、

いつもは口にしない口ぶりで彼に言い返した。

諍いの発端は下らない事だったが、

彼と言い争いをしているうちに、

彼の勝手な言い分を並べ立てる姿勢に、

A子は、このときはじめて辟易した。

そしてA子の論理に彼が行き詰まると、

いきなり訳の分からない事を口走って、

なんとレストランの中でどなり始めたのだ。

驚いたA子は、それから2週間後、

彼にメールで別れを告げた。

最初の先輩と付き合っていた頃、

A子は最初、

周りに合わせてギャル系の格好をしていたが、

次第に何かが違うと思い、

ワンピースを好んで着た覚えがある。

就職してからは、コンサバ系を好んだが、

彼と別れてから、

このファッションともおさらばした。

この頃からだ。

A子はブルージーンズに白いTシャツばかりで過ごした。

ユニクロもZARAも何度も足を運んだが、

どうも違うな、と感じていた。

なにかがピタッとこないのだ。

A子は焦るたび、

行きつけのジーンズショップで

名も無いメーカーのブルージーンズとTシャツを買い足した。

A子の部屋は7畳のフローリングのワンルームで、

或る日カーテンを換えたくなったA子は、

3駅先のニトリへ行ってみることにした。

ニトリのカーテンは品数も多く、

どれも一見よさげに思うのだが、

その質感、そしてデザインを検討するほどに、

なんだか訳の分からない違和感を覚えていた。

その日の帰りに駅前のビルをブラついていたA子は、

或るひとつの店に釘づけになった。

その店は以前から知ってはいたが、

A子は、店内で商品のひとつひとつを確かめ、

改めてその店の虜になった。

それが無印良品だったのだ。

寝具コーナーへ行くと、

生成りのベッドカバーは肌触りが良く、

タグで原材料を確かめると、

国産の麻とエジプト綿の比率が、

程よい構成比てであると、

A子は思った。

文房具もA子の趣味のひとつではあるが、

無印のノート類のあのシンプルなデザイン、

そしてその質感と生成り色に惹かれた。

A子は改めて店内をぐるっと見回す。

すると店内の至る所がキチンと整理され、

ギラついた色のものはひとつとして無く、

すべての商品が、

シックな生成り色を基調としていた。

そろそろ都内のIT企業を辞め、

地元の埼玉の田舎町に帰り、

フリーのデザイナーとして独り立ちしようと考えていたA子にとって、

デザインとは、いろいろな要素を足す作業ではなく、

削いで削いで、基本的に骨太であること、

そして簡潔でシンプルなデザインこそ、

人を感動させる…

こうしたデザイン感がこれからの主流と、

A子は考えていた。

生活も然り。

毎日の暮らしとは、賢く質素であること、

例えば、質の良い食材を料理し、

程々の量をいただく。

着るものはシンプルかつ機能性に富み、

永く使えるものにのみ価値をみいだしていた。

無印は、そんなA子の欲求を充分に満たす存在だった。

今日の休みも、A子は買い物の帰りに、

駅前の無印へと足を運ぶ。

なにも買うものがないのだが、

ついつい店内を覗いてしまうことが習慣になっている。

美人と誉れ高いA子は、

よくいろいろな所で声をかけられるが、

そういう男たちには一切口を開かない。

そういえば、いまの会社でも、

同僚の男と、

仕事の相手先の担当から交際を申し込まれているが、

A子はこれらに回答する気もなく、

さっさと退職の準備を進めている。

「もっと知的でギラギラしていない男って、

いないのかしら…」

最近のA子の呟きである。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村